* ペプシパラドックス
ペプシパラドクス」なるものがある。コカコーラとペプシコーラの区別が
わからないようにし飲み比べると(ブラインドテスト)、「ペプシコーラの方が
よいとする人が多いが、実際に売れているのはコカコーラ」というパラドクス。
ブラインドテストでペプシが勝つのは、ペプシの方が甘いためとも言われる。
私が実際に目に触れる広告は圧倒的にコカ・コーラマインド・コントロール
されているため。マヨネーズも、「キューピー」だけ。味に慣らされてため。
   * 新潟駅前のホテルの状況は?
 昨日、家内が新潟の絵画展覧会に行ったおり、『列車から以前、経営していた
ホテルの斜向いの「グリーンホテル」が更地になっているのが見えた』と言う。
当初、40室だった客室を、10数年前に76室に増築したが、ネットによると、
2012年末で経営続行を断念したようだ。倒産の話は聞いてないので自主廃業か。
新潟駅再開発の道路拡張工事に引っかかっていたが、その延期で、維持しきれな
かった? 私は4年前に売上の激減で事業続行を断念をしたが、同じホテル名で、
三者が経営を続けている(代がわり)。 その事業物件が
相場の半値八掛で、役員のカットで、更に値引き攻勢を目前でかけられれば、
これは当然の結果。その直撃を受けているホテルが、あと一つあるが、貸ビル
部門で何とか息をついているようだが、駅周辺に三棟もあるため厳しいだろう。
去年、地元の政治経済を対象にした雑誌社から、電話インタビューがあり、
『あなたのホテル事業断念は、駅前開発の道路拡張工事の延長のためですか?
その対象の地権者から、悲鳴が上がっています。』との内容。 
『いえ、リーマンショックによる、売上激減のため』と返答したが、実際は、
持続限界は、あと一年。 ところで、「あの地区の道路拡張など必要ない」
といえば、ない! もう、他山の石のことになる。 で、以下に続く!
・・・・・・
4797,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜⑤
2014年05月03日(土)
  * 苦悩の時間的推移
 この節目の一連の精神的苦痛の実感は
「 ①痛いー> 
  ②痛・哀しいー> 
  ③痛・気持ち良い(痛みに慣れる)ー> 
  ④痛・面白い(立場を客観視できる)」へと変化している。 
 もちろん七転八倒をした上のことだが・・ 
 私のすぐ上の姉の連れが20年前に亡くなった時に、葬儀の席で、一まわり
以上年上の従姉妹が、姉に『私の経験からみて、三年で哀しみは消えるよ!』
と慰めていた。 時間が解決する『時間薬』である。 
 青年期からの節目(挫折)の苦痛の経過を振返ると、大よそ上記の経過を
たどったが、大たい次の障害への取組で、それらが消えていった。前向きに
生きることが、如何に重要かである。そして、最後に、その痛いが無くなり、
「ああ、面白かった」だけが残るなら、ハッピーリタイアよりは良い? 
肯定的に捉えれば、それを境に全く違った新世界が開けることになる。
その世界からみると、節目前の自分が、何とも滑稽に思えるもの。
新しい自分の再生が、何とも奇妙な感覚である。「泣いても笑っても同じ空」
で、笑ってきたが、泣きが不足していたのだろう、私には。母親から聞いた話が
耳に残っている。 『小姑の虐めに、耐えられず実家に帰ったところ、母に
〈シッカリしなさい!一番辛い時が人生で一番良い時なのよ〉と励まされた』と。
見方によれば、この3年間が、私の人生で一番良い時? といえば、思い当たる
フシもある。いや、サホド辛くもなかった?どうだろう? 少なくとも、人生で
一番、内省できたことと、解放感があったことは事実。本当に精神的苦痛なんど、
あったのだろうか? それからも、解放された? 成るほど、人間は少しハンデ
を負って、《痛》が、頭に残っていた方が良いのかもしれない。
どの道、10年後には、8.9分は存在していないのだから。苦悩も、
解放も、知的欲求も、感動も、感謝も、至高体験も、生きている今のうち。
・・・・・・
4430,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −2
2013年05月03日(金)
 * ルート1 心が幻想だと理解する道(脳科学の道) 
          ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
信長が、幸若舞の演目のひとつの「敦盛」を好んで舞っていたが、そこには、
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬ
もののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ・・」
という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたと伝えられている。
人生振り返れば全てが夢幻。 その辺りを以下のように述べている。
 ≪ 古くは進化論で有名なダーウィンが、感情は基本的に「幸福」「驚き」
「恐怖」「怒り」「悲しみ」「嫌悪」「軽蔑」の七つから成ると述べている。
また、心理学者エクマンは、表情から見た感情には、「幸福」「驚き」「恐怖」
「怒り」「悲しみ」「嫌悪」の六つがあるという。軽蔑を感情に含むかどうか
だけが異なるが、あとは同じ。「幸福」が感情だというと日本語ではやや
不自然な感じがするかもしれないが、「ハッピネス」を「楽しさ」と訳さずに
「幸福」と訳したと解釈すれば、違和感はない。ちょっと驚くのは、ポジティブ
な感情は「幸福(楽しさ)」だけで、他の五つないし六つはネガティブな感情と
いう点だ。ああ、人間のポジティブとネガティブは、なんて非対称なんだろう。
いずれにせよ、恐怖=怖さ。人間は、怖いという感情を持つ。ちなみに、
恐怖に限らず、あらゆる感情の記憶はすべて大脳辺縁系に蓄えられている
といわれる。このため、大脳辺縁系は心の中心だという人もいるくらいだ。
 ・・もし人間に感情が無かったら、人間社会は、ロボットの集団、ないしは
アリの集団のように、ただ役割分担をし、ただ生きて死んでいくような、無機質
な社会だったに違いない。・・・シマウマの群がライオンに襲われたとき、
一匹が犠牲になる。それはお布施と同じで、一匹の命をライオンに提供している
のだという。あたかもお布施のように思えるシステムが、種と種の間の調和の
ために成り立っていることは、進化の当然の帰結だと言うべきだろう。・・
要するに、生物種は、個体の死へのセンチメンタルを超えたダイナミズムに
よって進化を遂げただけ。それだけのこと。≫ 
▼ 一人称の死は存在しない。死んだ瞬間、無になるからだ。あるのは二人称と
 三人称の死しかない。怖いというのも感情の一つなら、心=感情は幻想と理解
すれば、死は恐ろしくないはず。固体の死への感傷を超えたダイナミズムが猿から
 人間に進化させたのだ。一人称の私の死など、真面目に考えることはない、
ということ。死ねば幻想が抜けたゴミでしかない。逆に、夢幻こそ大事にすべき
といえる。小説、映画、ドラマ、コミックも作者の創作という幻想。だから面白い。
・・・・・・
4056, 個性など、どうでも良い。的を絞った意欲と根気だけ!
2012年05月03日(木)
 * どう騒いでも、われわれは集合体の一部なのだ     
         ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪ 結局のところ、なにをどうしてみたところで、われわれは集合体なのだ。
 なぜといって、純粋な意味で自分の所有だといえるものなぞわれわれはごく
わずしか持っっていないのだから。われわれはみな、先人からも同時代人からも
受け入れて学ばねばならないのだ。どんな偉大な天才でも、なにもかも自分の
内部にたよろうとしたら、大したことはできないだろう。(略)
要するに、自分の内に持っているか、他人から得るか、独力で活動するか、
他人の力によって活動するか、こんなことはみな愚問。大事なことは、大きな
意欲をもち、それをやりとげるだけの技能と根気をもつことだ。それ以外は
どうでもいいことなんだ。 ≫  エッカーマンゲーテとの対話』
▼ 我々は何らかの形で人類の蓄えられてきた文化遺産の一分野にいるのであって、
 それから一歩も出ることが出来ない、ということになる。一歩出たところで、
それも際の範疇でしかない。そう思えば、あくせくすることもない。そのことに
気づきてしまえば、後は楽。個性とか、自分になるとかは、他と違うことを
なしうる能力に求めがちだが、本当に必要なのは、強い意欲を持って、やり
遂げるだけの根気。アランは『教育論』で、発明や、一般に天才とよばれて
いるものについて、長い間の勉強のあとでなければ出てこない、と述べている。 
個性など、その後の話でしかない。好きこそものの上手なりで、好きだから
こそ、辛抱づよく続けることが出来る。それを誤って才能と誤解してしまう。
 一人一人が意欲をもち、やりとげる技能と根気をもち努力するしかない。
他人と比較することもない。要は意欲と根気だけ。
 で、根気を持って、これ続けています。
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3690, この随想日記も、まる10年か〜
2011年05月03日(火)
 今日で、この随想日記がまる10年、我ながらよく続いたと驚いている。
10年は大きな節目、今後どうするかである。これで自分の全てを出し切った
思いがある。あけすけに脳内を公開しているようなものだが、これを続けた
おかげで自分の中に、一人の記者の目が出来たようである。その結果、世界の
見方が変わってしまった。 いや世界そのものも大きく変わってしまった。
書き続けるために、常に数回分の文章を書きためておかなければならない
プレッシャーは大きい。が、それを逆に楽しむ面白さもある。
「一度でも休むと、もう二度と書き続ける気力が無くなるのでは」
という恐れが続ける後押しをしてきた。振り返って読んでみると、ここで
書いてきたことが私の限界線でもある。 一番のメリットは数年分の同月
同日の文章を毎朝、読むことが出来ることである。過去の痕跡の文章を早朝、
読み返しているから10年続いたのかもしれない。それと、「何人かの知人が
読んでくれている」という実感があることである。それと書き続けることで、
否が応でも常に読書を自分に強要できることである。 この10年で、
私の人生の支柱の一つとして残すことが出来たのは大きな収穫である。 他にも、
・最後は、こういう結果としても、四十年近くの事業の起承転結と、
・50回近い秘境ツアー、・そして10年間続けた随想日記。
・それと、好きな酒と肴を思い残すことなく、飲み食べたこと。  
・それと読書を十分にできたことなど、思い残すことはない。
そうこう考えて、これから続けるかどうか、止めれば張りが無くなるし、
続けるのもシンドイし・・「力を半減して、当面、続ける」が、現在の答え? 
・・・・・・
3325, やりたいことは三千五百万円もあれば・・・
2010年05月03日(月)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −2
  * やりたいことは三千五百万もあれば・・・
・「死ぬ時に、楽しい人生だった」と言えるには、したいことは全部やった
  と思えること。
・ そのための金額は普通の人なら三千五百万もあれば殆んど実現できる。
  葬式代は350万もあれば充分。自分で葬式の手立てをしておけば三分の一
  で可能。(120万を前提に葬儀屋を何社か呼んで手はずを組んでおくこと)
・ 「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」
 これが日本の大部分のバカな老後の姿である。 要は、考えてないからである。
▼ 以上のことは大前研一でなくとも私でも思うことである。要は考えないから
 である。40歳の時、良い悪いは別にして「年間1000万は使い切る」と決心。
しかし当時、10歳前後の子供がいて大学を卒業するまで10数年は、それほど贅沢
を出来る金額ではなかったが、それでも年二回は家内と海外ツアーに行き続ける
ことが出来た。海外旅行代は総額3千万前後だろう。一点豪華主義?である。
月にすると10万になるが、普段の生活で節約をしていたので、使いすぎた
という感はなかった。その御蔭か満足した後半生を過ごしてきたと思っている。 
これまで46回のツアーに行ったが、これを、これから始めることは時代背景と
年齢を考えると無理。「べき時に、べき事を、べくすべき」を実行していて
良かったと満足をしている。したがって老後の心配は殆んどない?。三千五百万
といえば大金である。しかし100万ずつなら何とか可能?家を売却して貸家に
入っても「やりたいことを、すべき」と思うが、いざとなると、これが出来ない
のも分かる。それぞれの事情があるから、これ以上は言えないか。もし何とか
可能なら40歳から100万×35年間で、不可能でもない?。無理?なら、50万は?
それも無理?月に4万の積み立ても無理? その前に、まず「自分は本当に何を
したいのか」考えなくてはならない! で、ないと「漠然とした不安感で貯めて
おいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」ことになる。そういう
思いで、歳をとってから秘境に来ていた人と出会ってきた。それを実感したので、
迷いなく実行できたのである。 ーそれがどうした?って、どうもしないが・・
くだらない自画自賛か! これから3500万か〜面白そうだが、老後資金を
考えると?となる。 でも、その金が! 宝籤を買うか!
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2950,人はどうしてオヤジになるか?
2009年05月03日(日)
 *『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹著の
     《人はどうしてオヤジになるか》の問いかけが面白い。
この文章を読みながら( 私は「オヤジ」かどうか?)を内省してみた。 
オヤジといえば、オバサンである。現象に大きく左右され、考えることをしない
両性化した生き物。オヤジも長年かけて自分でつくりあげる生き物である。
常に自分の中で肥大化しようとしている化物として、監視しておかないと・・
 ー まずは、その部分から ー P・20
 人の誤解のうちに最も危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」
を人間的能力の一つと思い込むことです。その耐性はむしろ有害であり、命を
縮めることの方向にしか作用しません。「耐える」人の場合は、「耐えること」
が自己の中心にあります。それ以外のことは「耐えること」のために総動員
されます。「不愉快な人間関係に耐える」というのは、人間が受ける精神的
ダメージの中で最も破壊的なものの一つです。世の言う「中年オヤジ」という
のは、この耐えることが劇的に人格化されたものといってよい。会社で上司の
罵声に耐え、部下の暴言に耐え、クライアントのわがままに耐え、満員電車に
耐え、妻の仏頂面に耐え、セックレスに耐え、子供の軽蔑に耐え、巨額のローンに
耐え、背広の綻びに耐え、全身これ「忍耐」からできているのが「中年のオヤジ」
という存在です。 人生のある段階で、(たぶん、かなり早い段階で)不愉快な
人間関係に耐えている自分を「許す」か、あるいは「誇る」か、とにかく
「認めて」しまったのです。そして、その後、「不快に耐えている」ということ
を自分の人間的な器量の大きさを示す指標であるとか、人間的成熟の証しとか、
そういうふうに合理化してしまっている。蟹が甲羅に合わせて穴を掘るように、
人間は、自分でつくってしまったパターンに合わせて不幸を呼び込みます。
「不幸に耐えている自分」を「器量の大きい人間」と勘違いをしたら、
もうその後の「オヤジへの道」は一直線である。そういう人は不愉快な
人間関係だけを選択し続けることになります。本当にそうなんです。
▼ 以上だが、八割の人は、この「耐え人」の人生を過ごしている?
 自分の人生を振り返って、一番良かったことは何か?と、考えた時に、
「事業を立ち上げ、一度も営業赤を出さないで何とかやってこれたこと」
(今年度からは??) (字数制限のためカット2010年5月3日)
・・・・・・・・・
2586, 日本の貧困率 ワースト2
2008年05月03日(土)       ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…
 先日、Wowowで観た映画『しあわせの力』という映画。ウィル・スミス演じる
主人公が貧乏のどん底から成功者への階段を上っていく内容だが、その大部分が
「すべり台社会」を滑り落ちていく内容。リアルで他人事に思えない内容。
地下鉄のトイレや、教会の施設に並んで泊まったり、子供が一緒だから尚のこと
引き込まれてしまった。実話に基づいた内容だから、迫力があるのだろう。 
黒人のセールスマンが収入が無くなり、奥さんに愛想をつかれ子供を置いて
出て行く過程など現実的である。そして、最後はホームレスになる。
這い上がるのは無理という状況から主人公が成功を掴んだ要因は、
【息子への愛】と、どん底でも諦めない執念。何か身につまされる内容。 
人生で、何度もすべり台に立つ瀬戸際を経験した。一つの判断が致命傷になる、
それが創業ということ。 (字数制限のためカット2010年5月3日)