ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * 感情とは思考の単純形だ ー感情機械としての人間
 感情で動く多くの人からみたら、元もと感情が単純形と思うのは当然。
逆に、心理学者や哲学者からみれば、感情は複雑で底がしれない泥沼の
ようなものと考えているため、改めて考えることになる。考えつくした
末の感情であれば、決して単純形ではないが・・ 〜その辺り〜より
≪ ミンスキー: 何干年もの間、人々は、「思考」すなわち理性的で論理的
 で機械的なものと、「感情」すなわち自然で論理的でないもの、というふう
に区別してきたわけです。従来の心理学は、自然な行動というものは二種類に
分けられるという考え方に基づいていました。 ちなみに私に言わせれば、
何にせよ世界や物事を二つに分けようとする試みは、大きな間違いです。
そうすると、全てを「これ」か「あれ」であると言わなければならず、両者の
間に位置するものに対して、橋をかけられない。私の発見の大半は、少なく
とも三つの事柄があるという考え方に基づいたものです。ですから、「ここ」
から「あそこ」へ行うとしたときに、障害(三つ目のことがら)があれば、
それを迂回するという考えが出てくる。 
 本来「思考」と「感情」を分けて考えるべきではないと思います。「思考」
というのは非常に複雑で、われわれは実に多様な物事の理解の仕方をする。
一方、わずか10〜20くらいの別のやり方でも物事を理解していて、これらを
「感情」と呼んでいるわけです。従来、「思考」というのはシンプルで論理的
であるのに対し、感情は非常に複雑で強力で神秘的だと考えられてきたわけ
ですが、これが大間違いなんですね。
 「感情」というのは非常に単純な動物でも持っている。ある状態では
とてもお腹がすいているから、食物がほしいと思ってそれが行動を独占する。
別の状態では危険を感じる、だから即逃げる。そしてまた別の状態では――
というふうに、単純な動物は、こういった反応の仕方をするわけです。
 これに対して、哺乳類や鳥類の一部、タコなどの複雑な動物は、状況に応じて
実にさまざまな反応の仕方をするわけで、これらを「思考」と呼んでいるのです。
従来の考え方とは逆に、「感情」というのは単純かつ機械的であり、「思考」は
実にさまざまな状況の判断や反応の仕方をするものだというふうに、見方を変える
必要があると思います。・・・(略) P194 ≫
 ▼ 「思考」が単純で論理的プロセスであると考えるのは全くの間違えで、
単純で、機械的なのは、怒っているとか、恋をしているとか、腹が減っている
とかの「感情」の方であるという。感情的になって事業停止をしたのではなく、
考えつくした上で、決断する。あくまで、感情は思考の単純形というのは、
自分の経験からみて至極当たり前のこと。一時的恋愛感情だけで結婚、その結果、
冷静に互いを見つめて、考えた結果の離婚の多さが、それを物語る。 熱病に
でもなければ結婚など出来ないが! まずは一息、入れろ!さらに、もう一息!
・・・・・・
4788,「道徳」を疑え! 〜2
2014年04月24日(木)
       「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜        
 * 自分の頭で考えるための哲学講義 ー大抵のことは嘘を見抜くこと
   ーまずは、その辺りを抜粋ー
《 哲学の第一歩は疑うことである。なぜ本質や真理に到達するために疑う
 ことが必要かというと、本当のことは常に隠れているからです。私たちは
ついつい人から聞いたことや、実際に見たものをそのまま本当のことと信じ
込んでしまいがちです。でも、たいてい、それは嘘なのです。これには人間の
弱さや未熟さが関係しています。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、
それを「イドラ」と呼びました。本当のことを隠してしまう臆見(おっけん)
のことです。 彼によると、人間には四つのイドラがあるといいます。
・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、
 感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じます。人間は自分が
 主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できないのです。
・二つ目は「洞窟のイドラ」です。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んで
 しまったかのように、個人の狭い事情により生じる思い込みです。
 その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い
 考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込み。
 あたかも市場で聞いたうわさ話を信じてしまうがごとく、人は言葉のもつ力に
 弱いもの。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。あたかも劇場で観たものに強い影響を受ける
 ように、すでに完成した塊のストーリーを目の前に提示されると、人は容易に
 信じてしまうものです。バトルゲームに影響されて犯罪に走る若者がいるように。
 このように、人間は弱い存在であることから、なかなか本当のことが見えなく
 なってしまっているのです。したがって、本当のことを知るにはあえて
 見たまま、聞いたままのものを疑うことが必要になってきます。
 しかもそれを根源にまでさかのぼって徹底してやらなければなりません。
 そうして初めて、答えに到達することができるというわけです。批判的・
 根源的に考える哲学という学問が、出来合いの「正しさ」を植えつけよう
 とする現行の「道徳」とは正反対の営みだということが、これでご理解
 いただけましたでしょうか。・・・ 》
▼ 私が40歳過ぎから還暦まで年に二回以上、秘境・異郷を中心にした
 ツアーに参加して気づいたのが、逆照射の視線である。極北のアイスランド
の地から見れば、日本は極東である。アフリカの最南端のケープタウンから
みても同じで、日本で思いつくのは、空手、忍者、侍、ソニーぐらい。
そこからみた、常識とか、道徳を分解すると、上記の四つのイドラになる。
地球を象に例えると、我々は、その皮膚のヒダに棲むダニかシラミになる。
その視線が行く回数を重ねる度に、強くなっていった。装置産業もあって、
あまり人と接する必要もなかったため、強固な小さな視線しか持ち得ない人
との接点を最小に保つことが出来たことが、人生最良の環境と思っている。
 他人からみたら、変人そのものだろう。それも、人間関係工学(造語?)
を40年以上も独学を続けているのだから、やはりオカシな人間だろう。
おまけに、創業を20歳の時点で決心したため、視線が現状、現象の先を
見つめることが優先となれば、言動は誰から見ても変? それでも変な
創業事業者という隠れ蓑があったが、それが無くなった今!?
・・・・・・
4421, さっさと不況を終わらせろ
2013年04月24日(水)         
 * アベノミックスの理論的背景は、こんなもの!  
    「さっさと不況を終わらせろ」ポール・クルーグマン (著)
 安部政権の経済政策の大元が、この本ではないか? しかし非常に危険と
思うのは私だけでないはず。国力が無い国が、これを実行したらハイパー
インフレになり国家破綻になってしまう。強者の手法ならよいが。
そこで、日本は強者か、弱者なのか? 腐っても鯛(資源、軍事、金融、
世界共通言語、農業などが出揃っている)のアメリカとは立ち居地が違うと
懸念するが。まあ、ジャブジャブの結果、どうなるか見物である。
   ーアマゾン内容紹介ー
 いま最も信頼できるノーベル賞経済学者がついに叩きつけた不況打破への
最終解答!  リーマンショック以降、いまだに好転の兆しを見せない世界経済。
では、各国政府と中央銀行、そしてわれわれが本当になすべきこととは――? 
いま最も信頼できるノーベル賞経済学者が、ついに叩きつけた最終解答。
(本書「訳者解説」より)ー日経「エコノミストが選ぶ」2012年経済図書第2位
≪ 本書の主張はきわめて単純明快。いま(2012年)はまだ、りーマンショック
 以後の不景気が続いていて回復していない。そして失業者の技能や労働市場
の価値の低下から、その害が一時的なものではなく、長期的被害になりつつある。
だから景気回復策をきちんとやろうということだ。そしてその手法も明快。
【 前書きよりー 昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。
 赤字国債を出して、大ものを一気にやるべきだ。そして中央銀行はそれを
金融緩和で徹底的に支援すべきだ。それに伴う財政破綻だの金利上昇だのは、
悪しき固定為替制度の下にある、ユーロ圏のスペインやイタリアのような
かわいそうな国以外は、全く心配する必要はない。以上のきわめてシンプル
な主張をまとめたのが本書となる。】 ・・・(略)
【 あとがきよりー 本書を読んで、一人でも多くの人が現状の各種政策の
 愚かさに気づけばとは思う。財政出動しようよ。かなり手遅れとはいえ、
復興まともにやって、教育やインフラ補修にどんどん予算だそうよ。そして
予算つけるだけでなく、ちゃんと消化しようよ。必要なら予算執行の細かい
基準とか緩めようよ。日銀は、すでにやっている国債引き受けをもっと
認められた枠いっぱいにやろうよ。それ以外にも、自分たちの保身だけでなく、
日本の人々のことももっと考えてよ。そして増税なんて今やることじゃない
でしょうに! そういうことを理解してくれる人が、少しでも増えてくれれば─ 
 こう書きながらも、それがどれほどはかない望みかは、知らないわけじゃない。
それでも、一人でもそうしたごく基本的な部分を理解できる人が増えることで、
日本経済の未来はすこしはよくなるはずだ、とぼくは信じている。報われない
信仰かもしれないけど…そのために、本書がごくわずかでも役立つことが
あれば、大いなる幸せだ。―山形浩生(訳者) ≫
▼ これで不況が終わるのだろうか?本当に!ハイパーインフレになった時、
 銀行閉鎖かデノミを実施すればよいのは分かっている。現状がすでに待った
なしの事態からみれば、それでよいのか? PIIGSとは違い、自国通貨で
インフレを起すから大丈夫とかは、このグローバルの金融の世界で果たして
通用するのか? そのツケは、社会的弱者にまわってくるので、現在の
選挙システムでは、政権そのものが持たない一年内閣が、続く。ということは、
  ハイパーによる自滅が4^5年先と見るのが道理。
顔色だけは良い麻薬漬患者?あっそう、アベグロ劇場の始まり!
・・・・・・・
4047, 一時停止 ー5
2012年04月24日(火)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 魂という言葉
≪ フランスのアランという哲学者は、「一つの身体の運命に結びつけられた
 精神が魂(AME)というものである」と定義した。同じフランスの現代の
前衛的文学者たちの中には、魂などという語はもう使えないと言っている人たち
もいるらしい。彼とって人間は魂という言葉ではとらえることが不可能なほど、
細分化され抽象化された存在なのだろうか、だがぼくにとっては、魂という言葉
はまだ或る現実的な手ごたえをもってる。 肉体なしでも成立するかのように
使われる精神という言葉とちがって、魂には人間の肌のぬくみが感じられるんだ。
精神はたしかに個人の肉体を離れて、その死後もかずかずの書物や芸術によって
伝えられてゆく。だが魂は、個人の肉体の死後むしろゆきどころを失って
宙にただようもののように思える。「詩人の魂」という歌があったっけ。
たしか歌の歌詞は忘れられても、そのメロディは人々に口ずさまれて残ってゆく
というような歌だった。自分はいったいどこから来て、どこへゆくのか、自分が
たかだか百年に満たぬ人生を、この無限の宇宙の中の地球と呼ばれる星の上で
過すことに、どんな意味があるのか、そんな疑問にとらえられたことのない人間
はいないだろうか、そして決して本当の答を得ることができないそんな疑問に、
精神は或る仮の答えを出すことが出来る。たとえば、いまのぼくは、自分に
こだわるより、むしろ我を忘れて自分を超えた他人の世界にかかわってゆく
ことに、あるべき生きがいを見出そうとしていると言えるかもしれない。・・≫
▼ アランの魂について、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂」
 という定義が分かりやすい。 キリスト教徒は、「魂は人間の不滅の本質
であり、魂は死後に 報酬か懲罰を受ける」と信じている。 私の魂の解釈は、
「心は毎日変わるが、魂は、その心を支えている生まれてから死ぬまで一貫した
幹である。感激は心の響きだが、感動は魂の振動」である。秘境の大自然の中で
何度も魂の振動を経験した。それが感動である。全身全霊で何かに没頭した
ときに魂が現れ出てくる。
・・・・・
3681, 逆説を考える
2011年04月24日(日)
 考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。「逆も真である」
を試してみると、考え方の幅が広がってくる。とはいえ、逆説を正面から
考えたことはなかったので、その意味を取り上げてみる。学生時代のゼミの
教授が、中根千恵の「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、
「横社会=資格社会」という説を立てられた。「日本社会には武家社会の
影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、嫁、婿、長男、末っ子、
という資格社会ではないか。蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価
されるではないか?」という逆説に驚いてしまった。それを切欠に、
逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を
 言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、
 結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、
 その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。
 逆理。パラドックス。  ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反している
 ように見えるがよく吟味すれば真理である説」。逆説といえばマックス
 ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、
 マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は「禁欲」「勤勉」の
 基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム
 は「勤勉さ」を旨とする「合理的」生活態度を形成した結果、
「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、
 逆説は資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
▼ 「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する
 確信で考える入口になればよい。考えるための一番の近道だが、正論を
 把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 ・・・・・・・
3316, 人みな骨になるならば ー11
2010年04月24日(土)
 * 神とは ?
 虚無主義の著者の宗教観がシビア。 この辺が、明るい乾いた虚無主義者の
真骨頂である。大方の人は、以下の論に近いのだろう。 アブラハムがつくり
あげた超越的存在の神、そしてユダヤ教キリスト教イスラム教の内輪もめ。 
これが、現在の世界の宗教戦争を引き起こしている。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 神という言葉を使うと近代以後の知識人は懐疑的になったり警戒したりする
ものだが、それは「神」という概念の内包(意味)に関して伝統的なイメージを
ひきずっているためである。もともと「神」などという超越的観念は、それを
思っている人によって勝手にイメージされてきた。 中世の農夫にとっては
雲の上にいる白髭の老人であり、現代的な信者にとっては、「宇宙に偏在する、
形のあいまいな意志そのもの」である。 どこかの原住民にとっては自分と
同じような腰蓑をつけているオッサンかもしれない。このように、信者たちが
各自勝手に想像しているのが絶対者なのだ。ある意味で、このような多義的に
なんとでも解釈できる教義を備えていない宗教は、レベルもニーズも様々な
多数の信者を引き寄せることができないらしい。だから近代以降のインテリ
たちは、神を否定したがる。確かに、そんなシロモノは実在しそうもない。 
ただ、そうした多様なイメージのむこうに共通項として「それ以上の審級が
存在しないような超越的かつ絶対の存在にして運命の決定者」を想定すること
はできるだろう。それが人間臭い愛や怒りや嫉妬や気まぐれをもつかどうかは、
各信者の想像力の限界を示すだけである。むしろ、その人間の程度を知りた
ければ、その人物が信じている神の特徴を教えてもらえばよい。
神のイメージは、たいていその信者の願望と恐れを投影したものだからである。 
そこで、ここにいう「神」とは「宇宙を統べるなにか」以上のものではない。
そんなものが実在するかはひとまず措く。もしそうしたものが存在するならば、
それとの相談なしに将来を誓うことは人間の分際を越えていることになる。
そして、そうしたものが存在しないなら、ますますわれわれの生や将来には
なんの保証もない。
 〜〜
「その人の程度を知りたければ、その信じている神の特徴を知ればよい。
神のイメージは、その信者の願望と恐れを投影したものである」は、言いえて
妙である。人間が言葉を持ったが故の不安と不幸をカバーするため、未知の
存在の畏敬としての神は、必要である。しかし、それでしかない。
「その人物の程度といえば、連れ添いを知ればよい!」というが、これは
当たっているか?これとは関係ない。神については黙するしかない、
ということか。最後は、神様助けて、というしかないのが人間である。
 ・・・・・・・・
2941,ナチが愛した二重スパイ
2009年04月24日(金)
 「ナチが愛した二重スパイ」  ベン マッキンタイアー著
 新幹線通勤の往き帰りの車中で一ヶ月かけて読んだが、これが何とも面白い。
第二次大戦末期、ロンドン暗黒街のチャップマンは、ナチのスパイとなる。
しかし「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた実録もの。
ロンドンの当時の札付きの泥棒、ジゴロの生々しい犯罪と、監獄暮らしなどが
詳細に書かれている。現在の犯罪者も似たようなものだろうから、我われ小市民
とは全く異質の存在である。肯定的にみれば「何もしないで一生終わるより、
よほど思いのまま生きることも必要では?とさえ思わせるほどである。 
札付きの犯罪者がその経験を生かして二重スパイになって国家のために大きな
働きをすることになるから、皮肉といえば皮肉。
pー234に 著者は、二重スパイのチャップマンを次のように分析している。
 【 二重スパイのチャップマンの話は、地味なスパイの話とは違う。
スパイ小説なら、あり得ないこととして拒否される内容である。主人公は
悪党であるが、悪党としては決して敗残者ではない。彼の犯罪歴は、軍隊脱走
から猥褻行為へ、女から脅迫へ、強盗から金庫爆破へと段階的に進んだ。
あとになると彼の報酬は多くなり、最初はつまらぬことに手を染めたのを恥じて
いるのは疑いない。この男の本質は己惚れで、自ら評価するところでは大物で、
暗黒街のプリンスのような存在である。 (字数の関係でカット09年4月24日) 
・・・・・・・・・
2577, フロー体験 ー2
 2008年04月24日(木)
 ー まずは、要点を書き写してみる。ー
我々が幸福であるかどうかは、世界の大きな力に加えることのできる統制に
よるのではなく内側の調和による。肉体的生存が外部環境に依存している以上、
外部環境を支配する方法を学び続けることは確かに必要である。外部環境を
支配するとは、すでに経験して解るように、我々が個人としていかに喜びを
感じるか、または世界めカオスをどのように減少させるかに関しては、
それほど役に立たない。カオスを減少させるためには、意識そのものを
支配すること学ばなければならない。
 ーフロー体験の構成要素が存在すると、
 次の8つを挙げている。
1. 明確な目的(予想と法則が認識できる)
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。
 (活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
3. 自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、
 行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
7. 状況や活動を自分で制御している感覚。
8. 活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。
フロー体験は外面的報酬とは隔離され、ひとつの活動に深く没入し、
その経験それ自体が楽しいので、純粋にそれをするために多くの時間や
労力を費やすことができる状態をいう。したがってフロー体験は、悲しい、
辛い、煩わしい、妬ましい、腹が立つ、焦るといったネガティブな
感情とは隔絶した、うれしい、楽しい、歓喜に満ちた十全感、充足感、楽観、
自己効力感をもたらしてくれる。 (字数の関係でカット09年4月24日)