まず、タガメ女の定義:田んぼに生息してカエルを捕獲するタガメのごとく、
収入や社会的地位のある男性を捕獲し、「幸せな家庭」というタガにがっちり
はめて自由を奪い、リソースを吸い尽くす女性。夫、子供、ママ友など周囲の
人間関係をもタガによって呪縛する。搾取される男性を「カエル男」と呼ぶ。
  〜概要をまとめると〜
現代日本社会には男性を搾取して弱らせる「タガメ女」なるものが存在し、
 巧みに男を捕まえて専業主婦という地位に収まり、その後は様々な約束で夫を
 箍(たが)にハメては、わずかな小遣いで働かせる。軽い筆致で現代社会の
 極めて重大な問題を提起する。それは標準化された「幸せ」の形式を盲信する
 ことの危険性であり、それを「魂の植民地化」と呼ぶ。「エリートとの結婚」
 「郊外の一戸建て」「年に一度の海外旅行」など、標準化された「幸せ」の
 強迫は、強者、弱者 とも不幸にする。この問題の答は、読者が自分で考え、
 一般の価値観に捉われないことである。
・政府の施策やマスコミの世論誘導や、家電の普及で家事労働負担が劇的に
 軽減されたにかかわらず「家事が重労働だ」というプロパガンダが成功した
 ことで、「男に寄生して一生楽に血肉を吸い続けるタガメのような害虫女」
 が生まれてしまった。タガメ害虫女も、己の存在価値を賭けタガメ女同士
 の見栄の張り合いや、夫や周囲に忙しさや幸せの演出を続けなければならない
 ため、決して幸せではない。 夫の犠牲の上に「専業主婦」という楽園を
 作って女性が逃げ込んだ先が実は「タガメ同士が殺し合い潰し合う修羅界
 の地獄」だという不都合な真実」がある。
・箍にハメられ、カネと社会的リソースを「タガメ妻」にと吸い取られる
 カエル男が支配する日本社会に、「責任転嫁」「現実逃避」の病根がある。
 タガメ女に箍めとられてカネと社会的リソースを搾取される「カエル男」
 たちが、日本の政治、経済を動かし、部下や下請け会社、取引先といった
 周囲の関係者を逆に搾取の”倍返し”で支配する。
▼ 4年前に御隠居生活に入って、(現役の)森の世界の木や林での価値観が
 如何に官製でしかないことと、世間様とかいう「魂の植民地人」の哀れさを、
 改めて知った」。それは40年近い現役時代の家内の目線は、タガメ女のそれ!
・・・・・・・
4722,心を上手に誘導する方! 
2014年02月17日(月)
     「心を上手に透視する方法 」トルステン・ハーフェナー (著)
  *「自分は運がいい」と思っている人ほど、幸運に恵まれるのはなぜ                           
「マインド・リーディング」のテクニック&メソッドを紹介した本だが、
これは他人だけでなく、まず自分のマインド・リーディングに使えばよい。
それだけ、心は未知で、扱いにくいもの。ランダムに、面白そうな部分を
テーマにするが、運、不運は、その最たるもの。運は判断の結果をいうが、
その為に必要なのが「観察力」である。このところ長年信じてきたバイアス
に気づくことが多い。 『私はもの覚えが悪い!』と、数十年思い込んできた。
そのため、対象を観察さえしようとしないため、さらに、もの覚えが悪く
なっていたことに、最近、気づいた次第。私は「運が強い」と思ってはいるが、
その運を呼び寄せるのは、長年かけた努力の集積の結果ということを経験上、
分っていた。運がいい、という思い込みなら、良いが。 ーそのあたりからー
《 自動車メーカーの創設者ヘンリー.フォードはこう述べている。
「あなたは、自分は何かがとても上手にできると思おうが、全然できないと
思おうが、どちらも正しい」 あなたの思考パターンが、目標を達成する
妨げになっていないかどうかをよく考えてほしい。なぜなら、それがあなたの
人生の運に大きな影響を及ぼすからだ。イギリスの心理学者、リチャード・
ワイズマンも、大規模な調査によってそのことを証明している。
 ワイズマンは、人生における幸運と不運は本当に偶然によるものなのか、
それとも運のいい人と悪い人がいることを心理学的に説明できるものなのか、
ということに興味をもった。そこで、ワイズマンは、自分が幸運に恵まれて
いると思っている人と、ついていないと思っている人を探し出した。
調査の対象になった人たちは「新聞に載っている写真の枚数を数えるように」
と言われた。その後、ワイズマンは被験者に、写真が何枚載っていたか尋ねた。
しかし、被験者には知らされていないもっと重要なことがあったのだ。
その紙面の中央に、ワイズマンはある文章をかくしていた。その文章とは、
紙面の半分くらいの大きさで、「実験の担当者に、これ見たと言えば、あなたは
百ポンドを獲得します」と書かれていたのだ。自分には運がないと思っている
被験者たちは写真を数えるのに必死で、その文章に気づかなかった。
一方で運が良い人たちはリラックスしており、もっと全体を見渡すことができ、
ほぼ全員が百ポンド手に入れた。ワイズマンはこのことから、運の良い人は、
運がない人よりもチャンスに気づくということを導き出した。私たちの思考は
私たちの行動に影響を及ぼし、不思議なことに幸運か不運のどちらか引き寄せる。
ワイズマンは、こう書いている。「楽観的な人は前向きでエネルギッシュで、
新たな機会や経験にオープンである。一方運の悪い人は、控えめで、頼りなく
心配そうな反応をし、目前にある機会を見つけて活かす気がないようだった」》
▼ 運とは、判断の結果であり、判断には対象の観察力が必要になる。
 過去の行蔵を見ると、失敗の場合は、観察をする詰めが甘かったケースである。
運を良くするには充分なる準備が必要で、浮ついて取り組めば、当然、そこには
 失敗が待っていた。そう簡単に成功など出来る程、甘くはない。貧しい家には、
貧乏神が住んでいる。今回の一連でも多くのことを学んだが、それも捉え方一つ。
この結果が、『あ〜、運が良かった』と思えば思えるし、『あ〜、何て運が
悪かった!』と思えば、そうである。運が良った!と捉えれば、長年かけた
リスク管理を幾つかしていたこと。運が悪いと思えば『長年の努力の結果が、
このザマ!神も仏もあるものか!』になる。モノは考えよう。
・・・・・
4355, 閑話小題 ー常日ごろがあるということ
2013年02月17日(日)
  *「今日という日は、残された日々の最初の日」
 還暦を過ぎた頃より、「今日という日は、残された日々の最初の日」の言葉の
とおりになってきた。44年前の学生時代の終わりの頃の日記のコピーを、毎年
この時期に読んでいるが、当時から現在に至る年数が長いような短かいような。
60歳を過ぎると「時間軸が横になる」というが、一年前も50年前も同じ感覚。
残された日々だけでなく、過去の時間軸も横になってきた。50歳を過ぎた頃に、
それ以降の残された20年、30年分の人生を捨て身で10年に圧縮し、前倒し
実行したのは、時間軸を横にしたのと同じことだった。横にして見えるのは、
「死」である。また、その裏にある「生」。どちらにしても、人は死ぬ。
そして数ヶ月もしないうちに、ほぼ忘却。それなら、今日という一日を目いっぱい
生きるしかない。人生は50歳を過ぎれば、人間は「残された日々」になり、毎日
が、その最初の日になる。それにしては、まあ、いい加減な日々を過ごしている。 
ポイントは、「時間もお金も、‘いましかできないこと’のために使う」になる。
面白い映画を見て、良い音楽を聴き、腰をすえて本を読み、新たな世界に
チャレンジし、より孤独に徹し、日々を過ごすことである。その意味では
自己評価は70点だが・・いや、50点か?
  * 常日ごろがあるということ
 一線を離れ、毎日が日曜日のような平凡な常日ごろの日々が続く。
しかし、この「常ごろがあること」が実は素晴らしい。中学、高校、大学の日々
で懐かしいのは、当時の「常日ごろの生活」であるため。その年齢ごとの常日
ごろこそが価値があり、光輝いている。時代を背景にした、その時節の自分が、
そこにいる。だから現在も時代背景と、「常日ごろ」を味あうことが
必要になる。ところで真に味わっているだろうか? 
・・・・・・
3980, よかまん ー3
2012年02月17日(金)
  * よかまん節を女子芸大生に素裸で踊らせた
 よくぞ引受け踊った女子大生も凄いし、それをビデオで自分の個展で流した
会田誠にも恐れ入る。 ー 前回の続きから ー
≪ 最近非常勤講師として美大に呼ばれた折など、学生に「よかちん」について
 聞いてみると、ほとんどが知らない」と答えるのです。せいぜいが「ああ、
ラグビーの連中がやってるアレですね。見たことはないけど、話だけは聞いた
ことがあります」程度。どうやら絶滅寸前の状態にあるようです。 僕は
「ざまあみろ」と「こりゃいかん」という、まったく相反する感慨を同時に
受けました。・・ 芸大も近年ご多分に漏れずグローバル化の波が押し寄せて
きており、和洋の相克に揺れた先人たちが必要に駆られ作った、ユニークな
ジャパン・オリジナルの枠組みが、次々と使命を終えつつあります。
それは決しておめでたいニュースと感じられない、複雑に屈した自分がいます。
また「よかちん」絶滅の直接的な原因が、近年の美大における女子学生の驚く
べき増加であることも分っています。僕の学生時代は少数派だった女子が、
今ではどこの美大でも完全な多数派に転じています。女性全般に芸術の才能が
ないなんてよもや思いませんが、それでも極端な変化には不安を禁じ得ません。
同時に、少数派となった男子学生の全体的な覇気のなさ、いわゆる「草食」化
も気になるところでした。日本の美大と美術界は今後どうなるんでしょうか。
そんなことを諸々考えた上で、最近「よかまん」という新しい芸を作ってみた。 
といっても「よかちん」の歌詞を少し変えただけなんですが。
 "数え歌"の部分が以下のようになります。 一つ 開けば、二つ 触れれば、
三つ 見せれば、四つ 悦べば、五つ 入れれば、六つ ムズ.ムズすれば、
七つ 舐めさせれば、八つ 破れば、九つ 擦れば。 小道具の一升瓶は小さな
ザルに変更しました。これを現在東京藝大で油絵を学んでいる、知り合いの
女子学生二人にやってもらいました。二人とも肝の据わった「肉食系」なので、
進んで全裸になってくれました。そしてそれを収めたビヂオを自分の個展会場で
流してみました。それで何かが解決するとは思いませんが、問題提起くらいには
ならないかと思って。というか本当はこの「よかまん」が実際に芸大で流行して
定着し、新しい伝統が生まれるのを夢想するんですが…やっぱり無理ですかね。≫
▼ 女と男は違うので、これが定着するとは思えない。あくまで一人の芸術家の
 お遊びだろうが、これに類したのは、芸者遊びの中では多くあるはず、あくまで
男を楽しませるもの。そういえば、以前の会社の忘年会で、メイクさんのツワモノ
が男の人に座布団を女性の何に見立て、自分が箒を男の何にして・・・
という面白い芸があった。ご愛嬌の範囲だが。
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3615, 忘却の整理学 ー1
2011年02月17日(木)
  「忘却の整理学」外山滋比著
 内容= 頭を働かせるにはまず忘れること。情報・知識でメタボになった頭脳
を整理し、創造・思考の手助けをするのは忘却なのだから。『思考の整理学』続篇
 * なかなかオシロイ本である。 忘れること・忘却を中心に据えた本は
私が知る限り過ってなかった。呼吸は、まず息を吐き出さないと新しい空気は
吸えないと同じで、忘却によって整理され、きれいに片付いた頭で新しい知識や
情報などを取り入れられるために積極的に忘れろという。一度書いた文章をまず
寝かせたり、気分転換すると思いもよらぬ着想が得られたりするのは、忘却効果。 
忘却が知識を選択的に頭の中で熟成させ、時間の風化作用で別次元の高みに体系化
する働きがある。 忘却はランダムに起こるが、それが個性を形作る。
  ー‘まえがき’の以下の部分が、アラスジにもなっているー
・・どうして知識が独自の思考に結びつかないのか。両者間に忘却を考えないと、
説明がつかない。知識をいったんかなりの部分を忘れたあとで、もとの知識から
離れオリジナル思考の生まれる余地が生じる。忘却がないと知識は途方にくれる。
知識は利用されることを待っているのであって、それだけで、思考、創造をおこす
力をもっていない、 むしろ、そのままでは自由な思考の妨げになるおそれは十分。
そんなことをあれこれ考えていて、忘却論に思い及んだ。記憶と表裏をなす忘却が
あるという考え。ナマの知識は使いものにならない。忘却をくぐらせて枯れた知識
のみが新しい知見を生み出す。大工は生木で家を建てないのと同じ。
忘却のアポロギア、弁明を思い立ったのは数年前のことだが、どうして忘却が
これほど長い間きらわれ、怖れられ、卑しめられてきたのか。忘却を称えた
ことばはないものかとそれとなく心がけてきたが、日本には見当らない。 
おしなべて忘却性悪説である、・・ことにコンピューターが異常なほどの発達を
とげて人間の記憶力の価値を暴落させている。知識人ほどその衝撃を強く受ける。
コンピェーターを念頭において人間の知的活動を考えたならば、創造的思考が
もっとも人間らしい活動であることは明らかになるはずで、その独創の土壌に
なるのが忘却である… そういう考えのもとに、この本に収められた諸エッセイ
は書かれている。忘却論ではなく、忘却をめぐるエ・セイを集めたものである。                   
 ーここに書いた内容は、アップした瞬間、ほぼ完全に忘却の彼方になる。
「いま、ここ」に集中すれば、忘却の後々に残る。それがよい!
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3250, 新・マネー敗戦 −1
2010年02月17日(水)
 以前、NHKスペシャルで「シリーズ  マネー資本主義」を放送していた。
■第1回“暴走”はなぜ止められなかったのか 〜アメリ投資銀行の興亡〜 
                   2009年4月19日(日)午後9時00分〜 
■第2回 “超金余り”はなぜ起きたのか? 〜カリスマ指導者たちの誤算〜  
                   2009年5月17日(日)午後9時00分〜 
■第3回 年金マネーの“熱狂”はなぜ起きたのか              
                   2009年6月14日(日)午後9時00分〜 
■第4回 ウォール街の“モンスター” 金融工学はなぜ暴走したのか     
                   2009年7月19日(日)午後9時00分〜 
■最終回 危機を繰り返さないために                   
                   2009年7月20日(月)午後7時30分〜 
ウォール街の“モンスター” バブルは再び起きるのか          
                   2009年12月20日(日)午後9時45分〜 
再放送も含めて食い入るようにみた。 紙切れ(ドルとアメリカ国債)を刷って、
再びアメリカに還流するシステムを追う番組である。そこには、紙切れで世界中
のものを手に入れる仕組みをインタビューや解説で解明していた。
 それは正にアメリカが親のネズミ溝。それがアメリカ資本主義というらしい。
その最大の被害者は、もちろん日本。ところで先日、知人から「新・マネー敗戦」
を一時間ほど借りて、速読をしてみた。 
大筋は、このアメリカ・ドル本位主義の構造の分析である。 
  * 「新・マネー敗戦」 岩本沙弓著   
 ーこの本の概要といえばー《 ネット参照 》
 19世紀から20世紀にかけて繁栄した英国は、絶頂期でデフレに見舞われた。
しかし金本位制を廃止せず緩やかな没落の道を辿った。その英国に替わった
米国は、ドルを世界中に流通させ金本位制を廃止した。実物資産の裏付けのない
マネーの誕生である。バブルが起きるたび、その対策として投入された膨大な
ペーパーマネーはさらなるバブルの原因となった。自国通貨を基軸通貨として
世界に流通させ、ペーパーマネーを溢れさせた米国はさらに原油を用いて、
ドルの価値の維持と産油国経由の米国への還流を図る。 原油決済をユーロで
行う機運が出てきた際には、原油決済通貨をユーロに変更したイラクに対し
戦争を仕掛けてまで自国の繁栄を図ってきた。 それでも原油決済通貨の
変更がなされる現在では米ドル需要の減退は時間の問題。
字数の関係でカット(2012年02月17日)
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2875, ポルトガル人のみた信長と秀吉
2009年02月17日(火)
 「日記をのぞく」ー日経新聞編の一編 ールイス・フロイス「日本史」ー
の中で、ポルトガルフロイスの見た信長と秀吉の姿が新鮮に写し出されている。
現在、「天と地」をNHKで放映しているが、直江兼継の見た秀吉と信長の姿と
重ねると面白い。 ーその部分を要約すると・・・
 1569年4月に、信長と京都の二条城の建築現場で引見、信長はフロイス
気にいったようだ。フロイスは1581年3月、再び会うが、安土城を自慢した
かったようだ。彼の見た信長は「中ぐらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は
少なくはなはだ声は快調で、極端に戦いを好み、軍事修練にいそしみ、名誉心に
富み、正義において厳格であった」「酒を飲まず、食を節し、人の扱いには
きわめて率直で、自らの見識に尊大であった」「その鋭い観察眼で捉えたこの
武将の人物は、他の追随を許さぬ迫力と真実性が感じられる」その信長が
亡くなった後に、今度は秀吉を大阪城に訪問する。フロイスの「日本史」の中の
秀吉像は、信長像に比べておおらかではない。「彼は優秀な騎士であり、戦闘に
熟練していたが気品に欠けていた」「身長は低くまた醜悪な容貌の持ち主」
「抜け目なく狡猾」「極度な淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺」・・
秀吉の漁色乱交に、生理的は反発がうかがえる。1587年に九州に遠征中に
伴天連追放令を発した。
▼ キリスタンの女性たちが抵抗したので、暴君の秀吉が怒り狂った、
とうのが彼の解釈だ。この「日本史」では、外国人ジャーナリスト?の目で
当時の日本と日本人が体系だって観察されている。その点では信長と秀吉を
現代人の感覚で観察している目に近いと言えるのである。更に、信長の
最期の姿が仲間の宣教師から九州にいたフロイスに詳細な報告が入る。 
 それによると、ー 1582年、6月21日、本能寺の変が起きる。明智方は本能寺
を襲い、「手と顔を洗い終えて身体をふいている信長」を見つけて背中を射た。
信長はその矢を引き抜き、長刀を手に戦ったが、「腕に銃弾を受けると、自らの
部屋に入り、戸を閉じて、そこで切腹をしたと言われ、また他の者は、彼は
ただちに御殿に放火して、生きながら焼死したと言った」更に、「我らが知って
いることは、その声だけでなく、その名前だけで万人を戦慄せしめていた人間が、
毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものと
しては地上に何ら残存しなかったことである」と・・・
 ー  生々しい信長が直に伝わってくるようだ。