ーあわいの力 「心の時代」の次を生きるー安田登(著)
   * 日本の「心(こころ)の三重構造」
 ここで、「心」の三層構造がシンプルに説明されている。これまでは、
< 仏の心を、「こころ」、移りゆく感情などを中心にした西欧的解釈を、
「心」と解釈してきたが、この三層構造は面白い! 〜その辺りから〜
≪ 「心」は、三層構造である。 
 ・一番上の表層が「心(こころ)」(=脳)があって、
 ・その下に「おもひ」(=内臓感覚があり)
 ・深奥に「しん(心)」(=芯=神)がある。
― 表層にある「こころ」の特徴をひとことでいえぱ「変化する」ことです。
 たとえば、去年まではあの人のことを好きだと言っていたのに、今年はもう
違う人を好きになっている。そんな移ろいやすい感情が「こころ」です。
こころ変わりという言葉があるでしょう。
― その「こころ」の下には、表層の「こころ」を生み出すもとになる動的な
 心的作用、「おもひ」があります。「おもひ」のなかで重要なのが「こひ」
という言葉です。「こひ」は、ふつうは「恋」という漢字をあてて恋愛感情を
いうことが多いのですが、本来は自分のなかに、なんらかの欠落感があって、
その欠落状態が埋まるまで、なんとも落ち着かない、そんな不安定な状態を
さします。たとえば、さっきまで目の前にいた子どもがいなくなり、その子が
戻ってくるまでは安心できない、そんな状態のことです。漢字で表記するなら
「乞ひ」がいいでしょう。雨が降らないから「雨乞い」をし、お腹が空いて
しかたがないから「物乞い」をする、そんな状態を「こひ」といいます。
 ・・仏教にも以心伝心がある。世阿弥は、心より心に伝ふる花と言った。
言語以前である。能は、「おもひ」を圧縮した芸能である。演技により解凍
された「おもひ」は、観客の深奥に隠れている「おもひ」と同期して目覚め
させる。「おもひ」の世界の言語は、歌(詩)である。
 能というのは、この「おもひ」を圧縮した芸能で、そして能を演じるという
ことは、その「おもひ」を解凍していく作業なのかもしれません。そこで解凍
された「おもひ」は客席にあふれていき、それがまた観客ひとりひとりの
「おもひ」と同期して、そこに何かを生み出す。それが能という芸能なのです。
― 一瞬にして相手に伝わる何か、それが「心(しん)」です。それは「芯」にも
通じ、「神(しん)」にも通じる、ちょっと神秘的な心的作用です。以心伝心と
いうときの「心(しん)」が、まさにそれです。言葉や文字を媒介とせずに、
一瞬にして相手に伝わる何か、それが「心」なのです。・・・ ≫
▼ <お能は、「おもい」を圧縮した芸能> この一言にお能の本質が言い
 表されている!「おもひ」は、「こひ(乞い)」も、解りやすい。人生は、
「おもひ」を求め流離う(さすらう)旅である。流離い流れついたのが、
現在の自分。「心・観・学・術・体」の、観が「おもひ」で、「学・術・体」が、
渡世(娑婆)で生きるということ。 この「心・観・学・術・体」は次回で!
 また偶然だが、以下の内容が、丁度よい内容! お後がよろしいようで。
・・・・・・
4704,「考える」と、「思う」の違い
2014年01月30日(木)
   *「考える」と、「思う」の違い  ー『散文』谷川俊太郎著より
 何気なく書いている文章に、「・・・と考える」と、「・・と思う」がある。
「思う」は、感覚的、無意識的というニュアンスがあり、これを受けて論理を
組み立てるのが「考える」。この読書日記で、同感したり、感激、感動、感謝
した内容を取上げ、自分の考えに論理だてるプロセスが「考える」ことになる。 
  ーその辺りから
《 思うという行為は、考えるという行為に比べて、より感情的であり、
 より不正確である。物思いという言葉にも表われているように、それは時には
余りにも漠然としていて、まるで自分を甘やかしているようにとれることがある。
けれどまたそれ故にこそ、思うことは考えるという行為に比ぺて、いっそう
未分化であり、人間のより多く部分をその中にまきこむ。考えるのが主として
理性の働きであるとすれば、思うのはおそらくまず感ずることにその基礎を
置いている。考えることは時に現実を離れて抽象的な理性の遊びに堕するが、
思うことの堕落はもっと肉体的な自己陶酔に向かう。こういう風に、思うと
考えるとを分けてみても、実際にはこのふたつの心の働きは、つねに亙いに
補いあってひとつである。思ったことを考えることでより精密化し、考えた
ことをもういちど思ってみることで、より全体的にすることを、無意識の
うちに私たちはくり返している。 ・・・ 》 ヽ(゚ロ゚(-_-;)ゝ アッ!
▼ 上記の《 》が、同感、同調した部分になる。 それを受け「▼」部分が、
「思い」「考える」ことになる。◎「考える」は、「言語を用いて」
「意識的に」「論理的・合理的プロセスを踏んで」のに対し [(ーヘー;)え〜と  
◎「思う」は、「言語を用いずに」「半無意識に」「思い浮かぶに任せ
(必ずしも、論理的・合理的とは限らない)」「悔しいと思った。」
「悔しいと考えた。」と、すると、後の方が少し違和感がある?「思う」が
どちらかと言えば受動的、「考える」が能動的な感覚のために、少し違った感覚。
英語では「考える」は「Think」。「思う」は「Feel」に近い。
 何かを考えるキッカケは感謝、感動、感激など、感じ入った場合が多い。
だから一流の芸術作品を多く見たり、大自然の神秘に触れたり、書物を通したり
して一流の人物に接して日々、新面目を見出すことが必要である。
「思う」を受けて「考える」ことは、受動から能動の切替ポイントになる。
積極一貫で人生に立ち向かう中で考えるしかない! /(@゚ペ@)ウーン
・・・・・
4337, 閑話小題 ー「私には友人が一人もいません」
2013年01月30日(水)
  * 「私には友人が一人もいません」
 ある政治ネタを中心にした関西系のバラエティー番組のゲストの一人が
何気なく発した一言が印象的であった。「私には友人が一人もいません。
だから、携帯電話には時おりくる仕事関係以外に電話は入りません!」一瞬、
その場が白けるほどのインパクトがあった。事業創業と独立独歩を人生の
コンセプトにし、また専攻が社会学だったこともあり、あまり人に好かれる
タイプでないと自認している。しかし、どの場面でも、気心が知れた人はいた。
大方が飲み友達だが・・ しかし、堂々とTVの前で「私には友人がいません!」
と言えるだけの強さは私にはない。 映画で、一匹狼の殺し屋が、独り部屋の
中で拳銃を弄っている場面が頭に残っているが、あの感覚なのだろう。
別に友人など求めず、単独に徹すれば、これほど自由なものは無いはず。
一人旅をたとえれば分かること。 知人に、一切、人を寄せ付けない人がいた。
仕事の能力はあるが、趣味は一切持たず、酒もタバコもやらず、奥さんと年に
数回、外食をする位とか。せいぜい家でTVを見るぐらい。情報化の時代に逆に、
こういうタイプが増えているのだろう。中学校の同級会で久々に会った旧友。
糖尿で片目が失明、仕事はリタイアし、ゴミ出し以外、外出をいないという。
ただ終日ボ〜っとテレビを見ているだけと涙目・・ 
家内が先に亡くなれば、似たような状態になるのだろうが、どうも私が先。
時代の変り目もあるが、社会的・金銭的にも恵まれているのにウツっぽい
のが目だってきた。
  * アップル株が
 アップルの株価下落が止まらず、ここ数日で時価総額で6兆円以上下落。 
時価総額世界一から転落、アメリカの石油大手のエクソンモービルが返り咲き。
「アップル」株の時価総額は、昨年9月には60兆円と世界一の時価総額になった
が、週末には、38兆円に減少、昨年9月から現在までに22兆円、率で38%が減少。
カリスマ的創業者ジョブスが亡くなった影響が、ここで表面化したのだろうか。 
問題はiMac,iPod,iPhone,iPadに次ぐ新商品が打ち出せるかどうか。
「あれは、ジョブスの強烈な個性が生み出したものだった」に終わる可能性が
出てきた。 彼が元気だったら次に何を打ち出したのだろう。やはり、居間の
テレビになるのか。家内が言うに、「知人間で情報ギャップが大きくなった。
検索が出来ない上に、それ以前に無気力な人が目だってきた。」とか。
それも、iPhoneが解決する。 
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3962, ゲーミフィケーション
2012年01月30日(月)
【ゲームが未来を救う!?〜広がるゲーミフィケーションクローズアップ現代
 * ビジネス、日常生活にゲームを持ち込む
最近クローズアップ現代が面白い。先回はビジネスや科学の分野などにゲームの
手法を取り入れ活用している事例を紹介している。私も以前より事業や人生に
「ゲーム化」を取り入れてきたこともあり、非常に興味を持って番組をみた。 
ここでも、ゲーム化について何度か取上げてきた。ネットが世界的に普及して
きた中で、ゲーム感覚で多くの人が協力する時代でもある。
 驚いたのは、この番組の中で、コンビニの監視カメラを公開し、万引き監視を
ゲーム感覚で察知し、店に知らせるシステム。ポイント制にして最高で月3万円が
貰える。先に見つけ連絡したものが勝ち、ポイントがつく。
 −まずは、クローズアップ現代のHPより
≪人々を楽しませ、夢中にさせるゲームの手法やノウハウを“ゲーム以外”
 の分野に活用していこうという動きが、急速に拡がっている。その名も
ゲーミフィケーション”。若者の車離れにあえぐ自動車業界では、運転技術
を採点し、ドライバー同士で競わせる機能を搭載した新型車が登場。ゲーム的な
手法の導入は、外食・旅行・小売りなど他の業種にも拡大し、2014年には世界の
グローバル企業の70%以上にのぼるという予測もある。更に、米国ではタンパク質
の構造解析をゲーム化することで、科学者が10年以上解けなかったエイズ治療の
カギを握る酵素の構造を3週間で解明。食糧危機やエネルギー問題などを解決する
イデアを競わせるゲームを通じて、人類が直面する課題の克服に役立てていこう
という試みも始まっている。広がる“ゲーミフィケーション”の世界を検証する。≫
■ 人生のゲーム化といえば、目を剥いて怒る人もいようが、人生は、その人に
 とっての物語を生きることである。最期には死が待っているが、生老病死
人生のサイクルとして、それぞれの障害を乗り越えるゲームが人生。そう思えば、
難関も、乗り越えるための壁として対処を想定ができるもの。何ごとも準備が
重要だが、その準備をゲーム化するのがミソ。何事も楽しまなくては続かない。 
楽しむには過程の難関をゲーム化し乗り越えることである。ゲーム化すれば苦難
は数分の一になる。航空会社が販促として「乗った距離をポイント制にして
恩典をつける「マイ・レージ」というサービスがあるが、顧客の「私は、これだけ
ポイントを集めている!」という自尊心と、特典で旅行できる恩典がヒットし、
今では、当たり前のように使われている。これもゲーム感覚で、ポイント集めを
楽しんでいる。 私も早朝から就寝まで、日程を組んで習慣化し、そのチェック
として手帳に書き込んでいるが、実は一種のゲーム感覚で実行している。 
倒産劇も、途中から手順に落として実行しているうち、ゲーム感覚になって
しまい、自分で驚いた。他人から見たら、変じゃないかと思われて当然。
 とにもかくも長期にわたり一つずつ壁を乗り越えなければならないのだから、
ゲーム感覚で冷静でなければ神経衰弱になる。毎日書いているこれも、
まずテーマ探し、材料集め、それを起承転結に仕上げ、何ども修正、
完成するゲームである。
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3597, 誤訳口臭論
2011年01月30日(日)
 仏文学者の鹿島茂のコラムに「誤訳と口臭」論があった。面白い切り口である。
≪ その昔、手がけた翻訳書における誤訳の指摘がされると、気が気ではなかった。
最初の翻訳書が出された時、誤訳の指摘に関する記事が専門の学会誌に掲載された。
読んでみるといちいちもっともな指摘で批判を甘んじて受けるしかないわけだが、
実際に指摘した人物の試訳を見ると、むしろそちらの方が誤訳だらけだ。
この程度のレベルかと、少し安心する一方で、無性に怒りが込み上げてきて、
その人間の過去の翻訳文章における誤訳の指摘を、今度は対抗して学会誌に掲載
すべく、原稿を書き始めたが途中で馬鹿らしくなって、結局やめてしまった。
このように、人の誤訳というのは見つけやすいものの、自分の誤訳は他人から
指摘されるまで分からないことが多い。 誤訳というのは「口臭」に似ていると
思われ、自分口臭に気がつかないまま「おまえの口は臭いぞ」と言うことに
似ているという。「だから、非常に攻撃的に他人の誤訳を指摘している人を見ると、
 この人は、たぶん自分の口臭には気がつかないタイプの人なんだろうなと思う」。
「口臭のない人がいないのと同様に誤訳のない翻訳はない。これだけは真実である」
と、思いやられる。≫
〜 だいたい、こんなことだが、政治家の足の引っ張りあいの国会答弁、
 これって口臭でなく・・ これから思いつくのが「陰口口臭論」「悪口口臭論」
がある。これは、世間とかいう現象社会にドップリ漬かっている基礎教養の欠落
している人たちの放つ毒。放っている連中は面白いが、その毒をまかれた方は・・
毒には毒をもって制するというが、それ以前に、毒婦、毒男には近づかない方が
よい! 彼らには、それが全世界でしかない。これも口臭か!
このブログをネットを通した口とすると、口臭を放ち放題ということか。 
凄い口臭なのだろう!自分では気づかないが! だから誰も、ブログなど書かない! 
素裸で、大通りに大の字で寝る覚悟が無ければ、もの書きになれないと、
瀬戸内寂聴が書いていたが。  私など無理無理! 絶対に無理!
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3232、「黒字亡国」から抜け出そう ー1
 2010年01月30日(土)
  * アメリカの持つ魔法の財布
 文藝春秋の2月号の三国陽夫(三国事務所代表)の 
 ー「黒字亡国」から抜け出そうーが、考えさせられた。
【 円安で、輸出黒字でドル資産226兆は帰ってこない。今こそ「ドル支配」
を脱せよ! 】という論旨である。アメリカは輪転機でドルを刷り、日本は汗水
を流して製品をつくり、アメリカに輸出。その支払金のドルは、支払われるが、
再び本国に還流される。何時か、そのシステムが崩壊しても、損害を被るのは
ドルを持たされた国。効率からいえばアメリカの方が効率的。これからみると、
日本はアメリカの奴隷国家でしかないのである。
≪ 日本メーカーが、自動車をアメリカに輸出すると、アメリカの消費者はドルで
 代金を払います。日本のメーカーは国内で従業員の賃金を払ったり、仕入代金
を決済しなければならないので、円が必要となる。そこで日本の銀行にドルを
売って、円を手に入れます。この段階でメーカーの帳簿上では輸出代金の決済が
出来たことになりますが、じつは国全体で考えると、決済の実態は完了していない。
 本来であれば、ドルを買った日本の金融機関は、為替市場でドルを売って円に
替えます。ところが、日本は一九七0年代から恒常的に輸出が輸入を上回るように
なったため、市場では輸入のために払った円より、輸出して受け取ったドルの方が
多く出回っています。  (字数の関係でカット2012年01月30日) 
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2857, 人生を振り返り、俯瞰してみると −1
 2009年01月30日(金)
 人生を振り返り、俯瞰してみると(似たようなことは何回か書いてきたが・・)
0〜9歳は、家庭では躾、学校では集団生活の決まり事を刷り込まれる時期。
      遊びと学びの基本を学ぶ。
10歳代は、スポーツと勉強を通して、選別されていく時期。とにかく、学ぶ時期。
20歳代は、泥まみれになりながら、社会人としての基礎を身に付ける時期。
30歳代は、それまで蓄積した全てをそれぞれの創造に向けて吐き出す時期。
      家庭づくりも、創造になる。
40歳代は、人生の八割がたが決まり、一息つけるが胸突き八丁でもある。
50歳代は、大きな人生の回り角、競馬でいうと第三コーナーを回って直線に
      差し掛かる時期。ゴールを意識する。
60歳代は、人生の豊穣の時で、それまで出来なかったことを新たに始める時
      になる。余白を埋め始める時期。
70歳代は、人生の整理の時期に入り、全てをシンプルに変えていく時期。
80歳代以降は、一日一生で、毎日を味あう時期。
 大まかに10年ごとに意味づけをすれば、こんなものだろう。
  (私の場合は9年だが、それは次回に書く。)
大きな分岐点は、それぞれの人によって違うから、あくまで目安である。
この中で一番大事な10年間は、50歳代ではないか。時期的には42歳の厄年
だが、社会的、精神的な要素を含めると「50歳が、人生の折り返し」だろう。
平均寿命の80歳を大きな目安とすると、そこまでの30年の最初の10年が
最も大事になる。 50歳頃に読んだ曽野綾子の書に「人生の美味しいところは
60歳まで」というのを読んで焦った。「エッ、あと十年しかないのか、人生の
美味しいところは!」と。「それでは十年で何をすべきか?」ここを充実させて
おかないと、人生を後悔することになる。 要は何を捨て何を取るかである。
もともと捨てていた世間様の付き合いを更に一歩踏み込んで捨て、好きなことを
徹すること。そして新しい世界を開拓すること。捨てるのはマイナーな人間関係。
新しい世界はパソコン、インターネット、色いろ違った分野の読書。徹するのは、
異郷、秘境ツアー。結果からすると50代前半が異・秘境ツアーに集中。 
後半が読書とインターネットと載せる文章書きである。結果として正解だった。 
50歳までに人生の元を取り、60歳までの上乗せが充実感で残った。
せいぜいプチ・ブルレベルとしてもだが。 人生を全体からすると20歳
までが大事だが、全てが人生である。「一日一生」「一期一会」
「べきことを、べきときに、べくすべき」とは、良くいったものだ。
 ーーーーー
2008年01月30日(水)
2492, 無くてはならぬもの −3
 *  惜しみなく愛の悦び!   ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
 P−72
他者を愛するといいながら,けっきょく私たちはいつでも自分を愛している
のではないだろうか。もっときびしく言うならば、人間はけっきょく自分を
愛することしかできないのではないだろうか。人間にとって愛は多かれ少なかれ
悲劇的性格をおびているが、それは私たちが自分しか愛することができないから
だろうか。そこで私は、あの、イエスの決定的言葉に立たされる。
「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」イエスは決して、
「自分愛さないで」隣の人を愛せよとはいわなかった。「自分を愛するように」
隣人を愛せよといったのである。 そんなことが私たちにできるだろうか。
   (字数の関係でカット2010年01月30日)  
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2007年01月30日(火)
2128, マンションについて考えてみる  (~Q~;) おはよう〜 ファ〜
 建売にしても、マンションにしても、買う場合の最低の知識が必要である。
といって、それが解れば苦労はない!自分の頭で考えるしかないが、それでも
少しは知っていれば、誰かのように「アパ」から三室も買わないで済んだろう。
そこで私の経験から更に「アパ・マンション」と「マンションの買い方」
について更に考えてみる!何事でも商品である限り荒利を得るのが企業活動。
当たり前のことだが、まずそこが問題である。それは悪いことではない、
商品価値を買うのが顧客だからだ。(字数の関係でカット2007年01月30日)
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2006年01月30日(月)
1763, 人の心は金で買えるか?      o(*'▽'*)/☆゜おはよう〜♪
 ライブドアの堀江もんが、著書で「人の心は金で買える」と言ったというが、
これについて考えてみる。「買収されるかされないかは、その額による」という
強烈な格言があるが、実際のところそうだろう? これを捩れば「人の心が
買えるかどうかは、その金額による」になる。お金の力は絶大である。
金に貧した人の露わな姿を多く見てきた。他人事ではないが。お金は扱い方に
よって魔力にもなる。一般的にみると誰もが貧すれば鈍する。金が無くなると
人間性まで卑しくなるのが人間の性である。 (#`ε´#ゞ  
試しに破産すれば解ることだろうが。「落ちぶれて袖に涙のかかるころ 
人の心の奧ぞ知らるる」心の奥の奥を、冷たさ・優しさ、醜さ、浅さ、深さ
などを置き換えてみると解りやすい。例として「落ちぶれて袖に涙がかかるころ 
人の冷たさ初めて知らるる」」というのが現実であろうが。
「人の気持ちを金で買える!」を、単純に否定も肯定も出来ない。
TPOSー時と場所と場合とケースーによるが、それぞれの価値観もある。
人によるだろうが、・女性が身体を売るのからみれば、気持ちなど売るのは
如何ということはないともいえるし、身体は売っても心は売らないという
ケースもあるだろう。ところで「袖に涙のかかるころ・・」という言葉
の検索をしたところ現実の生死の境界線上の人を慰め奮い立たせるHPがあった。
これを明日取り上げてみる。        ゚+.(・∀・).+゚.。oO(おまけ!) 
堀江社長語録】をコピーしておきます。   【2006/01/24 東京朝刊から】
 (字数の関係でカット2007年01月30日) ̄Д ̄)y─┛~~ホンジャ!