「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   ーまずは、アマゾンの解説からー
< 日本社会の見えないオキテ、それが「世間」である。事件が起きマスコミで報道されるたびに「犯人」
 にたいして極端なバッシングが起きるのも、「空気を読め!」という無言のプレッシャーが生じるのも、
 携帯を使ったいじめが起きるのも、「世間」という同調圧力のなせるわざ。「お世話さまです」
「おかげさまで」といった物言いにさりげなく顔をのぞかせ、いじめ・うつ病・自殺の引き金にもなる「世間」。
 バブル崩壊以降とみに暴走しはじめた「世間」の危ない構造にメスを入れる長編評論>
森林(現役)の生活からサバンナ(御隠居)へ、住居を移動したことで、見えていた世界が様変わりをした。
社会から、世間への移動?それとも、逆? いずれにしても、ますます、独善になっていく自分がいる。
 世間的強制力にアタフタするのは、やはり個人が確立してないため。 実は社会も、世間も共同幻想
でしかない。そう思えば楽だが、それが比較的楽に出来るのが御隠居の身分。 ーその辺りからー
≪ 社会も個人もいない「世間」のなかで、「世間」的強制力をともなって、個人に責任を押しつける
「自己責任」や「心理主義」が強調された場合、「世間」はますます住みにくくなる。しかし「世間」は、
日本人であれば、生まれたときから取り囲まれ、あるものとして親から教えられ、そのなかで生きてきたから、
それを意識的に取りだすのがとてつもなくむずかしい。 これに加えて、「世間」は具体的なものではなく、
ある種の共同幻想、つまり人々のアタマに宿る観念である。人によって「世間」は広かったり、狭かったり
するが、それは「世間」とは関係そのもののことであって、本質的には人間のアタマに宿る共同幻想だだから。
 共同幻想とは、複数の人間に宿す観念である。厳密にいえば二人の間だけでは、共同幻想とはいえない。
たとえば恋愛関係などのように、二人の対になる関係においては、世間は存在しない。この二人の関係を、
思想家の吉本隆明さんにならって「対幻想」とよんでおくことにする。 「世間」は三人称的な関係で、
三人以上の人間が共同して生みだす幻想である。なぜかといえば、「世間のオキテ」といったようなルールや
規範が存在するためには三人以上の人間を必要とするからだ。「世間」は幻想であるから、ないと思えば、ない。
「世間のオキテ」も、ないと思えば、ない。げんに外国で生まれ、日本に住んでまだ間がない外国人には、
「世間」も「世間のオキテ」も間違いなく、ない。だから原則として外国人は、「世間」には入っていない。
かなり長く日本に住んでいる外国人でも、日本の「世間」のなかに入ることができるのは、まれである。
外国人が「日本人はとっても親切だ」というのは、かれらがはじめから「世間」に入っておらず、そもそも
「世間」の外にいる「お客さん」であるから、親切にされるにすぎないのだ。 問題なのは、「世間」が
具体的なものではなく、共同幻想であるがゆえに、それを否定するのが相当にむずかしいということである。
具体的なものなら、捨てるか、近づかないようにすればいいが、共同幻想は観念そのもののことだから、
そうはゆかない。簡単に捨てることができないし、そのなかで生活している以上、近づかないでいるわけにも
ゆかない。だからこそ、「世間」の存在はなかなか意識化できないのだ。
しかし、これを意識化する方法がある。それが、「世間学的エポケー」である。・・・≫
▼「あの老人、一度も、恋をしたことが無いんだって!現実に溺れすぎて」という強烈な言葉がある。
恋は共同幻想の前の「対幻想」の幻想である。その共同幻想も、何も考えもせず、ただ、成り行きで
染められた幻想でしかない。Uターンで地元に帰った時に感じたのが、城下町という特殊の世界。
専門が社会学だったことと、10年の間、その外界経験から、これが特殊ということが分かっていた。
で、アウトサイダーに徹すること、そして、事業場を新潟にした。これが「世間学的エポケー」
これも事業設計、人生設計の一つ。予め世間を、特殊世界と割切って捨てれば、これほど楽なことはない。
・・・・・・・
4616, 君は1万円札を破れるか? ー4
2013年11月05日(火)
         ー君は1万円札を破れるか? 〜お金の洗脳を解くと収入が倍増するー 苫米地英人 (著)
   * 年収は人の価値判断の基準になるのか?
 森の生活(経済社会)から退いて、サバンナ(隠居生活)に出て気づいたことは、これまで、
「人の判断基準に、手持ちの資産と、年収を価値基準にしていたこと」である。資本主義社会の洗脳である。
格差社会」「勝ち組・負け組」の言葉の背景に資本主義社会の価値観がある。それも一線を退けば、その比重は
低くなる。お金を気にしないで済む収入と、蓄財が幾らかあれば、それ以上は皆、同じ。森の生活では、稼ぎが、
その人の価値と錯覚をしてしまいがちになる。他人との比較で、その額の差が人間の価値と錯覚をしてしまう。
「お金には絶対的価値がある」「お金はすべてのモノの価値を規定する物差し」という洗脳が長年かけされ、それを
疑おうともしない。お金で、自分の労働や価値を規定され、振り回されている状態は、宗教に洗脳された信者と同じ。
 著者は、ここで、現代社会における「価値」を「物理空間における価値」と「情報空間における価値」と分ける。
物理空間とは、体で触れることができるモノの世界。情報空間とは、脳や心の中に存在する様々な概念が作る空間。
米を例にとると、タイ米と魚沼コシヒカリ。その価格差は10倍近いが、物理的な味と栄養は、せいぜい二倍?
あるかなしか。「美味しい」という感じ方はそれぞれ違い、何倍美味しいとの数字化は不可能。タイ米と魚沼
コシヒカリと表示されなければ、値段の差だけの価値を感じることはできない。ブランドものはバーチャルバリュー
が、その価値を高めている。年収も財産も同じで、ある金額以上になると大して変わらない? いや2千万と、
2百万の年収では生活の快適さは違う?貧すれば鈍するし、豊かさには幸運の機会を多く集まる。年収が多いに
越したことはない。貧しさは、人間性を卑屈にする。問題は、年収が「絶対的」ではない、ということ。 
タイ米なら、タイ米にあう調理をすればよい。考え方である。「資本主義社会の洗脳」の自分を一度突き放し、
冷笑し、卑屈にも、のぼせ上がらないこと。所詮は、娑婆のこと。それを自覚し、超越するために、ライフワークを
持つこと、それが教養につながる。 多趣味か、一つの趣味を深く追求するかと、年収が多少の差とを類推すれば、
理解しやすい。   = 偶然、7年前に、同じようなテーマの読書日記があった。
〜〜〜
2073, 金は人を幸せにするか?
2006年12月06日(水)
           才八∋ウ_〆(∀`●)
  お金に関しては、何度か書いてきたが・・
 先日の書評「金は人を幸せにするか?」は題材として面白い。
          毎日新聞の『「豊かさ」の誕生…』    =W・バーンスタイン著の書評で、
 その内容が紹介されていたが、なかなかよい。    建前でいえば、
 「お金で幸せが買えるかって?冗談じゃない。幸せは心の問題だろう。
 それが金で買えれば、世の中の金持ち全部幸せのはず。
 質問そのものがナンセンス」が正論である。
 しかし本音のところ、 「金は何でも買うこともできる自由の塊、何でそんな建前をいうのか?
 そんなことを言えるのは充分ある人のこと。」と、陰の声がささやく。
「貧乏の極みで家庭は崩壊、借金で高利貸しに追われ、
 最後は不幸のどん底、投身自殺を図ったが死に切れず・・・」
 これなど不幸のカタチで何処にもあるパターンである。
倒産や失業では金欠が当面の切実の問題になる。
人間の品性は「金欠と女性問題」で露わになる事例を山ほどみてきたので、
間違いなく「金のないのは、人を不幸にする」ということだけは断言できる。
幸せになるのもいるが、それは珍しいから小説の種になる。
 私の持論は、 「金で8割の幸せは買えるが、あとの2割は金で買えない。
その2割こそ一番大切なことである。しかし8割は買える。
幸せとは、したいことがあり、それをやり遂げた心のさまである。
それは金では確かに買えない部分もあるが、しかし金=自由であるから、
やり遂げる手段としては、最有効になる。」である。   (*´θ`*)金、欲しい!
理屈として、「買えるものは買えるし、買えないものは買えない。
買えるものは金があればこそ買える。金が無ければ‘買えない’範囲が広くなる。
そのぶん自由度が狭くなる。自由は人間にとって非常に大きい幸福の要素である。
自由度を大きくするには、より多く金が有ればよい。生存レベルで必死の人にとって、
{生活手段としての資金の確保から解放されることが幸せである}
のは当然のことであり、お金は資金確保からの解放を意味する。
生存レベルの資金確保の束縛から解放された人は逆に、 幸福感が
「生活資金確保の段階」からアップスケールしているのだから、身近な世界の人との
比較や、違うレベルの欲望の達成の幸福感でなくては、幸せなれなくなる。
 金が無くなって「お金だけが人生ではないお金は決して人を幸せにはしない」と、
言うに丁度よい言葉の羅列にはなるが。
・・・・・・
4241, 閑話小題 ーある居酒屋で
2012年11月05日(月)
    * 再び不景気の話
 先日、TVで成田のホテル事情を放送していた。値段とサービス競争で少ない客の獲得競争が激烈化している、
という。日航ホテルがツイン・ダブルで一人3千円からと、打ち出していた。もちろん飛行場までは無料の
シャトルバスが出ている。「訳あり客室」と名うって限定数だが、実は何の問題のない部屋。最近は格安運賃で
早朝出発の客が多いので、格安価格を打ち出すしかないようだ。そのホテル内にはローソンがあり、お客の殆どが、
そこで弁当を買っている。中国・韓国からの客も激減で死活問題。新潟駅前も厳しかったが、成田は、そんな
ものではなさそう。リゾートホテルや温泉街など酷いようだが、潰れないのは銀行が潰せないため。
年の瀬に向かって厳しさが直に伝わってくる。ナショナルが二年で1兆5千億の赤字を計上したと報道にあった。
粉飾などしないのがナショナルの良さだが、スマートフォンと、タブレットPCに、テレビ、デジカメ、パソコン、
電話、書籍、ナビなどが集約され格安になれば、会社の土台から揺らいで当然。その上に韓国のサム寸や、
中国の家電がシンプルな格安商品を売り出し攻勢をかけている。世界ブランドのナショナル、シャープ、
ソニーなどが、会社存続も危ぶまれるなど数年前までは考えられなかった。 
   * その上に不景気の話
 日経新聞に ≪ 【ソニーパナソニック、シャープ】3社の5年前の2007年前半の時価総額16兆円が、
2兆円にまで激減、逆に韓国のサムスンは14兆円まで増えている≫と報じていた。今や産業全体が衰退しており、
好調を維持している産業が衰退する事態になりつつある。それにしてもナショナルが2年で1兆5千億の赤字で、
20年分の利益総額分をとばしたというから酷いもの。株価は暴落でストップ安。シャープも4000億以上の赤字決算・・
 リーマンショック地震の後の、日本版大津波の一つの現象。近未来の株式の大暴落より先に、こういう形の
現象が現れてきた。家内がイオン内にあるスポーツジムに通っているが、「とにかく、変!」と、価格の底抜けが
異常と、いう、主婦なら分かっていることだが。経済に疎い家内が、ことあるごとに、「会社を早々、たたんで
本当に良かった。中小や個人など、やっていけないのが私でも分かる!」と、いう。先日、久々に殿町で定例の
飲み会。何れの店の客の入りは良くない。十数年ぶりに入った居酒屋、客の入りの割りに、注文した料理が
出てこない。主がイライラしてのがカウンター内から直に伝わってくる。母親とパートのような二人の動きが変。 
二軒目のスナックで何気なく連れが、「以前いた奥さんが居ない」と話していると、隣の客が、「どうも別れた
ようで、二人は母親と姉さん。以前より度々、奥さんを叱責していたが、あまりに酷い怒りかただった」という。
不景気と嫁姑の関係で、居たたまれなくなったようだ。 客商売の苦労は、売り上げが良ければ、それだけで
解消するが、逆だと相打ち。駅前のチェーンに客は取られるし、この不景気、飲屋街の居酒屋など直撃している。 
何か切ない話だが、これが現実。
 ・・・・・・
3876、閑話小題
2011年11月05日(土)
  * 五ヶ月前の「次の首相」は誰か?の予測は
文芸春秋−7月号」を図書館で借りてきたが、そこで68人の識者が次の首相を予測していた。その中で、
9、7,6票と、石破、安部、小沢の順であった。 野田を予測していたのが政治学者の伊藤敦夫だけ。
彼は野田を「安定感」と「バランス感覚」に優れていて、他の候補と比べて、「理」に走る‘民主党臭さ」
がなく、「論破」のタイプではなく、「説得」で物事を進めていくのが、他党との信頼関係を築く上で、
最適であるとしている。その頃でも、安部とか小沢一郎とかの名を上げている識者が多かったのに驚いてしまう。 
野田は、就任してニヶ月だが、今のところ安定した政治運営をしている。 これを読んでみて、識者の予測の
いい加減なことに驚いてしまう。現在の日本は大震災から僅かな時間しか経っておらず、まだまだ非常事態の最中。 
まだ実務的能力が優れているのか見極めがつかないが、兎に角、1〜2年で終わらない政権であって欲しいもの。
時代の変化は激しい!
  * 最近、ちなみに感じること
 一年ほど前に、林秀彦著の「9.11・考えない・日本人」の読書日記を書いていた。この春に大きな
人生の節目を経験し、その後も、色いろ考えさせられることが多くあった。そのプロセスの中で見えてくるのは、
この書のとおり、「大部分の人は全く考えないということ」である。 という私も、考えが足らなかったので、
この結末を迎えてしまった。偉そうなことは言えた立場ではない。 考えるとは、目的、目標に向かう時、
最短距離と、不足しているものを探すプロセス。他にも、目的が無くとも、楽しいと思えることを探すことも、
考えることになる。 林秀彦は、アメリカの戦後占領政策の一環として、日本人に考えさせない教育をしてきた。
その結果として、考えない日本人の現在があると指摘している。この10年近く、哲学書の入門レベルの本を読み
続けてきた。 考えるとは何か、考えるべきことは何か、を考え続けてきた。その積み重ねから分かり始めた
ことは、自分も含めた大多数の「考えない、考えられない日本人」の現状である。その大敵は、TVであり、
ネットであり、映画である。とすると、その考えない日本人の典型は自分ということになる。
それでも、何とか考える時間は持っているつもりだが、それを全て、文明の力?が破壊している。
考えないことを、日本人だけでなく、自分の中に見るべき、ということ。「下手な考え、休むに似たり」もあるが。
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3511, ユダヤ人の頭脳活性法 ー5
2010年11月05日(金)
  「ユダヤ人の頭脳活性法 」手島 佑郎 (著)
  * 感じたことをどう表現するか
10年近く毎日、テーマ日記を書いてきて得たことは、感じたことを、素直に表現できるようになったこと。
それは前日書いた文章を、早朝40〜60分かけて添削し続けてきたからである。たった、この短い文章にである。
そのため過去に自分が書いた同月同日の文章を読んで、時間をかけたエネルギーを文章の中に感じ取ることができる。
魂の一片である。言葉のデッサンの修正と、色づけをしていたことになる。知人が、あれだけ自分にはスラスラ
書けないと、諦め顔でいったが、私だって出来ないことを一番知っている。スラスラ書けるようになるには、文筆業で
しか生活が出来ない土壇場を経験してきたプロでしか出来ないはず。 天才は別だが。早朝、何度か書き換えて
アップロードする時に必ず「稚拙だが、これしか書けない!」という思いで吹っ切っている。さらに自分の文章の
蔵庫を開放しているに過ぎないと。満足に近いのは年に数回しかない。それも自画自賛で我を見失っている時である。
それ位、感じたことを適切に表現することは難しい。いや、その感じているそれさえ、疑問を持っている。
(この本のマトメというより、自己主張になっているか) この本に【短くても素直な言葉、素直な表現、素直な
組み立てで自分の心にある思いを表現する、それが考えるということ】とあるが、それが考えることの基本である。
素直な心−ことばは、おのずと独特の音、独自の韻を持っていると、著者は述べているが、その自然の抑揚と響きが
読者の心を打つのである。 過去10年近くの文章を毎日読み続けていると、ただ書き写した文章と、自分の脳を
通して消化してある文章の差を自分が一番敏感に知ることになる。素直に発したことばは、時空を超えて過去の
自分に邂逅できる。だから、素直になるしかない。それが毎朝となれば、添削の作業そのものが瞑想そのものになる。
それと過去の文章を無心で読むことも。だから続いている。  この文章は、著者に触発されて、私が感じたことを、
そのまま書いてしまった。ところで今度、実際のダ・ビィンチなどのデッサンの模写をしてみようか。 
名画の模写と、名文の模写は基本である。
  ー文字制限のため毎日、文章をカットしているが、これが自分の身を切るようで辛いー
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3136,脳と日本人 −2
2009年11月05日(木)
 「脳と日本人  松岡正剛 茂木健一郎」 −読書日記
 * 日本という方法
松岡:ぼくは、日本をヨーロッパ思想の規範の価値観だけで見るのじゃなくて、日本が日本を「方法としての日本」
 にしようとしてきたことに関心があるんです。それを見ることが好きなのです。たとえばインドに生まれたブッダ
 仏教は、中国をへて日本に伝来しましたね。中国の浄土教が日本に入ってくると、法然や親鶯らによって、かなり
 独創的な日本浄土教というものになっています。空海密教も、インドはむろん、中国にもあまりないものです。
 つまり、日本は、中国にあったものを変えて日本化させてしまっている。再編集するのですね。それは禅も
 そうだし、屏風や庭園もそうです。屏風は、中国ではほとんどが木です。日本は紙ですね。 日本という方法に
 なっていくんですね。 たとえば、屏風は、閉じてまた開くとか、季節になったら蔵から出してきて、終わったら
 また蔵に戻すとか。ぼくの家もそうしていました。掛け軸も、その場に合わせて掛け替える。ヨーロッパなどでは、
 いつ行っても同じ絵を飾っていますね。えんえん百年間も同じ絵を飾っているという家庭もありますからね。
 セザンヌの絵でもお爺さんの肖像画でも、三年ぶりに訪れたら掛け替えてあったということはほとんどないしね。 
 新しく購入した絵画を自慢したいというのは別ですけどね。 ところが、日本では、僕くが育った環境では、
 少なくとも季節ごとに変えています。 みんな、お金持ちじゃないから繰り返して使いますけどね。そういう
 やり方をするわけです。また、禅宗は中国で生まれて発展しましたが、日本で広まり、五山の禅宗文化になった。
 そこにはいろいろ付属して芽生えたものもある。細長い掛軸もそのひとつ、座敷で酒を飲むのもそのひとつ。
 その代表的なものが、枯山水です。中国にもロックガーデンは沢山ありますが、枯山水はまったくありません。
 枯山水は、水を使わずに岩や石や砂を配置しただけで、そこに山や水をあらわしている。水を感じたいから、あえて
 水を抜いているんです。 枯山水の庭の前に、日本では池泉庭園というのをつくっています。毛越寺の庭園ですね。
 そういうのがあったにもかかわらず、枯山水の庭をつくって岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな
 世界を観じようとした。つまり、感じたいものを方法論的にそこから抜いたのですね。こういうことは、宗教改革
 ような既存価値の打倒や分割とはいえないかもしれないけれど、とはいえそこには宗教感覚が生成していないとも
 いえないんです。水を感じたいがゆえに、あえて水をなくした。不在をもって、かえって存在感を表現する。
 (字数の関係でカット13年11月05日)
 ・・・・・・・・・
2771, 女の一生
 2008年11月05日(水)
ある随想を読んでいたら、次のような内容があった。一人ひとりの人生を見つめると、
誰も彼もが波乱に富んでいる。短い文章の中に、一人の人生が垣間見れるようだ。
「言葉には魂が宿る」ということである。
 ーー
・・・十代の終わりには私は親もとをはなれ、働きながら自分で縫ったスーツを着て成人式に出席しました。
これが二十代のはじまりです。そして.「この人となら死んでもいい」と思える恋をしたものの、
「わしの目が黒いうちは、かまどの下の灰も、他人にはやりたくない」と彼の母親に言われ、
死ぬほど辛い失恋をしたのも二十代のことでした。
主人と知り合って妻になり、長男を授かって親となって、私の二十代は終わりました。
主人が交通事故のために、右足切断の身体障害者になったのは三十代のはじめでした。
しかし私は考えた末、身籠っていた長女を出産しました。
それからの月日は二人の子どもの養育と、後に自宅を改装して開いた喫茶店経営の忙しさに追われ、
いろいろなことはありましたが三十代、四十代は夢のように過ぎてしまいました。
子どもたちが成長して私の元から去っていき、五十五歳で喫茶店も閉じました。
先日、紀伊国屋書店で何げなくめくった本に、こんなことが書いてありました。
 女の一生
  二十代 美しく   三十代 強く      四十代 賢く    五十代 豊かに
  六十代 健康に   七十代 しなやかに   八十代 艶やかに  九十代 愛らしく
気がつけば私は六十歳の半ばも過ぎて、四人の孫の「ばあば」になっていました。
振り返り、私の「女の一生」は、どうだったでしょうか。
記憶にも残らない日々を、多く積み重ねただけのような気がします。
私に残されたこれからの人生は、自分のためにも、そして、友人や知人のためにも健康に気をつけて、
しなやかに、艶やかに、愛らしく生きていこうと考えています。
年賀状をポケットに、ポストに向かう私の背を北風が強く押してくれました。
 ーー
解)女の一生 を 男の一生に 私の実感から書いてみると、 
  二十代 七転八倒           三十代 激しく逞しく
  四十代 ゆるやかに、よろよろと    五十代 面白可笑しく、三十年分を
  六十代 静かに 穏やかに?      七十代 (やはり)しなやかに
・・・・・・・・・
2007年11月05日(月)
 2407, こころの旅 ー?         ○´ω`○)ノ**c⌒っ *・∀・)φ【才八∋ゥ♪】
   この本は、ところどころに見逃すことの出来ない「人生の道理」の内容で満ちている。
   それを知っているといないとでは、人生が全く違ってくるだろう。
   その意味では、この本は常に身近において読んで置いてよい本である。
   ・一歳半〜五歳位の間におきる脱中心化=自己客体として自分の身体を客観化する転換期、
   ・思春期におきる超時間的な抽象的時間の概念をもつようになる転換期、
   ・熟年時におこる宇宙時間の実感化への転換期、 と、人生に三回のコペルニクス的転回を指摘している。
    私は宇宙的時間の実感化はおこり始めているが・・・
  まずは、その部分を抜粋して考えてみる。
    *人生の三回のコペルニクス的転回
  (字数の関係でカット09年11月05日)