「瞬間説得ーその気にさせる究極の方法」ケヴィン・ダットン著
  ー前回の瞬間説得の問いの答えの内容はー
★ < 電車は五分ほど途中停車しました。車内は満員で、しかもさらに五分間停車するというアナウンス。
 すると、ジョギングウェアを着た男がいきなりタバコを取りだして火をつけました。車内は不愉快そうな
沈黙に包まれましたが、誰もが黙っています。あなたなら、トラブルもなく一発でやめさせるには? >
 ー> 人々の顔がそれを雄弁に物語っていたが、誰もが、こうした場合ありがちなように黙っていました。
 そのとき突然ピンストライプのスーツの男が禁を破りました。「失礼」とタバコを持って男に身を寄せ、
「ちょっと火を貸していただけませんか」 これがきっかけになりました。 堪忍袋の緒が切れたのです。
すぐに別の乗客が止めに入りました。「あんた方、禁煙だってことは知ってるだろう?」と彼は言いました。
スーツの男は禁煙の表示に、突然"気づき"ました。「悪かった。気づかなかったんだ」それから彼はジョギング
ウェアの男をふり返りました。「これは消した方がよいみたいだね」 ・・禁止区域で平然とタバコに火を
つけるような人物は、おとなしくしていないのが普通で、必ず抵抗します。 これに対処した乗客は
どうしたでしょう? 真正面から対決するのではなく、まったく反対の方向へ行きました。》
 ▽ 逆に二人になって、ますます黙りざるを得なくなる可能性もある? 
★《 =赤ちゃんには逆らえない=ヒューストンのある女性から聞いたばかりの話。昨夜友達が自宅のポーチで
 赤ん坊の泣き声がするので、気味が悪くなら警察に通報したそうだ。警察が彼女に言った。「とにかくドアを
開けないでください」するとその女性は心配し訴えた。もしも赤ん坊が窓のぞぱを這っていて、道に出だりしたら
車に轢かれてしまうかもしれないと。 警察は言った。「すでに警官のチームがそちらに向かっています。
何があろうとドアを開けないでください」警察は連続殺人鬼が録音した赤ん坊の泣き声を流し、誰かが赤ん坊を
捨てていったのだと思わせて、女性たちを外にもびきだそうとしているのだと言った。絶対とは言いきれないが、
夜中に女性が一人でいる家の外で赤ん坊の泣き声がしたという通報を数件受けているのだと……。人間の赤ん坊の
無力な泣き声は、か弱くもないし、無能でも、原始的なものでもない。それは自然界でもっとも深遠かつ強力な
ものだ。父親と母親はそれを聞いて初めて、親としての自覚が生まれる。「幼児の」泣き声は、宇宙に放たれる
のではなく、人間の愛と慈悲の深みへ降りていく。それを強盗が利用しようというのだ。》
 ▽ 子供の泣き声こそ、瞬間説得になるが、実際にあったことだから、説得力があるし、この程度の細工は
するのだろう。 初めての創業で、小さなテナント商業ビルの一角に、養老乃滝をオープンした。ところが、
居酒屋などの経験が無かったため、2〜3ヶ月に一度は、酔っ払いの絡みに対応できなかった。そこで考えたのが、
相方や、手伝いのパートさんと事前に打合せておいて、彼らを怒鳴りつけることで、酔払いの気勢を削ぐ方法を
思い至り、何度かきりぬけた事があった。 ・・で、女性が頻繁に使うのは、涙。瞬間説得の最たるもの。
 もう一つ、謝罪会見の後の、10〜20秒間の最敬礼! 彼らは、下を向きながら 1,2,3と数えているらしい!
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4614, 2000年前のポンペイー6
2013年11月03日(日)
 イタリアのポンペイの遺跡には三度行っているが、行くほどに、その魅力に惹かれる。また何度か、ここでも
書いてきた。TVでは、『NHK BS歴史館』などで、多くの特集を組んでいる。また、図書館には写真集がある。 
AC79年に、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山 が大噴火すると、南東10キロに位置したポンペイの町は火山灰に
埋もれたが、1748年から発掘調査が行われ、それが現在も続いている。ローマ人が創り上げた古代都市が徐々に
姿を現しているが、今でも半分も、発掘されてない。 舗装された道路、神殿、住宅、商店街などが20Mの火山灰に、
2千年の間、保存されている。人骨などは、その熱で溶けてしまい、それを覆って出来た空洞に石膏を流し込んだ
ものが発見された現場近くに展示されている。
 ところが最近、ある地下室で、54人が噴火後、生埋めになって折り重なった生々しい遺骨が発見された。
そこで、彼らのDNAや、装飾品・衣服などから新たに多くの事実が分かってきた。 そこは大きな商家で、
その主人と思われる人の身の周りから金銀が。エメラルドを身につけた男女の遺骨には、人骨が青く同化。
小銭を多く持っている人は近くで商いをしていた人。妊婦は胎児の骨がお腹の辺りあったことから推察される。
噴火から火山灰がポンペイまで到達するに19時間かかったというから、留まった人は、大金持で金銀の財産を
失うのを恐れ、妊婦は身重で、商人は店に未練があったため、等々が推察される。ポンペイには、下水道が完備、
都市計画があって、商店街、大広場、神殿などあり、現代の都市にひけをとってない。古代ローマの都市は、
中世のルネサンスまで、それを凌駕した時代は一度も無かった。その古代都市を、大噴火の20Mの火山灰が
石膏代りに、都市全体を保存し、私たちの目の前に再現し見せてくれるのだから、奇跡である。石の文化は、
後々まで残るからよい。彼らは午前中だけ働き、あとは浴場や、劇場などで、生活を楽しんでいた。
瀬戸内海周辺は、農作物などが豊富で、物流が盛ん。それが万遍無く市民に行き届いていたようだ。 
世界は広く、深い!
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2004/11/29
1336, 2000年前のポンペイー5
一昨日のNHKスペシャルで「ポンペイ」を特集していた。
落書きを切り口に番組みを構成していたのが、新鮮であった。
たまたまポンペイについて書いていたので、その偶然の一致が奇妙な気分である。
2000年前の生々しい人間の心が、落書きの中に出ていた。話は少し逸れるが、エジプトのルクソール神殿の遺跡の
壁にあったレリーフに,兵隊の絵があった。同じ絵が多く描かれていたが、現地の日本人女ガイドの説明が面白い。
その兵隊うちの一人だけが、ところどころ逆向きに向いているのだ。当時の多くの職人の一人が、命をかけて?
わざっと逆向きに彫ったという。いつの時代でも、そのような遊びがあった。それよりも、数千年の時空を超えた
男の生身の人間的なジョークを伝えているのがよい。
  ーその番組みで紹介していためポンペイのメモには
・〔私と貴方が一緒に踊ったことを憶えていて、訪ねてきてくれてラブレターを置いていってくれた〕
 返事が壁に書かれていた。
・隣近所のお知らせー人々は回覧板かわりに壁を使ってコミュニケーションをしていた。
・現在の通りの商店看板と殆ど同じものが、当時のポンペイの街にもあった。
ポンペイの街には400軒の店があった。 24時間営業の居酒屋があった。
 その居酒屋の奥の部屋でゲームと会話をしている絵が残されていた。
・食料品店の壁には、掛け売りのメモが書きこまれていた。 家計簿的なメモもあった。
果物屋には桃が売られていたメモがあった。  等々である。
メモから、当時の変化がうかがい知ることが出来るという。当時のローマ帝国の政策の大きなものとして、
パンと、サーカス(街には必ず円形劇場がつくられていた)を庶民に与えることであった。
AD・54に17歳で皇帝になったネロが、その政策を更にエスカレートさせていった。
そのためか、贅沢の限りをつくす考えが一般にまで浸透を始めていた。
その頃のメモに〔今を楽しめ〕というのがあった。それがエスカレートしたのかタブーのメモもあった。
・下品の言葉を慎むように
・他人の妻には手を出さないこと
・食事をしていて、着物を汚さないように
 宴会場の壁には、酔っ払いの落書きに
〔とことん飲むぞ!〕というものもあった。
富める者と貧しいものとの格差が鮮明になり始めてきていた。
そして、貧しい者の荒んだ心がそのまま落書きになっていた。〔あの男に災いあれ!」
当時の円形闘技場の落書きの中に「闘技場の外で多くの人同士が剣をもって争う姿」があった。
試合を見ていた同士が喧嘩になって殺しあう事件が起こったのだ。
普段の生活が、火山で時がそのまま密封され生々しい世界が奇跡的に今に多くを語りかけている。
  −この私のポンペイのシリーズはまだまだ続くー
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2004/11/26
1333, 2000年前のポンペイ −4
遺跡の中でポンペイの遺跡は、奇跡に近い状態で当時の世界をそのまま閉じ込めて現在に提示してくれている。
このグラビアの本を開いているだけで、気持ちが2000年の時空を飛び越えてローマの時代にはまりこんでしまう。
この小プリニウスの手紙には、大きな衝撃を受ける。この青年の知性にも、驚きざるをえない。
それと、大プリニウスの行動にも当時の知的レベルの高さを知ることができる。この内容が、2000年前の事実が
そのままドキュメント風に記載されているから迫力があるのだ。人間の変わらない感動、恐怖、そして生活が
そのまま伝わってくる。街全体が、当時のまま残っているから、更にこの手紙の内容が生々しい。
18世紀の初頭まで人々の記憶から忘れ去られたことが、当時のままの姿を残すことにもなった。
35年前の日記を昨日のように感じるのは何ら不思議ではない。全て昨日のようなものである。
数ヶ月前のTVドキュメントは、この手紙を忠実に映像化をしていた。
そして、爆発が起きてからポンペイが埋まるまでの19時間も、当時の遺体の様子から
想像をしたドキュメントが生々しく時系列で構成されていた。。
ー6月20日の手紙
私は先に、あなたの求めに応じて、伯父の死についての手紙を書き送りました。
手紙を読で、ミセヌムに残されたこの私がいったいどんな恐怖を味わい、そしてどんな危険にあったかぜひ
知りたいと貴兄はおっしゃいます。実は、先の手紙ではそれを書こうとしていて、筆を置いてしまったのです。
「思い出すのもつらく、悲しみは深いけれど、とにかくやってみましょう」
 伯父が出発した後、私はずっと勉強をして過ごしました。そのために残ったのですから当然です。
それから入浴と食事をし、そして短く途切れがちな睡眠をとりました。
それまでも、前ぶれのような地震が幾日も続いていましたが、カンパニア地方では珍しいことではなかったので、
さほど恐ろしくはありませでした。しかし、その晩起こった地震はあまりに激しく、もはや揺れているという
程度ではなく、すべてがひっくり返ってしまったかのようでした。  母が急いで私の部屋にやってきました。
私の方ももう起き上がっていて、母がまだ眠っていたら起こそうと考えていたところでした。
私たちは中庭に避難し、腰を下ろしました。そこは海と建物を隔てる格好の空間でした。
当時17歳だった私は、落ち着いていたというか、無分別だったというか、ティトゥス=リウィウス
(訳注:古代ローマの歴史家、『ローマ建国論の著者)の本を持って来させ、いかにも暇を持て余しているか
のようにその本を読み、やりかけのレジュメを続けていました。そこへ伯父の友人がやって来ました。
伯父に会いにスペインから戻ったばかりだというその友人は、私が母と一緒に座って本を読んでいるのを見て、
私の無気力と不注意を責めました。それでもなお私は、熱心に読書を続けようとしていたのです。
 もう昼の第1時だというのに、光はなおもぼんやりとして、まるで病人のように弱々しいままでした。
すでに建物には亀裂が入っていました。私たちは屋外にいたのですが、建物が崩れ落ちたときのことを考えると、
その狭い場所では安全とは言えませんでした。ついに私たちは町を出る決心をしました。
私たちの後には茫然となった群衆が続きました。
人は突然激しい恐怖に襲われると、自分の決断より他人の決断に従う方が賢明だと考えるらしいのです。
   (字数の関係でカット 2013年11月3日)
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2004/11/13
1320, 2000年前のポンペイ −3
  小プリニウスの「手紙」−1
ポンペイについて書いた直後に地元の新潟中越地区に大地震がおきた。何かの偶然の一致だろう。
ポンペイの遺跡から当時の情報が多く知ることができた。歴史から忘れられたポンペイの遺跡が発見され、
発掘が始ったのが18世紀の半ばであった。そして現在に至るまで250年にわたって発掘が続いている。
まだ発掘してないところが多くあるという。
歴史家のタキツゥスが、書の中で当時のある若い青年の手紙を残していた。当時まだ17歳だった青年の2通の
手紙が当時の模様をこと細かく整然と後世に伝えていた。その文章を読んでいると、その一言一言が身に沁みる。
その青年とは、当時、地中海艦隊の司令官としてナポリ湾岸の町ミセヌムに駐在していた大プリニウスの甥、
プリニウス(61年頃〜112年頃)である。歴史家タキトゥスの求めに応えて書いたこの手紙は、ローマ帝国内の
美しい都市に起きた大惨事の貴重な目撃談となっている。
この手紙を読んでいて、彼の驚きと当時の若い彼の興奮がそのまま、2000年の時空を超えて伝わってくる。
「言葉を持つことは魂を持つこと」という言葉の重みを実感する。
発掘された遺跡の姿そのものが、そのまま人間の変わらない生活と真実を伝えている。
ーー
プリニウスの「手紙
ー6月16日の手紙
 伯父の死をできるだけ正確に後世に伝えるため、あなたに手紙を書くようにとのご依頼を受け
私はとても嬉しく感じました。というのは、伯父の死があなたによって書き留められることで、
彼に不滅の栄光が与えられると考えたからです。恐ろしい災厄によって死んだために、伯父の死は、
他の被害にあった住民や美しい町とともに永遠に記憶されるでしょう。
また、伯父自身、後世に残るであろう多くの作品を書いています。しかし、それに加えてあなたの著書に
書き留められるとすれば伯父の歴史上の記憶は、より確かな、永遠のものになるはずです。
私は思うのですが、歴史に残るようなことを行うか、あるい、は価直のある文章を書く能力を神から
与えられた人は恵まれた人であり、しかもこの能力を2つとも与えられた人は、最も幸せな人です。
私の伯父は、彼自身の著書とあなたの御著書とによって、そのような恵まれた人物の一人となるでしょう。
というわけで、私はあなたの御依頼をお引き受けいたします。いや、こちらから進んで手紙を書かせて頂きます。
 伯父はミセヌムにいて、船団の指揮をとっていました。異様な形の巨大な雲が現れたことを母が伯父に
知らせたのは、9月の第1日より9日前(8月24日)の第7時(午後1時)頃のことでした。
伯父は日光浴と冷水浴をしてから軽い食事をとった後で、ちょうど仕事の最中でした。
伯父は靴を持って来させると、その超自然現象を一番よく観察できる場所にのぼりました。
見ると雲が湧き上がっています。遠くからではどの山から出ているか分かりませんでしたが、やがて
ヴェスヴィオ山から出ていることが分かりました。まるで松の木が巨大な幹を上に向かって伸ばし、小枝を空に
広げたような形の雲でした。多分、蒸気によって吹き上げられた噴煙がしだいに自らの重みによって横に広がり、
そのような形になったのでしょう。雲はところどころ白く、また土や灰を含んでいるところは灰色に汚れていました。
博学な伯父には、これがもっと近くから観察すべき大事件であることが分かりました。伯父はリブルニア式ガレー船
(2段擢の軽装傭船)に部下を乗り込ませ、私にその気があれぱついて来てもよいと言いました。
私は勉強しているほうがよいと答えたのですが、そう答えたのは、他ならぬ伯父から課題を与えられていたから。
伯父が家を出ようとしていたとき、友人タスキウスの妻レクティナから伝言が届きました。
彼女は身に迫る危険におびえていました。彼女の家はヴェスヴィオ山のふもとにあって海路でしか脱出できません。
そこで救いを求めて来たのです。伯父は急遽予定を変更し、救助に向かうことにしました。研究心から乗りかかった
ことを、義務感という高い次元の感情で実行することにしたのです。レクティナだけでなく大勢の人々を救助する
ことに決め、4段櫂ガレー船を用意させてみずから乗り込みました。魅力的な海岸には実際多くの人々が住んでいた。
人々が脱出を始めているその場所目指して伯父は急ぎました。航路を直線に保ち、危険に向かってまっすぐに
舵を取ったのです。全く恐れることを知らない伯父は、噴火の全段階と様相を、目にするそばから人に書き
取らせるか、みずから書き留めていきました。
すでに灰は船の上に降り注いでいました。目的地が近づくにつれしだいに熱を帯び密度も濃くなりました。
真っ赤に燃える軽石や砂利も見え、川床が露出し、崩れた岩が岸を塞いていました。
伯父は引き返すべきかどうか一瞬ためらいましたが、水先案内人が引き返しましょうと進言すると答えました。
「勇気を持て。運命の女神がついている。ポンポニアヌスの家に進路を取れ」。
 この家はスタビアエにあり、ミセヌムからは湾の半分程難れていました。
海岸線はわずかに湾曲していて、そこに海が入りこむような形になっていました。
このあたりには、当面の危険はなかったものの、状況は目に見えて危うくなってきていました。
ポンポニアヌスは船に荷物を積み込み、向かい風が止んだら直ちに出航するつもりでいました。
この風がじつに都合よく伯父の船を押し進めたのです。
無事上陸した伯父は、ポンポニアヌスを抱きしめて慰め、元気づけました。
 (字数の関係でカット 2013年11月3日)
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2004/10/22
1298, 2000年前のポンペイ −2
図書館で何気なく歴史コーナーを見ていたら、「『ポンペイ』完全復活、2000年前の古代都市」
というグラビア集があった。一ケ月位前にTVで『ポンペイ』を特集していたのをDVDに録って、
その面白さに繰り返し見た後なので、思わす時間を忘れて、その場で見入ってしまった。
借りてきて見ているがTVよりさらに深い内容である。本は、映像では表現できない違う役割がある。
 AC/79年8月24日、ヴェスヴィオス山の大爆発で火山灰で埋没したこの街は、その18世紀半ばからの
発掘によって、古代ローマを知る上で大発見になった。
それまで、古代ローマの遺跡といえば、ローマ市郊外の遺跡であったり、地中海沿岸の都市であった。
ローマ帝国は、このような街が数千もあって、それによって支えられていた。
しかし、それらはその後の追加工事などで、当時の原型を殆ど留めていないものばかり。
これだけ、完璧に残って発見されたのは歴史上初めてである。街そのものを、石膏(火砕流)を流し込んで、
そのまま保存したようなものである。
ーそのグラビア内容とは
・街全体の航空写真と、それを元につくられた街の復元の絵
・それで解ったポンペイの都市計画図 そして街の構成と築造技術
・給水システムと下水システム
・共同墓地と体育場と円形闘技場、そしてスタビア浴場
・娼婦の館の写真と、そのレイアウト。 そして、そこに描かれていた男女交合の絵
・完全に残っているパン屋と、内部の工場と、パン原型 そして、それをもとに作られたパン屋の想像図
・複合劇場施設の航空写真と、その図面と、想像図
・音楽堂と、そこに描かれていた壁画と、残されていたタンバリンと、ブロンズ製のパンパイプ
・街の心臓部になっていた、市民広場 そこでは、街の住人や、郊外の豊かな農民、商人、遊び人など様々な
 人たちが集っていた。そこでは選挙もおこなわれていた。
・公衆トイレもあり、入ると控えの間があり、外からは見えないようになっていた。そこを入ると便座があり、
 排水溝があって常に水が勢いよく流れていた。
こう見ると、現代の都市と大して変わりがないといってもよい。      ーつづく
・・・・・
2004/09/27
1273, 2000年前のポンペイ ー1
先日、TVで「ポンペイ」を特集をしていた。十数年前にイタリアに旅行した時に立ち寄った、
ポンペイの街の記憶とTVの内容が重なって、非常に興味を持ってみることができた。
ーまずはポンペイの概略を書いてみるナポリの南東にあるヴェスヴィオス山のふもとの町。
古代ローマ時代には貴族たちの別荘地として発展し、パクス・ロマーナ期の繁栄ぶりはめざましいものがあった。
当時の人口は2万。公共施設が次々と建てられ、建物の構えはローマにひけをとらないほどだった。
悲劇は、AC79年8月24日にやってきた。ヴェスヴィオス山が突然、大爆発を起こしたのである。
大地は鳴動して山頂は吹っ飛び、火口がぽっかり口をあけた。きのこ雲は天に達し、くもった空の下に、三日三晩、
火山灰と火山弾が降り注ぎ、泥流は火口をあふれ出し、町を襲った。
ポンペイの町にも大量の石や灰が積もり、噴火の翌日までにその灰の深さは5〜7mにも達した。
屋根の損壊や有毒ガスによる窒息による犠牲者の数は人口の1割にあたる2000人と考えられている。
そこには火砕流でタイムカプセルのように、当時の生活が残されていた。
遺体を覆った火砕流の岩石の空洞に、石膏を入れて型どった生々しい遺体の像が幾つかあった。
お金を握った者や、妊婦や、奴隷、子供、犬など様々だ。街を歩いていて驚いたのは、タイムカプセルで
ドロップアウトしたようになるほど、リアルに当時の生活が残っていたことだ。
残っていた住宅の壁画などから見て、「性」に対して非常に大らかであったようだ。
女中部屋には、自?用の男性の??が壁につき出ていた。幅10mの道路の両側には、焼きたてのパン屋、居酒屋、
売春宿などが通りに並んでいる。売春の値段まで残っていた。今でいうと、コーヒー一杯分位だった。
道路には轍の後がくっきりとあるし、十字路には歩道がある。下水道や、公衆水飲み場もあり、街の中央には
広い集会場もあった。今回のTVの特集で、全く知らないかった事実が多くあった。
街の殆どの人が、一瞬で亡くなったと思っていたが、発見された遺体は1000でしかなかった。
15000〜20000人の人口と推測されるから、遺体の半分は発見されなかったとみても、9割の人が逃げ延びたのだ。