『世界の美しいさを一つでも多く見つけたい』石井光太
   * 現場の壮絶! 
 内容は 題名とは程遠く、映画や小説でさえ描写できない現実の凄みがある。
デジタル機器の進化で、生首を刎ねる写真や映像などがネットで流される。臨検など今では無理。
それにしても、このルポは、凄惨であり、これが現実である。 ーその辺りからー
≪ 話を聞いてわかったのは、LRAの兵士たちのあまりに残忍な行動でした。彼らはまず戦力を増やすために村を襲い、
食糧や金品を略奪します。そして村人の中から子供を選び出し、彼らに銃を突きつけて自分の親や兄弟を殺害させる。
「この場で親の首を切れ。そうしなければ、おまえを殺すぞ」 そう脅して無理やりやらせるのです。家族を殺した
子供は、村で生きていくことができません。兵士はそんな子供たちを連れ去り、部隊の兵士にするのです。
家族を殺させるのは、子供を村と決別させ、殺人マシーンにするべき通過儀礼のようなものなのです。
 子供たちは部隊に入った後、全員が従順に兵士として生きるわけでありません。嫌になって途中で逃げ出したり、
命令に従わなかったりすることもあります。そんな時、ゲリラ兵は見せしめのために裏切った子供たちの鼻や耳、
それに唇を切り取ったりします。人間には見えないような容貌にすることで恐怖心を植え付けるのです。
おそらくこうした事実だけ見れば、私はLRAのゲリラ兵を「鬼南のような兵士」として描き、彼らにつかまって
兵上にさせられた子たちを「悲劇の被害者」として描いたはずです。でも、さらに調べていくにつれ、違う側面が
あることもわかってきました。LRAの子供兵の中には、誘拐されて兵士になった子以外に、自分の意思で自ら兵士に
なった子もいるのです。貧しい農村で一生暮らすことが嫌になり、銃を持って略奪をして暮らしをしたいと思って
いる子供、銃で人を殺して出世することがカッコイイと思って参加する子、もともと反社会的な人格を持っていて、
それがエスカレートして、兵士になることを望んだ子供がいるのです。・・・ ≫
▼ これに匹敵する残虐行為に、ドイツのナチと、カンボジアポルポトによる数百万単位の大量殺戮がある。
 北朝鮮も一歩内部に入れば、このような弾圧が現在進行で行われている。中国文化大革命では1千万〜5千万人が
虐殺されたが、詳細は隠されている。25年前に桂林に行った時、現地添乗員が『文化大革命時には、
この辺りは死体の山だった。それが全国の各村で同じように・・・』と、何気なく話したのを聞き耳を疑った。
当時の日本国内ではタブーで、現地であればこそ聞けた話。 島国で、海で外界から守られ、平和ボケの日本。
グローバル化は、その平和を儚くも砕いてしまう。 憲法を変えるのは当然のことだが・・・ この国では無理?
 また偶然だが、以下の二年前の随想日記に続く!
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4170, 金正日の料理人
2012年08月26日(日)
   * 若きドン様の親の敵討ちは残酷!
 何気なくTVをみていたら、北朝鮮金正日の元料理人が出ていた。これが漫画的ドラマ仕立。 
その男が、「金正恩に招待され北朝鮮に行ってきた内容」で、金正恩や、そののファミリーと食事をした写真があった。
父・金正日を裏切り逃げ帰った過去全てを水に流してくれた温情深い現在のドン様に感激している、という筋書き。
その日本人は現地に妻と二人の子供を残してきたが、正恩の計らいで残留家族と対面した。ところが、「料理人の長男が、
再会した二週間前の夜半に苦しみだし、両手を三回突き上げ絶叫し、亡くなった」という。心臓発作だった。
『 呼び出しに応じたのを確認したと同時に、長男を毒殺し、家族に会わせて、その事実を知らしめ、今度は長女を殺す、
という脅しをかけ、北朝鮮メッセンジャーを暗に強要している』のは誰の目にも明らか。 その後、妻と娘を残して帰国し、
TVに出演したのだが、その筋書きをキャスターに指摘されると、「そうであっても、それでよいと思っている」という返事。
北朝鮮に愚弄されている姿が、そのまま出ていたが、陰湿で残酷な仕打ちのドラマ仕立。 リアルで現在進行中のため、
料理人が翻弄されている姿が痛々しい。 独裁国家のドン様を裏切り愚弄すると、このザマになるという残酷ショー。
これは北朝鮮が茶の間に直接日本愚弄のメッセージをしてきたことになる。逆にみれば、この程度の連中でしかない。
マスコミが、この料理人を抹殺するか、パンダとして利用するか、パンダ利用になるのだろう。
現地の家族が本当に存在していたのか、そう持ちかけられたのか、本人の作り上げた物語なのか、色いろの仮説がたつ。
コミック漫画の悲劇か、喜劇か?  くさい話だけは確かだが。
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4545, 閑話小題 ー夏対策
2013年08月26日(月)
   * 暑さ対策!
 居間、寝室では扇風機で冷をとるのが基本。しかし30度を超えるとクーラーを付けるが、今年は、その頻度が多い。
扇風機の場合は、補助として保冷剤の入った首巻きを三つ冷凍庫で冷やし一時間ごとに入れ替える。これが効果がある。
更に先日、寝室用に保冷枕を購入し使い始めたが、これも良い。冬生まれもあって夏の暑さには特に弱いが、それでも、
いざとなればクーラーがあるという余裕があるから出来るのだろう。
   * 業種店が、新規出店?
 車で二分ほどの三沢のSCの運動ジムに週五日間通っているが、道路一つ隔てた敷地に2Fの建物の鉄骨が立ち上がってきた。
3〜4ヶ月前に「地元のスポーツ店が、東バイパス出口に出店!」という新聞記事を見ていたので、着工と同時に、これでは?、
と思っていたが、先日に家内から、それが地元スポーツ店と知らされた。地元のスポーツ店も典型的な業種店。自然消滅は
時間の問題と見ていたが、それが新規の出店とは意外! 家内が言うには、「近くに高校や中学が多いので、運動着や
スポーツ用品が学校単位の需要があるのでは?」という。 家内の方が、よほど世情に詳しい。
 全国チェーン店が捨てた(地元しか手に入らない)インサイダー営業が存在している、ということ? 
としても、私には疑問が残るのは、私がアウトサイダーのため? それとも、幾つかのSCの重なっている郊外の一等地で、
大手のスポーツチェーンに囲まれ苦戦。その原因が業種店の限界と知らず、スポーツ店の無店地帯の東バイパス地区に移転で
起死回生を図るためなのか?としたら・・ 最悪のケース。 常識的にみれば破滅行為!しかし、街中から移転して20年?近く、
ブランド物に的を絞り、営業では学校関係に地道な営業努力の結果、二店目の出店に至った?と、考えるしかない。 
立地センスは最適だが、黒鳥の舞降りる中で、どうなる? 毎日のように、窓から見えているので書いたが・・ 
更に最悪のケースは、順調な数字を上げていて、移転でなく拡大としての二店目の場合。恐ろしいのは二店目の甘い計画。
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3805, 哲学人 ー⑥
2011年08月26日(金)
 * 学生時代の恩恵 
 学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。 もしも学生時代に一度、頭を粉々にしてなかったらと思うと・・・
マギーは、ここでイギリスのエリート学生の内面を正直に書いている。 哲学と芸術の長い歴史が大学にあり、
そこのプログラムを学生はこなしているのである。都市には、美術館があって歴史的名画を身近に見ることができる上に、
コンサートも子供時代から親から連れて行ってもらっている。 教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。
  ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー
【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、知的価値が芸術的価値とは独立して存在しているという
こと、そして、知的価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 一年目には、理知的で気の合う仲間の中に、他にもまして
知的な価値に傾倒している人がいることを知ってカルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、そうした価値を
自分なりに受け入れられるようになるに三年目まで待たなければならなかった。
そのおかげで、知的価値は私にとって欠かせないものとなり、私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。
 ちなみに、私はこのような経験をしたおかげで、一部の聡明な人々に対する理解を深めることができたのではないかと思っている。
それは、さまざまな理由から大学教育を受けたことがなく、そのためにこういだ経験をしていない人々についてである。
そういった人々がどんなものの見方をするか私はわかるつもりだし、彼らの身になってみることもできる。 ひょっとしたら自分も
同じ立場になっていたかもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張ではない
という考えを育むよう仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。当然のことながら、こうした教育は
他者の助けなしにできない。 他者は私たち個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。
けれども、ここから導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、残念だが逃れようのない事実である。
 オックスフ・オード入学当時の私の考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の経過を考えると、
哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値があって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、
その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高いレペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、
つまり存在の根源的な神秘を探ろうとしている。 それを果たせないとしても、人間の理解に限界があるせいにすぎない。
ショーペンハウアーが述ベているように「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」
哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものにはどうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの
深みには到達できないかもしれない。 だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。 アイリス・マーギックは
「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深いところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある
という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという意味でもそのとおりである。】
 ▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。
  芸術作品は、作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の中に魂を入れ込んだ名作である。
  それに直接触れ、感動するのが一番、人間の魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。
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3440, 再び、死について考えてみる ー4
2010年08月26日(木)
  * 死を喩えると
 死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に喩えとされることは、プラトンソクラテスの弁明』の一節にある。
ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一なのです。あるいは全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば
何も少しも感じないといったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいにとって、ここの場所から他の場所へと、
ちょうど場所をとりかえて、住居を移すようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることであって、ひとが寝て、
夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものであるとしたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになるでしょう。
・・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなものであって、人が死ねば、誰でもかしこへ行くという、
あの言伝えがが本当とすると、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、裁判長諸君。」ー
 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰ってくるのが前提にある。
永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象風景でしかないのが、
これでわかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、
という意味で、喩えとして科学的風である。 ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で空間の歪が生まれ、
穴が開いて異次元?の時空に周辺のものを吸い込んでいく。これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。
最近、ホワイトホールも、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している空間の存在。それは生命ということになる。 
面白いのが、死の喩えを、生そのものにしている説がある。 これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、眠る、去る、
失う、等々である。それらは再び我われの元に帰ってくる可能性がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が現われてくる。
そうすると、永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かりやすそうだが、生きている人間の論理というのが
露出するだけ。 同じ動物の牛に喩えると、先ほどの喩えは不自然である。死も、生きていることも、幻想でしかないなら
喩えでイメージするのも良いではないか。 少し、眠たくなってきた。
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3065,ウワサを考えてみる
2009年08月26日(水)
   * オルレアンのうわさ
『オルレアンのうわさ』とは、1969年5月、フランスのオルレアンに流れた女性誘拐の噂。
 オルレアンは、パリの南方100kmほどのところの人口十数万人の地方都市。この街のブティックで、女性が消えると言う噂が
流れたのは、1969年5月。若い女性がブティックの試着室に入ると、催眠性の薬品を嗅がされたり薬物を注射されたりして、
前後不覚になったところを誘拐され、地下道から外国の売春宿に売り飛ばされていく、というもの。 
  (字数制限のためカット2011年8月26日)
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2700, 「レンタルの思想」−6
2008年08月26日(火)                 ー 読書日記
 進化生物学者長谷川真理子との対談が面白い。
ネアンデルタール人と、現生人類が重なってた時期があるが、何故に 現生人類が生き残ったのか?
脳の大きさよりコネクションが違っていて、そのことが多くの道具を使うことを促して生き延びたこと、
言語能力が格段と上だったこと、更に病気に対する抵抗力の差があったという。
そして「おばあさん」の誕生が現生人類の特徴という。 それまでの色いろな人類のメスは排卵が終わると
直ぐに死んだ。 しかし現生人類の女性はその後も生き延び、お産のノウハウを娘に伝授したので人口が増えたという。
人骨から「おばあさん」の骨が多く発見されたことから分かったという。 面白い節である。
ーおばあさんの誕生ー 長谷川真理子×松井孝典
  *おばあさんの不思議
長谷川: いまある限りの現生人類の骨から年齢を測ると、おばあさんの骨が含まれているから、長生きしたのだと思います。
松井: それは現生人類が繁栄するという意味で、非常に本質的な点ですね。なぜそうなのかについて何かアイデアはあるのですか。
長谷川: 「グランドマザー仮説」というのがありまして、祖母の知恵が、娘が母親になるときの孫の
 生存率を上げたのではないかと言っています。
松井: それはそう思いますね。出産の経験がまったく蓄積されないで単なる生物として初めて出産を経験するのと、
 出産とはこういうものだということをあらかじめ意識として持っているのとではすごく違いますよね。
長谷川: 全然違いますね。
松井: それで人口が増えることに加えて、寿命も長くなるわけで、環境には二重の負荷がかかる。
長谷川: そうですね。でも流行病とかが時々ありますから、長いこと人間の人口はそんなに増えませんでした。
 だけどまず一万年前に増えて、それから産業革命から増えて・・。でもそれから豊かになると出生率が減るでしょう。
 進化的に生物として考えると、 自らの繁殖率を減らそうとする生き物はいないわけです。
 豊かになるということは条件がよくなるわけで、条件がよくなると普通はもっと産むので、
 だから人間がどうして豊かな暮らしになればなるほど持ちたい子供の数が減るのかなと。
松井: おばあさんが存在するという不思議と、もう一つは豊かさがあるところに達すると産まなくなるという不思議と。
長谷川: 全世界的にそうです。それがどうしてそういう心理状態になるのか。
松井: やはり出産が大変じゃないのかな。本当は産みたくないんじゃないのかな。
長谷川: それもあるかもしれませんが、進化生物学的に考えれば、そんな心理を持つこと自体が 不思議なことですから、
いろいろモデルをたてて研究している人がいます。そこから見えてきたのは、べつにこういう先進国だけではなく、
牧畜民の社会とか、農耕社会とか、少しでも富の蓄積ができたあとには、 子供だけではなくてー子供も富と数えてー
持っている富全体を最大化しようとするみたいなのです。・・・・・
  〜〜
 (−対談を終えて) 松井孝典
これまでの人間論には、生物学的人間論と哲学的人間論があった。今回は生物学的人間論とはいかなるものか、
ということで長谷川さんと対談した。現生人類の起源には、多地域進化説と出アフリカ説とがあり、後者が有力になりつつある。
 (字数制限のためカット2011年8月26日)
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2007年08月26日(日)
2336, ホッファー  −3       (★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
一昨日、アマゾンで注文をしていた中古本の、ホッファーの自伝が送って来た。
一昨夜半、二時間かけて読破したが期待したどおりの内容であった。 ミス・フィットや港湾労働者の立場で、
何故独学であらゆる分野の知的好奇心を持ち続けることが出来たのだろうか、まず疑問を持った。
それは7〜15歳までの盲目体験である。そして、彼の父親がやはり働者に係わらず、読書好きの教養人だったことが
彼の勤勉性を培ったようだ。さすらいのホームレスから見た、ミス・フィットの人たちの生態も克明に書かれていて、
時空を越えた当時の生身の生活が垣間見れ、彼と一緒に20世紀前半のアメリカを彷徨っているような気持ちになってしまった。 
ホッファーの言葉を幾つかのHPから拾ってみた。  なかなか含蓄の深い言葉ばかりである。    
 (ー 〜〜 ー は私の内語である。)
  ーーーー
<世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある。>
 ー自己嫌悪を無くすには、他人への愛が必要ということ!
  自己愛は、人への慈愛から育てるのが近道。それが出来ないのが人間か〜
  でも、半々と割り切ってしまうしかないか、自己愛と自己嫌悪!
  他人が嫌ってくれているのに、自分まで同調することもないだろうにー  
<驚くべきことに、われわれは自分を愛するように隣人を愛する。
 自分自身にすることを他人に対して行う。自分自身を憎むとき、他人も憎む。
 自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。自分を許すとき、他人も許す。
 自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがちである>
 ー{これはホッファーの「思いやり」についての最も深い部} というが、
  自己犠牲という奴ほど、自己というエゴがヘバリツイテイルということに
  注意しないと、軽い?人間のボランティアになってしまう。解る?その意味ー
<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに
 方向と形を与える教授の権利を持っていると思っている人たちである。
 知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。
 教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>
 ーそういうこと!「教育のあるエリートの一員」か〜? 
  エリートなんぞ対比の問題でしかないのが解らないのは、単なる馬鹿!
  ある本を読んでいたら、何処かの大学の教授が自らを日本を代表する教養人と のたまっていた。 
  まあ、可愛いいから許せるか?−
ー字数の関係上カット(2008年08月26日)        バイヾ(・ω・`)ノバイ
・・・・・・・・・
ーH0703 ブラジル旅行記
“行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で行われており、四日間全国がお祭りの為休みとなる。
その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。リオのカーニバルのランクがA・B・Cとなっており
Aランクが9チーム、 Bランクが15〜16チーム、 Cランクは数十チームとなっている。
AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを80分の持時間で踊りながら行進する。
(字数の関係でカット12年8月26日)