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『世界の美しいさを一つでも多く見つけたい』石井光太著
* 小さな神様見つけ方 〜② 相手の文脈で大切にしている神様を見出す!
人生は妄想によって生み出した「小さな神様」に頼って生きるしかない過酷の旅でもある。
それが過酷であるほど、しがみつくしかない。宗教の原点が、そこにある。 ーその辺りから抜粋ー
《 ムンバイの売られたレンタルチャイルドでさえ、マフィアを心の拠り所としている。
これまでの旅で出会った人たちも同じでした。たとえば、ヨルダンのナイトクラブで会ったイラク人売春婦は
男性客を不安に怯える自分を支えてくれる大切な人と見なしていたし、バングラデシュの公園で暮らしていた
少女は変質者の男性を一緒にいてやさしくしてくれる大人と見なしていた。みんなそれぞれ闇の中で何かしら
心の拠り所をつくり上げ、それにすがりつきながらがむしゃらに生きていたのです。
人間は絶望の底につき落された時、懸命に光を見出そうとします。それは、救いを求める人が神にすがる行為に
通じるものがあります。「貧困に生きる人々が苦しみの果てで生み出すのは神様のようなものだ」といえるはずです。
もちろん、ここでいうのはキリストやお釈迦様のような存在ではありません。教義を有する宗教における神ではない。
ただ、個入にとっての救い主という意味では、同じような存在であり、私はそれを「小さな神様」と呼ぶ。
マレーシアであった兄妹の彼女は、誕を垂れ流し、会話もできないほどに精神を病んでしまっていた。
そこで兄は妹を連れて祖国のスーダンを離れ、知り合いを頼ってマレーシアに辿り着いた。コタキナバルで、
兄は妹にリハビリを施していました。心の闇を吐き出すために絵を描かせ、静かな公園へ連れて行って気晴らしを
させたりしていた。 私はそんな二人と何度か話をしたのですが、妹が妙なことをいいだしたことがありました。
こんな話でした。「スーダンの故郷には、私のことを待ってくれているやさしい人がいるの。兵隊さんなの。
私は彼と結婚するつもり。だから、国に帰りたい」どうやら彼女を拉致監禁した武装組織の兵士と婚約をしている
ということでした。なぜ自分をつかまえてレイプをした側の男性とそんな関係になったのでしょうか。
兄はその話題について詳しく説明しようとしませんでした。ことの真相を知ったのは、しばらく経った日のこと。
その日、私たち三人が暮らしている安宿へ赴きました、そこで兄から妹が語る「婚約者」について・・・
それは彼女が作り上げた妄想でした。(略)・・・そうやって生み出された個人のごく小さな希望や幸福が
「小さな神様」となる。私は他者を見つめる際に大切なのは、相手がどんな小さな神様を抱いているかを知る
ことだと思います。その人にとっての希望だとか幸せだとかいったものは「小さな神様」に集約されます。
それを発見することが、その人の価値観に寄り添って物事を考えることにつながる。・・・それでは、小さな
神様を見つけるにはどうすればいいのでしょうか。決して難しいことではありません。 一言で表せば、
「自分の文脈で勝手な価値観を押し付けるのではなく、相手の文脈で大切にしている物を探すこと」
その人が何を小さな神様と見立てるかには、きちんとした理由があります。何かしらの文脈で小さな神様が
でき上がっているのです。従って、その文脈で考えさえすれば、ちゃんと小さな神様が何であるか、
つまり何を幸せとしているかが見えてくるはずなのです。》
▼ いかなる惨状の中でも、必ず希望を見出して生き抜く人間の生命力、そこには、惨状だからこそ、
浮かび上がってくる小さな神がいる。そこでは、世界がひっくり返るほどの感動、美しさが見えてくる。
それが、著者が伝えたいこと。 ところで、私の小さな神様は何だろう?
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4541, 「ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある ー3
2013年08月22日(
* 宗教の伝統的な実践による心の治瞭 「ひとり達人のススメ」山折哲雄著
私が学生の頃、親戚が末期ガンと知らされ、その苦しみ恐怖から逃れるため『写経』に没頭し亡くなっていった。
この本で、死の恐怖を克服する実践に『写経』と『散歩』を上げている。『散歩』には遍路や巡礼が含まれる。
早朝の散歩で、吐く息に身体の毒を、吸う息は大自然の霊気を入れ込むイメージすれば、身体に良いはずである。
ーまず、その辺りを抜粋してみるー
《 三十代で、絶食によってわが身体とは何かを考えるようになった私は、体と心の関係に強い関心を持ち
始めていました。そして四十代に入ると、さらに興昧深い出会いが待っていたのです。さまざまな経緯があり、
私は母校である東北大学の文学部に宗教学の助教授として迎えられることになり、東京から東北に戻りました。
当時の母校の医学部には、最近亡くなられた鈴木仁一先生という心療内科の助教授がいらしゃった。
心の病がからんで、どの科でも回復の望めない患者が、心療内科の鈴木先生のもとへ送られていました。
彼は患音の心の病を治療する、今でいう心身医療の専門家でした。その鈴木先生がやっていたのが絶食療法でした。
もともと戦前の東北大医学部では、女性のヒステリを治す治療法として絶食療法が行われ、基礎が出来上がっていた。
その診療法で女性のヒステリーの60%近くが治ったという結果もある。先生は、その絶食療法を中心に治療している。
ただ、絶食療法は、誰でも有効というわけでない。どういう人が効くかというと、意志の強い人だと、いっておられる。
そこで思い浮かんだのが山頭火。山頭火のような修行ができる人間というのは意志も意地も強かったはずです。
意志の弱い、普通の人は、なかなか絶食療法ができない。 私が「死ぬきは断食で死ぬよ」と言ったら、
賛成する人もいるが、「それは思った以上に大変なことだよ」と、反対する人もけっこういます。
やはり食を断つということは並大抵の覚悟ではできないのです。 それでは意志の弱い人には、どういう治療を
ほどこすのかを尋ねると、「写経」という方法あると先生言下に言われた。 それから「散歩」とも。
俗世の欲望を捨てるための修行のひとつに「とそう」というものがあります。「行脚とそう」ともいいます。
これは徒歩で修行のために諸国を遷ることです。お遍路も含めて巡礼というものは、みんなこれに入るでしょう。
けれども写経や散歩はいろんなレベルのものがあって誰にでもできるので、人それぞれに応じたことを薦めます。》
▼ もうダメと悟ったら、断食を考える。無理なら、四国のお遍路に出るか、身体が動ける範囲で近くを歩き回る。
天候の具合で、疲れて家に居るときは、写経を書いて過ごす。それも終わりに近づいたら、点滴などを拒否し、
可能な限り、食を絶って、自然死を待つ。そのぐらいしか出来ないが、身内に今のうちに伝えておくこと。
死に時には死ぬ覚悟が必要!以下の、去年の文章が丁度よい内容である。老いの準備から、死に準備の移行である。
あと一年数ヶ月で「古希」になる。
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4166, 老年行動学 ー3
2012年08月22日(水)
「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著)
* 長寿の人の共通点 ーわがままに生きる
「憎まれもの世にはばかる」ではないが、歳をとると因業になる。先がないので抑えていた我がままが表だつ。
長寿の共通点が「わがまま」。わがままと因業は紙一重。 ー その辺りをまとめてみた。
【 日本には100歳をこえる人は4万8千人いる。50年前には153人しかいなかったというから300倍以上。
10年前で1万人をこえたというから、僅か10年で5倍である。人間の寿命の限界は、フランス女性の122歳。
100歳以上の人に対し医学や遺伝子の様々な研究が行われていて、心理学研究では、ある程度共通した性格がが
わかっている。男性の場合は、性格が几帳面で、自分を曲げないで、日課がほぼ決まっていて、生活がきちんとした人。
女性の場合は、明るくてわがまま。ちょっと強引だが、周囲の人を幸せにしてくれる‘大阪のオバチャン’みたいの人。
男女とも「わがまま」の人が長寿である。「自分勝手」とは、少し違うが、我が強い人である。
「わがまま」の意味は、「自分が決めたことを、自分の思うようにできている」で、誰かが元気がない時に、
その人が喜びそうなことを、積極的に動く人。それは「自律できている」ことである。自律を保つことで幸福度を
高く保っている人ということになる。アメリカの心理学者が、面白い実験をした結果がある。
≪ 三匹の犬を一緒につなぎ、電気ショックを与える。 一匹目は、電気ショックを与えたら、鼻でパネルを押すと
電気ショックを押すと止むようにし、二匹目は、一匹目が押した時に、電気ショックが止むが、自分では何をしない。
三匹目には何もしない。これを繰り返した後に、それぞれを仕切に分けたボックスに入れて、電気ショックを与えると、
二匹目の犬は、すぐに飛び越えられる低い仕切りでも、うずくまっただけで、逃げようとしなかった。
この犬の状態を「学習性無力感」と呼ぶ ≫ 】
▼ 何か勤め人根性が染み付いて、退職後に誰も指示しないため無気力になる大方が二匹目の犬に近い?
身につまされる人が多いだろう。身近な人に似たような人がいるが、人生は誰も同じようなもの?
わがままな二代目か、婿取り娘が果たして長生き?かというと、そうでもない。それぞれ気苦労がある。
ライフワークを続けること自体が、わがままになるが、10年20年が必要。 今からでも遅くはない。
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3801, 哲学人 ー③
2011年08月22日(月)
『哲学人』 ブライアン・マギー著 ー読書日記
ー 第一章 子供のころの記憶 〜時間に始まりと、終わりはあったのだろうか?〜 �
【 何かが存在するためには、その何かは「ほかのものとは違うなんらかの個性」を備えていなければならない。
つまり、その何かは「異なるもの」も存在していなければならないのであり、その「何かに限界がなければならない」
のである。したがって、いまあるものに終わりがないということはありえず、いまあるものに始まりがないという
こともありえない。私は始まりのない時間も終わりのない時間も不可能であると確信するようになった。
かといって、始まりや終わりがあるという可能性をつかめそうにないわけでもなかったが。 さらに、似たような
問題が空間に関して存在することにも、私はすぐに気づいた。いまでも覚えているが、ロンドンからイングランド
中部のマーケット・ハーボロに疎開していたころ(確か十歳か十二歳の頃だった)。
公園の芝生に横になって雲ひとつない青空をずっと奥まで見通そうとしながら、こんなふうに考えたことがある。
『 もし僕が空のなかにまっすぐ、昇ってそのまま突進んでいってたら、どこまでも進んでいけたっていいはずだ。
でも、そんなことはできない。どうしてできないのか? きっと最後には終わりみたいなものに突きあたるからだろう。
だけど、どうして?最後に何かにぶつかるのだとすると、その何かは空間のなかにないといけないんじゃないだろうか。
そして、その何かが空間にあって、空間ももっとあるとすると、その向こう側にも何かがあることになるんじゃないか。
ただ、そうすると限界がないことになるけれど、終わりのない空間なんかあるはずない。終わりのない時間がありえない
のと同じである。』
こうした問題にしきりと頭を悩ませた末、私はこう考えるようになった。最大の間違いは、自分に想像できない
ものがあるはずはないという仮定にあるのだろう。 考えられることと、実際にありうることとは違うのかもしれない。
結局のところ「つぎはどうなる? そのつぎは? そのつぎは? そのつぎは? 」と、ずっと問いつづけていれば、
確かにある意味では、永遠につづいていくものがあると考えることはできる。しかし、その永遠につづくものは
考えられるだけで、実際には存在しないということも、当たり前のような気がする。 無限というものは、考える
ことはできても、存在することはありえない。たとえば星の敗が無限であることなど実際にはありえないように・・。
それとも、自分は落とし穴かち抜け出そうとしているのに、いままた落ちつつあるのだろうか? ともかく、
真相がなんであれ(考えられるものが存在できず、考えられないものが存在できるとしても)、それは自分が現に
抱えている問題を解決する役には立たないだろう。 時間に始まりがあるのかないのかについて、
それは真相を教えてくれないからである。いったい、このふたつのうちどちらが本当なのだろう? 】
▼ 私が、年齢を重ねて実感していることを、既に10歳前後から考えていたのだから文化の背景が違う。
欧州では中学校の頃から哲学の授業が取り入れられている。 考える基礎を感受性の強い中学の時期に教える
必要性をギリシャから続いている哲学の歴史から学んでいたのである。「何かが存在するためには、その何か、
他のものと違う何らかの個性を備えてなければならない」という考え方は、西欧の考え方のベースにある。
島国の日本では、個性を押しつぶした右倣いが必然になる。欧州は多民族のため、常に隣国から虐殺される
危険があり、万一の場合、それぞれが違った個性で生きのびる必要性があった。そのため自分の頭で考える
ことが最重要になる。 やはり、考えて生きるべきである。そのことは周辺、いや自分を省みて了解できる。
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3436, 人生で後悔することとは? 満足していることは?
2010年08月22日(日)
* 私の人生で後悔することを、まず3つ挙げるとしたら
先日、「死ぬときに後悔すること」を取りあげた。そこで私の場合はどうか、考えてみた。
● 人生で後悔すること
・酒の飲みすぎと、それからくる失敗の連続
・身近の人たちへの配慮の不足
・NTT株やカラオケ事業など中途半端な準備で大失敗したこと
・100年、250年に一度の世界的変動期に遭遇してしまったこと
・大学ノートに絞って生情報・知識を整理したおくべきだった。 記録のパターンの統一の不徹底
● 人生で、本当に良かったと思えること
・幼児期・少年期に、両親の創業を家族として体験できたこと(両親が必死に働いている姿を身近でみたこと)
・大学時代に多種の経験ができたこと。 最も充実した学生生活を送れたと言えること
《ゼミ、一ヶ月間の欧州旅行、寮生活、クラブなどなど》
・30歳までに、問題の大部分を吐き出し、乗り越えたこと。
・26歳から、四十年近く独立独歩で事業ができたこと。
・55歳からHPを開設、公開し、一日一テーマで9年3ヶ月、休むことなく書き続けたこと。
その結果、ネット世界に乗り遅れなかったこと。 まる『10年』に9ケ月になったこと
その結果、情報化社会の一端を垣間見れたこと
・好きな秘境・異境ツアーを中心に海外ツアーなど47回、続けて旅行できたこと
・両親などの家庭環境に恵まれ、時代背景が歴史的にみて日本がベストの時代に20、30、
40歳代を過ごせたこと
・人生で致命的な場面に遭遇しなかったこと(今までは、だが)
〜〜
実際は後悔することだらけなのだろうが、やりたいことは、やった実感がする。「人と比較をしない」のがポイント。
何度も書いてきたが、「上を見ればきりがない。下を見れば底がない。横を見れば情けない」の最後を「ありがたい」
にすればよい。 後悔か〜 やはり、感謝が足りない分、後悔することになる。
一日、一回でも心を込めて「ありがとう」というか。
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3061,階級社会だと! −1
2009年08月22日(土)
世の中には露出されてないが、階級社会が歴然と形成されている。地方などでは、あまり表面化してないが、
都会などでは住む街からして歴然としている。千葉・総武線沿線界隈などの下町と、自由が丘などの山の手界隈と
街並みからして違うのは今さら。世の中に平等など考えてみたら有得ないのは当然で、有るとしたら選挙権と
チャンスの平等位のもの。 ところで、仏の社会学者のブリデューが、「プラティーク」と「ハビトゥス」
という概念で社会階層のあり方を分析している。
・「プラティーク」とは、習慣行動と訳されるもので、我われが何を好み、色いろな場面でどのように振舞うかである。
・「ハビトゥス」とは、その習慣行動を派生させている規範システムをいう。 高校受験で、まず分類され、
高校のクラスも成績順に分類され、大学でふるい分けられ、次は就職、そして、それぞれの組織の出世競争で
ランクつけられる。ブリデューは「それぞれの階層の含まれる人間は、全てでないにしても、同じ習慣行動をとる」
このような構造を発生するものとして「文化資本」という概念を示している。
そういえば父が私を道具屋に幼児の頃から連れて行き、色いろな茶碗や仏像を意識的に見せていた。
母は、ことあるごとに倫理的な話や、商売の原理原則の話をしてくれた。 第二次大戦前まで、何代か続いた
古美術店を営んでいて、戦中、戦後に色いろな商売の立ち上げなどの経験を具体的に聞かされていた。
また、山本五十六や、地元の「ツガミ」の津上退助や、野本互尊との親交の中で学んだことなど聞かされて育った。
それが、「ハビトゥス」のベースだったことになる。 それがあったから、どの場面でも偉そうな何を見ても、
それがどうしたで、相手から威圧を感じたり、仰ぎみることはなかった。文化資本の一部分の引継いだのだろうか。
その文化資本は決して親だけでなく、自分で長年かけて形成しなければならないことも両親の生き様をみて分っていた。
毎日の早起き、読書、下世話な話をしないこと、日常の贅沢をしないこと、死に金を使わないことである。
「で、御前さんは、その程度か?」と言われれば、それまでよである。ただ、私たちは、その文化資本の匂いは
嗅ぎ分ける。その文化資本は、倒産などで一瞬に崩壊してしまうケースを、あまりに多く見てきた。
それぞれの階層は、その匂いには敏感である。特に腐った匂いには。 「習慣は第二の天性」である。
だから自分で良い習慣を一つずつ作り上げれば、ある日、突然違う自分を見出すことも可能である。その反対もある。
・・・・・・
2696, 「レンタルの思想」−4
2008年08月22日(金)
ー人類を救う「レンタルの思想」松井孝典対談集ー
どの対談を読んでも、なかなか難しいが、何度か読むと解かってくるから不思議である。
対談でないと、専門家(特に学者)の書物を読む気にはならないが、対談の場合は意識的に難しい部分を、
噛み砕いて対談をしてくれるから、話しの内容についていける。私が、この二人の対談で理解できたことは、
・「『人間とは何かを考えたとき』 言語・法・貨幣 という本能と理性の間にある媒介物こそ、
人間を人間にしているのだ」ということである。 しかし、その貨幣が欲望の肥大を生むのである。
・「貨幣という概念の誕生によって初めて、グローバルな人間圏が定義されるのではないか」
「所有という欲望の具体的なカタチを貨幣という抽象化し、それがグローバルな人間圏を形成させた」という点。
これにインターネットで電子マネーが瞬時に世界を駆け巡るのだから、世界がグローバル化するのは必然。
まずは、一番印象に残った部分を抜粋してみた。
ー欲望の倫理学ー ー 松井孝典 × 岩井克人ー
岩井克人: 法のない社会では、たとえば他人に殴られた人間は、その人間を殴り返すか、または直接賠償を
要求しなければならず、そこでは個人の力の大小や属するグループの強弱によって人間関係が支配されてしまう。
しかし、法があれば、その法を媒介として、殴られた人間と殴った人間との関係は抽象的な権利と義務の関係に
還元されることになる。 それが人間社会を拡大する。さらに貨幣が導入されると、人間と人間との間の交換関係が
グローバル化する。贈与交換にもとつく共同体では、交換の範囲がお互いに顔を知っている人間同士に限られる
のですが、貨幣の媒介は顔を知らない人間同士でも交換を可能にする。地球上にちらばっていたローカルな
人間圏が統合され、本来の意味での人間圏というのができることになる。
松井孝典: 地球システムのなかの人間圏という概念を定義する仕方に、二つあると。一つは物質エネルギー
循環的に定義する方法、もう一つは貨幣という仮想的概念のもとに、一つの共同体として成立するか条件から
定義する方法。
岩井克人:そういうふうに考えると、じつは『人間とは何か』と考えたときに、それは、言語・法・貨幣 という、
自然でもなく人為でもない人間関係の媒介物、ハイエクの言葉を借りると(本能と理性の間)にある媒介物こそ、
人間を人間にしているのだということになる。 それは同時に、人間を普遍化させることになります。
《対談を終えて》 松井孝典
生物圏から人間圏が分化したその時、人間の欲望が解放された、と私は考えた。欲望の具体的表現が所有であるから、
その時に人類の地球の所有が始まった、と以来考えている。しかし、主流派経済学では所有権という概念を用いて、
生物圏の種の一つに過ぎない段階でも、人間の行動の全てを解釈する、という。 貨幣という抽象的概念の誕生に
よって初めて、グローバルな人間圏が定義されるのではないか、という指摘と共に頭の中が刺激される。
ただし、未来という時間軸は、所有権という概念をもってしても、その議論に組み込めない。 私風に言えば、
歴史を規定する境界条件が変化するとき歴史に基づいて未来は予測できない、ということであるが、問題の難しさは
いずれにせよ、この問題に帰着するようだ。(松井)
後記:電子マネーとか、地域マネーとか、ポイント制などの企業内マネーとか、
これまでとは違った貨幣が生まれだしてきた。特に注目するのはネット内の仮想世界のマネーである。
ネット内では、共通ルールと、共通マネーと、共通言語が必要となる。それを前提としてネット内の
仮の個々人が成り立つ。そして、リアル世界では実現できなかった欲望が解放される。
金か〜 使ってこそ金、貯めるものじゃない、欲望を開放するもの。
ただ仮想的概念でしかないことを忘れないことだ。
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2007年08月22日(水)
2332, ホッファー −1
アメリカの社会哲学者というより、哲人・ホッファー。彼の文章を読むと、
深い魂を呼び起こす熱が伝わってくる。 (字数の関係でカット09年08月22日)
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2006年08月22日(火)
1967.事業百訓・・・?
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