* レンタルチャイルド
 今回のタイ・バンコクの日本人男性が所有するマンションの部屋で、9人の乳幼児が保護された 件で、
タイ警察はDNA鑑定を行った結果、同一男性と発表したが、それが日本人のタネかは今だ不明。
 これで直ぐに思い出したのが『レンタルチャイルド』石井光太著である。 ーまずは、この本のレビューからー
《 2002年から数年かけて著者はインドの貧民街で取材する。人づてにマフィアにインタビューまで。
 目をつぶされた子供にも話しかける。不潔で臭くて底なし沼みたいな暗い話。浮浪者との会話の間に挟まれる街の
描写がえげつない。だいたい貧民街自体がゴミ溜か下水道みたいなものだし。黄ばんだ砂埃、どぶ川の異臭、ゴキブリと
鼠が路地を這い回り、散乱したゴミや死骸に蛆が蠢き、虫の群れが飛交い、体臭や口臭、血と垢と泥、小便の匂いが漂う。
文面からジメジメしたまとわりつくような匂いが感じられる。実際には鼻の粘膜が痛くなるほどの激臭だろう。
 インドの浮浪児は数万とも数十万いるとも言われている。中にはイモムシみたいに這いつくばって物乞いをしている
子供もいる。憐憫を誘う為にマフィアに手足を切断され無理矢理障害児にされたのだ。時にはレンタル品として
女乞食に貸し出される。浮浪児はそのマフィアを父と呼び、慕い、庇う。浮浪児は青年になると追い出される。
自らマフィアになり、子供を食い物にしようとする。女の子は売春させられ、子供を産み、その子供がまた
レンタルとして貸し出される。奪われる側から奪う側へ。どうしようもない不幸の連鎖。彼らは教育も受けて
おらず身体にも障害があるので職につけない。だから自分より弱者を見つけて奪うしかない。
 中には哀れみを誘うために自分で目を潰す青年もいる。稼いだ金でドラッグや売春婦を買う。
売春婦にも相手にされない時は強姦するか獣交する。騙しあい、犯しあい、弱い者は死んでいく。
生きていくために他に方法がないのだ。日本ではどんなに貧しくても努力で這い上がれるチャンスは多いし、
たいていは自分で人生を選択できる。しかしここにいる人達は運に流されるしかない。全く選択肢がなく貧困から
抜け出せない。しかも大量にいる。どうすればこんな貧困がなくなるのか、全然わからない。
結局誰にも救えない。絶望的で本当に救いのない話だった。》
 ▼ インドのベナレスの街では、色々の物乞いが観光客にまとわりつく。そこで見たのが、マフィアなどに
 より人工的につくられた子供たちの地獄絵のような姿。 今回の事件の背景には、決してハッピーでない
人身売買の実態が炙り出されるか、この事件、表向き自殺でウヤムヤになる可能性も十分にある。
そこには、非情な世界が垣間見れる。欧州系の刑事モノで、内臓売買の対象の人身売買もあった。
 まず、日本人男性のタネかどうかである。それ以前に、生きて出てくるかどうか? マフィアにより? 
世界の深い闇が、次々と表立ってくる。 今回の母体の腹貸し料金が100万円。 すごい世界である!
一部マスコミ以外は、深くは追求しないうち、次々出てくる大事件で忘れ去られることになる。
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4537, 閑話小題 ー種銭の話 ー2
2013年08月18日(日)
   * 33年前の新潟駅前シリーズの種銭は、ニ億
 私の創業の野心をみた父親が亡くなる前に、陰に陽に相続に不利にならないように条件づくりをしていてくれた。
末っ子という不利な立場でも何とか自分の相続分を確保できたのは、99%父のお陰。亡くなる数年前に、殆どの
事業資産を兄と、私と、姉と、母親の4分割の均等贈与をしていた。これが我家の御家騒動の元。強引に我田引水を
しようとした姉夫婦が自爆してしまったのは生前贈与のためである。こっそり父に「お前のためにしたことだ、
憶えておけ」と言われた。で、軋轢の結果、姉夫婦が『主だった従業員全て私についた、会社をそのまま引き渡すか、
渡さなければ、手持分の株式は悪質業者に売り渡す!』と迫ってきた。耳を疑ったが、母と兄は激怒、
『即刻、千葉の事業を引き払い、帰って来い』という。 大学を出て6年以上、極限状況の中で過ごしていたため、
「この程度の案件など朝飯前!」という思いがあった。
 そして建直しに5年近く注ぎ込んだ後に、34歳から新潟駅前のホテル事業を始めることになった。
結果として、当時の物件の時価評価と現金で、兄、私、姉夫婦、母が、ほぼ均等の持分になった。
 新潟駅前シリーズの当時の持金が1億、更地が時価1億、合計2億。 しかし最期はこれ、悪銭?身に付かずである。 
しかし、後悔は一切ない! 長岡の大手通シリーズも、新潟駅前シリーズも面白かった手応えが残っているためである。
ホテルは完成した段階で、立ち上げの面白さで気持ちの上で償却済み。決して詭弁ではない。それが言えるほど面白い。
 父の、「長い事業の中では、何が起きるか分からない。万一の備えは充分にすべし」という教えで、手掛けたビルは、
壁面側の鉄骨を太くして、内側の柱は無しか、最小が基本。売りに出したとき、買い手にとって潰しが効く
(スケルトンが可能)構造になるためだ。 そのため、どれも売りに出すと同時に即売。 それは事業設計も同じ。
 ・支払いは実質現金払い(20日閉めの月末払い)・親戚家族は事業経営に資本も含て一切入れない(資本は私名義)
 ・借入は地銀最大手と、都銀と政府系銀行で9割 ・妻子の連帯保証はなし。 ・家内の銀行口座は別。
 等々がセフィテーネットになり、何とか今まで通りの生活は出来ている。 年齢を重ねるたびに、事業と、
お金の恐ろしさを感じ入っている。上手く乗りこなしている内は良いが、一つ間違うと食い殺される獰猛な虎は、
長年かけ飼い慣らすしかない。「リーマンショック以来、既に世界は深刻な恐慌に入っている」この現実を認めるか
認めないかである。大恐慌前提で言動をしてきたので、読む人にとっては大きな違和感があるはず。
2億で30数億の投資をして、最後に残ったのが虎の革?いや、尻尾!
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4162, 節目時に何をしていたか ー2
2012年08月18日(土)
・30年前=36歳。新潟のホテルの立ち上げ二年目で営業は順調で、一息ついた時。二つ目のホテルの土地を
  近くに見つけ、買収交渉に入りつつあった。時代は右上がり。ホテルの1Fで学生ショップを兼業しており、
  ホテル名も学生服メーカーの名前をつけていた。月〜金曜日はビジネスホテルが満室で、土日は学生服の
  売上を稼ぎと当初の思惑が当たり、ピークの時。この頃、東北・上越新幹線が開通し、新しい波が東北と
  裏日本といわれた日本海側にも打ち寄せてきた。
・25年前=41歳。1987年といえば、プラザ合意から三年目。バブルで日本中が湧き上がっていた。
  ホテルも280室になり、利益体質が完成していた時期。この時、郊外型ホテルを考えていたが、結局は新潟駅前で
  500室を目指すことにした。これも、バブルの影響である。こうして振り返ると、戦後の日本経済と命運が全く
  同じだったことが見て取れる。
・20年前=46歳。それまでの無理もあって病気で打ちのめされた。日本経済もバブル崩壊で大不況に突入。
  それでも、バブルの予熱が日本を覆っていた。客室数は280室から500室に舵を切る決断をしてしまった。
  この時期、20の都銀が近い将来、次々に倒産や、吸収合併されていくとは、夢にだに思ってなかった。
・15年前=51歳。母親が亡くなった翌年。 人生を俯瞰して、「やり残したことを還暦まで圧縮して生きる。
  30年分を9年間に押し込む」と考え、決断。今から考えてみて、これは正解で。 
  バブル崩壊で金融機関の再編成、真っ只中。
・10年前=56歳。「人生の良いところ還暦まで!」と、年数回の秘・異郷旅行など無我夢中。
  個人のHPも立ち上げ、生活の中心をネットに移動して二年目。 意味・人生を謳歌していた時期。
  しかし、売上はジワジワと下降曲線に入っていた。
・5年前=61歳。リストラ効果も出始めて、新潟駅前再開発事業も進み、何とか目安がたちホッとしていた。
  二つのホテルが道路拡張工事で買収が近い将来あるまでと・・ まさか翌年、リーマンショックが起こるとは、
  夢にだに思ってなかった。
・そして現在である。 やはり、この10年も激動期。 二つの中越地区の大地震、そしてリーマンショック
  東北大震災で、近い領来には間違いなくリーマン・ショックによる大津波が襲ってくる。
  そうこう考え自分の人を振り返ってみると、日本経済の光と陰が、ほぼ重ねっていた。 
  経済大震災と東北大震災からして、やはり去年三月が引き時。
▼ 5〜10年スパンの節目で振返ってみて、目先の日常にとらわれ、長期的視野で決断できない姿が見えてくる。
  振り返るってみて、私の人生の折り返しの時節は34歳。独立の一歩を踏み出した時である。とにもかくにも
  無我夢中。そして、人生の後半に入った。 11年前の9・11テロの翌月から、売上減がジワジワと三年続き、
  その後に中越地震である。この時は震災復興関連景気で何とか持ったが、何とか目安がたってきた2008年9月の
  リーマン・ショック。この日を境に、毎年20%半ばの売上減が続き、三年目に入っても同じ下降曲線。
  10年前の売上減を加えると、売上が三分の一まで激減。そして、決断。「年内に、大津波の本体の一波が
  押し寄せる」という仮説を立て現実を見ると、末恐ろしいが・・
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3797, 知的余生の方法
2011年08月18日(木)
 4月から、これまでの30年の新潟の事業の終焉で、新しい生活に変わった。サンデー毎日(毎日が日曜日)
の生活も思いの他、抵抗なく馴染んでいる。 定時に家を出て、新幹線で新潟に行き、事務所で時間を過ごし、
帰ってくる生活を「外的時間」とすると、家を中心に気ままに過ごす時間を「内的時間」というのか?。 
早朝に、この随想日記を書き上げたり、独り自転車で信濃川の川辺をサイクリングをしたり、スポーツジムで
運動をする時間が私にとっての「内的時間」。社会に出てからは、ひたすら未来へ進むことに関心が向いていた。
それは世界の動向と変化を察知することであった。そこに気持ちが集中している時は、「外的時間」を過ごしている
時である。その中で、ふとした瞬間、過去の思い出や経験がフラッシュバックし、過去から呼び出される事がある。
良いことだけでなく悪いこともである。過去は自分を形作った日々であり、これからの人生のベースでもある。 
これからは、外的時間から内的時間の絶対量が逆転する。
  渡辺昇一著「知的余生の方法」に次のような一節がある。 ≪「内なる時間」を使う≫
【 カレルは、時間には2つあるという。1つは物理的な時間。例えば、地球の自転を24時間と決めたりするといった
 ようなことだ。もう1つは「内なる時間」。これを彼は、抜群の比喩で説明している。物理的時間は世界中同じだが、
彼はこの時間を川の流れに例えるとどうなるかと問う。そして、同じ速さで流れる川に沿って歩く人間を考える。 
朝早く起きて元気に満ちて川沿いを歩くと、川の流れが遅いのに気づく。ところが、どんどん歩いていって夕方に
なって疲れてくると、川の流れが速くなっていると感ずる、というのだ。川の流れは同じ速さなのに、人間が元気な
時は遅く見え、疲れてくると速く感じる。どうしてなのか。「内なる時間」のせいと、カレルは言う。
 若い頃の時間はゆっくり流れる。しかし、年を重ねるとだんだん速く流れるようになる。だから老化というのは、
実は、時間の流れを速く感じるようになることなのだ。年とともに時間の質が変わってくる、そして、シニアは
この質の変化に戸惑う。比喩でいえば、20歳の時は時速20キロで流れ、60歳の時は時速60キロ流れると
考えればよい。あまりの速さについて行けず、結局は無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない。】
▼ ここで、これまでの人生の価値観を大転換し、未来中心に向けていた目を、過去にも向け、過去を修正する
 作業が人生の仕上げになる。人生を逆照射し、前向きで時どき見ていた過去を、しっかりと後ろに向き直し、
見つめ直す時間も「内なる時間」ということ。これまで読んだ本や、読みかけの本に再チャレンジしたり、
やり残したことなど幾らでもある。それを坦々とこなすことも内なる時間といえる。そうこう考えると
「人生が自分に余白を埋めて欲しいことは何かを聞き出すこと」が必要である。私の場合、この随想日記がある。
 毎朝、これを書き上げた後に、字数制限のため、書いた分だけ過去分の一部をカットする作業がある。これは、
過去のエネルギーのカットのように思えて辛いが、しかし、その時にしっかりと読み返し、再考することになる。
これこそ私の内なる時間になる。
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3432, 再び、死について考えてみる ー1
2010年08月18日(水)
 数日前に近所の家内の友人が急逝した。 最近、「60歳過ぎれば今日明日亡くなっても不思議でない。
今年しか人生が残されていないと一日一生の思いで生きなければ。だからチャンスがあれば、何ごとも可能な
限りやらなくては。」と話したばかり。 哲学でも、死について多く考えられている。
 以下は、「現代哲学の冒険シリーズ」の中の【「死」 細川亮一「恐れと驚きー死と生の問いー」】
を参考にして書き上げた。
≪ そこで「死の人称性」は、死を語る上で分かりやすい説明になる。
・まず三人称の死は、「彼らが死んだという過去形」か、「彼は死ぬだろうという未来形」で語られる。
・一人称の死(私の死)は、過去でも現在ではない。将来自分は死ぬだろう、死ぬ運命にある未来形である。
・二人称の死は、「あなたが死んだ」と過去形ではいえない。「あなたは死ぬかもしれない」とはいいえるが、
あまり馴染まない。弔辞でいう「あなたは死んだ」というのは過ぎ去った過去のことでなく、葬儀の現在のこと。
したがって、あくまで現在の範疇。人の死の人称性の、一人称、二人称、三人称が、 過去・現在・未来の
時間性を有しているのである。≫
 ー以上だが、今回のような亡くなる前日に電話をしたが不在といわれた友人が、翌日、そ連れ添いから
「実は死に病で最近になり入院していたが、朝方亡くなった」と電話があり、家内がショックを受けた、という
死に話は、間接にしか知らない二人称の死であり、もっとも死について考えさせるケースである。
そこから逆に、死から生への逆照射をすると、【生きるとは何か】のヒントが、みえてくる。
【私は生まれた】と、逆に私の誕生を過去形でしかいい得ない。未来の死と、過去の誕生、
「現在、生きている私こそ、この世の存在」ということになる。だから、現在、四苦八苦としても、
それを生きる証として受け止めるのが自然。私の死と誕生の、死の時点は、私にとって特異点。 
この2つの特異点の間が「私が生きている」現在形として語ってよい。自分の過去も、現在、そして未来を
思い浮かべている現在も含め、全てが現在と言いうるのではないか。そこにベルクソンの時間論の意味が、
ある。時間など人間の主観?の捉え方でしかないと。 で、二人称の死から考えられるのが、
自分の死と生のイメージの絵の書き加え、修正作用となる。
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3057,逆説思考
 2009年08月18日(火)
 「逆説思考」というのがある。哲学は、常識をまずは疑ってかかる。
「逆ではないかい?」と、まずは逆説をたてることから始める。私が学生時代に学んだことは、これだった。 
まずは、否定してみる、そして、次に立ち戻って肯定してみる。その間に、第三の案が出るのを待つ。
それが考える第一歩となった。この繰り返しの中から自己の客観化すなわち「自己距離化」が生じる。 
もし自分が大きなミスをして追い詰められた時に「この大きな問題を解決する能力を神によって与えられた
試練である。問題の中心に向けて集中していると自ずから解決の糸口が現われる。」
と考える。これも逆説思考でプラスへの切り替え。 看取り学のキュープラ・ロスも人生は問題の連続と看破。
その解決のプロセスを学びと捉え、最終のレッスンが死であるとした。これもまた逆説思考である。オーストリア
心理学者のフランクルナチスの死の収容所の生死の淵で、数年後の自分の姿を思い浮かべ辛さを乗り越えた。
「その時に私は、あるトリックにすがりました。1945年のそんな中で想像してみたのです。 私は、講演用の
見台の前に立って、講演をしているんだ。たとえば、『一心理学者の強制収容所体験』というような題で講演して、
大きく、綺麗で、明るい照明の、なによりも暖房の効いたホールで」というように。これも逆説思考である。
金沢で落ち込んでいた時に、夜半に同じような気持ちの切替えの経験があった。いや、ずっとこの連続が人生のよう。
『自分は事業を立ち上げる修行にきている。最悪の状態こそ最良なのに何が苦しいというのか。 この現実を
受け入れること、そして経験を味わうことだ』と。そう考えてから、気持ちが楽になって冷笑していた自分と環境が
違う視点で見ることができた。 人生、還暦を過ぎた今こそ、逆説思考が必要なのだろう。生老病死が現実として
目の前に突きつけられる。今さらジタバタしても遅いが、生老病死のレッスンを面白いと思えるかどうかだが・・・
山田風太郎の世界? 果たして人生の完成などあるのだろうか?あるわけない、迷ったままで充分!これ逆転思考。
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2692、「誠実であるということ」とは、どういうことか?
 2008年08月18日(月)
私の好きな哲学者の中島義道が『哲学者というならず者がいる』の中のカント哲学「実践理性批判」で、
誠実性について次のように述べている。「誠実性が実現されてない限り、いかに外形的な善が実現されても
厳密な意味で『善』は実現されていない。」 誠実性とは何か?とは「善い行為」を実現するさいに、
僅かでも自己利益が混入してはならないということ。(取引を求めない、という仮言命法、ということか)
 中島はカントが実際言ってないとしても、言いそうなこととして次の4つをあげている。
・自分をわずかでも実際より善く見せようとしないこと。
・自分が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。
・他人が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。
・いかに優位に立っていようと、たとえそれがいかに理由のあるものであろうと、
 いささかも放漫であってはならない。-誠実な人は決して放漫ではない。いささかも誠実を誇ることはない、
ということである。以上のことを実際に実行すると社会は成立しないだろうから、ある程度は不誠実でなければ
生きていけない。 そういえば以前に、誠実であるとは如何いうことか? 考えたことがある。
「誠心誠意、無心に対象にエネルギーを注ぎ込むこと」が、結論であった。
それと、「自分を騙さない。それが人を騙さないことになる。」「約束を守る」ことである。
「あの人は誠実な人」というと、それからどんなイメージが連想されるだろうか?
・自分の言った言葉に対して責任を持てる人。
・自分を信じてくれる人である。
・「良心」を大切にして、人を利用しない人である。(心の綺麗な人) 
 誠実そうな人はいても、誠実な人は、ナカナカいないものだ。「論語の会」にでも入って、
鼻声で斉唱しようか? 私の姉の名前は、正子、恭子、優子、そして礼子。正しく、恭しく、やさしく、礼儀か〜 
誠実そのもなじゃないかい! 父親の名前は誠作だから、潜在意識が、そうさせたのか?それとも、親しくして
もらっていた野本互尊翁から命名して貰ったか?
・・・・・・・・・
2007年08月18日(土)
 2328, 近視矯正手術       'Good☆Morning 。っω-)..。
私の周辺で最近「近視矯正手術」をする人が目だってきた。先日の葬式時に、同級生が眼鏡を外していたので
「コンタクト?」と聞いてみた。しかし彼の答えは「白内障の手術時に眼球の中に近視レンズを入れた」であった。
さらに彼の三人の娘も手術をしたという。(三人のうち二人が片眼だけの手術)本人の話だと「とにかく楽になった、
眼の重さがかなり軽減した。それで娘も決意した」という。ところで私も、この春に手術をしようと決意をしたところ、
ある知人が「15年前に白内障の手術と一緒にレンズを入れた経験からみて、やらない方がよい。それでもどうしても
したいなら、片眼をやってから様子をみたほうがよい。白内障など已むを得ない場合を除いたら、やるべきでない!」
と強く諭された。その瞬間、あれだけ強い決意も、一年間時間を置いてから判断することにした。
「出来ることなら眼球にメスを入れるのは避けるべき」というのも道理であるし、15年の経験の言葉は貴重である。
それにしても、ここにきて急激に手術をする人が増えているようだ。眼球にメスをいれる矯正も、
日が経ってないのに大丈夫なのだろうか?今から十年前にアメリカで近視矯正手術が爆発的に普及した時は、
毎年2〜3倍の確率で伸びたとインターネットに出あった。今の日本と同じだったのだろう。近視矯正手術には
レンズを眼球に入れるケースと、角膜を削るケースがあるようだが。眼は最も重要な器官、慎重に慎重を重ねないと!
でも、あれだけ楽になった爽やかな顔をみるにつけ、少し迷いが出てきた。     ヾ(・д・。)バイバイ
・・・・・・・
2006年08月18日(金) 
1963.事業百訓・・・?
事業百訓ー1981年・1982年ー (1)
 S5606創刊に際し!    堀井八郎
     (字数制限のためカット 2012年8月18日)