* ポタリングは、危険! だから面白いのだが
 電動アシスト自転車を乗り始めて5年、一万数千キロは走ったことになる。急なドシャ降利の中、赤信号に
なる前に強引にかけ抜けた直後、スリップをし転倒、自転車共々、数メートルも投げ出された。心臓が固まり、
息が止まりそうになったが、何とか骨折も無く、立ち上がることが出来た。それ以来、雨と、スピードには
充分に注意をするようになった。乗り続ければ、大事故の可能性が自転車にはある。近くに住む従兄は、
ポタリングを数年間続けたが、電信柱に衝突して、その危険なことを察知して、一切、乗らなくなった。
特に交差点での左折車の出会いがしらの接触事故には注意をし、数回は右後ろを振り返っている。
 半月ほど前に、ある交差点で右後ろを二度振り返ったとき、50歳絡みの農家風の夫婦が話に夢中になって
いるのが見えたので、車道に入る直前に念のため、一度、急ブレーキをかけたところ、旦那らしき運転手が、
左を見ないまま、左折をした。 その瞬間、私に気づいて慌てて急ブレーキ、臨席の奥さんらしき人は
フロントに激しく突っ込んでいた。 常日頃から十二分に注意してなかったら大事故! 恐ろしい限りである。
毎日の1〜2回のポタリングでは、危険を最小にするため、車の少ない土手とバイパスの沿道が95%の
コースにしている。 それでも長年の間には人身事故の可能性は大。土手とバイパス沿道は、加害者のになる
可能性がある! それにしても、乗っている開放感は格別である。
   * 晩酌に、毎晩、5本以上の缶ビールでは
 私の中学校の同級生が急逝をして2ヶ月が経つが、ショックが今でも大きく残っている。
故人は7〜8年前に転んで腰骨を骨折したが、何とか半身不随にならずに、少しだが足をひいて歩いていた。
去年の同級会の三次会に二人でスナックで飲んだ時に、『晩酌が楽しみで一日、缶ビールを5本以上は
飲んでいる』という話を聞いて、驚いた。その上、運動不足なら! 発見された時には、末期の膵臓ガンで、
苦しみ抜いた末に亡くなったという。 ツアーの旅先や周囲で、缶ビール5本以上を毎晩、晩酌をする話を、
何人からも聞いていたが・・ 私は缶ビール一本に、ノンアルコール一本を目指しているが、どうしても、
ウィスキーのオンザロックか、焼酎のお湯割りが加わる。これでも、何か危ない領域の感がする。

・・・・・・
4536, 閑話小題 ー種銭の話
2013年08月17日(土)
   * 山種証券の創業者の種銭
 自分が汗水たらし働いた金を種銭にしてこそ強い資金になる。 山種証券の創始者山崎種三の逸話がある。
《 米屋の小僧をしていて思いつく、米屋だからネズミが多くいる。それを保健所に持っていくと、一匹あたり
僅かな報奨金が貰えることを知り、ネズミを捕まえてコツコツと小銭を貯めて、親方の許可を得てヒヨコを飼って
雑米を与え育て、卵を産ませて、それを売って投資資金の種銭をつくり投資を始めた。》 
 これからし株式投資も、その延長で手堅かったのだろう。そういえば、父が子供達に似たような実践的な
金銭哲学の教育をしていた。幼児の頃から、年末にお年玉を子供達全員が貰う。それが楽しみで嬉しいが、
正月が明けると、父が他からも貰った、お年玉袋を全て回収、それぞれの預金通帳に入金する。
そして、それぞれを金庫の中に保管しておく。年に一回だが、その通帳の残高を見せてもらう。
それが十数年すると、それなりの金額になる。子供の頃から自分の通帳を持たせることと、使わないで預金する
生活習慣を持たせることが父の狙いであった。目先の欲望を抑えて種銭をコツコツ積み上げる重要さを時間を
かけ教えていた。家風は一見派手だが、生活は質実剛健。 地方都市の商家なら、何処も似たようなもの。
そして高校の入学時に、10数万円の預金の通帳を渡されて、売買の手続きをするから何か値上がりしそうな
株を選べという。それから、毎日、日経新聞の経済欄を真剣に見るようになってしまった。
数ヶ月かけて、ある医薬品メーカーを見つけた。当時、鼻風邪から慢性鼻炎になっていたが、特効薬が売り出す
ニュースを見ため。それを5年ほど持ったが、期待ほどの値上がりはなかったが、それでも数割の値上になった。
 ところが、その種銭が人生を変えることになった。 二十歳の時、軽井沢のアルバイト先の山荘で、学生仲間
4人と話していた時のこと。 その中で外国に行く予定が無いのが私だけ。 他の三人は、さほど豊かそうで
無かったが、それでも行けるのである。要は意志であることを、その時に知った。当時は、まだ年間20万人
しか渡航してない時代。 私も決心をすれば行ける? との思いが出てきた。その時、考えたのが、自分の種銭。 
 丁度、その頃、ある友人に『大学の、あるサークルの海外旅行研究会があって、一ヶ月の欧州旅行の企画で
参加者を募集しているが、一緒に行かないか』と誘われていた。しかし、当時の私にとって、まさか自分がと、
取り合わなかった。当時で40万、現在なら300万〜350万。 その晩の軽井沢で『そうだ、私には20万円があった!
あと25〜30万、都合をつければ私でも行ける!」と、思い立った。アルバイト期間が終わって向かったのは、
東京の寮ではなく、実家のある長岡である。そこで列車の中で「頭の固い父に、そのまま頼めば断られる、
なら母親に相談すれば良い」と。で、母に相談すると『私が反対すると必ず逆を言うから、夕飯時に、その話を
切り出しなさい』と、賛同を得て、作戦を実行した。父親は知ってか知らずか、この共同作戦に乗ってしまった。
数日後に気づいたようだが、後悔した様子はなかった。 その欧州旅行が、私の人生を変えてしまった。
あの一ヶ月間の経験のカルチャーショックで半年間は、ただ呆然自失状態。頭が変になる一歩手前。
当時は現在ほど、情報も手軽に得ることが出来ない。それも決心して僅か一ヶ月で、予備知識はゼロ。
それがわたしには良かった。見るもの触れるもの全てが新鮮で、驚きの連続。エッフェル塔や、凱旋門
ローマのコロセウム、スイスアルプス・・ その中で、遊び慣れた今まで知らなかった人種との接触。 
何よりも小さな固定観念が粉々になったことが、タイミングとしてベストだった。 まとまった種銭は、
まずお金を資金に変えるという意味で、それ自身が準備になってしまう。問題は用途のTPOSである。
「夢を持つことと、長年の準備こそが、人生を決める」と、両親と、学生時代の様々な経験から骨の髄から
学んだことである。今回の最悪の事態でも、長年かけた万一に備えていたシェルターが、我身を救ってくれた。
・・・・・・
4161, 節目時に何をしていたか ー1
2012年08月17日(金)
 ここで人生を5年スパンに区切り、振り返ってみる。ミニ自分史である。自分の姿が浮き上がってくるようで、
面白い。何度も書くが両親と時代に恵まれていたことが見て取れる。歴史的にみて、終戦後40年間ほど豊か
だった時期はないという。 その中で、その豊かさを充分味わった実感は、何ものにも代え難い財産である。   
  ー まずは前半から ー
・60年前=6歳、長岡市立阪之上小学校一年生だった。担任は女性の茨城先生。20歳後半のヒステリックの
  先生で、優しい反面、厳しい先生だった。当時の住まいは長岡一番の繁華街の4階建てのビルの3Fに
  住んでいた。家は、そこで衣料店を経営していて、まさに小説のような異様な家庭環境にあった。
  成績は普通で、とにかく毎日が面白く刺激的だった。
・55年前=11歳、阪之上小学校6年。勉強に少し目覚め、虐めの要素もあったが級長にされていた。
  街中もあり、生徒の質は決して悪くはなかったが、異様な緊張した雰囲気が漂っていた。
  この辺で、その人の素質が決まってしまうという。
・50年前=長岡高校二年生で、試験試験の日々。何時もギリギリの成績だったが追試は受けたことがなかった。
  勉強をすれど、どうしたら成績が上るかの術が分からない辛く暗い日々。受験校のため成績で人間が区分される。
・45年前=21歳、立教大學三年。欧州の30日間旅行で、それまでの自分が粉々に壊れてしまった時期。人生で
  一番、光っていた。見るもの触るもの全てが新鮮で、明るく光ってみえていた。時代は1967年、山頂に近づいていた。
・40年前=金沢の‘いとはん’(衣料スーパーのチェーン)を辞めて実家に帰ってきて、千葉の千城台ビルの
  計画に入っていた。父は末期ガンで東京女子医大で手術後、退院した父親と、計画を進めていた。
  父は、医者の宣言通りに手術の一年後に亡くなった。死期が分かっている父と事業経験の伝達を一年がかりで
  始めて二ヶ月目に入っていた。将来に向けた明るさと、死に直面した父親の苦悩の狭間で、真近で人生と
  事業の原点を学んでいた。翌年、石油ショックが起き、最悪の出だしになった。
・35年前=長岡の大手通の四角にある実家の衣料量販店の店長で、4歳の頃のできた古ビルの建て替え工事の
  計画に没頭していた。引き継いだ店も順調に推移、商売が面白く、身体が浮いているように動いていた。
  一種の躁状態で、怖いものなし、目は血走り、何かに取り付かれているようだった。衣料は一シーズンごとに
  完結する博打的要素が強い。そのコツを掴むと、これが面白い。
 30年前からは次回にするが、振り返ると刺激的で、恵まれていた背景があった。
・・・・・・・
3796, 「役に立つ」とは?
2011年08月17日(水)
 * 「役に立つ、立たない」を判断基準にしてないか?
 私たちは、何時の間にか、役に立つか、役に立たないか、で物事を判断してしまう。その是非は色いろあるが・・
しかし経験則で、我われは役に立つ立たないは結果でしかないことに気づいている。教養は、その最たるもの。
教養を役立てるために身につける人はいない。これは目的でも手段でもなく、人間性の素養として積み上げること、
そのことに意味(価値)がある。哲学などは、目先、役に立たない。しかし自分の頭で考え、判断し、その結果を
積み上げていくのが人生である。 それを放棄し、目先の利益になるかどうかで判断したり、直ぐに手軽な身近な
人の意見に従って判断、決断をしてしまい、重大なミスをする。その辺のところを、今回の変動の中で、
しっかりと見せてもらった。(実は、その最たるものが自分?)
 〜 哲学者?の池田昌子は、著書の中で、鋭く指摘している。(「メタフィジカル・パンチ」ー学者さんー)〜
【「学者」というと、役にたたないことをする人という自嘲気味な言葉が風潮になっている。「学問をするところ」
であったはずの大学という場所が、レジャーランドか、就職予備校に変わった世の流れに呼応しているのだろう。
「学問」すなわち「役に立たないこと」、「学者」すなわち「役に立たないことをする人」、そういう等式が、
人々の頭の中に、しっかりとできあがっているようにみえる。 ・・・(中略)
 ところでこの「役に立つ」ということの意味なのだが、科学理論に対する科学技術の関係に明らかなように、
生活と生存に直接に関係するもののことを人は「役に立つ」と言う。相対性理論は役に立たないが宇宙開発は役に立つ。
解剖学は役に立たないが、医療技術は役に立つ。とはいえ、それぞれ前者あっての後者なのだから、この御時世、
総じて理科は文科よりは旗色がいい。文科、この無用の長物、経済学者が金持でないことが学者が無用であることの
最たる証拠だと、妙な理屈を言った友人がいるが、それなら中世の英文法に基づくシェークスピア解釈を一生の
仕事にしている学者はどうなる。 古代バビロニアの懊形文字の読解に全生涯を賭けている学者の立場はどうなるのだ。
 ましてや哲学、哲学科。外国語に事寄せることもできない、この学科を選ぶことは就職を捨てることだ、
と私の頃でも聞いていた。が、そういったことがどういったこととかを考えることこそ先決であるはずだ、という
理屈は、私にとってあまりに自明なことだったので、考えるために哲学科を選ぶことに迷いを覚えるはずもなかった。
まあこのあたりが、どうも普通の人の感覚からずれてきてしまうその核心部ではあるのだけれど。
その生活と生存に直接に関係するという意味で、「最も役に立たない」と思われている哲学という学問を、
学問の府から追放せよという動きが文部省内にあると最近聞いた。こんな時代、実学以外に余計な金は出せないと。
そういえば、「総合人間学部」とか、よくわけのわからない学部の一分科として哲学科があるのを目にしてはいた。
あれは、そういうことだったのか。】
▼この随想日記の長期講読の皆様も、今回の倒産劇で「偉そうに言っているが、何だい、この様は」と思ったに違いない。
 私自身が「偉そうに書いてきたが、所詮は、こんなもの。自分の脳内を、そのまま公開した結果である。止めるなら
今回がチャンス。」と少し、動揺をした。が、しかし、「目的は、自分の『弧』の中の内側をネット上で世界を
公開することで、ネット世界を身近にすること、そして、現象世界を、冷静に見つめる直すことが出来ることである。
役に立つ立たないは現象社会の波間の判断でしかないのは、今さら。」と、気持ちを持ち直し続けている。
ある意味、断層で自分の支えでもある。役に立つ以前の問題。振り返ると、役に立たないと思っていたことが
逆に役立った方が多いのに気づかされる。目標地点が明確でないから、それが分からないのである。
所詮、死んでしまえば同じだが。
 ・・・・・・・
3431, 我が家に新しいテレビが ー2
2010年08月17日(火)
 * 新しいTVについて ーとにかく画面が抜群に綺麗ー
(以下、字数の関係でカット2012年08月17日)
Yahooのバードウォッチのコピーしておきます。
 ・・・・・・・・
3056,人生は旅である
 2009年08月17日(月)
 『人生は旅である』の喩えは昔から多く言われてきたことで今さらだが、
 沢木耕太郎著『旅する力』に含蓄の言葉があったので、その幾つかを紹介してみる。
・「旅する力」それは広く云えば「偶然に対して柔らかく対応できる力」
・「人生を過ごしていく人を旅人に喩えると、人生の目標は旅の目的地になる」
・人生で起こるトラブルは旅で起こる困難性。 その解決プロセスが人生も旅を豊かにする。
・人生の大きな区切りは、旅の日程や、立ち寄った街であり、泊まったところになる。その街での偶然と奇遇などの
 出会いがあり、それにより次の展開が違ってくる。そこは人生の交差点であり、人と人との交差が人生も旅を作る。
・お金と知識は、人生でも旅でも大きな要素。 それは歩く旅ならバックの中の食料に喩えられる。
・旅に無性に出たくなる動機は、「感動」と「非日常」を求めること。人生でも、それが大きな要素になる。
・年齢を重ねると新しい出会いが面倒になるが、自分で乗り越えなければならない。
▼ 旅の方から人生を照射してみると、人は常に新しい出来事を求めて何事にもチャレンジする必要性が分かってくる。
そこで出会う感動と、未知との遭遇こそが人生を豊かにしてくれる。人類が数千年かけて創りあげてきた文化も文明も
我われは殆ど知らないが、旅の多くの経験を通して様々な邂逅が可能になる。地球に知的生物として生まれてきた
からには、大自然も、文明も、文化も可能な限り見聞し、感動することで世界を広めた分が自分の世界になる。
旅に出る前の、あのワクワクした高まりが青春であり、晩年に差し掛かった時の満足が人生の充実感である。
そうこう考えると、まだまだ人生の旅路から多くのことを経験し続けるべきと、書きながら内省をしている。
まだ与えられた人生の有り難みが足りないような気がする。旅路の果て。パタゴニアの果ての街で夕日を見ながら
老齢の残り日とはこんなものか、アレが人生の全てを照らしたイメージか、と思ったが。そう新幹線からみえる
弥彦山の日没にも。あと12年で後期高齢者。一つの目安と考えると、一クルーをこなすに時間は充分にある。
さて何をするか、何をしないかを真剣に考えないと。  
 ・・・・・・・・・
2691, 強者同士相互扶助婚姻 
2008年08月17日(日)
  希望格差社会 −2    ー読書日記ー
構造改革」とか「市場淘汰」という社会では、基礎的な能力が高く、かつプライヴェートな相互扶助組織を
自己創造していく。「人脈、学閥、閨閥など」に支援されていて、かつ「戦略的に考えることのできる人間」は
巧みにリスクヘッジすることができる。彼らはリスクヘッジをさらに確実化するために、「強者同士の相互扶助組織」
を強化する方向に向かう。その端的な表れが、「強者同士の婚姻」である。 これまでの家族社会学の常識では
「夫が高収入の場合は妻が専業主婦となり、夫が低収入の場合は妻が就労して家計を補完する」。
この常識はもう覆えされつつある。 話は逆になっているのである。「夫が高収入の場合ほど、妻の就労率が高く、
夫が低収入であるほど、妻の就労率が低い」という傾向が顕著になってきている。高度専門職についている「強者」
の男女が婚姻し、さらに豪奢な生活を享受する一方で、不安定就労者同士が結婚した生活能力のないカップルに
できちゃった婚」で子どもが生まれて一層困窮化する。不安定就労者の若年男性は、事実上、自分と同程度に
社会的弱者である不安定就労者の女性の中からしか配偶者を選べない。(高度専門職に就いている女性強者が
男性弱者を配偶者に選ぶ可能性はほとんどない)。だが、弱者同士の結婚は、「共倒れ」のリスクをむしろ増大
させるだけ。不安定就労の若年女性が、男性強者の配偶者に選ばれる(「玉の輿」)確率はそれよりはずっと高い。
しかし、リスク社会では、かりに女性が不安定就労者であっても、男性強者は配偶者に相当の学歴や教養や
人脈などの文化資本を要求する。言い換えれば、男性強者の専業主婦たりうる条件は「文化資本を備えた
強者の家庭のご令嬢」であるというかたちで、予め限定されている。未婚率の急上昇、少子化の進行の背景には、
この勢いづく「強者連合」によって蹴散らされた「結婚したくてもできない弱者」の急増という事実がある。
リスク社会は「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というフィードバックを繰り返し短期的に
二極に分化。その結果はどうなるのか。強者はより強く、弱者は一度落ちたら二度と這い上がれない。
「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。 全ての人が希望通りの職に
就けることはあり得ない。 (以下、字数の関係でカット2011年08月17日)
・・・・・・・・・・
2007年08月17日(金)
2327, ベナレス −2                 。っω-)..。oо○(゚+。ぉレ£∋ぅ゚+。)
 インドは強烈な印象の国であった。帰路の飛行場に着いたとき、本当のところホッとした。聞きしに勝るインド
という国の文化に、良きにつけ、悪きにつけショックであった。ヒンズー教カースト制度、貧しさと豊かさ、
タージ・マハールなどの霊廟や城、ガンジス川とベナレス、そして古代から現代までが入り混じった社会。
日本の日常とは全てちがっていた。その中でもべナレスの街とガンジス川の沐浴と、舟からみた二ヶ所の火葬場。
そしてガンジス川からみた日の出。ガンジスの火葬場周辺にいる修行僧の顔と眼。
そして我が物顔で歩いている牛。そしてライ病の集団の物乞い。幼女の乞食。この本ではベナレスの「死を待つ館」
の家族がありのままを映しだしている。生も死、貧しさも豊かさ、差別も、その全てがリアルに露出されている。
それが日本とは対照的なのである。人生の折り返し地点を越えベナレスに引っ越してきた老夫婦や、老齢に
なったことで自らべナレスの僧院などにやってきた人びとなど、死期を間近に感じる前に移り住む人もいる。
この街は「死を受け入れる街」として永年をかけて奥行きを広げ、深さを増している。
インド各地から運ばれてくる死体は多い時で100体。また家族や、死者の灰をガンジスに流すために訪れる人も
毎日数千人もいる。なかには郵便で灰が送られてくるケースさえあるという。ここは死者の為の街であり、
その準備の為の街。ここの「死を待つ館」の人に、「死ぬのは恐くないですか」と聞いても、「どうして
怖いことがあるのか。ここは寺院もあり、ガンジス川もある。この街が私を呼んだのだ」と答えて、
平然としている。彼らにとって、ここでの死は誇らしいものであり、ここに連れてこられること、
その家族にとっては、連れてくることが喜びなのである。  死が喜びとは!素晴らしいではないか!     
・・・・・・・
2006年08月17日(木)
1962, 「事業百訓」を読み直してみて
  おはよ〜!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・ ねむ!
  二十五年前から書いてきた社内報の事業百訓を、明日から十数回のシリーズで振り返ってみる。
  (字数制限のためカット 2010年8月17日)
・・・・・・・
2005年08月17日(水)
 1597, ひらがな思考術 −2
ーまずは第一章のほどくの内容の概略をまとめてみた。この本は、読めば読むほど深い。
 (以下、字数の関係でカット、2009年8月17日)
・・・・・・・・・
2004年08月17日(火)
 1232, 「こころ」の出家 -読書日記
この年齢になると周囲が、定年、病、倒産、子供の自立、連れ添いの死、老父母の死、等、
何らかの大きな転換期に直面してくる。
 (以下、字数の関係でカット、2008年8月17日)
・・・・・・・・・・ 
2003年08月17日(日)
 865, 同級会−2
 昨夜は中学の同級会いや同期会があった。 小学校は一学年の同期が100人足らずのため、
5年に一度の同期会になっている。 (以下、字数の関係でカット2008年08月17日)
・・・・・・・・・
2002年08月17日(土)
 490, 随想テーマ日記の効用
毎日一テーマで、その日思いついたことを書き続けて一年数ヶ月が過ぎた。
何か毎日が、そのために追い立てられている感がする。 
・・・・・・・・・
2001年08月17日(金)
 [111] 数ヶ月ぶりの古町