* ホテルと学生ショップのオープン
 ホテル一角の学生ショップは、メーカー社長と新潟市内の販売権の移動も話がついていた。
更にペガサスの立地セミナーで確実に値上するはずのバイパスと生活道路のクロスしたポイント
箇所を把握、長岡郊外の二つの更地を購入していた。それが数年で倍近くに値上がりをしていた
(税制の関係で5年後売却)。 千葉・千城台ビルの売却資金が、次期計画の基礎資金を予定。 
後で気づいたが、この二ヶ所こそが、郊外型ビジネスホテルの立地。それを薄々気づきながら
売却したのが、私の限界。当時、郊外型ホテルに取り組んでいたら、数十棟のホテルチェーン
展開が可能だった。しかし、リーマンショックで、これも間違いなく壊滅の道を歩んでいたから同じ! 
現に郊外型ホテルのルートインとαー1が、現在、苦境に陥っている。
 振り返ると、節目の時々こそ、アップスケール(脱皮)の機会があった。予定挫折で節目を自ら作り、
転進した時にチャンスが生まれていた。 そこで、孤独、孤立に自らを置いた第一歩からから、
創業が始まる!決断をして、大風呂敷を広げ、行動を起こしてしまえば、もう後には引けない。
しかし今度こそ、白紙である。目先の問題は、経営計画書の作成と、ホテルの設計と、千葉・千城台
ビルの売却。それと、有り余った手持時間を使った「宅建資格試験」のセミナー通い、から出発。
 フロントやベッドメイクなどホテル業務など何も知らないため、ただ呆然自失。そこで考えたのが、
ホテルの一括の運営委託。その場に立てばこそ、知りえたこと。最終的には、ビル管理と、
ベッドメイクだけにして見積もりを4社に取ったところ、開けてビックリ玉手箱! 47万、140万、
240万、320万である。詳細を見ても同じである。何で、これだけの差が? 最終的に、
これにフロントの夜間委託を加えた。 とんでもない世界に自分が飛び込んでしまったことを
改めて実感した一現象である。
 そして片腕の人材だが、これが、帯に短し、襷に長しで、見つからない。 
最後の最後に、リクルート本社の中途採用部門を通して、マネジャーを採用することになった。
 その他の学生服ショップとフロント要員は、中途採用と新卒を6人を採用した。 
オープン前に、何日か研修したが、寄せ集めのため、バラバラで手ごわい相手。その上に
学生ショップのオープンでは、学生服メーカーの思うまま、なすがまま。 相手は、既成の組織がある上、
内装費の一千万円近くを出させてのだから、耐えるしかない。 次は、付属のレストランである。
そこで、コーヒー卸「Sコーヒー」の営業担当に相談すると『任せてください!そんな難しくはないですよ。
一人、面白い男を紹介するから、任せれば良いですよ!』で、開業直前に本人が乗込んできて無事にオープン。 
そこで飲食業界の一種独特の世界を知る! ホテルなど、よくぞやったもの! 全てが綱渡りで、赤裸々の
自分が露出するが、それこそが己を導いてくれる。 咽喉過ぎれば熱さ忘れるから人は生きていける!
・・・・・・・
4497, 怒らないって本当は恐い! ー12
2013年07月09日(火)                      
   * 怒らない作法        『怒りの作法』小川仁志
 矛盾しているようだが、ここで「怒らないという方法」について言及している。
≪ 怒らなくても問題が解決する時に、あえて怒る必要がない。その場合、静観する勇気も必要で、淡々と処理をする。 
相手が怒っている場合、特に注意すべき。ネガティブの人、卑小な人を相手にすると、同じレベルまで落ちる危険がある。
 ニーチェは、他人の成功を妬んだり、自身の弱さを他人への復讐心に変えていくような人間を「ハエ」と表現、そこで
「そんなハエを叩いて人生を過ごしてはいけない」と警鐘をならす。もう一つ、人間が一人考え行動できることに限界がある。
そういう限界に謙虚になるのも必要なこと。怒って解決できる物事ばかりでない、気が熟するの待つことも必要である。
その間に、知恵を増やすか、仲間を増やし、力を増やしてから、改めて怒れば良い。その意味で、信長型ではいけません。
待つという意味では秀吉型でも足りない、家康型でなければいけません。・・・≫
 ▼ 一連の事業撤退のプロセスで、地方経済の惨状認識の実感と周囲の段差に驚き、怒りさえ感じた。
  商売柄、津波の到来が早い立ち位置にあっただけだが。 ニーチェは、「ハエ」と表現したが、私は「シラミ」である。
 そういう私もシラミだが、ただシラミを自覚している。いや自覚できないのがシラミだから? 私は?・・ 
 だから、そろそろ気持ちに余裕が出来て、改めて見渡すと、危険度が増しているのが分かる。民主党も酷いが、自民党も酷い。
 あの戦犯の二人が首相と副首相になり、更に悪い間違いをしようとしている。その付けを支払うのは国民である。
 その自民党に国民が多く支持いているのだから。 確かに政治的にみて憲法改革は必要。 甘い餌で釣ることもありだが。
 怒るには覚悟がいるが、怒らないことにも覚悟がいる。 その場をともかく遣り過し、タイムラグを置く。
 そのため「シラミ」と頭の中で繰り返す。これが一番、効果があるが、「三ヶ月に一度は、嫌なことはあるもの」と覚悟。
 まあ、面白いもので慣れ。シラミ、ハエは事実は事実であると確信すると割り切れる。「娑婆娑婆」である。
 その意味で、この経験は私の人生の物語にとって必然だったことになる。 受け止め方の問題でしかないが・・・
・・・・・・
4123, 予言の書「日本の自殺」 ー11
2012年07月09日(月)
   * 戦後民主主義の弊害
  アメリカに与えられた擬似民主主義を、現在でも大事に守っている府ぬけた日本も、ここまでくると呆れ果ててしまう。
 まずは憲法改正と、原爆所持は最低条件である。そして海洋国家として空母を7〜8艘の配備をすべきである。決して極右的発想でない。
 中国と北朝鮮が隣接して隙を伺っている現実が、その必要性を求めている。この国民では無理だろうが・・・
  ー 次の箇所が正しく疑似民主主義の徴候を書き出している。所詮は、アメリカに充てがわれた民主主義国家。
【 平等主義のイデオロギーに限らず、「戦後民主主義」という名の疑似民主主義のイデオロギーは、すべて現代1975年時の日本の
 「自殺のイデオロギー」として機能している。それをわれわれが疑似民主主義と呼ぶ理由は、それが民主主義本来のあり方とは似て非なる
 ものだからである。それは混沌とした意識にとっては確かに民主主義と大変類似したものに見えるかも知れないが、決定的に重要な
 いくつかの本質点において、本来の民主主義とは明確に異質のものだからである。
 〜疑似民主主義は次のような幾つかの特徴を持っている。病理診断の言葉を使うならば、これを疑似民主主義の徴候群と呼んでもよい。
* 疑似民主主義の第一徴候群は、その非科学的性格である。疑似民主主義は、イデオロギー上の独断的命題の無批判的受容から出発する。 
  そのドグマに従って行動するなら、必ずや全人類の解放が実現され、一切の社会問題が完全な解決をみるであろうと、そのイデオロギー
  は主張する。その命題は唯一、絶対的なものであり、完全で、誤りなきものである。問題の鍵は、どれだけ多くの大衆が、どれだけ強く、
  また熱烈にこの福音を信ずるかにかかっている。 「信ぜよ。さらば救われん」なのである。
* 疑似民主主義の第二徴候群は、その画一的、一元的、全体主義的性向である。多数決原理の誤った認識の仕方に端的に示されている。 
  疑似民主主義は本来、多元主義のための一時的、かつ極めて限定された調整のための手段、便法として工夫された多数決を、一元主義、
  画一主義、全体主義のための武器に巧妙に転用するのである。 多様なものの見方の存在を否認する方向で作用することになる。
* 疑似民主主義の第三徴候群とは、権利の一面的強調の仕方にある。 疑似民主主義にとっては、義務も責任もどうでもよいことである。
  できるだけ権利、権利と主張し、取れるだけのものは取り、しかも義務と責任はできる限り拒絶する。
* 疑似民主主義の第四徴候群とは、批判と反対のみで、建設的な提案能力に著しく欠けるということである。
  個人や社会のアラ捜しをすることは、易しいが、問題解決の提案は骨の折れることであり、責任も生じる。
* 疑似民主主義の第五徴候群とは、エリート否定、大衆迎合的な性格である。真の民主主義はエリートやリーダーシップを否定する
  ものでないばかりか、それに重い責任を課するものである。専門家を否定し、リーダーシップを否定するなら、その結果として、
  どうしようもない衆愚政治の泥沼に落ち込んでいくほかない。
* 疑似民主主義の第六徴候群とは、コスト的観点の欠如である。 疑似民主主義は、その権利主張の一面的性格、提案能力の欠如、
  大衆迎合主義などから、大衆の気に入りそうなことを並べたてるだけで、その制約条件を覆いかくそうとする。
  こうした偽善的なポーズで、大衆の人気取りをしている限り、国家は破産し、社会は滅亡するしかないのである。 】
▼ 以上の懸念のとおり、これらの症候に冒された隠れ社会主義政党が与党になった結果、収入の二倍の国家予算を組み、
 動きが取れない事態をつくっても平然としている。それも国民が擬似民主主義の徴候群におかされた結果だが、それにしても酷い。
・・・・・・・       
3757, 下流の宴
2011年07月09日(土)
 NHKで「下流の宴」という面白そうな連続ドラマをあったが、見るほどでないと見過ごしていた。
しかし、先日の夕方に二回分の再放送を見て、そのシビアの内容に苦笑してしまった。エリート・サラリーマンの母親(医者の娘)の
息子が中卒でフリーター。 何とか受験校に心を入れ替えてチャレンジさせたいのに、その彼女が、母親の目には下流家庭の娘。
 その娘に、「私は医者の娘、旦那も一流会社勤め。貴女のような家庭とは身分が違うのです」と言い放つ。しかし、その旦那は、
リストラ対象で自分たちも下流に?なろうとしている、で・・・侮辱を受けた娘は、「私が医大に入学すれば、結婚を許してくれますか?」
というところで、終わった。しかし、これはあくまでドラマでしかない。小中学校の基礎が出来てない人が、猛勉強で今さら! が現実。
 私の一番上の姉が、その母親に考え方がそっくり。婿取り娘で、長岡社交界が彼女の庭。彼女が意識している庭の住人は、上流だとは
当時も、現在も私には思えないから喜劇にしかみえない。もちろん、その人たちは上・中流など全く意識にはない。
自分のことを一番知っている? しかし学歴と学力のない姉は付き合いを、その庭の人たちに絞り、見栄に全てを入れていた。
(字数の関係上カット、2012年07月09日)
 ・・・・・・・
3392, 911・考えない・日本人  ー8
2010年07月09日(金)
             「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
 著者の哲学についての解釈が書いてある。自身の言葉だからこそ、納得する。
特に「哲学することの要点は、驚異と認識、懐疑と確実性、自己喪失と自己発見。」は、分かりやすい。
  = 哲学とは =    (P−217)