* 今日は父親の41周期
 5月30日は父親の命日で、毎年、ここで思い出を書いてきたが、年々、似ていることを繰返し偲ぶことになる。
歳を重ねるほどに、父親に顔も性格も、ますます似てきているが、父親を知る人は、もう周囲には殆ど居ない。 
人生を振返ると、父親の大きな影響の中で生きてきたことが思いやられる。その父の亡くなった年齢に、あと二年でなる。 
三年前の会社整理もあって、父親を乗越えることが出来なったが、私にとって、父の視線が、常についてまわっていた。
内語で、大事な決断時に「オヤジ、どうしよう」の自問自答を繰り返していた。その内なる対話が、知恵の原泉である。
父親が42歳時の末っ子のため、溺愛に近い状態で育ってきた。この温もりが心の奥にあればこそ、多くの難関を乗り越える
ことが出来たようだ。いざとなると、折れてしまう人は、両親の温もりが少ない人が多いようだ。 親の温もりが、
その人の温もりになり、それが、生きていく大きな力になる。良い時代に、良い両親に、良い人に恵まれたことが、
私の大きな財産になっている。特に、父親の愛情と恩恵は、何ものにも代えがたい。
  * 内省の日々
 数日前から、ー「事業人生を決心して45年」の語り直しーのテーマで書き出しているが、ここで気づいたことは、
これは内省そのものということ。それをそのまま公開するとは、自分は何だろうと疑問がわいている。 父の命日の
想いも、内省になる。いま現在、命日の朝4時、父の魂と自分が向い合っていると、背後の数メートルから、
「なんてザマだ!」と、一喝されているよう。 父親が私にもとめたのは、「人生、社会の規制にとらわれず、
事業も趣味も最大限に生きろ!」ということ。 しかし、この程度しか生きることができなかった反省と、後悔がある。
 酒癖の悪さで、多くのチャンスを自ら潰し、世界を小さくしてきた自分を省みることも、内省である。
それからみて、この結果が私にとって‘ベスト’では? と・・ これは自己鎮撫になるか。
来し方を振返ると、何とも浅ましい己の姿が浮かび上がってくる。このような人生を自嘲した歌謡曲があったが・・・ 
老いていくと、真面目になりざるを得ない。その視点で、過去を後悔するのは、所詮は老人性欝症のなせる業ではと、
内なる声もするが・・さて、これをアップして、父親の墓参りに行くことにするが、この随想日記も、私の法事になる。
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4457, 今日は父親の命日 ー40周年
2013年05月30日(木)
 今日は父親の命日、亡くなって40年になる。ここで毎年のように父の思い出を書いてきたが、父も本望だろう。
私も父の亡くなった71歳に、あと3年半で到達、目先の目標に近づいてきた。私の早寝早起は、父親の生活習慣を見習ったこと。
亡くなった当時は高度成長期真っ只中に、石油ショックが起きて日本中が青くなっていた。それから日本も世界も動乱が続いた。
私にとって父の死と、半年後の千葉での創業と、結婚は、大きな分岐点で、父の死を引きずり悲しんでいる暇は無かった。
何事も直接跳ね返ってくる事業人生が始まったからである。「親の死は子供に対する最大の贈り物」という言葉のとおり、
父の庇護が無くなり、それから全ての責任が直接被さってきた。 全てが未経験で、分からないこどだらけ、そこで亡くなった
父親を心の底で呼び出し、「どうする親父?」と一緒に考えていた。 次から次への難問が押し寄せ、判断、決断が迫られる。
頼れるのは、浅い経験と知識。それと「親父なら如何する?」の仮説の自問自答。あの時からの40年の歳月は、やはり長い。
世界も日本も、そして私も変わってしまった。 情報化社会の本格的到来と、ソビエト・東欧の崩壊、中国の共産主義の放棄が、
大きく世界を変える要因になった。
 心の底で父に、「ここまで激しい変化、親父も信じられないのでは?」と問いかけると、
「私の想像を遥かに超えている。しかし、羨ましい限り。世界の果ても気楽に見れるし、知識情報も簡単に入手できるし・・ 
混乱期としても豊かさの範疇。少し先読みをし、変化を受け入れ自分が変われるかどうかだ」との返事。
過去の命日に、その時点の思い書いてきた。読み返えしてみると、成るほど思いは残るもの。私が書いているというより、
父本人が書いてと思える位だ。両親から生まれでて、両親の元に帰っていくイメージがあるだけで充分幸せである。
父を通して多くのことを学んだ。何があったとしても、両親の御蔭で、よい人生を過ごせたと感謝している。さて、お参りだ!
 そういえば、母親の命日に、このような文章を書いてない。もっと世話になったのに。時々、夢にリアルに出てくるためか?
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4083, 父の命日 ー40回忌
2012年05月30日(水)
 5月30日には、毎年のように供養も含めて同じようなことを書いている。39年といえばアッという感より、遥か古い昔に感じる。
父が亡くなって5ヶ月後に千葉で千城台ビルをオープン、その一ヶ月後に結婚をした。亡くなった直後は、ショックで茫然自失だったが、
数ヶ月もしないうちに激務が待っていた。そのため父の死を悲しんでいる余裕も無くなっていた。その激務の中、ただ真正面に
ぶつかっていくしかない日々。そこで精神的、肉体的体力は、そのプロセスからついてくることを知った。 人間にはイザとなると、
信じられない力が潜んでいる。極限に自分を置いて真正面からぶつかれば、何とかなるものである。 私にとって生まれてこのかた、
父の存在と影響があまりに大きかった。亡くなってから気づいたが、常に父を意識して、物事を判断してきていた。だから、
その時に父が亡くなったタイミングは私にとってベストの贈り物だった。 父の死と、事業の立ち上げと、結婚と、私にとって初めて
独り立ちであった。 全ての計画、判断、実践を自分がして、結果がストレートに帰ってくるのである。 それが慣れるまでは、
「自由の不自由性」に戸惑ったが、一度慣れると、これほど面白いものはないと感じるようになった。 全てが自分一人の判断しか
頼りにならない。とはいえ決断しようにも自信がない。 そこで、自然と、「自分が父だったらどうしただろうか?」の自問自答になる。 
そう考えると、幼児の頃から父は直接、間接的に多くのことを教えてくれていた。 経営学とかの理論は、実践の場で直接役に立たない。
頼れるのは場当たりの直感だけである。事業を始めてから現在まで、子供の頃からの両親の教訓が役にたったことか計り知れない。
しかし終わってしまえば、それまでだが、自分がやりたいことが創業ビジネスだったので、現在の結果は、殆んど後悔はない。
創業を幾つか楽しんだ結果、三つの経済災害で終わっただけ、と本心から思えるから有難い。失う哀しみは、いずれ味わう時期がくる。
順調に後継者に引き継いでもである。それなら綺麗さっぱり、根こそぎ洗い流されてしまえば諦めがつくというもの。
この結果は、ワーストでもなく、ベターでもなく、ベストだったのかもしれない?。 世界恐慌の直前もあり、ベスト?
父が生きていて私を批判するなら、「調子に乗りすぎて、天合を欠いたな!」。 新潟駅前で500室は過剰だったかもしれない。
それでも父は、「その結果に押しつぶされる方が大問題。撤収は、正解!」と言うはず。 世界も、日本も、この異常事態なら当然。
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3717、閑話小題
2011年05月30日(月)
  * 今日は父親の38周忌
 父親が亡くなって38周年。私には生前の父親の存在があまりに大きかったので、亡くなった日が、第二の自分の誕生日と思うほど。
その時が精神的自立の時だったようである。毎年のように同じようなことを書いているが、八人兄姉の末っ子で、父親は特別に私を
大事にしてくれていた。その意味で、私の人生は当たりと信じている。両親の愛情の分量が、自分という存在に対して、肯定的に
なれるかどうかの境目になる。父が亡くなって38年という歳月は、長く、刺激的な日々であった。
結果として、この事態(倒産)になっても、時代背景に飲み込まれたと諦めがついている。 父から学んだことは、金銭哲学である。
『死に金を使うな、普段の生活を節制し、使うべき時は使うこと。事業を通して人生を楽しむこと。趣味は大事にすること。』
大筋は、こんなものだが、人生の何たることか、両親の生き様を通して学べたことは、本当に良かったと思っている。この事態でも、
両親の子供のころ見てきた苦労からすれば、数分の一でしかない。だから、平然?としていられる。事業を起こし、維持し、そして、
消滅させる物語は、そう甘い要素で成り立つ訳がない。その前提を知っているから、その辺の輩の批判、罵倒は無視出来る。
 それにしても、自分の息子に毎年、このような追悼の文章を書いて貰える父も幸せ?である。 これが私の供養である。
   * 地震保険について
 TVのモーニングショーを見ていると、「地震保険」について取り上げていた。東北大震災以来、保険の契約が三倍に増えたという。
 意外と知らないことが、多いのが地震保険。 ーまずは、その内容から
【 ・火災保険に入ってないと、地震保険は入れない。地震の時に発生した火災では、火災保険はおりない。
  ・支払い最大範囲は、火災保険の3〜4割まで。家を建て直すというより、生活保障の役割でしかない。
  ・全壊が全額、半壊が半額、一部損傷が5パーが、目安という。
  ・地震の場合、保険屋がパンクした場合支払いが不能になる心配は(国家が5兆円まで補償するので)ない。
  ・建物の構造や、地域によって、保険金は大きく変わってくる。
  ・地震保険に入っている割合は、火災保険に入っている人の4分の1
  ・全壊で100パー、半壊で50パー、一部損壊で5パーが、保険でおりる目安。 】
 ー以上のことは、このTVを見るまで、知らなかったこと。これに入るか否かは、それぞれの住居環境による。
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  3352, 父の命日(37周年)
 2010年05月30日(日)
 毎年、父の命日に思い出や人となりを書いていると、多くのことが記憶の彼方から思い出される。
思い出し、書くことが父にとっての供養と思っている。
「過去の所業と思いが魂」と仮説を立てると、「両親と子供の頃の思い出は魂の故里」になる。
これまで書いてきたが、父は典型的な明治人で、シャイな性格。 長男で実家の古美術商を引き継ぎ、
第二次世界大戦の戦時中は骨董は売れなくなったため、兵隊の戦死者が多くなり仏壇と仏具の販売で乗り切った。
終戦直後は古着の売買に転進、その後、衣料品量販店に切り替え、地方では小さいながらも名をなした。 
古美術商の時代には、地元出身の山本五十六や、ツガミの津上退助、そして野本互尊などに骨董品を収め、
時代の潮流の情報や薫陶を受けたのが人生をプラスにしたベースになったようだ。 
その結果、「情報の先取りと長期的視野と、転進が、人間の一生を左右する」というのが持論にあった。 
それは教養によってベースが築かれることを彼らから学んだようだ。 学歴コンプレックスも大きかったが、
それがバネになっていた。 日々の生活を節制するのがベースで、贅沢、慢心、虚栄を忌み嫌い、清潔、
潔癖の明治人の特徴を、そのまま受け継いでいた。朝は5時に起き、仏壇で祈り、新聞を隅々まで読むのが日常だった。
その辺は私も同じで、これは家の文化(ハビトス)か。 また人に妥協するのが大嫌いで、親戚以外は、
株屋ぐらいしか周辺に近づけなかった。酒は年末年始に少し飲むだけで、外食は贅沢と最小限度しかとらなかった。
(当時は、それが一般だったが) 年に一度の法事と、大晦日の年越しの家族と従業員との宴会が晴れのときで、
その楽しかったことが、そのまま父の思い出となった。 恐らく自分が死ぬときのイメージは両親の手に引かれ、
光の中に消えていく光景になるだろう。 毎年、父のことを書き続けた文章を読み返すと、書き残す不思議を思い知る。
書くことは、その時点では心の記録だが、時間の経過とともに魂の記録になるのである。
人間の脳の思いなどアテにならないし、思い出もそうだ。しかし書き出し、それを重ねることで、魂に熟成していくのである。
楽家は音楽で、仏像師は仏像で、作家は小説で、魂の記録として刻印されるのである。
それも宇宙時間からみれば微小のこと。しかし、微小のことでも、それに乗っている間は人生である。さて、恒例の墓参り!
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2977、父親の37回忌に
 2009年05月30日(土)
 今日は父親の37回忌。亡くなって、もう36年になる。命日に何度か父のことを書いたが(後でコピー)、
テーマにすることが供養になると思い書いてきた。父親のことを考えると、自分とは何だろうという哲学的な問いになる。
私の場合は特に父親の影響が大きかった。誰でもファザコン、マザコンだが、父が43歳の時に産まれたこともあった。 
そのために幼児から少年期の記憶に、父の所業が記憶で多く残っている。 母親は仕事の前線に立っていたので、父が何時も
私を連れて街の何処かにつれ歩いていた。その為に父が亡くなるまで、その影響は大きく、27歳で亡くなった時に初めて
精神的に独立をすることが出来た。(同時に結婚をしたこともあるが) 父が私の年齢(63歳)の時に、私が20歳だったが、
その時の父は元気溌剌だった。時代は昭和41年(1966年)、高度経済成長期真っ盛りの時期。 その時代と現在を比べると、
その段差には大きい。まだ日本中が坂の上の雲を見つめて急成長の頂上にいた。父は明治38年生まれで家を中心に常に考えていた。
父の頭の中は戦前、戦中、戦後の経験が重なっており、そのことを事あるごとに話をしていた。 
特に長岡の戦災体験は生生しく残っていたようだ。  また戦後の時代の流れの激しさに焦りを感じていた。
ソ連も、昭和40年代が絶頂期で、まさか20年あまりで消滅するなど、考えられなかった。
また、アメリカもその後20年もしないうちに、壊滅的経済破綻になるとは・・父を思い出すというより、父の視線で世の中の
変化を見ている自分がいる。命日に父のことを書いた文章を読んでいると、父の影響が大きく自分に影響していることがわかる。
その枠を破壊できなかったのか、それとも、それはそれで私らしさで、そのまま結構なのか?
いや、出来の悪い1・2代目でしかない。 しかし自分の心に誇れる父を持てたことは幸せである。 
 それに引き換え私ときたらまったく? 今さら、どうもこうもない。 以前、父の魂が自分の魂と合体したような
不思議な夢について書いたことを思い出した。 その辺のことを書いた文章をコピーしてみた。 さて墓参りである。
  これだけ毎年のように書いていれば、下手な法事より供養になるだろう。
▼ H0407霊的体験
 二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。
死後一週間後位か妙な夢をみた。私自身父の気持になり“死にたくない。もっと生きたい、生きたい”という“念”になった夢。
そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。いや私自身(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。
夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が自身実感できたのだと思う。それが夢よりさめた自分の魂が
“父の魂”と一緒になったという不思議な実感。経験した人間ではないとわからないはずだ。また死後二?三日後の夢も強烈な夢(?)
であった。何か強烈な恐怖感がおそってきた。その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!”と言ってしまった。
と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。そのひきずりこまれた瞬間ベットにしがみついたが
その時隣に寝ていた母がスクッと立ちあがりトイレに行った。全身汗びっしょりであった。まだまだ不思議な事がいっぱいある…。
あれ以来最近は少なくなったが幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。
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 2613, 閑話小題
2008年05月30日(金)
 ー今日は父親の命日ー
父親が亡くなって35年、36回忌である。
毎朝、仏壇で、父・母、兄・姉、義父・義母、そして10人位の因縁のある故人の顔を思い出し手を合わせている。
一番初めは父であるが、父の愛情の上で、現在の自分があると歳を重ねるほど実感する。
家庭的には恵まれていた。特に両親との相性が良かったことが私の人生にとって一番の要だった。
次には家内との相性だが、それなりに? この文章を推敲し、ネットに上げ、墓参りに行く。
 ー交通事故死がピーク時の三分の一だとー
交通事故死が5744人と54年ぶりの低下とマスコミが報じていた。昭和45年度には16765人というから三分の一に減ったことになる。
車の数は数倍になっているはずだから、十分の一以下になったことになる。一昨年の福岡市の3幼児死亡事件で警察庁
飲酒運転の強化を図ったことと、シートベルトの義務化が大きな要素になっているという。去年の交通事故死の半分近くが、
65歳以上の高齢者で占めているというから、年寄りは交通事故には特に気をつけないということになる。
10年近く前で、一万人を割ったと聞いていたが、ここまで減っているとは知らなかった。
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2005年05月30日(月)
 1518,今日は父の33回忌
去年の今日も、父の命日のことを書いたが。 私にとって父の存在はあまりにも大きかった。
そして、今でも父の影響から抜け出てないといってよい。明日は、身内だけの33回忌の法要である。
父の口癖は、『死んでしまえば、それまでよ!』であった。そして、この歳になっての実感として『その通りである!』
だから、「早いうちに生きることとは何かを知り、生きることを第一の仕事としなくてはならない」ことを学んだ。
末期癌で亡くなる一年間、赤裸々な父の死の葛藤を身近で見ながら、人生とは何かを教えてもらった。
そして、その後の生きる大きな教えと指標になった。・何をするにしても捨て身で取り組まなくてはならないこと。
・地元のー痴呆名士ー とは一線を引くこと。 近所の人とは親しくするな!。
・お金に対する対処を間違うな。金はライフワークの一つとして取り組むこと。人間はお金の前では赤裸々で悲しいほど弱いこと。
・「女はを持つということは、荷車に大きな重い荷物を持って坂道を登るようなもの、遊ぶなら覚悟を持って遊べ!」
この年齢になって改めて父を振り返ってみると益々学ぶことが多くなっている。 学歴は無かったが、接してきた人に
超一流の人が多かった。古物商をしていたためであろう。 深い違った教養を持っていた。時代を読み取る能力と、
人物を選別する能力、そして人間の狡さを知っていた。 さて、これから近くのスーパーで花を買って墓参りだ!
・・・・・・・
2004年05月30日(日)
 1153, 今日は父の32回忌
今日は、父親の31年目の命日である。この世で一人の人を選びなさい、といったら間違いなく父である。
それだけ私にとって父の影響が大きい「ありがとう」と一番いわなくてはならない人である。
年齢とともに、父親と心の中で話すことが多くなってきている。 一方的に話しかけているのだが、ときどき父も
話しかけてくることもある。もっと以前から事業のことなど話しかければよかったと、今になって思い始めている。
 《供養の為に、14年前に書いた文章をコピーしておきます。》
ーそういえば、この文章を書いた頃のことを思い出した。ある休日の夕方、TVでお寺の仏像を映し出していた。
そのとき、TVの中の仏像に少し開いていた障子から夕陽があたり、何ともいえない不思議な感じになった。
何だ何だ、今日は何かあるんじゃないか?!と、考えてみたら、父の命日だった。うっかりしていて、
父の命日を忘れていたのだ。本当に不思議なことがあるものだ!と思った。 さあ父親の墓参りだ!
 ーー
 H0505 小説のような本当の話!
 十数年前、父の七回忌の早朝、母と花を持ち墓にお参りに行きました。ところがすでに墓がきれいに磨かれており、
花が飾られていた。 生前仲のよかった“父のいとこ”が、すでに来てくれたと母と語らい、お参りをしていると、
見知らぬ老人が話しかけてきました。 たまたまその寺の近所に住んでいるというその本人がしみじみ語るには
“自分の子供の高校の入学時に、金がなくコートを買ってやれずに、店にいた父に正直に事情を話したところ、
父は全く見知らずの自分に、分割払いをしてくれた。 それが本当にうれしくてうれしくて! それで父が亡くなった時以来、
必ず命日にこうして掃除をして、花を供えている”との事。聞いていて本当に父のすばらしさの一面を知らされた思いでした。
その時、果たして私の七回忌にこんな事がありうるだろうか。そういう“生き方”を自分はしてきただろうかとつくづく
考えさせられる出来事でした。父の名前は誠作という事もあり、それが本人のコンセプトになっていたのだろうか?当時、
丁度今の会社の理念を考えていた矢先、それが大きなきっかけとなり“誠心誠意”に決まった次第です。