「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
   * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる
 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積としての記憶は、その人自身が作り上げた
要素が大きく加わっている。その時点での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。
時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。
《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだと
 しても大多数の人は、記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 これから未来へ向かって
生きていこうというのに、今さらどうしようもない過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。
 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、記憶が重要なことを示唆する一幕がある。
記憶喪失のために八年間の記憶をすべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。
母親はそんなTさんに、誰もが三六五日すべての記憶があるわけではないのだから、過去にこだわるよりは、今から何かを
始めればよいと言ったそうだ。しかし、それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、前に
進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」と言ったという。
 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後四〇年目におこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。
ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦ナチスドイツによるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、
「過去は神でも変えられぬ」という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だからといって過去を
封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを
現在に生かすことの大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではないだろうか。自分の記憶を
みつめることで、それを現在に生かすことができ、記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》
 ▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。
  そして、毎年の同月同日分を読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」という
 ことになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。今さら書く事もないが、より足取りを確かに
 するためには、書いておいた方が良いのだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく
 加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけということが、少しは自覚できる。
 最近、ブログで過って行った先の写真をネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。
 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしないだろうし、どんな写真より、当時の感動の
 方がはるかに良い。過去の再生と体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。
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4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9
2013年05月12日(日)
             ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
  ー これまでの7つの登山道を更に簡略すると、次のようになる(後書きより)ー
・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。
 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。
 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 思い込んでいるだけだ。
 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。
・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道
 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでもあとで死んでも同じよなものだ。
 人生は死刑のようなもの。だが、それは、悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、
 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、
・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。
 百三十七億年前にできて、直径二百七十四億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙スケールから見ると、何て人間は
 小さいことか。しかも、地球上に七十億人もうごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。
 全体から見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的な些細なことに過ぎない。
・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。
 客観的な時間は、百三十七億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできたかもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。
 過去と未来は圧縮され、生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は記憶の中にしかないし、
 あなたの未来は想像上の産物だ。あなたには今しかない。あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。
 だから、あなたの主観時間に、死の入り込む余地はない。
・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。
 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、
 能動と受動といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解ではなく、ものごとを考えやすいように、
 そのように定義しているだけだ。「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義するから死を
 恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として世界であるだけであって、自分も死もないのだ。
・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。
 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の目を気にしない傾向。
 これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践できる達人の生きかた。・・・ここに到達した人は、
 持続的な至福を感じることができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に到着することができる。・
・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。
 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達することができる。いや、ルート6のいずれからでも
 到達することができると言うべきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、同じところ。
 死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学に
 よってしかそこに到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。脳科学の知見は意識が幻想だ
 という事実を僕たちに突きつける。
▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、そこでの主観時間は幻想。それを感じている
 己も定義でしかない。そこでは、他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>が活きるコツ。
 ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。
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4065, お金と神 ー1
2012年05月12日(土)
   * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜�      ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
 お金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、お金と神との同定の視点が面白い。両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。
 一部の支配者が神の信託に、紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 ーまずは、抜粋から。
≪ お金と神は似ている。一般に、お金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。いずれも実体のないバーチャルなものなのに、
人びとの行動に大きな影響を与える。適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。宗教が狂信者を生んで
世界を恐怖に陥れるように、現代におけるお金への強い執着は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。
 ◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に作ったバーチャルな世界である。
 それはときとしてリアルな物より人間行動に強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、人間は多くの
過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。
その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。
それらを使って人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な
妄想を抱かせている。しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な快楽や美しさへの想像さえ否定する。
すべては無であるという禅宗の経典、般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、心の平安を得ようとする。
これによって宗教は完全にリアルから切り離され、バーチャルな観念へと昇華きれる。
 ◎一方、お金はどうか。     ーつづく  ≫
 ▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。 世の中の9割方の問題が金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。
  神が共同幻想なら、それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在でしかない。信じばこそ、
  そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、
  お金である。アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
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3699, 自己を見つめる −20
2011年05月12日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 * 死について ー�       ーP・283
【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、
あるべき将来を目指し、現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、自己と他者と世界と存在の
すべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。 それはまた、
人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということである。したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、
こうした死の存在論的概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、この世の生存はない。 
無にさらされたものとしてのこうした人間的自己というその必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、
位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、
それは誰にも分からない。しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する死に早晩さらされることを自覚し、
自己の無化を心得つつ、終わりある自己の人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめながら、
いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねているのである。 こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、
虚無の風が吹き上げていると言ってよい。 そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら広がっている。
自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己がこの世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 
いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、
再び自己は、存在の無のなかに沈み込む。 無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、浮き草のように漂い、
必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。 
ハイデッガーが言ったように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が隠されているとも言える。
誰もその奥を覗き込んだ者はいない。 さりながら、かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、
その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、不思議なことに、当の自分自身だったという。
へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味深い言い伝えに従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、当の自分自身である。
・・・その意味でも、死を含んだ、無としての存在が、人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】
 ▼ 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。穴はあって、ない。ドーナツの形状が穴を形づくっている。
 永六輔が「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言っていたが、人間存在を色とすると、自己の存在の根底に
 潜みこんでいる死は、その穴のようなもの。ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。
 また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も考えさせられる。無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。
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3334, 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」
 2010年05月12日(水)
  ー「知の衰退」からいかに脱出するか?    ー 大前研一 (著) ー7
   * 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」
 ー まずは、その要点部分を抜粋し考えて見る ー (P 230)
≪ 今の若い世代から40代、50代の世代に至るまで、情報収集・管理・活用が下手になった。
これは「○×式教育」の弊害である。答えはあらかじめ用意されている、しかもそれは「○か」「×か」という世界で育つと、
そもそも答えを探すところからわからなくなっている。 手探りで失敗を繰り返しながら答えを導き出すという習慣がない。
そして、よしんば答えを得たとしても、それが正解であるか間違いであるか検証する方法もしらないのである。
 だから、初めから「新聞やテレビの情報は正しいものだ」という前提で、そこにある情報を収集し、それを覚え込もうとする。
これが間違いである。 こんなことをすると、昨日の夕食に何を食べたか思い出せないように、情報は体外にそのままストンと
流れ出て終わりである。 なぜ、体内に残らないのかと言えば、それは、本当に自分の血となり肉となる情報でないばかりか、
せっかく取り入れた情報でも自分で加工しようとしないからだ。 情報といいうものは、加工しないことにはなんの価値も
生み出さない。 いくら収集しても放置してしまえば、そこから何も生まれない。 従って、手に入れた一時情報の意味を考え、
時に疑い、ストックした情報と照らし合わせて、栄誉のある情報だけを吸収して自分の中に取り込み、あとは捨てる・・・
  ≪字数制限のためカット 2012年5月12日≫
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2959,閑話小題
2009年05月12日(火)
 * 金メダルを取れる人
「金メダルを取る人は、トップレベルの才能のある人は逆に取れない」という。トップレベルの人を目標に背中を追っていた
「三番手、四番手の人」の方が、努力をするからである。一番手の才能の人は、そのこと自体の有難さが分からないから努力を
しなくなり、こぼれていく。その重なりの中で、結果として金メダルの道を歩くことになる。必死に努力した方は、その努力に
愛情を持っているから、心の芯になってしまう。ここに金メダルと、途中で挫折する才能のある人の差が出る。
何か亀とウサギの御伽話のようだが、人生の深い示唆があるような話である。 二代目が大成しないのと同じか!
 * 物語をつくる
毎日、随想日記を書き続けて、あと40日ほどで3千回になる。随想日記も考てみれば「小さな物語」である。 
物語とは、テーマの設定と筋書きつくり。文章作法の起承転結という筋書きの中で、味付けをしなければならない。
その上に魂を込めない限り読むものの魂に響いてはこない。そうそう毎日、魂を込めるのも並大抵ではない。
一年ごとに見つめる自分の目も怖い。しかし一度、物語にしてしまえば、記憶パッケージ化したことになり、
魂の記憶として長期間残ることになる。
 * エーゲ海クルーズと吉田類の酒場放浪記
 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
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2595, 閑話小題
 2008年05月12日(月)
 * シティーバンクが41兆円の資産売却の意味すること
ニュースでシティーバンクが総資産の2割にあたる41兆円を売却すると報じていた。ということは、サブプライムローン
同額位の損失をしたと考えてよいだろう。それが、世界全体の10~20%と見ても200~400兆円の損失と考えても
不思議ではない。シティだからこそ、それを売却して支える力があるから良いが、殆どの金融機関が無理だろう。
  ≪字数制限のためカット 2010年5月12日≫
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2007年05月12日(土)
2230, 人生張っています                ー読書日記
  それでは特に凄いウンコ話を抜粋してみた。オカマのマツコとの対談は、あまりにも凄いので掲載はひかえる。
  「ニラを面倒なので、切らずに煮て食べた、そして・・・」 オカマでなければ言えない話である。
  誰も長い人生で危機一髪か、近い経験をしているはず。 ただ言うか言わないかだが、
  それを楽しんで話すところが異常? それを薄ら笑いを浮かべて読んでいるのも似たようなもの。
  ある明治維新の立役者が、電車の開通の式典の後に乗った時に便意をもよおしシルクハットの中に急遽・・
  の逸話がある。「あのバカ野郎!」は、アメリカでは「ファック、ユー!」だが、
  日本は「クソたれ!」。それだけ日本人は、隠したがる恥になっている。
   *******
サイバラ:ウンコ漏らした?
 うさぎ:私がね。自分ちの玄関で。玄関までは、何とか我慢したんだけど。
サイバラ:ああ、そういう時は玄関なんか見ると、括約筋が開きますよね。
 うさぎ:開きますねェ~。全開してでしてねぇ。
サイバラ:全部出た?
 うさぎ:もぅ?、ボタボタと滝のように。しかも白のベルェサーチのワンピースを着てまして。
サイバラ:オオー、いい感じだ。
 うさぎ:夏物で、初めて着たんですが、捨てました。夫はビックリしたみたいで、
     猫と部屋に閉じこもっていました。 後始末は自分でしました。
サイバラ:私は片づけてあげたけどな。
 うさぎ:そうなんだ、鴨ちゃんがウンコもらしたんだ。
サイバラ:コンビニで買い物をしている時に、急に変な歩き方になって。
    満月の夜でさ。「フェー、かーちゃん、ウンコ漏らした」って泣きが入って。
   「真夜中のカウボーイ」みたいになって。スェットはいててその下から、ボトボトって。これがまたぶっといの。
    しょうがないから、コンビニの袋でウンコ拾ってあげて。泣いてる亭主の背中を撫ぜてやって、
   「何時までこの坂は続くのやら」と自分で自分に言って。
    ーーーー
  斉藤綾子:そうだ、知り合いの知り合いなんだけど、すごいウンコ話があるの。
うさぎ:(身を乗り出して)はい!
  綾子:首都高乗っていたら強烈な便意をもようして、どこかには入れるまで待てないって。窓開けてケツ出してやったって。
うさぎ:おおーっ!(拍手)
  綾子:すごいでしょ?歴代ウンコ話では一番と思って。
うさぎ:男ですか?
  綾子:女です。
うさぎ:ほほーう。
  綾子:何人か乗っていて、「悪いけど、ちょっとウンコするって」と言って。
うさぎ:外から見ると、窓から尻が出ているわけですね。風にちぎれて水平に流れていくウンコですね。
  綾子:後ろの車のフロントにパンッとかね。事故が起きたかどうかわからないけど!
    ーーー
解)そういえば数年前TVで、マグロ釣りをしていた梅宮辰夫が、もようして船尾で尻を海に突き出して???、
その直前まで写していたが・・・。先日のこと、ウォーキングの土手で便秘の犬が凄い格好で何をしていた。
   その若い女性の飼い主が、その姿に真っ赤な顔をしていた。
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 2006年05月12日(金)
1865, グーグル Google   (。・ω・)ノ☆゚+.オハヨゥゥゥ
            ー読書日記
この本の重要な要約部分がこの章に詰まっているので、さらに破壊戦略の意味を書き写してみる。
ーー
第一章 世界を震撼させた「破壊戦略」ー4
さらに、驚くべきものが「グーグルブックサーチ」で、2004年にそのサービスをスタートさせている。
≪字数制限のためカット 2010年5月12日≫
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2005年05月12日(木)
 1500, 人生の敗北者とはどんな人か?-2
私の周辺でも、「人生の敗北者」の要素の強い人が何人かいる。「自分は純粋無垢で、誠実で善良な人間であるいっぽう、
自分以外のほとんどの人間は、不誠実な悪人たちと信じて疑わない」という考え方の人である。「『無知』を起因としている」
と考えざるを得ないが、心のジャングルの中の暗い小道で、「知識」という光を持たないためである。
(字数の関係でカット09年05月12日)
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2004年05月12日(水)
1135、「ライフ・レッスン」?13
 ー遊びのレッスン
 遊びは仕事とともにもっとも大事にしなくてはならないことである。何のために働くのかと問われれば、
遊ぶために働いてますと真から答えることができ、何のために遊ぶのですかと問われれば仕事をじゅうぶんできるために
遊ぶのです、と答えることが理想といえる。  
 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
・・・・・・
2003年05月12日(月)
 768, 規制緩和
 この国が狂っているのは誰もが解っている事である。たまたまホテル業界は全くの規制がない世界。
その事が今になってみれば自分をすくうことになっている。ホテルは完成した時がベストの状態で、必ず右下がりになっていく
装置産業といってよい性格がある。
 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
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2002年05月12日(日)
 404, 結婚と離婚ー3
 ー夫婦というもの-
人生の永遠のテーマの為か、過去に多くのエピソードが多くのこっている。まずはソクラテスの妻は悪妻で知られている。
「哲学者になりたかったら、悪妻を持て」というジョークがある。
≪字数制限のためカット 2013年5月12日≫