* 何かが変?なのは、自分? それとも巷の常識?
 先日取り上げた【「道徳」を疑え!〜自分の頭で考えるための哲学講義ー小川仁志著】の中で、イギリスの哲学者
 フランシス・ベーコンの「イドラ(本当のことを隠してしまう臆見)を取り上げていた。
 彼によると、人間には四つのイドラがあるという。
《・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、感情や感覚によって知性が惑わされることに
 よって生じる。人間は自分が主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できない。
・二つ目は「洞窟のイドラ」。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んでしまったかのように、個人の狭い事情により
 生じる思い込み。その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込みです。あたかも市場で聞いたうわさ話を信じて
 しまうがごとく、人は言葉のもつ力に弱いものです。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。それぞれの都合の良い物語を疑おうとしないで信じてしまうことをいう。》
:この結果、世間とかいう、ほぼ嘘で固められた常識を疑うことなく信じる九割以上の人達がつくられ、現に存在する。
 この方々は、殆どのイドラが全存在。 覆い隠されている真実の世界の存在など想像すら出来ないため、厄介そのもの。
 彼らには、「嘘もほどほどにしろ」より、「本当のことは、ほどほどに」と、対応するしかない。何故なら、本当の
 ことは、イドラの世界からは見ることが出来ないから。本来、人間は共同幻想の中にしか生きることが出来ない存在。
 とすると、変なのは社会と、その中で生きる、私たち(個々人)になる。問題は、それを常に自覚できるかどうかが、
 境目になる。 リーマンショックから、一段と世の中が変になっている。ところが何故か、それを覆い隠している何か、
 恐ろしい力。それが何だろう?「世界恐慌は静かに浸透しているが、誰も声高に言わない。いや、言えない」のだろう。
 石ころの大小を言っている自分も、その中の砂利でしかない。結論は、「私も、一般常識とも、変!」 ということ。
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4429, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか 
2013年05月02日(木)
   * 死の恐怖を克服する七つの登山道とは   ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 人生で最大の難関が最期の死。ここには、死の恐怖を克服する著者の椎奨の七つの登山道が書かれている。
スッと、眠るように死にたいが、そうは簡単にいかない。 長生きすれば「死に損ない」と言われそうだし、癌で、あと一年、
数ヶ月と区切られ悶々と死んでいくのも厳しい。現に父親が、そうであった。一年間、傍にいたので、それが直に伝わってきた。 
砂漠の真只中に置かれたような生の渇望の乾きは残酷である。実際に、その立場に置かれて経験しないと分からないこと。
死の恐怖の克服法は知らないより、知っていた方が遥かによい。生への渇望の克服など無理といえば無理。肉体的に精神的にも、
のたうちまわって死んでいくしかないのが実態。だから恐れる。著者が死への登山道という表現は言い得て妙である。 
  ーまずは、7つのルートとはー
ルート1  心が幻想だと理解する道(脳科学の道)
ルート2  すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
ルート3  自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
ルート4  主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道)
ルート5  自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
ルート6  幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
ルート7  リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)
 ▼ 次回から、それぞれのルートの要点を書き出してみるが、最近読んだ、「宇宙は本当にひとつなのか」と、
  「宇宙は何でできているいるのか」(村山斉著)を読んで、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している
  可能性があると知り、単純だが、自分の人生も、死も、大した問題でないことを改めて知った。 これはルート3の、
  客観的スケール思考の道になる。 この7つのルーツの道を繋ぐと、
 ≪ 人間の心は、本来幻想。人の一生は宇宙的スケールでみれば、瞬時でしかない、直ぐ死ぬのも後で死ぬのも同じ。
  また微細な存在。知情意で捉えている時間も幻覚。自分という枠組みも定義で変わるもの。恐怖が幸福の対角にあるとし、
  その幸福という感覚も幻覚。ただそれだけのこと。≫ ということになる。般若心経そのものになる。だから、
  死に直面すると、写経を始めるのは効果がある。こう、まとめると、各ルートを歩くのが面倒に思ったが、よく読むと、
  道筋には含蓄に満ちた景色がある。目先の死を知ってから、それまでの一生分を生きるのだから、学び足りないのは当然。
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4055, 一個の人間の顔、それは一つの象形文字
2012年05月02日(水)           
                 ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪ 「一個の人間の顔、それは一つの象形文字だ。ある神聖な、明確なしるしだ。なかに魂の現在があらわれている。
 動物だってそうではないか水牛がものを咀嚼しているとき、その顔を見てみたまえ、鷲の顔を見てみたまえ、犬の顔を見てみたまえ。
一個の人間の顔の中にはっきりした意欲と決意とがあらわれているとき、それは一個のばらばらな意欲と決意という以上のものだ。
そういう顔をぼくの夢想の中のドイツ人は持っていた。どれも一息つくより短い夢の間にすぎなかったが。 むろんぼくは、
ぼくに向って吹きつけてきたその未知の人物の顔を必ずしもいつも見たわけではない。(中略) だがともかくそういうとき、
ぼくはそういった顔を内側から見たという気になったものだ。『 わたしはこういう人間だ 』と、それらの顔には書かれていた。
そして今ぼくはこの四ヶ月というもの、現実の人間の顔を見ているわけだ。 なにもぼくはかれらに魂がないなどというのではない、
魂の光は一再ならず閃き出るのだが、それがすぐまたふっと消えてしまうのだ。鳩小屋の鳩と同じことで、強と弱、近いものと遠くから
持ってきたもの、卑俗なものと高貴なものとの、永遠の入ったり飛び立ったりなのだ。 あるのはざまざまな可能性のそういった
落着きのない出入りだけ、そしてそこにはつねに、あの一つの偉大な、決して言葉に言い現わせぬ奥底の思想が欠けている。
立派な顔には必ずあるあの変らぬものが。・・・ ≫          ーホフマンスタール『帰国者の手紙』より
 ▼ 顔に責任を持て、と言われても今更だが、年齢を重ねた顔には責任を持たねばならない。
  特に、政治家の大事を成し遂げた顔は、大事の象形文字と見ることが出来る。『わたしはこういう人間だ』と、
  そのまま書かれているようだ。先年、亡くなった片岡球子の人物画の顔が良い。人間の顔が象形文字ということを
  知り尽くしているから、あのような顔がかけるのである。 顔は魂の表出、老いてきたとき、行蔵が、そのまま現れ出る。
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3689, 自己を見つめる −12
2011年05月02日(月)
  * 世間とは        「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 
 世間についても、何度も取り上げてきた。特に絶対神を持たない日本では、右に倣えの世間的価値に同化することが善になる。
人生の最晩年になって、いかに、それが自分の壁になっていたことに気づいて慌てふためく。(それさえない人もいる)
世間から身を守るためには、やはり読書か、芸術や趣味などに専念するなどライフワークが必要である。 
世間を否定するのではなく、それと、心底で距離を置くことが必要である。 
  ー以下の、哲学的世間論も分かりやすい。
【 ー世間とはー 世の中の人が判断する仕方に従って判断する。大勢に準じた生き方のスタイルが、自分自身の生き方のスタイルに
なってしまう。 それ以外に自分の人生を考える余裕もすっかりなくなってしまう。 なにしろ、そうした自己喪失的な大勢順応の
暮らし方のほうが、気楽で、安心で、責任がなく、居心地がいいのである。 下手に逆らったり、別の道を選ぶと、世間から
締め出される危険性が忍び寄ってくる。 みんなと一緒のほうが安全なわけである。 したがって、誰も、真剣に自分のほんとうの
生き方の道などを考えてみようとはしない。 ハイデッガーは、こうした自己喪失的な世人のあり方を「頽落」と呼んだ。
そのときには、世の中の人は、いやな過去のことはどんどん忘れ、将来の成功のことをもっぱら予期し、現在の周りの出来事には、
最大の注意を払って、そこでの出番の成り行きに汲々となる。 そのとき世の中の人は、好奇心に動かされて、噂話や風評に打ち興じ、
物事の真相を曖昧にしたまま、仕事や趣味や遊びや気晴らしで、興奮した多忙な日々を送る。そうしないと、恐ろしい倦怠と、
ぞっとするような人生の深淵が眼に入ってきて、鬱陶しいのである。そうして、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な
世界内存在の表面ないし前景を形作ることになる。・・・ 】
 − 世間とは、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な世界内存在に生きている人たちをいう。しかし人間は、自分の存在の
根底を見つめたとき、投げ出された底なしの存在に、不安を覚えるもの。その気分の方が、人間の根源に潜む根源的気分であると、
ハイデッガーが看破した。 それは死にさらされた自己自身の存在の自覚とともに立ち上がってくるという。
その逆に、存在の根底から目を背ける人たちが世間の人である。我々は底なしの存在から目を背け現象に気持ちを集中させて
生きようとする別名、俗人ということになる。 俗人も悪くはないが。
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3324, 「B層」という「IQ]が低い人々
 2010年05月02日(日)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ーの中で、B層という言葉が印象的に残った。
 以前、小泉元首相が、≪一言メッセージ≫を国民にわかりやすくコメントしたり、郵政解散自民党の内部分裂を
ショーにして選挙に大勝した。 これは、考えない「B層」に狙いを絞った戦略だったことを、この本で知った。
その後の民主党の大勝も、「腐りきった長期政権の自民党の破壊」という分かりやすい争点であった。
それにしても、小泉、安部、福田、麻生、鳩山という政治を家業とする二代目が、徹底的に日本を破壊してくれた。
創造の前の破壊なら、それも良しだが。どうも、そうでもない。アメリカの実質、日本の植民地化の政策が背後にある。
彼等二世の養成もアメリカの長期戦略の一つ? 恐ろしい限りである。
 ーウィキペディアによると 「B層」とは
2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、
小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで
使われるようになった。  スリード社の企画書では国民を
構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、
「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。 主に主婦や教育レベルの低い若年層、
高齢者層を指すものとされる。 上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、
資料中に使用された「IQ」(知能指数)の語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた。
・「A層」=エコノミストを始めとして、基本的に民営化の必要性は感じているが、これまで、特に道路公団民営化の結末からの
  類推上、結果について悲観的な観測を持っており、批判的立場を形成している。「IQ」が比較的高く、構造改革に肯定的。
  *構成ー財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(テレビ)、都市部ホワイトカラーなど
・「B層」=現状では郵政への満足度が高いため、道路などへの公共事業批判ほどたやすく支持は得られない。郵政民営化への
  支持を取り付けるため、より深いレベルでの合意形成が不可欠。   「IQ」が比較的低く、構造改革に中立・肯定的。
  *構成ー主婦層、若年層、高齢者層など。具体的なことは分からないが小泉総理のキャラクター・内閣閣僚を支持。
・「C層」 構造改革抵抗守旧派。          「IQ」が比較的高く、構造改革に否定的。
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 大前は、「B層という知の減退した人たちと一線を引いて、何とかA層に入りなさい!」というから辛辣といえば辛辣。
しかし、この日本の低たらくの現実がある。 ネット社会=情報化社会では、端末から価値ある情報が無限に引き出せる。
したがって彼の論旨も、ある意味で納得できる。 知能まで植民地の住人に落ちてしまったB層の比率の拡大? 
  周囲は、ほぼB層? ということは、私も? まあ、いいか!  で、A層とかいう幸せな方々、実はD層じゃないかい 
 (一番大事なことを考えない、見えてない、という意味で?) 上記の5人が、その証明。  闘い続けている点は認めるが!
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2949, スリルな瀬戸際だった日々
2009年05月02日(土)
 先日の4月28日に、無事に第二シングル・インの中のテナントが決まり、調印が終わった。そして午後にテナントの内装屋から
 電話が入り、「建物の用途変更は、お宅でして貰えるのでしょうね」という。     (字数の関係でカット2,008年5月2日)
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2585, 情報は1冊のノートにまとめなさい
2008年05月02日(金)
「情報は1冊のノートにまとめなさい 」
 −100円でつくる万能「情報整理ノート」 ー奥野宣之著
 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日)
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2007年05月02日(水)     ー遇然同日に、酒の話があった。面白いものだ2008年5月02日
 2220, 酒の話ー3  +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆  
酒の話は、ここで何度も取り上げてきた。酒には付き合い酒、祝い酒、涙酒、別れ酒、
怒り酒、迎え酒、寝酒など、色いろあるが、あるHPで酒に関する面白い文に行き当たった。
酒は下ネタと同じく時空を超えて万国共通であるためか人間の本質を知る上で身に沁みる戒めが多い。
特に私は!? 偶然の一致だが、三年前の今日、『酒について』というテーマで酒について、
書いていた。面白いものである。 それにしても、酒の失敗があまりにも多い!
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*まずは『旧約聖書外典』である。『外典』は、『正典』としての「旧約」や「新約」聖書の成立の編纂で、
排除された文章をまとめたもので、酒に関する戒めのような実用的なものが多い。
これが2000年前の旧約聖書にあったのだから、酒は今も昔も人間を狂わせてきた魔物。
 ー『旧約聖書外典』(関根正雄編 講談社文芸文庫)よりー
大酒を飲むことで勇者を気取るな           酒で失敗した人は多いのだ
炉が鋼鉄をためすように               酒は酔っ払う人の性格をためす
酒はほどよく飲めば                 生命の力となる
酒なくして何の人生か                酒は人を幸せにするために作られた
時をえらんでほどよく飲めば             酒は心を楽しませ 愉快にする
だが飲みすぎれば苦い思いを味わい          怒りと復讐の心を生む
愚か者は酒によって憤り 自ら害を招く        酒は力を弱め ついには障害をうけるようになる
酒の席ではとなりの客と争うな            相客が楽しんでいるのを妨げるな
隣人をあざけったり                 借金の催促などをしてはいけない
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また若山牧水「酒の歌」で『今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を
  作ってきた事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飲んで来た事。』と酒の思いを述べている。
ー牧水の酒のうたー
(字数制限の関係でカット09年5月02日)
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2006年05月02日(火)
1855, ローマから日本が見える−9       (o´・ェ・`o)♪ぉはょぅ
ローマ街道を彼らローマ人は武器と考えた。そして、その武器を最大限生かした。
その武器を平時の時に常につくり続けていった。 (字数の関係でカット2,008年5月2日)   
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2005年05月02日(月)
 1490, 24歳の日記ー4  ー4月1日  1970年
一番大事なことは、誠実である。誠実さを持てば自ずから幸福につながる。言葉というものは自由な消費財と捉えられる。
しかも、その消費財を使う消費者は生産者を兼ねている。何か解ったような解らないような。父親に言われる、
「人間、自分が将来に希望を持てないようだったら死ぬべきだ!周囲に迷惑がかかる。死ぬなら今のうちだ」
 ー4月11日
10日間、両親と三人で四国に行ってきた。両親と三人で旅行するのは、今迄で初めてである。
考えていたより、素晴らしい旅行であった。 良い思い出になった。特に、香川の坂出の夕陽のオレンジ色の輝きは
生涯忘れることができない。生まれてみる初めて見た自然の輝きであった。瀬戸内海の景色の中の波の照り返す黄金の輝き!
学生時代に湘南で見た夕陽とは、また違った輝きであった。それと、両親と旅行することも二度とないだろう。 
かなり加熱していた頭を冷やすのに丁度良い。
 中原中也の詩「山羊の歌」の中の
ーあき・修羅街輓歌ーと、
ーみちこ・汚れてしまった悲しみにーが、今の自分を慰めてくれる。
 今の自分の心をそのまま表現している。 心の傷を消毒をしてくれる。 強くあらねば!
 ーーー 
  酔生
私の青春も過ぎた、 ―この寒い明け方の鶏鳴よ! 私の青春も過ぎた。
ほんに前後もみないで生きて来た…… 私はあむまり陽気にすぎた? ―無邪気な戦士、私の心よ!
それにしても私は憎む、 対外意識にだけ生きる人々を。 ―パラドクサルな人生よ。
 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日)
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2004年05月02日(日)
 1125, 酒について (ああ、酒よ!)
「神はこの世を六日間で創り給うた。そして、第七日目には、二日酔いを与え給うた」というとおり、酒はよいことだけではない。
(字数の関係でカット2,013年5月2日)
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2003年05月02日(金)
 758、ある医師の夢
 10年近く半年〜一年に一度の定期健診ー人間ドックにいっている。その主治医と、いつの間にか懇意になった。
 先日検診に行くと、オホーツクの僻地に赴任することになったという。
   (字数の関係でカット2,011年5月2日)
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2002年05月02日(木)
 394,「人生を変える至福の散歩」
昨夜、NHKウオーキング特集を組んでいた。「人生を変える至福の散歩」というタイトルだった。
(以下、字数制限のためカット2010年5月2日)