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* 「ぼんやり」礼讃 『ぼんやりの時間』辰濃 和男 (著)
受験期に「ぼんやり」していたら、一生を棒にふることになるし、弱肉強食の世界では生きていけない。
逆に、ひたすら人生を戦いにくれるのも、問題が残る。時代が世界的大不況に入って、ひと握りの人たち以外は、
決して物質的に豊かになれない時代。だからこそ大部分の者にとって「のんびり」生きる方が良い。 ここで、
リタイアーを向かえた人は、思い切って舵を変えなければならない。これまで否定的だった「のんびり」こそ
礼讃するに値する時節到来ということ。 ーその辺りから
《 ・・・なにはともあれ、自分でぼんやりしてみるのがいちばんだと思う。小さな公園のベンチでもいい。
コーヒー店でもいい。鎮守の杜の木洩れ日のなかでもいい。外に出るのが面倒なら、家のなかでもいい。とにかく、
ぼんやりを体験してみること、まずはそこから始めたい。一番いいのは風の吹き抜ける静かな場所に坐り、背を伸ばし、
肩の力を抜いてみることだろう。深呼吸をする。坐っていても、立っていても、深呼吸のやり方は変わらない。
深呼吸は息を吐くことに重きをおく。吐いて、吐いて、さらに吐く。細く長く吐ききるまで吐く。あなたのからだは
まだまだ硬い。ゆったりとした気分になり、さらに肩の力を抜いてみる。下腹たんでんの丹田を意識する。
深い呼吸をしながらぼんやりしていることが、あなたにとって快い状態になればしめたものだ。ときには、静寂が
皮膚にしみこむのを体感することができるかもしれない。静寂のなかでぼんやりするとの気持ちよさを味わうことが
できれば、それは至福への道の一歩になる。近所に、緑のゆたかな大きな公園があれば、なおさらいい。
そういうところは、きっとあなたの好きな木が何本かあるはずで、好きな木の前に立ってぼんやりする時間をもちたい。
「ぼんやり」という言葉と「貴い」という言葉は、ふつうあまり結びつかない。しかし串田は、それを手品師のように
鮮やかに結びつけている。その結びつけ方があまりにも鮮やかで、あまりにも自然なので、私はすんなりと合点した。
よく考えてみれば「ぼんやり」と「貴い」を結びつけるのは、相当の力技かもしれない。串田の数々の文章を読み、
それらはみな、長い黙想のなかで湧き水のように流れでてきたもの、という感じを私はもっている。・・・ 》
▼ ヤフーのブログに、現在、ネットで拾ったフィジーの写真を載せている。 地域柄、何ごともおおらか。
挨拶がハワイの『アロハ』のように『ポレポレ』。 こんちは、さよなら、ありがとうなど、全て、この一言で済む。
大柄で、スローテンポで、陽気で、こころ優しく、ぼんやりしている。何が先進国が優れている!が、戯言と、
直ぐに教えてくれる。自然の豊かさが、人間の貴品をつくっている。3月半ばの15時からポタリングを再開した。
途中で5分ほど休憩しているが、早速、10分間にして「ぼんやり」してみたが、なるほど、気分は良いが、5分過ぎると、
そわそわし、その後の5分が長く感じた。今度は、バスタオルを持っていき、ベンチで、しばらく、寝てみたい。
信濃川の土手で、春うららの中の転寝は、気持ちが良いに決まっている。他人様の転寝を見ていたが、自分に置き換える
知恵が全く無かったということ。スポーツジムのマッサージルームで、毎日、20分間、ボッケっとしているが、確かに
リラックスする。生きているうち、元気なうち、ぼんやりできるうち、である。 最後は、痴呆症で、ぼんやり!
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4401,フランクル ーつれづれに
2013年04月04日(木)
* フランクル
昨日、何気なく昼、NHK/Eテレをまわすと、≪フランクル“夜と霧”−終−第4回「苦悩の先にこそ光がある」≫を
放送していた。 フランクルの著書は何冊か読できたが、いずれも大きな感銘を受けた。 ー内容をNHKのブログでみると、
【 フランクルは、生きる意味は自ら発見するものであり、苦しみは真実への案内役だと説いた。最終回では、フランクルの
言葉に支えられながら生きてきたという、姜尚中さんをスペシャルゲストとして招く。姜さんは「与えられた運命を引き受け、
それをバネにすることで成長が生まれる」と言う。先行きの見えない不安が広がっている今、わたしたちは生きる希望を
どのように見いだすべきなのだろうか。「夜と霧」から考える。】とあった。メモを取ってなかったので、少し文言は変わるが、
《 ◎ 成功、失敗は左右の水平軸に分けられるが、縦線の上に意味、下には絶望・苦悩を置いて縦横の立体で捉えるべき。
◎ 砂時計で上の砂が真ん中の細い管を通って落ちて、下に溜まる。上の部分が未来、細い管の部分が現在、下が過去になる。
私たちは下の過去に重きをおかないが、苦悩などを含め必死に生きた管(現在)を過ごした過去は、充分に価値があり、
その人そのものになる。
◎ 苦悩とは、人間を成熟させて真実の自分を呼び覚まし、生きる意味を成就させるチャンスそのものになる。
◎ 人生に期待するのでなく、人生の方が私たちに期待している。》が、印象に残った。
フランクルといえば、ー自己超越のための3つの意味(価値)ーが、まず挙げられる。
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで得られる価値・意味 =極限状況の中での尊厳ある態度
また、ー人生には発見されるべき価値や意味があるーとして
1・意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
2・意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
3・人生の意味 (創造・体験・態度など生きる姿勢の中に意味を見出す) の3つを上げている。
フランクルは、「生きるとは価値判断(学習)と選択の連続である」という信念が一貫してある。
よく遊び、よく学び、よく働く、ことだ。 それに私の考えを加えれば、喜怒哀楽を開放してやることだ。
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4027, シングルイン、31年間の総括 ー7
2012年04月04日(水)
* デフレの直撃
ホテル物件は直ぐに相場の半値八掛で買い手が現れ、ホテル名をそのまま引き継ぎたいというので快諾した。
せめて名前が残れば有難いこと。 結果としてはオーナーのリストラ。 ある人が、「ホテルの買い手がいるんですか?」と
聞いてきたので、「‘やれる’と、‘やれると思う’は別物」と答えた。 「この30年の数字と経験から無借金でプラマイゼロ」
と思っても、「やれる!」と思う人が現に出てきた。三年間持ちこたえるかが目安だが、道路買収の時期が問題。無借金なら、面白い?
私なら絶対に手がけない。これも「私の思い」。 経営環境が厳しくなると長所にも想えた4棟分割が合理化の妨げになっていた。
分かれている長所は、在庫過剰になった時に棟ごとの業態変更が可能。現に長期滞在型への業態変更と、二棟の1F部分のテナント化は
思惑どうりになった。しかし棟が分かれ中途半端の規模は、総人件費の削減と、諸経費削減に不利になっていた。
デフレも、資産デフレの直撃が大きい。 土地の相場が、30年前の3分の一以下、土地購入値の3〜4分の一は、厳しい。
インフレであれば、半分も返せば8割以上返済したようなもの。今回の資産暴落は、返済総額より遥かに実質借入が増加の結果となった。
この物件を半値八掛で買った新しい事業者が更に絞り込んだコストで、既存のホテルに対抗するために更に価格を下げて、市場に挑んで
くれば、一段のデフレが進む。 資産も半値八掛で資産デフレの材料になる上に、価格の下げ圧力になる。 デフレスパイラルである。
しかし、光熱費は原油高で二倍、人件費も高騰、金利高なら、スタグフレーションになりざるを得ない。 恐ろしい限りである。
何度も書いているが、本当に恐ろしいのは,その後のハイパーインフレ。これが恐慌の本体である。その境目が、今年になる。
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3661, 9・11、9・15、それをしのぐか3・11
2011年04月04日(月)
この3・11災害は、2001年のイスラム教徒によるテロの9・11、そして現在も進行中の2008年の9・15をしのぐ歴史的出来事である。
地球温暖化の中で原子力発電が容認され、世界中が原発建設を競争するように計画・建設されている潮流での惨事である。
思いもよらない「震度7、マグネチュード9の大地震と大津波、そして原発事故と放射能汚染」である。リーマンショックで既に
日本経済は崩壊を始めていた上に、これ。今年から来年にかけて経済動乱が予測されたが、3・11の衝撃で、日本の存続の根底を
揺るがすだけでなく、地球規模の危機になってしまった。 10年前の9・11事件は、欧米とアラブの文明の衝突が露出し、それ以降、
世界が変わっていった。そして2008年9月15日のリーマンショックは、米英の金融支配の構図を根本から破壊してしまった。
今年から来年にかけて、世界規模の経済動乱に入りかけていた矢先に、こともあろうか、日本発の歴史的大惨事である。
これは人類史上に残る歴史的大事件であり、これまで人類が営々と積み重ねてきた文明を否定する象徴的事態である。
それも66年前に日米戦争で原爆を二回も落とされた国で起こった惨事である。20年前に経済バブルがはじけ、右下がりが続いて、
去年になて経済力を中国に抜かれ世界第三位に落ちてしまった。 今世紀に入って僅か10年の間で大事件が三回も起こっている。
9・11、9・15、そして3・11の惨事である。これは9・11、9・15の歴史的大事件をしのぐ大惨事が日本で起ったのである。
当然ながら国内は情報コントロールをされているが、日本人は無防備に、そのコントロール下にある。入手できる範囲の情報で、
あとは自分の勘を頼るしかない。そして、その勘にしたがって、判断をするしかない。原発事故と放射能汚染は、日々一刻と進んでいる。
その結果は? この国は大震災の日をもって、それ以前、以降といわれるほど、根底が変わってしまったのである。被災民は、全国民!
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3296, 不思議現象の正体を見破る ー1
2010年04月04日(日)
「不思議現象の正体を見破る」 安斎 育郎 (著)
―超能力や心霊現象に、人はなぜ騙されるのかー
ー内容ー (アマゾンより・・・)
現在までに報道されたり紹介されてきた不思議現象(超能力、超常現象、予言など)のトリックと、それを鵜呑みにしてしまう
心理状態を解説した書。同氏の他の著作と重複する事例・内容も多いが、本書では、不思議現象が存在するという根拠にたいし、
そのトリックを説明することで、それらすべてがいかに信憑性がないか(あるという証明になっていないか)を示している。
世界的に有名な事例を紹介しており、それらがすべて単純なトリックであることに改めて驚く。 圧巻は、漠然とした詩が、
大事件と簡単に符合し、いかにも予言であるかのように曲解して読み取ることが可能かを示した点である。
例として、枕草子の記述を深読みすると、一文一語が普賢岳噴火にぴったりと符合する!このことからも、ノストラダムスの詩が
後世の歴史的事実と多少符合しても、それが偶然以外の何ものでもないことを暗示している。 現に、世紀末には何も起こっていない。
▼ ユリゲラー、イギリスのミステリーサークル、コックリサン、念写など、その嘘を一つずつ解明している。 ユリゲラーも、
ミステリーサークルも、念写などをTVで取上げなくなった。これはブログなどの情報化のためである。
もし、信じていると言えば誰かが知っているカラクリを教えてくれる。それだけでない、TV局そのものが問題視され、
ディレクターは外される。この本で知ったが、イギリスのミステリーサークルも真実が明らかになっていた。
<二人の老いた絵描きが、「夜中に麦畑のキャンパスに描いた作品」だったと白状していた。二人はL字型の棒を持って、実際に
デモンストレーションもやってみせた。いやにイギリスの麦畑ばかり、という理由が、これである。この現象をプラズマ物理学の
立場から研究したミーデンは真面目に、この現象は世界各国に出現したと主張、彼だけでなく色いろな人が多くの原因を唱えた。>
彼らは二人の老人に騙されたのである。こんな調子に、過去の不思議現象の正体を暴いているから、読んでいて飽きない。
次回は、あのマジシャンのユリゲラーを、今さらだが、オサライをしてみよう。 彼はマジックを超常現象として
ショーアップしていただけだが、注目されればされるほど、その稚拙な手法がコミック的。
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2921,不況景色 ー10
2009年04月04日(土)
* 上野動物園が入園300万人を切る
一昨日のニュースで、上野動物園の入園者が60年ぶりに300万人を割ったと報じていた。前年より妬く60万人減というから
20パーセント減になる。パンダが死んで居なくなったことと、この不況が直撃という。9月半ばから4〜5割減ということになる。
家計面で節約対象になったようだ。また、オーケストラの公演が個人や一般企業の寄付の激減で大赤字に転じていると報じていた。
恐慌状況の中、なかなかオーケストラを聴こうという気になれないのも分かる。
* 金融サミットで
金融サミット「20G」が開催され、首脳宣言が採択されたが、何か首を傾げた。公式とは違う決定もなされたのだろうが・・・
(字数制限の関係でカット2012年04月4日)
* 4月に入って、更に悪化
去年の11月後半から、金融危機の影響が経済の現場に深刻に現われてきた。今回の経済危機の第二波である。
そして第三波が、この4月に入って襲い始めてきた。 予測はしてが、やはり現象として直面すると凍りつく。
ただし政府が、三月決算を乗り切るため思い切った緊急融資を上から押し込んだために、とにもかく平穏を保っている。
しかし、決算の結果が表面化する5月になると一挙に現象に現れてくることになる。
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2557, 印度放浪 ー2
2008年04月04日(金)
この本に著者・藤原新也の《語録》というコーナーがあるが、深い言葉が次々と出てくる。40年前の25歳の言葉だから恐れ入る。
印度という国が、彼の精神を育てたのか、元々持っていた素養なのか。読んでいるうちに、いつの間にか自分と比べている。
そして、小さな世界の中で小さな習慣に甘んじている自分が浮かび上がってくる。比べること自体がおかしい。その一部を抜粋してみる。
ーインドへの準備はとういうものだったんですかーー
二つある。捨てること。それに準備しないこと。僕の場合はね。学校。アパート。家具。本。捨てて支障のないものは全部捨てたり、
売り払ったりしたんだけど、そうしてみると、案外ほとんど自分の身の回りのものに切実に必要なものは、歯ブラシぐらいのも
のってことがわかる。 さっぱりしたよ。 準備しないってのはね。情報を一切入れなかったことだね。旅の目的地に関する。
(字数制限の関係でカット2009年04月4日)
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2007年04月04日(水)
2192, 人生とナメクジの線 オッ(*^○^*)ハ?ヨウ!
「キャリア」の語源は、ナメクジが這った後に残る線という。思わず噴出してしまったが、人生もナメクジの這った跡の線と思えば、
何も深刻ぶることはない。這っていく前には線は見えないが、後ろにはまるで道のように跡が残り、その跡が進むべき方向を示して
いるようでもある。我われが、明日を考える時に、やはりナメクジの跡の線と同じように歩んできた自分だけの線を振り返る必要がある。
ナメクジの優劣や跡の線など、それが如何したとみれば、悩みの殆どは消える。そういう喩えをみると、さらに展開をしたくなる。
そこで思いつくのが、家付きのナメクジ?、そうカタツムリである。家が無いカタツムリをナメクジとみれば、我われの持ち家など
持つことはない。これでは話が面白くないので、「塩という世間を這いまわり自分の身体を溶かしながら生きるのが人生」
と考えると尤もらしい言葉になる。 ひろ さちや著のー「狂い」のすすめーの中にあった一節を思い出した。
* そこを抜粋すると *
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。
そうした気持ちの旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、
貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅になるはずです。
インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、
重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。
▼ 土手を歩いていると、よくカタツムリが道を横断している。しっかりと、その跡がついているのだが彼らとて大変である。
雀とカラスの丁度良い餌になったり歩行者に踏むつぶされ、線が横断途中で途切れているのを見かける。
お悩みの諸君!悩んでいる自分をナメクジと鳥瞰した喩えで笑えるなら、もう半分は悩みは解決しています。
・・・・・・・・・
2006年04月04日(火)
1827, 日本一短い手紙「私へ」 才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
ー 読書日記
「私へ」の手紙}といえば哲学的にいえば、{即自から対自への手紙}ということになる。だから万人に共通する言葉であり、
一言一言が響いてくる!あの歳の、あの場所で、あのケースで、呟いていた自問自答の言葉がある。
これほど奇麗事の言葉ではなかった。ふて寝をしながら、涙を溢しながら、時間の過ぎるのを待つしかなかった。
こんな言葉が心の奥から聞こえてきたら、あれだけ傷はつかなかっただろう。
この本の中で「私にしかできないことがある。きっとある。今は分からない。」という言葉がある。
この言葉には、希望と明るさがある。 絶望の海に溺れてしまった息苦しさの上の言葉には聞こえない。
「私へ」という自分が、そこにある! それだけで、明るさがある!
それでよいが。私の自分への言葉を、いま思いついたまま書いてみる。
ーー
まあ、いいじゃないか! それで、いいじゃないか!
これしか、なかったじゃないか! それも、これも、 どうでも、いいじゃないか!
ほんとうに、これでよかったのか? ほんとうに、あれでよかったというのか?
まあ、いいじゃないか! これで! 他に、しかたなかったじゃないか!
▼ 歳を重ねると、こういう自問自答が多くなるのだろう。 それが老いるということである。
気持ちは青年のままでいたいものだ! せめて年寄り臭い奴の傍には近寄らないことである。
そのためには常に感動、感激を求めることだ。 お茶どうぞ 且_(゚◇゚ )ノ゙
ーー
日本一短い手紙「私へ」
一筆啓上賞
おいおい そんなに落ち込むなって 人生少しわかりかけてきたじゃないか。 浅原昭子 青森県黒石市 40歳
お前の大きな財産の一つは、いじめの痛みを知ってることだ。 荒平翔太 熊本県菊池郡合志町 17歳
コノセカイニ アタシハヒトリダケ ソレハアタシヲ ツヨクスル 道志寿佳 福井県坂井郡丸岡町 18歳
ずっと“いい子”の私。やめたいのに本当の私を忘れてしまった。私は何がしたいの? 金島道子 広島県庄原市 17歳
私にしかできないことがある。きっとある。今は分からない。でもある。きっとある。黒木かつよ 宮崎県児湯郡都農町19歳
あなたの心の悲鳴。聞きとれるのは私だけ。私とあなたの寂しい関係。 竹田飛鳥 東京都江東区 15歳
(字数制限の関係でカット2012年04月4日)
・・・・・・・・・
2005年04月04日(月)
1462, 永遠に生きるように学べ
学生時代に、「永遠に生きるように学べ、そして明日死ぬかのように生きろ」という言葉に出あった。
最近、再びある本で出会ったが、年齢を重ねたためか、この言葉の重さ・深さを改めて実感する。 母親が向学心が強い人で、
その後姿を見ていたので死ぬまで勉強の必要性は感じていた。その都度、自分も社会も変化していくのだから、
基盤も変えていかなくてはならないのは至極当然のことである。年齢を重ねるほど、経験の裏づけが多くあるので吸収度が高くなる。
せっかく地球に生まれてきて、80年の時間を貰ったのだから、地球のこと、宇宙のこと、そして人間が長年かけて積み上げてきた
知識・文化を可能な限り見て・知って・経験するのが、人間の生きる最大の目的になる。自分で意識をしてこの言葉を自問しないと、
虚脱感の強い・虚無的な人になってしまう。「もう歳だから何で勉強をする必要があろうか」「まあ世間様と同じように何事なく
生きていれば良い」と何もしない生き方になってしまう。それならまだしも、真っ当に生きている人に対して批判をするのが
趣味になってしまうから、自分に対して更に害を及ぼすのを自覚できない。90?以上?が、私の見る限りそうである。
いや、もっと多いか。その辺で老人同士が、いい歳をして人の悪口を言っているのをみると、思わず顔をそむけてしまう。
それまで生きてきたようにしか歳をとれないのはわかるが。「永遠に生きるように学べ」は「死ぬまで勉強」と同義語であるが、
響きが明るいのが良い。「明日死ぬかのように生きろ」は人生のコツである。明日死ぬかもしれないのが人生である。
だから「いま、ここ」を大事に生きなくてはならない。一期一会である。 いま、ここの一瞬は永遠である。生きているとつくづく、
このことを実感する。この随想日記も、そう思って気持ちを集中している。何十年後に子供が読んでも、この今の一瞬の集中の閃きは、
そのまま言葉の中に永遠に篭っているはずである。若き老人達よ,この言葉を自分の手帳に書いて、繰り返し読むことを勧める。
最低千回は口ばんでみるべし。 「15歳で自分の人生を投げ出してしまった貴方のこと!」「自分のこと!?」「そう!」
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2004年04月04日(日)
1097, 落し物
散歩をしていたら熱くなってきたので、ベストジャケットを脱いだ。持っていた折りたたみ傘をそのジャケットに
入れたところ、いつの間にか無くなっていた。
(字数制限の関係でカット2009年04月4日)
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2003年04月04日(金)
730, 「ほめ芸王」ー読書日記
ー褒め上手は芸のうち
営業を何年もやっているうちに身につける芸である。口先だけの営業手段として、ただで一番効果のある手段だ。
十年以上営業をしていれば、営業術から営業芸にランクアップしてしまっている。
キーマンに会ったときの枕詞として、「さて今日は何の褒めネタでいくか?」と考える。
(字数制限の関係でカット2013年04月4日)
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2002年04月04日(木)
366, 速読法
先回も書いたが、速読法という本を読んでいて吃驚した。一つ一つの語句に目を合わせるのでなくて、一度にページ全体を眺め、
(字数制限の関係でカット2009年04月4日)