ーひと言でいいのですー吉川直美編
* 挫折と悲哀こそ兄弟との共感のパスポート
人生で、何も挑戦しないで、挫折も悲哀も味わったことがない人が思いの外に多い。それも人生だが、ポッキリと
折れてしまう危険がある。その時に立直るに大きなエネルギーを要することになる。秘境ツアーの中に、こういう人を
何人か見かけたことがある。 かなり深刻の悩みのようだっただが、それを経験する方が、しないで済んだ人より幸運?
大きな挫折を経験してない人ほど、「まさか、自分が!」 の声が心底から生じてくる ーその辺りから!ー
《 【苦しんだことのない人々がどんなに我慢のならないものかは、人生のあらゆる分野で教えられる。
挫折と悲哀こそ人間がその兄弟たちと共感し合い、交るためのパスポートである。ーロバート・ゴルティス】
ある心理的・霊的成熟を目指す研修会に、いつもピンと背筋を伸ばして人きぜんを寄せつけない、毅然としたシスターが
参加されていました。 ほかの参加者が様々に痛みや弱さを分かち合う中で、彼女は両親にも家族にも愛され、早くから
神に仕え、とくに記憶に残る挫折も後悔もなく、どんなに心を探っても痛みがないと胸を張られました。その研修会にも、
修道院長に命じられてしぶしぶ来られたのでした。ほかの参加者が嘆き、もだえ苦しみ、寄り添い寄り添われ、やがて十分
泣いて気の晴れた子どものように笑顔を取り戻したころ、思いがけずうちひしがれていたのは彼女でした。
「私には人の痛みがわからないことがわかりました。それがはじめて知った挫折です。」》
▼ 人生の味わいは、挫折と悲哀と諦念から滲み出てくる。それなくして、最後の最後に、味わいの無い自分の人生に
愕然とする。 秘境旅行の参加者には、そういった風な人が、人生の悲哀を味わい尽くしてきた人より、目立っている。
それこそ一番の挫折に気づいた人たちである。何度も書くが、中学校の担任の先生が、定年時に私に深刻に話したのは、
このことだった。「定年になった現在も90歳前後の両親に見守られ、のうのうと順調に生きてきた。しかし、そこには
自分の人生が全く無かった。これほど、無念のことはない。思いのまま生きている、お前が羨ましい!」と。それも人生。
その怒りを周囲の挫折や悲哀に向ける人たちより、遥かにましである。この節目で‘自分の傷口を他人の血で洗おうとする
哀れな人たち’を多く観察しただけでも、良い経験をしたことになる! 自分の経験範囲しか理解できないのが人間の性。
そのことを自覚できないのも人間の悲しい性である。 ところで私も、このシスターの範疇? で、最期は! 娑婆娑婆。
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4392, 暴走老人! −2
2013年03月26日(火)
* 待つことをめぐる考察 ー時間編 「暴走老人! 」藤原 智美 (著)
イライラの原因の一つは待たされることである。しかし日常は考えてみれば「待つこと」で大半は占められている。
列車を待つ、車内で目的地に着くのを待つ、エレベーターで待つ、昼飯が出てくるのを待つなど、待たされることばかり。
最近、喫茶店に学生が少なくなったという。スマホなどの携帯電話で待ち合わせの時間が無くなったり、駅などのベンチで
ネットサーフィンやゲームをしていればば、別に喫茶店でなくてもよい。 それは待つ喜びも失われたことになる。
子供の頃、クリスマスや、年末の年越しを心躍らせ首を長くして待っていた。現在、そんな気持ちになることなど殆どない。
主体的な待つのは良いが、相手の都合によって待たされることに苛立つ。現代は、ムダな時間を排除するのが求められる。
そのムダの時間には考える余裕が含まれるが、今やそれが無くなりつつある。企業では無駄が排除され、合理性が求められる。
そして定年や人員カットで社会の一線から押し出され、御年寄りとしてムダの存在として見られがちになる。それに苛立ちと
焦燥感が蓄積される。それが乾くと、一寸した発火で怒りが爆発し燃え上がる。10歳の頃の一年は、本当に長かった。
新学期になってクラス替えがあり、新たな顔ぶれの中、授業が始まり、梅雨がきて、試験があり、やっと夏休み、・・・と
長い日課が延々と続いた。それが、今や、アッという間に一年が経ってしまう。 それが今では、先は残されてないのに、
思い出すのは嫌なことばかり。以前は考えなかった、「何のために生きているのだろう?」という問いが、浮かんで消える。
そこではマイナスのフラッシュバックが次々と出てくる。
私たちは自分の時間割を帯グラフで割り振るようになっている。4時起床、そのままパソコンに向かい随想日記の書き上げと
アップロード。6時過ぎに信濃川沿岸へポタリング。7時半、食事。8時風呂。9時から読書と随想日記の下書き等々、
帯グラフに従って一日をこなしていく。そこに、チャリ、パソコン、スポーツセンター、読書さえ、マシーンが介在する。
どれもこれも便利で快適だが、これに適応出来ない人にとって、大きな格差が出る。周りをみると、同世代にiPad、
iPod、パソコンを使いこなせない人が意外と多い。それでもタブレットPCが普及始めたので解消してきた。
ラーメン屋の行列で待つ、新製品の発売を店の前で待つなど、「待つ」ことが、レジャーの要素の一つになっている。
待つというのは、「間」があるということ。その間は、空白である。元もと私たちは空白に漂う陽炎のようなもの。
それが本来の姿ではなかろうか。生れて死ぬまでの間、それが生きるということ。その間で、たっぷり間を持つことも
大事ではなかろうか。それにしても時間に、いや、空白に恵まれていた。「待つ時間が人生の大半を占めていた」とはね!
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4018, シングルイン、31年間の総括 ー1
2012年03月26日(月)
準備期間、一年を含めた31年間の総括をする。
* 新潟駅前の事業 ー準備期間1980年3月1日〜、開業1981年3月31日、閉鎖は2011年3月30日。 まる31年。
* 新潟駅前で4棟、駐車場一箇所、客室数500室。
* 新潟駅前のホテル等の総投資が32億。
* 創業時の自己資本が2億。借金残債が、10億だったので返済額が20億円。
* 営業利益が赤字になったのが最後の年だけだったので、勘定足って銭足らずの典型。
* ホテル営業30年のうち、上り坂が当初10年、次の10年が緩やかな右下がり、2001年の9・11テロから
4年かけて売り上げが三分に二に激減。 さらに2008年の9・15のリーマンショック以来、二年半で半減。
11年前の9・11テロから三分の一まで減少。 東北大震災で、さらに2〜3割減が予測された。
破綻の直接原因は9・11テロと、リーマンショックの売上が65%減。 東北大震災は最後のとどめ。
* 取引先への負債は20日締めの月末支払いを終えた後のため、ほぼゼロ。事務所、自宅への債権者の電話、押しかけゼロ。
* 最後まで残った役員と管理職の退職金は、当社退職規定の65〜95%の支払い済み。(国の補填3百万も含め。)
役員は、役員就任時に一度、退職金払い済み。
* 会社関係の5つの物件は三ヶ月で完売。 しかし一つがキャンセル。 それも、半年後に売却。
( 弁護士曰く、「銀行も、ここまで早く売れると思ってなく、慌てていた」。
自画自賛になるが、千葉、長岡で手がけたビルは、売り出すと同時に即売。 設計の中に売却前提で計画してあるため。
▼ この事業の結果に対して、後悔も、未練も一切なし。 三つの経済・自然災害が直接原因だが、本来、土地を仕入れ、
借金をしてする事業ではない。そのことに10年で気づかなかったこともある。それと、情報化で、ビジネスのあり方が
変わってしまった。数日かかった出張も日帰りで済むようになってしまった。 結果から、バブル崩壊直後に売却が理想。
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3652, 地震 ーつれづれに ー12
2011年03月26日(土)
* 外国人が大挙して帰国、 そして身近に避難民が!
日ごと、原発の放射能の起こるべきマイナーの影響が一つずつ、現れ出てきている。
御用放送局のNHKのニュースと、広告料金で成り立っている民法の流す情報など信じるに足りない、と仮説を立てると、
現在流されている事態の本質は知ることが出来ないのは当然のことと思い知る。 東北は壊滅状態とは間違っても記事に出来ない。
毎日、枝野官房長官の発するコメントは建前の上っ面の情報でしかない。 外国人が我先に逃げ出していることを考えると、
地球史上最大規模の危機とみるべきである。 政府は事実の情報を風評とて否定することしか、パニックを抑えるしかない。
現状の進展を一般には小出しにするしかないのである。放射能の摂取量が10倍、100倍から何時の間にか数千倍になっている。
しかし、外国は容赦なく事実を報じるから、そのギャップがみえてくる。
ところで、家内が昨日、自転車で郵便局に向かっていたところ、中年の女性に福島弁で「郵便局は何処ですか」と聞かれ、
「自分も行くところだから、ご一緒しましょう」と、自転車を降りて話しを聞きながら案内したという。その内容とは、
「自宅が30キロ以内にあり、家族で車で避難してきた。しかし、自分は透析を受けているので、中央病院に近い比較的
良い公立のデーサービスの施設に一人でいる。原発は政府は安全というので、信じていたのに、こんなになってしまった」と。
その施設に三年ほど亡くなった母親を週二回、世話になったことがあった。大きな娯楽室があるが、そこのステージの上で
暮らしているとか。 30キロ以内なら、もう元の生活に戻れるかどうかである。その人の顔色が悪く正視できなかったという。
駅には、大きなリュックを持った親子連れの姿が多くみられる。本当に、これが現実なのか信じられない日々である。
この事態で、経済活動は大幅に減ることになる。それだけでない、今年の就職の内定の取り消しと首切り、そして倒産が
大幅に増加することになる。身が凍る思いである。あれから二週間になるが、現在も進行中で問題が拡大している。
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3287, 人みな骨になるならば ー5
2010年03月26日(金)
* ザインとゾルレン
ー まずは(P−68)の「ザインとゾルレン」の一部分を抜粋する。
・ザインはドイツ語で、「在る」とか「である」のことだから、抽象名詞として使うと「そこに客観的に在るだけのもの」
という意味になる。それが良いことか悪いことかを問わず、現実にあるんだもの、しょうがない、といったニュアンスの言葉。
「存在」と訳されるが、「現実」や「実態」と訳したほうがよいことも多い。
・ゾルレンというのは、英語では助動詞に相当する。「べきである」「そうあらねばならない」といった意味で、
抽象名詞としては「当為」と訳される。当為は訓読みすれば「まさになすべし」と読み下す。
「そうあらねばならない性」、ひいては「本来はそうであるべき様態」のことである。
たとえば、当時の旧制高等学校生なら「親父が死んだので、ゾルレンとしてはすぐ郷里に帰へって家業を継ぐべきだが、
ザインとしてはここでこうして破帽のまま君たちと安酒を酌み交わしているわけさ」といった使い方をした。
このように、ザインはゾルレンとともに用いられるのがほとんどだから、ザインというのは単に現状というだけでなく
ゾルレンと対比される「ていたらく性」を帯びる。 本当はゾルレンであるべきなのに、現状はザインなのよ、といったところ。
前節で挙げた唯骨論によると骸骨こそがザインの象徴である。 そんなものが、われわれの体内に鎮座しているというのは
必ずしも歓迎すべきことではない。若い美男美女であれば、なおさらのことである。 だれしも一皮剥けば骸骨が現れることは
簡単に証明できる。 ただ最近は手術場を除いて、生きている人間にそんな残酷なことをあまりしなくなっただけのことである。
ゾルレンとしては、万物の霊長にして神の似姿である。そんな人間の中心が骸骨にすぎないというのは直視するにしのびがたい。
いくらなんでも骸骨はあんまりだ。人間の中心には霊魂やクンダリニーが宿っているべきである。 しかし、それはあくまでも
ゾルレンなのであって、あいにくとザインとしてはやはり愛想のないことにおぞましくも骸骨しか存在していない。
ここで悟るべきである。ゾルレンというのは願望や想像、あるいは強制にしかすぎず、実証も提示もできないものであることを。
ゾルレンは信じることが出来ない対象であることを。 これに対してザインは見ることも、触ることもできるものである。
▼ ザインが唯骨論の骨の存在で、ゾルレンは神の似相である、というのは言いえて妙である。
ゾルレンは願望や想像、あるいは強制に過ぎないと言うのも刺激的である。こうあるべき、というのも幻像の最たるもの。
等々、著者の虚無の論も肯けるというより、優しく聞こえてくる。 それも経験と年齢を重ねたためである。
閑吟抄の、チロリ チロリ チンチロリの「何しょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」の虚無とは類似をしている。
成すべき、などの建前より、今生の世は夢 と割り切り、狂ったように生きることこそ、虚無を突きぬけた言葉である。。
何をしても、成るようにしかならないのだから、目の前を精一杯、何かに打ち込むしかないということ。それも、捨て身で。
それが狂うということ。 この二つを冷徹な目で、己に対してみつめることだ。それが骨になったものの視線である。
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2912,金を使うなら頭を使え!
2009年03月26日(木)
榊原英資vs岩井克人の対談 「金を使うなら頭を使え!」ー新潮45ー09年2月号
ここで学者と元大蔵官僚の二人は、この金融危機の深刻さをアッサリと論じている。
既にアメリカの金融全体に8兆ドルを投入していたのである。それだけ深刻ということになる。
一つAIGだけをとっても潰すことができない。潰せば残っているゴールドマンサックスなども
倒産してしまうからである。といって対処主義では、ここだけで数百兆円も投入せざるを得なくなる。
ということは、結果は知れたこと。 新ドルの切り替えか、国家デフォルトしかないことになる。
ーまずは要点を抜粋してみるー
榊原は、
・まず「アメリカ政府とFRBが金融セクターに入れてある資金が8兆ドル(800兆)で、
アメリカの金融システム全体が公的な管理に入っていると述べている。
・アメリカの消費が落ちなかったのは消費者金融のおかげだったが、それが壊滅した現在、
国民は消費行動を変えざるを得なくなったという。
・金融危機ー>金融収縮ー>資金繰り難、倒産ー>マイナス成長ー>不良債権の増加ー>金融危機の拡大
というスパイラルに入ってしまう可能性が大としている。
(字数の関係でカット2011年03月25日)
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2548, 一神教vs多神教 ー2
2008年03月26日(水) (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
この本を読むと、現在起こっているアラブ対欧米の血みどろの争いの原因が透き通って見えるような気がするから不思議。
この本は、一神教の批判本であり、多神教については、あまり語られてはいない。そもそも、一神教は奴隷の宗教、
迫害された人々の宗教である。だから、その根本は怨念があり、戦闘的であるのは見ていればわかることである。
「なぜ多神教は一神教に負けるのか?」という問いと、その答えが面白い。
ーまずは、その部分からー
多神教は突きつめると、共同体の血縁幻想に支えられ、母親的、女性的に支えられているから、それが一神教を打破することはない。
戦わないということはないが、自分の範囲以上には自分の神々を広めようとしないから、限度がある。逆に一神教同士だと、
両方が普遍性を主張するから、血みどろの戦争になる。共産主義も一神教です。 ユダヤ教かキリスト教の改訂版です。
一神教が普遍的現象なら、中近東以外の地域に別の一神教が出来てよいはずですが、発生しませんでした。
ということは、一神教は、自らの普遍性を主張しますが、本当はきわめて地方的な現象で、言ってみれば、中近東の風土病ですね。
一神教は、中近東の風土病で、強迫観念が強い。そして狂信的の重度の病気であるから、絶対にこうでなくてはならないと
信じているやつと、多神教のように、こうでも、ああでも、いいと思っている奴と喧嘩をすれば、勝負ははじめからわかっている。
その結果、一神教が世界を植民地化していったのである。
ーー
一神教は都市の宗教であり、多神教は農村の信仰であるということ。世界宗教に発展するには、まず都市の宗教である必要があったのです。
ーー
一神教は人類の癌だという意味は、一神教の唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄を
もたらしているということです。自我というのは、病気で、自我の強さは病気の進行度のようなものだけど、その場合の最大の難関は、
その両者が対決すると、自我の強い方が勝ってしまうということです。つまり、人類は、病気の重い連中の方が勝つという絶対矛盾状況に
おかれているということなんです。人類史でいえば、ネアンデルタール人が絶滅して、クロマニョン人の世の中になってしまったという
時点で、もう間違ってしまったじゃないか。クロマニョン人つまり現生人類は言語も宗教も芸術ももっている。それ以前に、地球に
人類が発生したことが間違いのもとだったということになる。人類がいなかったら、人類以外の動植物はどれほど幸福だったことか。
ーー
好戦的な狂信主義者といえば、それまでだが、あくまで中近東の風土病という表現は言いえて妙。
一神教は人類の癌というのも、思い切った言葉である。人類は癌というのは聞いてはいたが。
また明治政府以降の天皇制について、擬似一神教と看破しているところは頷けた。その辺は、次回に考えてみる。
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2007年03月26日(月)
2183, --つれづれなるままに-- (~Q~;) おはよう??ファ?
ー大相撲についてー
(字数の関係でカット2012年03月25日)
ー夢ー
ー携帯電話ー
(字数の関係でカット2012年03月25日)
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2006年03月26日(日)
1818, あちら側の世界-1 (’0’)d おっ w(゚Д゚)w ハァ?
ウェブ進化論 ?1 ー読書日記
ー概略編ー
新聞広告をみて面白そうだと思っていたが、買って読んでみてショックであった。(ウェブの世界の深遠をみてしまった!
ということで)私のような門外漢でも理解できる内容がよい。読んで現在進行しているウェブ世界の奥行きの深さを思い知らされた。
というよりGoogleの世界の奥行きを知らされた思いだ。私の場合、毎日平均数?回はGoogkeの検索を使っているから、なおのこと
理解できたのだろう。そして、5年間このHPを維持してから。そしてamazonのHPの進化を実感してきたからである。
キーワードが現代のお金で、検索の向こうが現金引き出し機か、何でもでてくる自販機、という譬えの世界である。
ウェブのとてつもない世界が、向こう側で自己飛躍している。ー資料をGooglの検索で集め、まとめてみた。ほぼ、
この本の概要の7?8割は把握できるだろう。(このプロセスで、この本を2?3回読んだ効果はあったが。
本そのものの読み方もキーワードを検索をしながら読むと、理解が早く深くなる。それより、やはり買って読んだほうがよいが。)
ー私の感想文というカタチにしたー
ーー (。・・)_且~~ お茶
ウェブの世界の人達からみれば、何ということが無いかもしれないがその利用者として、驚きの毎日を過ごしている
此方側の自分が、著者としての当事者のアチラを含めたウェブの世界を鳥瞰している内容である。
ネットの「あちら側」と「こちら側」というユニークな視点で、Webの進化がもたらす影響を論じている。
(字数の関係でカット2008年03月25日) ー つづく
ーーーー
「ウェブ進化論 」?本当の大変化はこれから始まる
ちくま新書 ?梅田 望夫 (著) サラバジャ? ゝ(-_- )
・・・・・・
2005年03月26日(土)
1453, おどろき、そして感動
「考えるにはどうしたらよいですか?」という純朴な問いかけがある。この問いかけに対して、いずれの哲学書にも
「おどろき」が「考える」突破口になると書いてある。何でもないことの中にも新しい発見を見つけ驚くことがその出発点になる。
驚きは、そのまま感動につながる。その感動が人生を動かす。仏教の教えの中に「驚きをたてよ」という言葉がある。
この言葉は、考える、生きるという面で深い意味がある。歳を重ねると、多くのことを経験しすぎて驚きが少なくなる。
しかし、歳をとって解ったことは「驚きが桁違いに多くなった」ことである。知れば知るほど、その周辺に知らない発見が増えるからだ。
驚くということは、未知・無知の分野に果敢に挑戦して新しい何かに衝撃を覚えるということだ。それと未知なるが故の不意打ちが
驚きになる。 そして、それが考えにつながっていく。無能の人は、何を見ても聞いても驚かない。驚く素養がないのだ。
いや思い込みというバカの壁が取り囲んでいる。破れている太鼓が音が共鳴しないのと同じである。
隣の太鼓の音にもよい太鼓は響くが破れ太鼓は実際に叩いても音が響かない。驚きには、その皮の張りが必要である。
世界を旅をすると、驚きに満ちている。そして、その深い世界に感動をする。こんな世界があったのかと、
内面が爆発しそうなほどの感動を数知れず経験する。そして対象にのめりこんでいく。人間は感情の動物といわれる。
たしかに理性的な部分が人間たる所以だが。人間を突き動かすエンジンのはたらきをするのが感情である。
感情は
・おどろき ・愛 ・憎しみ ・喜び ・悲しみ ・欲求の6つから成り立っている。
(字数の関係でカット2013年03月25日)
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2004年03月26日(金)
1088, 商売人
「商才は西進する」とシルクロードの旅行で聞いたことがあった。ところが、曽野綾子の文章に同じ内容があった。
・東京商人は大阪商人に比べたら子供 ・大阪商人は中国商人に比べたら赤子
(字数の関係でカット2012年03月25日)