イタリアのポンペイの遺跡には三度行っているが、行くほどに、その魅力に惹かれる。また何度か、ここでも書いてきた。
TVでは、『NHK BS歴史館』などで、多くの特集を組んでいる。また、図書館には写真集などがある。 
AC79年に、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山 が大噴火すると、南東10キロに位置したポンペイの町は火山灰に埋もれたが、
1748年から発掘調査が行われ、それが現在も続いている。 ローマ人が創り上げた古代都市が徐々に姿を現しているが、
今でも半分も、発掘されてない。 舗装された道路、神殿、住宅、商店街などが20Mの火山灰に、2千年の間、保存されている。
人骨などは、その熱で溶けてしまい、それを覆って出来た空洞に石膏を流し込んだものが発見された現場近くに展示されている。
 ところが最近、ある地下室で、54人が噴火後、生埋めになって折り重なった生々しい遺骨が発見された。
そこで、彼らのDNAや、装飾品・衣服などから新たに多くの事実が分かってきた。 そこは大きな商家で、その主人と
思われる人の身の周りから金銀が。エメラルドを身につけた男女の遺骨には、人骨が青く同化。小銭を多く持っている人は
近くで商いをしていた人。妊婦は胎児の骨がお腹の辺りあったことから推察される。噴火から火山灰がポンペイまで
到達するに九時間かかったというから、留まった人は、大金持で金銀の財産を失うのを恐れ、妊婦は身重で、商人は店に
未練があったため、等々が推察される。 ポンペイには、下水道が完備、都市計画があって、商店街、大広場、神殿などあり、
現代の都市にひけをとってない。古代ローマの都市は、中世のルネサンスまで、それを凌駕した時代は一度も無かった。
その古代都市を、大噴火の20Mの火山灰が石膏代りに、都市全体を保存し、私たちの目の前に再現し見せてくれるのだから、
奇跡である。 石の文化は、後々まで残るからよい。彼らは午前中だけ働き、あとは浴場や、劇場などで、生活を楽しんでいた。
瀬戸内海周辺は、農作物などが豊富で、物流が盛ん。それが万遍無く市民に行き届いていたようだ。 世界は広く、深い!
・・・・・・
2004/11/29
1336, 2000年前のポンペイー5
一昨日のNHKスペシャルで「ポンペイ」を特集していた。
落書きを切り口に番組みを構成していたのが、新鮮であった。
たまたまポンペイについて書いていたので、その偶然の一致が奇妙な気分である。
2000年前の生々しい人間の心が、落書きの中に出ていた。話は少し逸れるが、エジプトのルクソール神殿の遺跡の壁に
あったレリーフに,兵隊の絵があった。同じ絵が多く描かれていたが、現地の日本人の女ガイドの説明が面白い。
その兵隊うちの一人だけが、ところどころ逆向きに向いているのだ。当時の多くの職人の一人が、命をかけて?
わざっと逆向きに彫ったという。いつの時代でも、そのような遊びがあった。それよりも、数千年の時空を超えた
男の生身の人間的なジョークを伝えているのがよい。
  ーその番組みで紹介していためポンペイのメモには
・〔私と貴方が一緒に踊ったことを憶えていて、訪ねてきてくれてラブレターを置いていってくれた〕返事が壁に書かれていた。
・隣近所のお知らせー人々は回覧板かわりに壁を使ってコミュニケーションをしていた。
・現在の通りの商店看板と殆ど同じものが、当時のポンペイの街にもあった。
ポンペイの街には400軒の店があった。 24時間営業の居酒屋があった。
 その居酒屋の奥の部屋でゲームと会話をしている絵が残されていた。
・食料品店の壁には、掛け売りのメモが書きこまれていた。 家計簿的なメモもあった。
果物屋には桃が売られていたメモがあった。  等々である。
メモから、当時の変化がうかがい知ることが出来るという。当時のローマ帝国の政策の大きなものとして、
パンと、サーカス(街には必ず円形劇場がつくられていた)を庶民に与えることであった。
AD・54に17歳で皇帝になったネロが、その政策を更にエスカレートさせていった。
そのためか、贅沢の限りをつくす考えが一般にまで浸透を始めていた。
その頃のメモに〔今を楽しめ〕というのがあった。それがエスカレートしたのかタブーのメモもあった。
・下品の言葉を慎むように
・他人の妻には手を出さないこと
・食事をしていて、着物を汚さないように
 宴会場の壁には、酔っ払いの落書きに
〔とことん飲むぞ!〕というものもあった。
富める者と貧しいものとの格差が鮮明になり始めてきていた。
そして、貧しい者の荒んだ心がそのまま落書きになっていた。〔あの男に災いあれ!」
当時の円形闘技場の落書きの中に「闘技場の外で多くの人同士が剣をもって争う姿」があった。
試合を見ていた同士が喧嘩になって殺しあう事件が起こったのだ。
普段の生活が、火山で時がそのまま密封され生々しい世界が奇跡的に今に多くを語りかけている。
  −この私のポンペイのシリーズはまだまだ続くー
・・・・・・
2004/11/26
1333, 2000年前のポンペイ −4
遺跡の中でポンペイの遺跡は、奇跡に近い状態で当時の世界をそのまま閉じ込めて現在に提示してくれている。
この世界のグラビアの本を開いているだけで、気持ちが2000年の時空を飛び越えてローマの時代にはまりこんでしまう。
この小プリニウスの手紙には、大きな衝撃を受ける。この青年の知性にも、驚きざるをえない。
それと、大プリニウスの行動にも当時の知的レベルの高さを知ることができる。この内容が、2000年前の事実がそのまま
ドキュメント風に記載されているから迫力があるのだ。人間の変わらない感動、恐怖、そして生活がそのまま伝わってくる。
街全体が、当時のまま残っているから、更にこの手紙の内容が生々しい。
18世紀の初頭まで人々の記憶から忘れ去られたことが、当時のままの姿を残すことにもなった。
35年前の日記を昨日のように感じるのは何ら不思議ではない。全て昨日のようなものである。
数ヶ月前のTVドキュメントは、この手紙を忠実に映像化をしていた。
そして、爆発が起きてからポンペイが埋まるまでの19時間も、当時の遺体の様子から
想像をしたドキュメントが生々しく時系列で構成されていた。。
ー6月20日の手紙
私は先に、あなたの求めに応じて、伯父の死についての手紙を書き送りました。
手紙を読で、ミセヌムに残されたこの私がいったいどんな恐怖を味わい、そしてどんな危険にあったかぜひ
知りたいと貴兄はおっしゃいます。実は、先の手紙ではそれを書こうとしていて、筆を置いてしまったのです。
「思い出すのもつらく、悲しみは深いけれど、とにかくやってみましょう」
 伯父が出発した後、私はずっと勉強をして過ごしました。そのために残ったのですから当然です。
それから入浴と食事をし、そして短く途切れがちな睡眠をとりました。
それまでも、前ぶれのような地震が幾日も続いていましたが、カンパニア地方では珍しいことではなかったので、
さほど恐ろしくはありませでした。しかし、その晩起こった地震はあまりに激しく、もはや揺れているという
程度ではなく、すべてがひっくり返ってしまったかのようでした。  母が急いで私の部屋にやってきました。
私の方ももう起き上がっていて、母がまだ眠っていたら起こそうと考えていたところでした。
私たちは中庭に避難し、腰を下ろしました。そこは海と建物を隔てる格好の空間でした。
当時17歳だった私は、落ち着いていたというか、無分別だったというか、ティトゥス=リウィウス(訳注:古代ローマの歴史家、
『ローマ建国論の著者)の本を持って来させ、いかにも暇を持て余しているかのようにその本を読み、やりかけの
レジュメを続けていました。そこへ伯父の友人がやって来ました。
伯父に会いにスペインから戻ったばかりだというその友人は、私が母と一緒に座って本を読んでいるのを見て、
私の無気力と不注意を責めました。それでもなお私は、熱心に読書を続けようとしていたのです。
 もう昼の第1時だというのに、光はなおもぼんやりとして、まるで病人のように弱々しいままでした。
すでに建物には亀裂が入っていました。私たちは屋外にいたのですが、建物が崩れ落ちたときのことを考えると、
その狭い場所では安全とは言えませんでした。ついに私たちは町を出る決心をしました。
私たちの後には茫然となった群衆が続きました。
人は突然激しい恐怖に襲われると、自分の決断より他人の決断に従う方が賢明だと考えるらしいのです。
私たちは町を出ようとする人々の長い列にせきたてら、押し流されていきました。建物のある区域を過ぎたところで
私たちは立ち止まりました。ここで私たちは、とても恐ろしく、また驚くべき経験をしました。
というのは、私たちが引かせてきた荷車が、坂道でもないのに、様々な方向に動き出していたのです。
小石で輪留めをしてあるのに動いてしまうのです。
そのうえ海が、まるで地震によって押し戻されたかのように引いていくのが見えました。
とにかく海は岸へと変わり、乾いた砂の上に海の生き物がたくさん残されました。一方、赤く恐ろしげな雲は、
ジグザグにきらめいて走る熱風に切られて大きく裂け、稲妻のような、大きく長い炎を形作っていました。
 しかしその時、例のスペインから戻ったという伯父の友人が、先程より力強く、有無を言わせぬ調子でこう言いました。
「もし貴女の兄上が、そして貴君の伯父上が生きておられれば貴君らが助かることを望まれるだろう。
もし亡くなっておいでなら、貴君らには生き残って欲しいと思われるだろう。なにゆえぐずぐずしておられるのだ」
 私は伯父の安否が分からないのに自分たちのことを考える気にはなれないと答えたのですが、
彼は逃げ遅れることを恐れて、私たちを置いてすさまじい勢いで走り去っていってしまいました。
 ほどなく、雲が地上に降りてきて海を渡りました。雲はカプリ島を包み込んで視界から消し、
ミセヌム岬を隠しました。その時、母が私に逃げてくれと懇願しました。
私は若いから逃げられるが、母は年老いて太っているから体が言うことをきかない、母のせいで私が死ぬのでなければ
喜んで死んでいけるというのです。
私は逃げるなら一緒でなければ嫌だと言いました。そして母の手を取り、無理矢理に急いで歩かせました。
母はしぶしぶ言うことに従ったものの、足手まといになるといって自分自身を責めました。
 このとき灰が降ってきましたが、まだまばらでした。振り返ると、黒く厚い霧が背後に迫り、地面に広がる
急流のように追いかけてきていました。「視界のきくうちに回り道をしよう。闇の中でころんで、一緒に逃げている
群衆の下敷きになるといけないから」と私は言いました。そうして、ちょうど腰を下ろしたとき、夜がやってきました。
月のない曇った夜というよりは、明かりを全部消して閉め切った部屋のような闇でした。
女たちのしゃくり上げる声や赤ん坊の弱々しい泣き声、男たちの叫び声が聞こえました。
父や母を探す声もあれば子供や妻を呼ぶ声もあり、みな相手の声を聞き分けようと必死でした。
自らの不幸を嘆き悲しむ者、家族の運命を嘆き悲しむ者、死の恐怖にかられて死を望む者、両手を差し出して
神に救いを求める者。もうどこにも神はいない、この永遠の夜が世界の終わりなのだと説く者も数多くいました。
見せかけや偽りの恐怖こよってかえって危険を増大させている者も少なくありませんでした。ミセヌムではあの建物が
倒壊した、あの建物が焼けたなどと触れ回る者が現れました。それはデマでしたが、信じる者もいました。
弱々しい光が現れましたが、それは昼の光ではなく、火が近づいてきたしるしのように思われました。
ただし、少なくとも、火はかなり遠いところで止まったようでした。再び真っ暗になり、重い灰がどっと
降ってきました。ときどき起き上がって灰を払い落とさなければなりませんでした。
さもないとすっかり灰をかぶり、その重みでつぶされていたでしょう。
 私は、これほど恐ろしい危険の真っ只中にいながら、嘆いたり、情けない言葉を吐いたりしなかったと
豪語することも許されるでしょう。それは、自分とともに万物が滅びるのだと考えることで、つらいながらも
慰められたからだったかもしれません。
 最後に黒い霧は薄れ、煙か雲のように消えていきました。まもなく太陽が姿を現し、本物の昼が訪れました。
とはいえ、その太陽は日食のときのように青白い色をしていました。
まだおぼつかない視界では、あらゆるものが雪のような厚い灰の層に埋もれ、新しい様相を呈していました。
ミセヌムに戻った我々は元気を少し取り戻し、希望と恐れとが入り交じる不安な一夜を過ごしました。
それでもやはり恐れの方がまさっていました。
というのは、地面は相変わらず揺れていたし、ぞっとするような予言に錯乱した者が方々で自分や他人の
不幸を嘲弄して回っていたからです。しかし、このときでさえ、危険の訪れを懸念しながらも伯父の消息が
分かるまで出発する気はありませんでした。
 以上が私の身に起こった出来事です。歴史に残すにはふさわしくないつまらない話ですから、お読みになっても
貴兄の著作に書き入れる気にはなれないでしょう。また、もしこれが手紙の名にさえ値しないとしたら、
私に頼んだ貴兄自身を責められるべきです。では。
・・・・・・
2004/11/13
1320, 2000年前のポンペイ −3
  小プリニウスの「手紙」−1
ポンペイについて書いた直後に地元の新潟中越地区に大地震がおきた。何かの偶然の一致だろう。
ポンペイの遺跡から当時の情報が多く知ることができた。歴史から忘れられたポンペイの遺跡が発見され、
発掘が始ったのが18世紀の半ばであった。そして現在に至るまで250年にわたって発掘が続いている。
まだ発掘してないところが多くあるという。
歴史家のタキツゥスが、書の中で当時のある若い青年の手紙を残していた。当時まだ17歳だった青年の2通の
手紙が当時の模様をこと細かく整然と後世に伝えていた。その文章を読んでいると、その一言一言が身に沁みる。
その青年とは、当時、地中海艦隊の司令官としてナポリ湾岸の町ミセヌムに駐在していた大プリニウスの甥、
プリニウス(61年頃〜112年頃)である。歴史家タキトゥスの求めに応えて書いたこの手紙は、ローマ帝国内の
美しい都市に起きた大惨事の貴重な目撃談となっている。
この手紙を読んでいて、彼の驚きと当時の若い彼の興奮がそのまま、2000年の時空を超えて伝わってくる。
「言葉を持つことは魂を持つこと」という言葉の重みを実感する。
発掘された遺跡の姿そのものが、そのまま人間の変わらない生活と真実を伝えている。
ーー
プリニウスの「手紙
ー6月16日の手紙
 伯父の死をできるだけ正確に後世に伝えるため、あなたに手紙を書くようにとのご依頼を受け
私はとても嬉しく感じました。というのは、伯父の死があなたによって書き留められることで、
彼に不滅の栄光が与えられると考えたからです。恐ろしい災厄によって死んだために、伯父の死は、
他の被害にあった住民や美しい町とともに永遠に記憶されるでしょう。
また、伯父自身、後世に残るであろう多くの作品を書いています。しかし、それに加えてあなたの著書に
書き留められるとすれば伯父の歴史上の記憶は、より確かな、永遠のものになるはずです。
私は思うのですが、歴史に残るようなことを行うか、あるい、は価直のある文章を書く能力を神から
与えられた人は恵まれた人であり、しかもこの能力を2つとも与えられた人は、最も幸せな人です。
私の伯父は、彼自身の著書とあなたの御著書とによって、そのような恵まれた人物の一人となるでしょう。
というわけで、私はあなたの御依頼をお引き受けいたします。いや、むしろこちらから進んで手紙を書かせて頂きます。
 伯父はミセヌムにいて、船団の指揮をとっていました。異様な形の巨大な雲が現れたことを母が伯父に
知らせたのは、9月の第1日より9日前(8月24日)の第7時(午後1時)頃のことでした。
伯父は日光浴と冷水浴をしてから軽い食事をとった後で、ちょうど仕事の最中でした。
伯父は靴を持って来させると、その超自然現象を一番よく観察できる場所にのぼりました。
見ると雲が湧き上がっています。遠くからではどの山から出ているか分かりませんでしたが、やがてヴェスヴィオ山から
出ていることが分かりました。まるで松の木が巨大な幹を上に向かって伸ばし、小枝を空に広げたような形の雲でした。
多分、蒸気によって吹き上げられた噴煙がしだいに自らの重みによって横に広がり、そのような形になったのでしょう。
雲はところどころ白く、また土や灰を含んでいるところは灰色に汚れていました。  博学な伯父には、これがもっと
近くから観察すべき大事件であることが分かりました。伯父はリブルニア式ガレー船(2段擢の軽装傭船)に部下を乗り込ませ、
私にその気があれぱついて来てもよいと言いました。
私は勉強しているほうがよいと答えたのですが、そう答えたのは、他ならぬ伯父から課題を与えられていたからです。
伯父が家を出ようとしていたとき、友人タスキウスの妻レクティナから伝言が届きました。
彼女は身に迫る危険におびえていました。彼女の家はヴェスヴィオ山のふもとにあって海路でしか脱出できません。
そこで救いを求めて来たのです。伯父は急遽予定を変更し、救助に向かうことにしました。研究心から乗りかかったことを、
義務感という高い次元の感情で実行することにしたのです。レクティナだけでなく大勢の人々を救助することに決め、
4段櫂ガレー船を用意させてみずから乗り込みました。  魅力的なその海岸には実際多くの人々が住んでいました。
人々が脱出を始めているその場所目指して伯父は急ぎました。航路を直線に保ち、危険に向かってまっすぐに
舵を取ったのです。全く恐れることを知らない伯父は、噴火の全段階と様相を、目にするそばから人に書き取らせるか、
みずから書き留めていきました。
 すでに灰は船の上に降り注いでいました。目的地が近づくにつれそれはしだいに熱を帯び密度も濃くなりました。
真っ赤に燃える軽石や砂利も見え、川床が露出し、崩れた岩が岸を塞いていました。
伯父は引き返すべきかどうか一瞬ためらいましたが、水先案内人が引き返しましょうと進言すると答えました。
「勇気を持て。運命の女神がついている。ポンポニアヌスの家に進路を取れ」。
 この家はスタビアエにあり、ミセヌムからは湾の半分程難れていました。
海岸線はわずかに湾曲していて、そこに海が入りこむような形になっていました。
このあたりには、当面の危険はなかったものの、状況は目に見えて危うくなってきていました。
ポンポニアヌスは船に荷物を積み込み、向かい風が止んだら直ちに出航するつもりでいました。
この風がじつに都合よく伯父の船を押し進めたのです。
無事上陸した伯父は、ポンポニアヌスを抱きしめて慰め、元気づけました。
そして、自信に満ちた態度を取って友人の恐怖心を和らげようと、風呂場に向かいました。
水を浴びると食卓につき、楽しげに食べました。というよりは、これが伯父の偉大なところで楽しいふりをして、
友人を励ましたわけです。
 この間、ヴェスヴィオ山の何カ所かで大きな炎や火柱が上がり、その輝きが夜の闇にあかあかと浮かび上がりました。
しかし、伯父はみなの恐怖を鎮めようとして、あれはあわてて逃げた農夫が消し忘れていった火だとか、取り残された
屋敷が燃えているのだと繰り返しました。それから少し休憩するといって、本当に眠り込んでしまいました。
伯父は太っていたため寝息が大きく、戸の前を行き過ぎる人にもいびきが聞こえました。
しかし、伯父が休んでいる部屋に通じる中庭は、すでに軽石混じりの灰に埋まり、もう少し休んでいたら
脱出できなかったと思われるほど地面が高くなっていました。
目を覚まして起き上がった伯父は、一晩中起きていたポンポニアヌスらのところに戻りました。
彼らは屋内にとどまるぺきか、外に出るべきかについて協議を重ねていました。頻繁に起こる大きな地震で、
家は土台から大きく揺れ、それも今こちらに揺れたかと思うと次はあちらという具合でした。
一方、家の外では人々が軽石の雨におびえていました。屋内と屋外、両方の危険を検討し、結局外に出ることになりました。
伯父にとっては当然の判断でしたが、他の人々にとっては恐ろしい方の選択でした。
皆、頭に枕を載せて布で結わえ、降って来る軽石から身を守ろうとしました。
 もう夜は明けていたのに、屋外ではまだ暗闇が続いていました。
どんな夜よりも深くて濃い闇がたれこめていたのです。
とはいえ、いくつもの赤みを帯びた輝きや様々な光が闇を照らしていました。
一行は海岸に戻り、船を出せる状態かどうかを確かめることにしましたが、このときもまだ海は荒れ狂っていました。
伯父は海岸の地面に布を広げてその上に横になり、何度も冷たい水を欲して飲みました。
火の前ぶれである硫黄の匂いが近づいてきたため、伴の者は逃げ出しました。
目を覚ました伯父は2人の若い奴隷に支えられて立ち上がりましたが、すぐに倒れてしまいました。
想像するに、煙がひどくて喉がつまり、息ができなくなったのでしょう。
もともと伯父は喉が弱く、終始咳き込んでいました。
伯父が見た最後の日の出から3度目の太陽が昇ったとき、伯父の死体は無傷のまま発見されました。
服は出発したときに着ていたものでした。死体というよりは休息している人の感がありました。
 この間私と母はミセヌムに居ました。しかしそれは歴史とは関係のないことです。
あなたも、伯父の死についてだけお知りになりたいのでしょうから、これで終わりにいたしましょう。
ただ一つだけ追加いたします。
それは、私は自分で目撃したすべてのことを、そしてまた、記憶の確かな事件直後に聞いたことを、
書き記したのだということです。じっさい、手紙を書くことと歴史を書くこととは別のことですし、
友人に書き送るのと、万人のために書き記すのとでは違うのですから。
・・・・・・
2004/10/22
1298, 2000年前のポンペイ −2
図書館で何気なく歴史コーナーを見ていたら、「『ポンペイ』完全復活、2000年前の古代都市」
というグラビア集があった。一ケ月位前にTVで『ポンペイ』を特集していたのをDVDに録って、
その面白さに繰り返し見た後なので、思わす時間を忘れて、その場で見入ってしまった。
借りてきて見ているがTVよりさらに深い内容である。本は、映像では表現できない違う役割がある。
 AC/79年8月24日、ヴェスヴィオス山の大爆発で火山灰で埋没したこの街は、その18世紀半ばからの
発掘によって、古代ローマを知る上で大発見になった。
それまで、古代ローマの遺跡といえば、ローマ市郊外の遺跡であったり、地中海沿岸の都市であった。
ローマ帝国は、このような街が数千もあって、それによって支えられていた。
しかし、それらはその後の追加工事などで、当時の原型を殆ど留めていないものばかり。
これだけ、完璧に残って発見されたのは歴史上初めてである。街そのものを、石膏(火砕流)を流し込んで、
そのまま保存したようなものである。
ーそのグラビア内容とは
・街全体の航空写真と、それを元につくられた街の復元の絵
・それで解ったポンペイの都市計画図 そして街の構成と築造技術
・給水システムと下水システム
・共同墓地と体育場と円形闘技場、そしてスタビア浴場
・娼婦の館の写真と、そのレイアウト。 そして、そこに描かれていた男女交合の絵
・完全に残っているパン屋と、内部の工場と、パン原型 そして、それをもとに作られたパン屋の想像図
・複合劇場施設の航空写真と、その図面と、想像図
・音楽堂と、そこに描かれていた壁画と、残されていたタンバリンと、ブロンズ製のパンパイプ
・街の心臓部になっていた、市民広場 そこでは、街の住人や、郊外の豊かな農民、商人、遊び人など様々な
 人たちが集っていた。そこでは選挙もおこなわれていた。
・公衆トイレもあり、入ると控えの間があり、外からは見えないようになっていた。そこを入ると便座があり、
 排水溝があって常に水が勢いよく流れていた。
こう見ると、現代の都市と大して変わりがないといってもよい。                     ーつづく
・・・・・
2004/09/27
1273, 2000年前のポンペイ ー1
先日、TVで「ポンペイ」を特集をしていた。十数年前にイタリアに旅行した時に立ち寄った、
ポンペイの街の記憶とTVの内容が重なって、非常に興味を持ってみることができた。
ーまずはポンペイの概略を書いてみるナポリの南東にあるヴェスヴィオス山のふもとの町。
古代ローマ時代には貴族たちの別荘地として発展し、パクス・ロマーナ期の繁栄ぶりはめざましいものがあった。
当時の人口は2万。公共施設が次々と建てられ、建物の構えはローマにひけをとらないほどだった。
悲劇は、AC79年8月24日にやってきた。ヴェスヴィオス山が突然、大爆発を起こしたのである。
大地は鳴動して山頂は吹っ飛び、火口がぽっかり口をあけた。きのこ雲は天に達し、くもった空の下に、三日三晩、
火山灰と火山弾が降り注ぎ、泥流は火口をあふれ出し、町を襲った。
ポンペイの町にも大量の石や灰が積もり、噴火の翌日までにその灰の深さは5〜7mにも達した。
屋根の損壊や有毒ガスによる窒息による犠牲者の数は人口の1割にあたる2000人と考えられている。
そこには火砕流でタイムカプセルのように、当時の生活が残されていた。
遺体を覆った火砕流の岩石の空洞に、石膏を入れて型どった生々しい遺体の像が幾つかあった。
お金を握った者や、妊婦や、奴隷、子供、犬など様々だ。街を歩いていて驚いたのは、タイムカプセルで
ドロップアウトしたようになるほど、リアルに当時の生活が残っていたことだ。
残っていた住宅の壁画などから見て、「性」に対して非常に大らかであったようだ。
女中部屋には、自?用の男性の??が壁につき出ていた。幅10mの道路の両側には、焼きたてのパン屋、居酒屋、
売春宿などが通りに並んでいる。売春の値段まで残っていた。今でいうと、コーヒー一杯分位だった。
道路には轍の後がくっきりとあるし、十字路には歩道がある。下水道や、公衆水飲み場もあり、街の中央には
広い集会場もあった。今回のTVの特集で、全く知らないかった事実が多くあった。
街の殆どの人が、一瞬で亡くなったと思っていたが、発見された遺体は1000でしかなかった。
15000〜20000人の人口と推測されるから、遺体の半分は発見されなかったとみても、9割の人が逃げ延びたのだ。
爆発から、この街に灰などが押し寄せるのに19時間の時間があったという。
逃げられなかった理由が遺体の様子から、それぞれ想像できた。ポンペイとヴェスヴィオス火山の反対側に
エルポラーノの遺跡がある。この遺跡は、18世紀にある農夫が井戸を掘っていて発見したというが、その近くの港で、
300人の人骨が発見されたという。その様子からエルポラーノの市民が、そこに逃げてきて救助を待っていて、
亡くなってしまったと推測される。遺跡も多く見てきたが、それぞれが当時の生活や、深い因縁を秘めている。
しかし、衣服や住宅や街の様子が、火山でそのままリアルに封印されて残っているのは、この遺跡だけである。
そこより、うかがい知れるのは「変らぬ人間の営み」である。 世界は広く、そして深い!