「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) 
   * 2050年までを見通すことで現在を理解できる
 何気なく図書館の返却コーナーで手にとった本だが、英『エコノミスト』誌の各ジャーナリストが20の分野で予測している。
これが面白いが限界も見て取れる。この激動の時代に、40年先の予測など所詮は無理な分野分野もあるが、人口の趨勢から
可能な分野もある。だから面白い。5〜10年先を予測したければ、40年先を考えてみればよい。それにしても面白い。
 ーアマゾンの内容説明ー 〈 2050年日本のGNPは韓国の半分になる。グローバルな一流誌英エコノミスト誌が、
  総力をあげ、科学、政治、人口、経済、女性、などの20の分野で2050年までの世界を予想 〉
まずは‘はじめにー「2050年までを見通すことで現在を理解できる」’の冒頭より
≪ 世界人口が10億人になったのは、18OO年ごろのことだが、それまでに人類は、20数万年の歳月を費やしている。
 ところが、 60億人から2011年の70億人に違するまで要した時間はわずか10数年。このような変化に驚くほどの速さで
展開する大規模な変化は―メガチェンジーと呼ぷにふさわしいものだ。じっさい、わたしたちはメガチェンジに囲まれている。
技術は信じられないほどのスピードで拡散しており、ネットや携帯電話の進歩は言うに及ばず、現在では、コンピューターから
大量の情報を入手したり、フェイスプックやツイッターなどのソーシャル・ネットワークを通じて、大量情報を受信したり、
発信することが可能である。また、世界経済は私たちの目の前で着々とアジアへ重心を移している。このような変化はどれも、
人々の生活と、企業の戦略と、国家の政策と、地球の将来展望に深遠な影響を与える。 ー本書は2の重要な目的を持っているー
 ☆ 第一の目的は、人々の健康から財産まで、あらゆる側面から世界を変革するトレンドを特定しで探求することだ。
本書では、身の周りの話題をひとつひとつ論じてみたい。この手法を採用すれば、わたしたちは、ヘリコプターから地上を
見下ろすように、はっきりとした俯瞰図を掌握することができるだろう。
 ☆ 第二の目的は、第一の目的で確認したトレンドによって、2050年の世界がどのように形作られるかを予測することだ。
一見すると、これは非常識なほど大きな野望かもしれない。ダン・ガードナーが自著「専門家の予測はサルにも劣る」で論じた、
人類の歴史には百パーセントデタラメな予言がちらべられている。1914年、英国人ジャーナリストのブレールスフォードは、
「近代国家間の国境の線引きが最終決定されたことは、政治的にはこれ以上ないというほど確実である。私見を述べると、今後、
既存の六大国間で戦争は勃発しないだろう」と記した。第一次世界大戦が始まったのはその直後。米国経済学者のフィッシヤーが、
「わたしの予想では、これから数カ月の間に株式市場は大幅に上昇する」と予言したのも、1929年の株価大暴落が起きる1週間前。
果たして人間が未来を知ることは可能なのか? あすの天気を予想するのさえ難かしいのに40年後の世界をどうして描き出せるのか? 
おそらくこの四十年のあいだに、わたしたちはブラック・スワンの詳れを絶えず目撃させられるはずだとはいえ、未来を予測して
みる価値はある。奇妙だが、2050年を予測することは、来週や来年を予想することよりも簡単。実際、ナシム・タレブも
一世代以上先の予測を好んでいる。 長い年月で「今日において脆弱なものが壊れて消える」からだ。》
 ▼ 次回から、めぼしい部分を抜粋しながら考えてみる。40年前といえば、文化大革命が終盤を迎えていた頃。
 そこで、現在の中国を予測できただろうか? その十数年後にソ連の崩壊、東欧の共産圏の消滅。日本のバブルと崩壊。
 その10年後の9・11テロ、7年後のリーマンショック、その3年後の東北大震災。それより、世界中の人々が形態パソコンを持ち、
 ネットで繋がるとは誰が予測できただろうか。40年後に私は存在していなくとも、どんな時代か考えるだけで面白い!
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4173, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 ー2
2012年08月29日(水)
  * 二つの違った未来観 !        「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著
 ー 西洋と東洋の認知の違いはなくなるか ー
 フクヤマハンチントンの二人の政治学者の未来観こそ、西洋と東洋の違いである。20世紀に入ってから、哲学が、
決して西洋が文明的に優れているのではないという構造主義の考え方が主流になってきている。しかし時代は木も森も、
そして、地球環境も同時に見ていかなければならない時代になってきている。3・11震災がもたらした原発事故が、
それを我々に突きつけた。この対立は、避けることは出来ないが、何とか、それを抱えて未来に向うしかない。  
  ー まずは、その部分から
≪ 今、二つの非常に異なった未来観が、多くの領域の社会科学者たちの間で戦わされている。
 ひとつは政治学者のフランシス・フクヤマが唱えた未来観で、世界の政治経済システムが一極に収束し、それに伴って
価値も一極化していくことを予測するもの。もうひとつは今後とも多極化が続くことを予測するものである。
フクヤマは著書『歴史の終わり』のなかで、資本主義と民主主義が勝利をおさめた今、面白い出来事を生み出すような
切迫した力はもはや存在しないと述べている。片や政治学者のサミュエル・ハンチントンは、世の中が今度とも多極化を
続けると予測している。社会が収束に向かうというフクヤマの視点とは大きく異なり、ハンチントンは世界がまさに『文明の衝突』を
迎えようとしていると断言する。東アジア、イスラム、西洋といった主要な文化集団における価値観や世界観の違いは調整不可能であり、
したがって対立は避けられない。「民族の対立と文明の衝突が生じつつある中にあって、西洋文化の普遍性を信じる西洋人たちの
信念には、3つの問題点がある。その信念が誤りだということ、道徳に反するということ、そして危険だということである」
 言うまでもなく、経済や政府のかたちがどこでもみな同じならば、人の心の中はどこへ行っても同じだろう。
逆に、文明の衝突が避けられないならば、思考の習慣は多極化を続けるだろう。 ・・・・
 フクヤマの未来観は、多くの西洋人、特にアメリカ人の視点を代弁している。アメリカ人は、誰もが根はアメリカ人か、
そうでなければ、これからアメリカ人になると思っている。・・・今やどの国の人たちも、ジーンズとTシャツを着て、
ナイキの靴を履き、コーラを飲み、アメリカ音楽を聴いて、アメリカ映画とTVを見ている。
 逆にハンチントンによれば、世界の文化が西洋の文化に同化しつつあるという考えは、近視眼的かつ自民族中心主義な発想に
もとずく幻想である。社会は互いに違っており、今後の国際紛争は、過去に見られた経済的あるいは政治的な対立よりむしろ、
文化的対立を発端にしていると考えられる。・・・≫
 ▼ 「東洋と西洋の混血が現時点の日本」と仮説を立てると、日本の混乱が見えてくる。和魂洋才という言葉が、それを
  あらわしている。情報化の進展で世界がグローバル化された現在、決して否定出来ないこと。要は和魂を常に意識すべきである。
  これは日本だけでない。トルコがイスラム教国に関わらず欧州よりの国家体制を作っている。矛盾があっても乗り越えてである。
  いずれにしても、あらゆる人種をかかた世界がネットで情報が共有された現実がある。それゆえの混乱は激しくなるのは当然。
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3808, 哲学人 ー⑧
2011年08月29日(月)
  ● 社会主義〜 妄想的理想社会への逃避       ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
 残念ながら、学生時代から社会主義共産主義に対して本能的に、その虚偽を見抜いていたつもりだった。
経済も社会も、国家単位の計画で成立するはずがない。「経済は個々の競争原理の弱肉強食の戦いの中から優勝劣敗で進化する。
その歪を国家がコントロールすべきで、役人がたてた計画経済で、ことが上手く進むなどありえない」という単純な考えから
抜け出れなかったのが本当だったが。 ここで、マギーは、学生時代に「資本論」に大きな影響をうけたと述べている。 
人生で夢中になった一ダースに満たない本の一冊に「資本論」を上げている。 
しかし、社会主義国家が本当に成立するかどうか、疑問を持ったとも、述べている。
【 * ー 資本論を、二週間ひたすら読む ー
 二学年めの復活祭の休暇中、私はオックスフォードに見つけた下宿屋にこもり、二週間は朝も昼も晩もひたすら『資本論』を
読みつづけた。じっくりと読み進め、書いてある内容について考えたくなったら、いつでも本を置いて好きなだけ黙想し、散歩を
しながら重要な一節について思索したり、夜にはべッドのなかでもこの書物について思いをめぐらせたりする。
そんなふうに夢中になった本はそれが初めてだったし、生涯を通じてもその数は一ダースに満たない。プラトンの『対話編』、
新約聖書』、ヒュームの『人性論』、カントの『純粋理性批判』、ショーペンハウワーの『意志と表象としての世界』、
ウパニシャッド』、力ール・ポパーの『開かれた社会とその敵』、アインシュタインの『一般相対性理論』ぐらいだろう。
こういった本が私を変えてくれた。これはつまり、こうした書物に感化された考え方をするほど夢中になったということであり、
もし読んでいなかったとしたら、いまのような人間になっていたとは思えないということである。誰であれ、そんなふうに言える本は
めったにあるものではない。 私の場合、戯曲家、で同じことがあてはまるのは、少なめに見積もるとシェイクスピアひとり、
作曲家は七、八人といったところだろう。もちろん、読書や観劇や音楽鑑賞の蓄積が、その人の考え方や人格にじわじわと
影響を及ぽし、自覚できる変化を自我に生じさせた張本人と特定できる作家は、少数である。 ここに挙げた書物の半分は
ドイツ語圏の作家によるものだが、この事実(作曲家の大半もその地域の出身であり、時代も同じであるという事実を加えても
いいのは、私の精神生活がどんなものであるかを示唆している。『資本論』の大半を占めているのは、英国の産業革命の歴史である。
にもかかわらず、私の考え方はマルクスに多大な影響を受けている。その影響は、彼の著作を吟味するにつれて薄れていったけれども、
けっして消えはしない。私はそうなることを望まないし、マルクスの提示する洞察には不変の価値があると思っている。
彼は偉大な作家であり、大人物でもある。その怒りと裁断は厳しすぎ、エホバめいたところがあるとしても、である。
資本論』は退屈でわかりにくい大冊だなどという考えがどうして出てくるのか。私には、その厚さにうんざりした人たちがこしらえた、
読まないための口実としか思えない。『資本論』は名著である。 世界史上、指折りの影響力をもつ書物であるのは確かである。 】
▼ ソ連の崩壊と、中国の実質、社会主義的計画経済の放棄は、それは理想であって、現実にはそぐわないことを立証した
 結果になった。そこに起こったのは、役人の特権化と汚職の氾濫であり、狂った独裁者の誕生であり、国家経済の疲弊である。
 熾烈な競争経済の中でしか経済は発展しないことが、数千万の餓死などの犠牲者を出し証明された。まだ残存は残っているが。
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 3443, 最近の昼飯事情
2010年08月29日(日)
  * まさか昼飯がパン食になるとは!
 最近の昼飯は外食から事務所内で駅のベーカリーで買ってくるパン食に切かえた。 時どき弁当もあるが、どうも冷えた弁当は部屋で
食べるにはそぐわない。レンジでもあれば別なのだろうが。それもインドのナンのようなものでパセリと海老か、唐揚げを包んだものが
ラップに巻かれている。若い女性が好みそうなやつで、それだけのコーナーがある。 以前は、他にカレーパンなど二個だったが
現在では一個にバナナ。この歳になると、味は美味しく、サッパリして、腹に持たないものを求める。とすると女性向きにつくられた
ものが丁度良い。30年近くのランチャーも卒業で、お部屋でヒッソリとパン食。 なれると外食が馬鹿馬鹿しくなる。 
駅内にあるスーパーの弁当コーナーを見ると、300円弱から400円辺りが中心プライス。月に3〜4回は買うが、何かイマイチ。 
駅のベーカリーにイートインのコーナーがあり、コーヒー付きで400円位である。近くのマクドナルドなどと競合しているが、
殆どが女性客。早い時間から客席は半数以上は埋まっている。最近、長岡駅内にも出展したが山崎パンの直営店という。 
最近、ほぼ同じものが地元のスーパーに見かけられるようになった。スーパー原信が、地元のベーカリーチェーンを買収して、
自社店舗内に出店している。土日のどちらか一日の早朝7時に毎週行って、焼き上がりのパンとコーヒーを飲むのが楽しみの一つ


昼にパン食に切り替えてから体重が1〜2キロほど痩せたが、これで20歳半ばの体重に戻った。歳相応になったということか。
 それより、ランチを食べに行くのが面倒になったということ。
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3068,衆院選後のマスコミ社説を先取りすると!
 2009年08月29日(土)
 衆院選挙の自民党の壊滅は、ほぼ決定的である。バナナを使って捕獲されたサルと自民党の姿そのものが重なって見える。
サルを捕獲するに、箱にバナナを入れておき、サルの手が入る穴からバナナを掴むと手が抜けない。そこを捕獲するという逸話がある
(本当かどうかは確かではない)。それと、自民党の300議席からくる権力の執着に似ている。 誰かがこの喩えを使うかどうか。
  翌日のマスコミの解説の内容は以下の通りだろう。
  * 民主党の大勝に意味すること 
《 民主党が歴史的大勝をしたが、これは自民党の4年間の政策に対する国民の失意の結果。  
  (字数制限のためカット 2011年8月29日)
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2703, 「レンタルの思想」−7
 2008年08月29日(金)
 地球は太陽の周りの隕石が何度も何度も衝突を繰り返しながら拡大し、生成されたもの。
 聖地が石で出来ているというのも、その辺に秘密があるのだろう。 趣味の究極は石になるというが、
 それもまた同じ理由なのかもしれない。いま気が付いたが、植嶋啓司の本を取り上げたことがあった。
  全く忘れていたが、聖地の共通点を取り上げた内容だった。
 〜〜
「宗教の隕石学」への挑戦   松井孝典×植島啓司
 *聖地の岩石学
松井: 植島さんの本を読んで、なるほどと思ったのが「聖地というのは、みんな石切り場だ」ということです。
植島: 石を切り出したところ、あるいは特殊の石組みですね。
松井: 自然が宇宙の歴史を記した古文書なら、石切り場も古文書です。
植島: 20年間、世界中の40数箇所の宗教の聖地をおとずれたが、共通して出会ったものは「石」であった。
    エルサレムの黄金のドームは「岩のドーム」と言われているとおり巨大な一枚岩が置いてあるだけ。
    聖墳墓教会のあるゴルゴダの丘もかっては巨大な石切り場だった。 ストーンサークル(環状列石)、 
    岩石刻文の宝庫であり、 パルテノン神殿が建てられたアテネの小高い丘は巨大な石の塊、エジプトの
    ピラミッドは元々は石灰岩の山で、崩して平らにして組みなおしたもの。これらは偶然だけではないだろう。
植島: 聖地の条件として、ある樹木があるとか、洞窟があるとかではなく、なぜ石なのか、石には何か特殊の
    力があったのか。・・・ 古文書として石を読む上で、分析は非常に大事だと思います。
    ただ石の成分を読むのではなく、石が置かれた文化的環境を読む。
    石ということでは、隕石や地球のマグマとの関係も重要です。・・・
松井: 実は1980年以前はそういう認識はなかった。というのも地質学では、巨大隕石の衝突と地球史・生命史を
    結びつける考え方は、科学では退けられていた。 しかし天から降る石があって、それが人間の存在や
    考え方に影響を及ぼすという認識は、自然科学の登場前からあったかもしれない。
松井: 今こそ地球上に多くの人が住むようになって、絶えず隕石の落下が報告されているが、これが人間が少ない時に
    大空から大音響とともに火の玉が降ってくるというのは、すごいインパクトがありますよね。
▼ 解) 聖地は、どれもこれも、石切り場の跡にあるという。 私も多くの聖地を見てきたが、全てが石組みであった。
  古代は大創造物は石しかないのだから、何も不思議ではないじゃないか、という見方も出来るが。 隕石に不思議な成分が
  含んでいたのかもしれないし、宇宙の暗号があったのかもしれない。現代の人類が、その暗号に気づかないだけかも。
  隕石に不思議な波長を、特殊能力のある人は、感じ取っていたのだろう。空から轟音とともに石が降ってくれば、神からの贈物と
  思うのも不思議ではないが。「聖地の隕石学」も面白いだろう。親父が晩年、石に興味を持ち、庭には大きな石と石灯篭がゴロゴロある。
  一昨日も、兄の庭にあった石灯籠を一つ引き取った。一年ほど前から、庭の花を写真に撮りだしてから、この庭に惹かれるようになった。
  石と木と花と緑のバランスが良いが、実は特徴は背景の石だったということだ。
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2007年08月29日(水)
 2339, 意志について  ・ω・)ノはよー
 「狂人三歩手前」 ー中島義道
  −哲学などしないようにー
哲学は、全て根こそぎ疑い、そして疑いの中から真実を見つけようとする。
哲学は曖昧な言葉をミキサーのように砕いてしまう。 意志についても哲学者は、その言葉に含まれている前提を見逃さない。
  (字数の関係でカット08年8月29日)
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2006年08月29日(火)
1974, 東京駅の一瞬の出来事!
  Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning (~O~)ふぁ・時差ぼけ!
ケニア旅行の帰路、最終の新幹線に間に合わないので日暮里に泊まった。翌朝、東京駅の新幹線改札口の近くに行ったところ、
突如顔色を変えた黒服の背広の10人位が走ってきて通行をストップした。一瞬、テロ爆弾の予告電話が入り閉鎖を始めたのかと思った。
しかし、その直後冷静にみると何か違う。黒服の男達は改札口の両側にロープを張って、その中に人を入れないようにしている。
「はは~、超ビップの新幹線の乗り込みのための警戒のための何か?」と直感。 逃げかけた家内を呼び止め「超ビッグのための警戒。
  (字数制限のためカット 2011年8月29日)
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2005年08月29日(月)
1609, 愛とは何か −1
この歳になって、いまさら「愛とは何か」でもないが、この年齢でなればこそ、愛が人間の心の背骨と実感する。
ある愛の定義が納得のいくものである。「愛は、自分自身や他者に対して共感的にあるがままに受け入れることと 
尊重することである」これから考えてみると愛することとは、自分を自分として、他人を他人として受け入れることになる。
まずは自分と他人を尊重することである。他人を愛するということは、よかれと思い、その道を一緒に探し求めることである。
判断や批判なしに受け入れることが、愛の第一歩である。飯田史彦著「愛の論理」の「愛」の定義が面白い。
その一部を抜粋してみると、
 ー愛の定義 p.334
愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、
永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。
p.374
私たちは、愛の実行力からみた人間としての成熟度に応じて現在の自分に可能な範囲で精一杯の愛を実行すればよい。
なぜなら、成熟度を大きく超える愛の実行を試みても、そこには必ず無理が生じて、自分自身を痛めつけたらり、
相手をも巻きぞえにして傷つけてしまう結果になるからである。ただし、私たちは、自分の成熟度を高めるための努力を、
つねに怠ってはならない。なぜなら、私たちは、愛の実行のみによってゆるされるのではなく、
より高度な愛を実行しようと挑戦することによって、ゆるされるからである。したがって、私たちは、はるか彼方にそびえる
「愛の山頂」にあこがれながらも、いま目の前で踏みおろすべき「次なる愛の一歩」を、見きわめなければならない。
そして、まだ山のふもとや中腹を歩んでいることを自覚しながらも、
着実に山頂を目指して登ろうと努力する時、その勇気と成長によって、私たちはゆるされるのである。
ーまた谷川俊太郎の詩がよい
   あい           谷川俊太郎
あい 口で言うのはかんたんだ
 愛  文字で書くのもむずかしくない
あい 気持ちはだれでも知っている
 愛  悲しいくらい好きになること
あい いつでもそばにいたいこと
愛  いつまでも生きてほしいと願うこと
 あい それは愛ということばじゃない
愛  それは気持ちだけでもない
 あい はるかな過去を忘れないこと
愛  見えない未来を信じること
 あい くりかえしくりかえし考えること
愛  いのちをかけて生きること
 −−
 宗教の愛についての教えも深い。 愛について聖書にはこう書かれています。
「愛は寛容で、情け深く、ねたむことをしない。高ぶらず、誇らず、無作法をしない。自分の利益を求めない。
いらだたない。恨まない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。すべてを忍び、信じ、望み、耐える。」
また仏教では、「無縁の慈悲」を究極の愛の姿としています。
つまり、私が誰かに何かをしてやるということを全く意識しないで、他者を幸せにすることです。