一昨夜のNHKスペシャルで、日本やアメリカなど新富裕層が節税のため税率の低い国への移住する問題を取り上げていた。
 株式の利益に対しては税金ゼロ。所得税も、日本の4割未満とか。日本はシンガポールアメリカはプエルトリコが多いとか。
   ーNHK・HPの番組内容の説明によるとー 
《 世界中で巨額の資産をもつ新富裕層が増えている。経済のグローバル化や金融の高度化により、短期間で富を築くことが
 できるようになったためだ。こうした新富裕層を自国に移住させて経済を活性化させようという国も増えている。 所得や
 金融取引にかかる税金を安くすることで、やり手の起業家を呼び込んでいる。日本人新富裕層が向かうのが、シンガポール
 新富裕層の実態や各国の思惑を取材し、世界経済に与える影響を探っていく。》とある。 そこでネット検索で調べると、
《 調査会社キャップジェミニとロイヤル・バンク・オブ・カナダが共同で調査した。
 富裕層は、居住用不動産を除く金融資産を100万ドル(約9700万円)以上持つ人と定義した。
 国別では米国が前年比12%増の343万人と圧倒的な首位をキープした。米国のS&P500種 株価指数は昨年、13%上昇。
 米住宅市場の回復もあり、富裕層の持つ資産がかさ上げされた。 米国では富裕層の金融資産のうち4割弱を株式が占める。
 リスク資産への投資比率が高い ことが伸びに寄与した。2位は同4%増の190万人となった日本。3位のドイツ(101万人)
 を含め、上位3カ国で 世界の5割強を占めている。アジアでは中国(64万人)と韓国(16万人)がそれぞれ14%、11%伸びた。
 一方で、低迷 したのが中南米。景気の鈍化が深刻なブラジルは16万人と前年のほぼ横ばいにとどまった。
 富裕層人口は世界に1090万人存在し、その保有資産も約42兆7000億米ドル(同9.7%増)と増加中。・・・ 》とあった。
▼ NHKのレポートで、シンガポールで「フェラーリを持っているのが参加資格のクラブ」の一人の日本人を取り上げていた。
 殆どが真っ赤なフェラーリでスポーツシャツも同色で10数人が集っていた。可愛いものだが、そこには金の情報が集まる。
 国籍をシンガポールなど税金の安い国に移すのは、財政危機の日本では、更に自然の流れ。
 「富裕層=ミリオネア」(金融資産1億以上)の中に、金融資産10億円を超す「超富裕層=ビリオネア」が存在しており、
 ビリオネアは日本に2万6千人存在している。  現在のところ表立った株式や国債の暴落は無いが、ある日、何かの
切っ掛けで爆発するのは時間の問題。私が審査基準の5億?以上の金融資産があれば、シンガポール辺りに移住する。
・・・・・・・・
4164, 老年行動学 ー2
2012年08月20日(月)           
   * 自伝的記憶       「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著)   
 最近、思い出す頻度が高いのは20〜25歳の頃のことが多い。当時の日記が残っているためと思っていたが、その年頃は強い感情が
満ち、自由で未来への旅たちの時節。少しの決断が、人生を大きく左右に分けてしまい後悔も大きい。多くの自伝的記憶は、
この頃がピークになる。あの極度の緊迫感のあった日々は過酷だが懐かしさが残る。  ー次の部分は、理解しやすいー
≪ 日常のできごとの記憶である「エピソード記憶」のうち、自分の人生に関する「自伝的記憶」だけは、20代をピークに、
 10歳後半から30代前半までの青春時代のできごとを、たくさん思い出すのです。なぜか青春時代よりも今に近い、30代後半以降のことは、
 青春時代ほどには思い出しません。この、青春時代の記憶を突出してたくさん思い出す現象を、「レミニッセンス・バンプ」と呼びます。
 レミニッセンス・バンプは、老人に限ったことではありません。中年以降の人ならば、誰にでも起こります。 では、いったいなぜ、
 青春時代の記憶だけが突出しているのでしょうか? その理由の一つには、「強い感情を伴うできごとは、記憶しやすく思い出しやすい」
 という、記憶の特徴が挙げられます。10代後半から30代前半にかけては、進学したり就職したり、親元を離れたり、友と出会って友情を
 育んだり、けんかをしたり、恋愛をしたり結婚をしたりと、強い感情を伴うできごとが多くあります。そのため、それらのできごとが、
 ことごとく心にしっかりと刻み込まれるのです。また、親の監視下から離れ、なおかつ重要な仕事を任されることも、
 養うべき家族もないといった、社会的責任のない青春時代は、人生でいちばん自由かつ可能性に満ちたた時代です。親や地域の抑圧から
 解放され、社会からの抑圧はまだない。ほんのひととき。その、今は失ってしまった自由と可能性に満ちた時代に、人はノスタルジア
 という感情を喚起され、好んで思い出すのです。≫
 ▼ 自伝的記憶は、その時どきで再編成される。あらゆる可能性に満ちた青春時代は、老いれば老いるほど懐かしいものとなる。
  俗世の縛りから解放され、そこはかとなく楽しい気分でいられる時間がある老人は、楽しいことを思い出しやすい。
  人間は楽しい気分の時は楽しいことを、悲しい気分の時は悲しいことを思い出す傾向にあるためである。人生のピークは、青春の
  真っ只中にあるため、その辺の記憶が鮮明に戻ってくる。 老年は、自分の人生という物語の記憶を校正している。過去の日々を
  思い出し、「日々是好日」というより、過去の「日々是口実」を都合良くすることになる。 自伝的記憶の再構成である。
 ・・・・・・・
3799, タブレット式パソコン
2011年08月20日(土)
  そろそろタブレット式パソコンを、と思っていた矢先に、この一連の騒動。 ここで、少し落ち着いたので、
 家電メーカーのタブレットPCのコーナーに行ってみて驚いた。それより隣のモバイル携帯電話コーナーに驚いてしまった。
 その内容は今度にして、タブレット、ここで買うと二年間は縛られてしまうので慎重になる。 売り場で感じたことは
ソニーかアマゾンの読書用専用の機種か、
・ドコモの多機能のものか、
MaciPadか、
・家のパソコンに無線ランをつけ、電波を飛ばして、家庭内の第二の携帯パソコンとして割り切ったものに、大方分類される。 
 その中で、どれを選ぶかである。 私の知人のように、両方選ぶというのもあるが・・ 年金生活者として
  殆ど家にいる身として別に買わない選択もある。 電話機能が付いているかどうかは機種によるが、モバイル携帯が大きくなっただけ。
 各メーカーが数年後の主力商品を目指し機能の競争が始ったため、少しでも後の方が良いものが出てくるはず。
 しかしデジタリアンとして、ここで我慢するのも辛い。外的世界から、内的世界に気持ちの重心を移動したので焦る必要もない。 
  ところで最近、モバイル携帯電話やタブレット式PC用の直感的なブログが出始めてきた。写真と、映像が直感的に表現でき、
 かつ見やすく、面白い。数年後には、これにデジタルTVかパソコンに連動するのだろう。 最近、目にする丸めることが可能な
 シート式モニターにモバイル携帯を連動するものが出てくるはず。こと、デジタル機器に関しては、想像を遥かにこえたものが
 次々と出てくることになる。手段=道具の方が、人間の進化を超えてきている現実は、プラスにもマイナスにもなる。
 ますます、面白、怖い時代になっていく。 とにかく、モバイル売り場へ遊びにいってみたら、今と未来の一部が垣間見れるはず。
  ランニングコストは、モバイル携帯が6千円、タブレットが7千円。その中間的大きさの商品が初期投資 0円になっていた。
 その境目の基準が、大きさだけだと!  今日、明日、他の家電メーカーの店頭で、説明を聞きにいくつもりだが、今のところ、
 あと数ヶ月は待つ方になるのでは? ところで一年前に買いかえた多機能TV、面白過ぎてバカが増している。 今さらか・・・
・・・・・・・
3434, 再び、死について考えてみる ー2
2010年08月20日(金)
 * 死に際の恐ろしさ
 家内が、近所に住む友人の通夜で聞いてきた話。 肺が溶けていく病気で(肺結核)、息の出来ない苦しさと痛みの果てに、
最後には「オトウサン、助けて!」と叫んでいたという。 断末魔の苦しみは、近親者にとって一番辛いもの。
同級生の葬式で、衰弱しきった遺体を見て驚いたばかり。 死に際の苦痛は避けることが出来ないのだろうか。
最後は独りで苦悩と苦痛の中で死を向かえると思うと、何ともやりきれない。 といって考えても考えなくとも結果は同じ。
なら考えない方がよい。年寄りは、そういう事例を多く見聞きしているから「ぴんぴん・ころり」と死にたいと、願うのである。
死を悲劇と考えるか、生の成就と考えるかは難しい。最近、亡くなった友人の大部分は、苦痛と苦悩の果てに亡くなっていった?
最期は、リンゲル(麻薬)の濃度を高め、苦痛を緩和し、その果てに死を早めるしかない。
そこではリンゲルによる極楽と、肉体の苦痛の地獄が混濁する。 父親も、手術後の数日間は苦痛の極みにあり、
「あんなに苦しむなら、手術などしなければ良かった!」と死ぬ数ヶ月前に言っていた。 手術の一年後に亡くなったが、
最期は病室で独りで頭を掻き毟っている姿をみた。「死んでいいから、どんどんリンゲルを打ってくれ」と、延命より、
安楽死を望んだ。 また、私の4番目の姉の旦那が亡くなった時の、断末魔の苦しみの状況も、姉からリアルに聞いた。
最期は苦痛で暴れるのを、何人かで抑えて・・・・ 亡くなった。
 数年に一度は、訳のわからない新聞記者とか、検察が、断末魔の苦しみの末に、強いリンゲルとか何かで死期を早めたのを
聞き込んで、逮捕や刑事告発をするケースがある。ガンだけではないが死に際には苦しむ患者の息を止めてやるのが、医師の役割。
誰が苦痛の際で生きているより、早く解放された方が良いのは当たり前のこと。死は誰にも平等に、思わぬ苦痛を伴い、やってくる。 
 人生は生きているうち!美味い酒を飲んで、好きなことをして、後悔の残さないように生き、そして最期は、のたうちまわって
死ぬしかない。上手く死ぬのも芸のうち、など言っていられない。ホテルのバスにナミナミと水を張り、睡眠薬をタップリ飲み、
美味い日本酒を一升も飲めば楽に逝けそうだが。  まだまだあるが、こういうジョークは止めておこう。 
 ・・・・・・・・
3059,逆説思考 −3
 2009年08月20日(木)
 * 「逆説思考」を逆説で思考してみよう。
まずは逆説思考の典型的事例は、フランクルの心理学である。フランクルが「夜と霧」で、死と隣り合わせの日々で、
コペルニクス的転換の心理転換が起こる。「人生に何かを求めるのではなく、人生が私に何を求めているか。
そう、生き抜いて愛する人と再会をし、自分の残してある仕事をやり遂げること」である。人生が何を人に求めているか? 
・創造価値(何かを創造することによって実現される価値)
・態度価値(人生でどうしようもならない究極の場面で態度を変えることで実現される価値)
・体験価値(何かを体験することで実現される価値。美しい夕日や景観を見て実現される価値)
 これらを知るために、「本当にしたいことは何か」「夢は何か」「人生の目標は何か」をまず追求すべきである。
しかし、自分の人生は無意味という観念にとらわれた人にとって、その価値を受け容れることが難しい。 
それでは、どうするか! 「闘う」ことしか、自分の価値を創りあげることができないのである。
 人生に押しつぶされいる人は、「生きるのが辛くなっている」のである。その「つらさ」については仏の哲学者ドゥルーズが原因を
追究している。彼は「器官なき身体」という生きることの実相を明らかにしている。我われは「欲望」と「欲求」によって動いている。
喉が渇けば水を飲むことによって欲求を満たそうとする。性欲も、食欲も、睡眠欲も、排泄欲もである。 
しかし、それだけで人間は行動するわけではない。自動車がガソリンの補給と、ラジエーターの水の交換だけで動くものではない。
それは自動車が人間の目的のための道具であるのと同じく、人間も、身体の生理的欲求だけでなく、
「器官の欲求」を超えたところに存在する何かのありさまを「器官なき身体」とドゥルーズはいう。
 ー彼は以下のようにいう。 (*参考 「現代思想の使い方ー生きるのがつらいと感じた時ードゥルーズ」P176)
「闘いとは、反対に、力と力で補完し、自からの捕らえるものを豊かにするあの『器官なき身体』の生命力のことである。
赤ん坊が呈示しているこの生命力、すなわち、執拗で頑で飼い馴らしがたく、あらゆる器官組織的な生とは異なる、
そんな生きるー意志である。」それは、私たちの「存在そのもの」に由来する力であり、「存在そのもの」が指し示し、
進んでいこうとする方向性である。「存在そのもの」とは「生そのもの」と置き換えることが出来ます。
辛いというのは、その「生そのもの」の発露が何かで阻止された状態である。 
この辛さを克服するには、「器官なき身体」の目指す方向を見据え、その方向に努力することである。
それは、別の存在と衝突し、その価値観を取り込んでいくことにより次第に達成されるのである。
その闘いを、ドゥルーズは『あいだにおけるー闘い』と呼ぶのである。「あいだにおける闘い」によって、私たちは、
「存在そのもの」へと近づいていくことが出来ます。たとえば自然と闘うとき、「対抗する闘い」ではなく、
「あいだにおけるー闘い」を行うことによって、「自然」と融合し、新たな何かなることができます。
「裁きによって、人は成長しない」と彼はいう。「裁き」は既存の枠組みによる準拠して何らかの価値判断を行うことであり、
それでは、それから一歩も抜け出せない。 我われが、その裁きから抜け出て闘いを選択しなければならない。
その闘いが我われの生命を輝かせるのである。
 ーーー 以上だが、
生きていくうえで、3C(チャレンジ、チェンジ、コンペティテーション)が必要である。
世界は常に変化しているなら、己も変化しない限り、不自然状態になり、「つらさ」という圧力が押しかかってくるからだ。
フランクルの人生の意味を見出していける人なら、価値を求めることも出来ようが、意味や価値をどのようにして
見出していくかという、更なる根源的な問いが必要になる。そこにあるのは、闘いしかないのである。
先ほど書いたように「つらさ」は、その闘いの回避に原因があるのである。
常に自問自答している「正中心一点無」の気持ちで問題から目を背けないで立ち向かうしかないということになる。
 最後の最後は「見方を変えるのではなく、宇宙の中で自分は独りと自覚し、己の価値を闘い取るべし」ということだ。
  アウシュビッツ収容所内では無理だろうが! 部屋の中からなら良い、ということ?
・・・・・・・・
2694, 「レンタルの思想」−2
 2008年08月20日(水)
 二十年ほど前か、「人生は神様からの借り物、何を焦っているのか! 借金も資産のうち、その資産も借りでしかない。
 自分自身も大自然からの借り物でしかない。借りの世界と言う人生では、何事も真正面から目を離さなければ、
 それだけでよい!」と、視点を見据えたら気持ちの重みが半減した。 所詮、娑婆は生きているうちの幻想でしかない。
「色即是空、空即是色」ということだが、それもこれもレンタルと思えば、それでよい。
 宇宙からの俯瞰からみる宇宙的人間論も必要な時代に差し掛かったのである。
 ーネットにあった「レンタルの思想」の松井教授の‘インタビュー’の部分をコピーしたー
・夜半球の地球を宇宙から眺めると煌々と輝く光の海が見えます。
 この光の海を "地球システムを構成する人間圏という構成要素"としている。
・大気が見えるとか、海が見えるとか、大陸地殻が見えるとか、森林が見えるとかと同様に森林は生物圏です。
・我々が一万年前か農耕牧畜という生き方をしている。狩猟採集"と"農耕牧畜"という生き方を宇宙から
 見るということと同じですが、地球システムという見方で比較すると、この二つはまったく違う。
 "狩猟採集"というのは、"生物圏"という地球システムのサブシステムに閉じて生きる生き方です。
 動物がやってる生き方なんです。我々人類が700万年ぐらい前に類人猿から分かれたといっても、
 狩猟採集をしているうちは基本的にほかの動物と変わらない
 ー人間は、生き物の一種にすぎなかったー
・人間は生物圏の中の種のひとつとして生きているということなんです。
 食物連鎖に連なって、生物圏の中の物やエネルギーの流れを利用して生きる生き方。
 いろんな人類が生まれては消えたという歴史の中で、現生人類も1万年前まではそういう生き方をしていた。
 その"農耕牧畜"という生き方を地球システム論的に考えてみる。例えば、森林を伐採して畑に変えると、
 太陽から入ってくるエネルギーが地表で反射される割合が変わるわけです。
 これは、太陽のエネルギーの流れを変えてるわけ
・雨が降ったときに大地が侵食される割合も、森林に覆われているときと農地とでは全然違うわけです。
 それが土砂として海に流れていく。これは、地球における物質循環を変えるということでしょ」
 これはすなわち、地球全体のエネルギーや物質の流れに関わって生きるということです。
 それを地球システム論的に分析すると、"人間圏"という新しい構成要素をつくって生きる生き方ということになる。
 その結果、地球全体の物やエネルギーの流れが変わったということです」
  ー"人間圏"というのは、我々が生物圏の中から飛び出して作った新たな構成要素ー
・1万年ぐらい前に生まれて、どんどん大きくなって今に至ると。その発展段階での違いも分析することができます。
 すると今の人間圏の問題点も浮き彫りになってくるわけですよね。
 そのシステムが何であれ、システムを記述するときにはその構成要素が何なのか、構成要素間の関係性が何なのか、
 これを特定するとそのシステムの特徴が分かるわけです。関係性とは駆動力が何なのか、によっています」
 地球システムの場合で言えば、構成要素とは先程述べたようなさまざまな物質圏です。その関係性とは例えば、
 海から蒸発した水が大気中で雲を作り、雨となって落ちて大陸を侵食して……といった循環ですね
・人間圏の場合だと、産業革命のころまではその誕生以来、基本的な変化はありません。 駆動力という意味では、
 地球システム固有の自然のエネルギーを使っていたということです。すなわち、地球という星全体の物やエネルギーの
 流れを人間圏にバイパスさせていたということです。日本だと江戸時代まで、ずっとそうなんです」
・体にしたって、皆さん自分の体だと思ってるでしょ。でも自分の体じゃないよね。生きている間、地球から借りてるだけだよね。
・元々地球を構成している元素の一部をたまたま体として利用している。我々が生きるときに身体という物が
 重要なんじゃなくて、それぞれの臓器が重要なんです。人体というシステムを構成する構成要素ですが、
 その臓器がそれぞれの機能を発揮して、人体というシステムを作ってる。重要なのは、その臓器の機能なんですよね
・これはどういうことかっていうと、実は身体という物を所有するんじゃなくて、レンタルしてるということです。
 こういうふうに物事を考えない限り、地球システムと調和的な人間圏は作っていけない
 こういう方向に動いていかなきゃいけないけど、これは基本的には資本主義経済とか市場主義経済とかと矛盾するよね
「例えば江戸時代だと、領地にしても家屋敷にしても、所有しているのではなく、貸し与えられているだけですね。」
「そのころは、もともと所有なんて概念はない。みんなレンタルだった。加えて駆動力をその内部にもたないから、
 江戸時代に環境問題なんてほとんどない。これは地球システムと調和的な人間圏。
 そういうことを考えてみれば、わたしの言ってることはそんなに荒唐無稽じゃないんだけど」
 ーー
 一万年来の、大転換期に差し掛かっているのは解っていたが、それは情報化時代の到来が起因と思っていた。
 それが人間圏の膨張による限界点を超えたことによる、とは。
 地球のシステムが間違いなく人間圏を破壊する。それが温暖化による天変地異や、これから間違いなく
 数千万規模の死者が予測される鳥ウィルスの流感や、エイズである。 それを目の当たりに見ているのである。
 ミャンマーのサイクロン、中国の四川省の大地震、至近では中越地震中越沖地震、これは始まりでしかない!
 人生の元を取っている?ので、諦念でとらえているが、しかし5年〜10年スパンのことではない。
 50年〜100年単位で、いやもっと大きなサイクルだろう。20世の人類は何をしたのか?未来の人類に。
・・・・・・・・・
2007年08月20日(月)
 2330, 「ぼくの血となり肉となった500冊」         ー読書日記  (`・ω・。)っノXXXXXXX>C 才ノヽ∋―
 「ぼくの血となり肉となった500冊そして血にも肉にもならなかった100冊」ー著者 立花隆
昨日の「株価暴落の意味するもの」で引用したが、この一ヶ月は隙間時間があると、この本を読んでいる。
彼の猫ビルにある3万5千冊の中から選んだ数百冊の本のミニ・ダイジェスト。 数行から数十行の内容が
キラリと光っているものばかりである。 ランダムに面白そうな部分を抜粋しながら考えるに丁度良い。
『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』の続刊的な本である。
この本がキッカケで、彼の著書「エーゲ 永遠回帰の海」を買って読んで、今年の旅行ははギリシャと決定した。
更にウィトゲンシュタインの「90分でわかるウィトゲンシュタイン」を買った。 彼の本は、読書のナビゲーター
として割り切って読んでいる。まずは、彼の彼たる所以である特徴の部分から抜粋してみる。
−−
*フィクションからリアル世界へ(P−64 )
  (字数の関係でカット2008年08月20日) 
・・・・・・・・・
 2006年08月20日(日)
 1965.事業百訓・・・?