* 「ほんとうの私」と「仮象の私」       ー「呪いの時代」内田樹
 「ほんとうの私」と「仮象の私」には大きな隔たりがある。哲学で人生を舞台と見立てて、生きる意味と役割を考える手立てがある。
観客から見られているのが仮象の私で、実際に演じている自分が「ほんとうの私」としての見方。その演じている私も俳優という役割を
演じているに過ぎない。『男はつらいよ』のフーテンの寅、それを演じている渥美清、そして本名・田所康雄の役割の重層がある。
政治家は、票の確保のための代表に相応しい人間を「仮象」として演じている典型である。政治家は、選挙民に政治を託された公人。
 そこでは「ほんとうの私」を表立ててはならない。最近の政治家は、その辺りが甘い。ー以下は最近の政治家について箇所であるー
≪ 政治家の言葉が軽いのは、彼らがどんどん「ほんとうの私」に人格の軸足を置くようになったからと僕は思っています。
 他人が見ている私とは違うところに「ほんとうの私」がいる。それこそが「真正の私」であり、世間の人間が見ているのは
仮象にすぎない、と。だから、「世間の人間が見ている私」の言動について、「ほんとうの私」は責任を取る必要を感じない。
例えば、政治家が不祥事を起こす、彼は決して不祥事そのものについては詫びません。「私はそんなに悪いことをしているとは思わない」
と言い募る。けれども、「党のみなさん、支援者の方々にはご迷惑をかけた」ので職を辞す、と。「党の同志や支援者のみなさん」とは
「ほんとうの私」でつながっている。だから、彼らには真率を示す。しかし、野党やメディアが叩いているのは「他人から見た私」という
仮象であるので、叩かれても痛くも痒くもないし、そのような仮象の言動について「ほんとうの私」が責任を取るいわれはない。
政治家たちはそういうふうに考えているようです。「自分探しの旅」というのはもともと中教審が言い出したことで、政治主導の
イデオロギーですけれど、政治家自身が自分で唱導してきたイデオロギーの虜囚となってしまった。「ほんとうの私」こそ私の本態であり、
みんなが見ているのは「仮象の私」であって、そんなものについてオレには責任を取る気はない、と。だから、政治家の言葉が軽くなった。
「言葉の重み」というのは、その言葉が流通していく過程でさまざまな解釈が施され、さまざまな意味が賦与され、不測の事態を
惹き起こすことを見越して、発語者がその全体の責任を取るということです。・・・≫
 ▼ 政治家は、自分を捨てて、政=まつりごとを遂行することを業とする。それならば、既に政治家を目指したら、
  「ほんとうの私」は、捨ててかからなければならない。「世間の人間が見ている私」に軸足を置いて、俳優のごとく
  自分を演じるのが本筋。だから、「ほんとうの私」ごと責任を取らなければならない。その点で、政治家が軽くなったという説には
  納得をする。しかし、人生そのものは真正の私が生きる人生とは別物。その辺りを間違うと、とんでもないことになる。
 「世間がみている私」に責任などない。流動の少ない地方で、その辺を勘違いすると、人生そのものが狂ってしまう。
  自覚の無い狂人に、自覚ある狂人、その差は大きい筈だが・・・ 「ほんとうの私」も、実は「仮象の私」でしかないのだが。
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3822, 言語はゲームか?
2011年09月12日(月)
  毎日、一日一文を10年間も書き続けていると、書き上げること自体をゲームにやらないと続かない。
まずテーマさがし、次に文章を構成するキーワードと情報源さがし、そして起承転結の前段階の小文を書き、それを組み合わせ、
その後、何度か読み直しながら校正する。そこに自ずからルール化した習慣が出来てくる。それを一日も休まないで実行する。
手抜きをすると毎年の同月同日に、それを読むことになる。現に毎日読んでいる。そのプレッシャーが、嫌が上にもエネルギーになる。
「書くことは、ただ印象に残った日常や、本を写し取るのでなく、行為し、働きかけること」というウィトゲンシュタインの言説は
体験上、非常に納得する。 その辺のことが、以下に分かりやすく書いてある。 
  * 言語ゲームについて                ー「やさしい哲学」坂井昭宏著ー
【 「世界があり、事物や出来事があり、それぞれに対応する言葉がある・・」というこれまでの考え方に、ウィトゲンシュタイン
疑いを持つようになる。「言語は、それ自体の機能を持つ独立の体系であって、対象の方が言語によって意味づけられているのではないか・・。
そして、言語の使い手たちは知らない間に、特定のルールに従って言語を使いこなしているのではないか」と考えるようになった。
これが「言語ゲーム」理論の始まり。「あなたはバカ?」と言われたとき、「言った本人と比べてバカ?」というのか、「真からバカ!」か、
「世の中の大部分がバカだが、そのうちの一人?だろう」か、「自分がバカと自覚しているのか」とか、色いろ考えられる。
その状況により、その意味が変わってくるが、コミニケは、二人が同じ「言葉のルール」を共有してこそ成り立つのである。
このルールの共有の上で使用される言葉の使用を「言語ゲーム」とウィトゲンシュタインは名づけた。
「言葉の意味を知る」ということは、「言語の使用ルールを知ること」ということになる。言語は対象を写し取り、指示するものではなく、
行為し、働きかけを行うもの、つまり日常生活の基盤をなすものである。ウィトゲンシュタインは、学問も「真理の証明」は無理と考えた。
「語りえないもの」はもちろん、「語れること」にも絶対真理はない、とした。】
▼ 大方は、こんなものだが、言語ゲームを意識的にしていると、底知れないゲームの奥行きを直感する。人間は、言葉を冷静に
 見つめないと、マスコミから怒涛のように流れてくる言葉に人生まで狂わされることになる。 言葉は頭も心も支配する。
 所詮、配列でしかない言葉に、溺れ、窒息死をしてしまう危険がある。 「今日は、これまで最高の日、私は幸せ!」
 たったこれだけの言葉の後に、次のキーワードを組みたてる訓練さえすれば、その通りになるのに、逆の言語構成をしている日々。
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3457、秘・異郷ツアー、よもやま話 ー8
2010年09月12日(日)
 * アフリカに魅せられて ー2
 以前にも書いたが、ケニアのマサイマラにあるマラ川のヌー河渡りが圧巻だった。「ヌーの河渡りツアー」に参加したのだが、
10人のツアー仲間とサファリのプロの日本人がつく。サファリカー二台に分譲して、マラ川近くでヌーとシマウマの群れの集結を待つ。
そして、遥か彼方に集結するのを発見すると、気づかれないように近づき渡る瞬間を待つ。30分、一時間は待たされる。 次の瞬間、
地響きをあげて川に飛び込む。 それを隠れ潜んでいるワニが力強いあごでヌーやシマウマに襲いかかり、水の中に引きずり込む。
そこは生と死のドラマが繰り広げられる。それが緊張に満ちており、感動的である。それまでTVで何度か死闘を見たことがあるが、
生(なま)の現場でみると迫力が全く違う。 河渡りの途中に襲われ、一度水中に引っ張り込まれたシマウマが最後に、
ワニを振り切って生還する場面が圧巻であった。 また、渡りきった後に、水辺から上に登ろうとするが、力尽きて河に流されていくヌーと、
力を振り絞って何とか登りきるヌー。 それを近くの藪の中から見るのである。 正に生と死のドラマの真っ只中で見る。 
アフリカのサファリに魅せられるのは、生と死の狭間で動物が大自然の中で生きているエネルギーが直に感じることが出来るからである。
動物園内のライオンやシマウマと、野生のそれとは全く違うのである。最近、Youtubeで、ライオンなどの狩りの撮影が投稿されて
いるのを見るが、これも迫力がある。 私が参加したチームの6割がリピーターで、ヌー・クラブをつくって東京で会合を開いているという。
都会生活に疲れ、癒しを求めているという。 「オンリー・ユー」をかけて「オンリー・ヌー・クラブ」とか。ここで驚いた場面に出くわした。 
現地のジープのドライバーが60歳近いシングルの女性に、自分を買わないか?と、人が居ないところで言っていたのである。 
本人は断っていたが。 更に金持ちそうな人にドライバーが家を買ってくれと提案された。一軒が30万で買えるので、年に一度来たときは、
家賃とサファリを差っ引きに出来るし、別荘をケニアに持つことが出来るからと、真剣に考えていた。マサイマラに30万の別荘といえば、
面白いといえば面白いが、トラブルの元になるのは火を見るより明らかだが。ヌーの川渡りも一度で充分、それでも強烈なサファリである。
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3082,対話とは何か
2009年09月12日(土)
 以前から新入社員教育でST訓練を取り入れていた。 会話しか経験のない20歳前後の新人に、基本としての対話を教えるもの。
この元となる書を四十年近く探していたが、先日、偶然ネットで見つけたのである。「ダイアローグ 対立から共生へー議論から対話へ 」
デヴィッド・ボーム (著), 金井真弓 (訳) ーである。さっそく注文をしたが、前の会社を含めると30回前後の訓練をしてきた。
これは訓練をされる方より、指導するほうが勉強になる。 驚くのは若い人が、この訓練をすると見ちがえるほど変化する。
相手が何を言わんとしているかを把握して、今度は自分の考えを言葉にして相手に伝える基本中の基本である。
学生時代に武澤ゼミで一年間、15人位のグループでみっちり鍛えられ、更に金沢の新人教育で罵声の中で鍛えられた経験から、
見よう見まねで指導してきた。 そして30年近く、自分が一番得るところがあった。 相手の話の筋道を聞き取るのは当たり前と思うが、
私の知るところ3割もいない?。一度、自分の脳の中に言葉としてインプットして、こんどは相手に向けてアウトプットするのは、
厳しい訓練か、ハードな上司に鍛えられないと出来ないのだろうか?  哲学者の池田晶子が、その著書で
「対話とは、普遍の理性によって、個別の事柄について、その理非曲直を論じ合うことである。
それは相手が誰とかは関係なく、原則に貫かれるべきことである。」と述べている。
 −そこでネット検索で「対話」を入れて調べてみるとー
 対話(ダイアローグ)とは、「ダイア」(通る・流れる)と「ロゴス」(意味・言葉)
 を語源とするギリシャ語からきている。 そのため対話の基本姿勢としてつぎのようなことが大事となる。
・徹底して言語化する。 言葉にして初めて存在する
・知識と経験を共有する。 言語化された意見・知識・経験は共有される
(ただし、それ を持っているから優位な立場になるわけではない。言葉を個人から切り離すことが重要)
・「目的を持たずに話す」「一切の前提を排除する」など実践的なガイドを織り交ぜながら、チームや組織、
 家庭や国家など、あらゆる共同体を協調に導く、奥深いコミュニケーションの技法。
ー以上だが、地頭が良いということは、自分の地言葉?(私の造語)を持って、真剣に現象と対話することである。
 現象の背後にある構造を読み取ることである。これは難しいことだが、最後の最後は、これしかない。
 それを対話の中から互いに引き出すのが目的である。 神との対話、本を通した著者との対話、
 販売データーを通した顧客との対話、コンサルタントとの対話、知人との対話、等々、色いろある。
   対話が出来ないじゃなくて、対話段差の違い? ということか? 
   人の話を聞こうとしない人、知ろうとも思わない人が多いが、それは「程度」ということ?
 この随想日記も、考えようによっては、対話をしているのだろう。 自分と、読んでくれている人と!
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2717, iPhoneその後
 2008年09月12日(金)
購入をして45日になる。自宅と会社の事務所の机に上には、オールイン型のiMacのパソコンが置いてある。
また、8GのiPodもあるので、必要ないといえば必要は無いのである。しかし、新しいもの好きな者にとって、
これは身近に手を取ってみたいもの。実際、現在も携帯電話に戸惑っている。 もちろん携帯電話機能は、既存の方が使いやすい。
デジカメ機能もデジカメの方が良い。じゃあ、何が良いのか?といえば、携帯電話と、デジカメの多くの機能が付いた小さいパソコンを
腰ベルトに付けておくことが良いのである。ただ、それだけ。 携帯電話のように、時間の経過とともに身体の一部になるのだろう。
マスコミでは、思ったより、これが売れてないといわれ始めた。しかし時間がかかるだろうが、これは売れる。多くのメーカーが、
携帯電話を、このカタチに近づけてくるだろう。これはハシリのマシーンで、これを出発点として進化を始めるだろう。
この欠点を並び立てることは幾らでもできる。
・何であるが、中途半端である。 ・電池が、みるみる減る。 ・携帯電話としてはでか過ぎる。 等々。
恐らく、私のように携帯電話を使いこなせなかった中高年が興味を持つだろう。現在、何でいま一つヒットしないのは、女・子供に
行き渡ってないからだ。彼らは、あまりに現在の携帯に適応しているのである。で、お勧め出来るかって?と言われると、
私のように趣味として割り切ればよいが、携帯電話を使いこなしている人は、1〜2年は様子をみても良いんじゃないですか、
である。でも、昨日のように東京にセミナーに出席した時に、小さなパソコンが腰についていると何か奇妙な感じのことは事実である。 
未来が現出しているオモチャ、と思えばよい。それでは、携帯電話に戻しますかというと、いや、これがよい、ということ。
それが現時点の感想である。 使い出した初めは、携帯電話の方で良かったのに! と思うだろう。
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2007年09月12日(水)
 2353.ベナレス・・・9
 12、母なる河ガンジス
日本の文化や精神性を象徴するのが富士山であるとすれば、インドのそれは間違いなくガンジス河である。
ヒマーラヤの山間部ガンゴーツトリー氷河に源を持ち、勢いよく南下して平地に達成するかがわかる。
日本では英語のガンジスの名で親しまれているが、インドではガンガーと呼ばれ、女神そのものもと考えられている。
神話によれば、バギーラタという王が先祖の犯した罪を浄めるため、神々に懇願し苦行を重ねた結果、罪障を洗い浄める
力を持つたガンガー女神が天界から地上に流れ下つたのだとされる。 それ以来、ガンガーはあらゆる人びとの罪障を浄め、
より良い再生をかなえてくれる聖なる河として崇められるようになったという。ガンジス流域から離れた場所で
儀礼を行う際も、その土地の水を入れた壺にガンジスの聖水(ガンガー・ジヤル)を一滴でも注げは浄められるというほど、
この水は霊力を持つと信じられている。ヒンドゥー教徒はこの河で沐浴するときには母なるガンガーに身をゆだねる
安堵感にひたリ、また、死んだときには母に抱かれてヒマーラヤに帰っていくことを願って、ガンガー女神に篤い信仰を捧げる。
 解)死体を流す川での沐浴。そして、その近くで骨の中から指輪などの貴金属を川の中からあさっている人たちの姿。
なんともいえない悠久の流れがそれらを全て包み込んでいるようであった。インド、特にベナレスは一度日本人は行ってみるべき。 
死はサシたる事ではないと思えるようになるから・・
  (字数制限のためカット 2010年9月12日)
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2006年9月12日
1988, デジタル一眼レフカメラ −2
 (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ            
今回、「初心者用のデジタル一眼レフ」を買うについて、色いろ調べたが、結論として、
・キャノンのEOSKissデジタルNと、 ・ニコンD200と、
ソニーα100と、        ・パナソニック一眼L-1LUMIX に絞られた。 何ということはない、
ヨドバシカメラの売れ筋コーナーのエンド」に並んである順である。
(字数制限のためカット 2011年9月12日)
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2005年09月12日(月)
 1623, 自民党大勝
予測どおり自民党が歴史的大勝をした。 反面、民主党が惨敗である。
これで自民・公明で三分の二を占め、郵政改革案は確実に成立することになった。
自民党の郵政反対派が34人のうち18人も当選したのが意外である。三分の一になると思っていた。
綿貫と亀井が当選したのも、地方の民度の低さをそのまま現していた。 この二人は落とさなくてはならなかったが。
これで、参院が法案を否決をすると面白くなってくる。参院の存在そのものが、無用になっているのは誰の目にも明らか。
   (字数制限のためカット 2010年9月12日)
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2004年09月12日(日)
 1258, 人生のセイムスケールとは?
最近、個人のホームページが、注目を始めているという。趣味を写真や文章で、個人のホームページに表現し始めてきた。
このHPもそうだ。10年も経てば、(あくまでも私にとってだが)膨大な資料館になる。
自分の情報基地を個々人が持ち始めて、ここにきて時間と供にカタチになり始めてきた。
ネットウエーブをしていると、最近思わず唸るようなものに多く行き会う。ほぼ毎日、新聞の死亡欄を見ているが、
自分の年齢の前後から下を見て、その数を数えている。今日は一人もいないとか、5人とか。大体15?である。 
歳を重ねると間違いなく、その比率がドンドンあがっていく。山田風太郎の『人間臨終図鑑』に、
年齢別に亡くなった有名人と行蔵が分類してある。山田風太郎が既に先陣をつけていたことを知らないで、
2001年7月9日から実行していた人がいた。途中で風太郎の『人間臨終図鑑』に気がついて、その時から勝手に
二代目・風太郎として、その遺志を継いで、その後、こつこつと書き溜めて1200人以上になろうとしている。 
この人の趣味のようだが、そのプロセスで多くの人の行蔵と魂を知ることが可能になる。実際始めたら病みつきになるだろう。
(以下、字数制限のためカット 09年09月12日)
http://www009.upp.so-net.ne.jp/artrandom/samescale/index.html
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2003年09月12日(金)
 891, 9・11に思う
アメリカの9.11テロから2年が経つ。この日を境に世界が変わった。アメリカにとって、テロとの全面戦争に入った。
無条件に「テロ容認国家とテロ集団を破綻させる戦い」に全てのエネルギーを注ぎ込む決意をしたのだ。
100年戦争の突入である。まずはアフガニスタン、そしてイラクである。いまイラクの戦後処理に手こずっているというが、
そんなもの当初からの予定の範囲でしかない。 次は北朝鮮、そして中国。ロシア?とは取引済みのことは当然。
表面はポーズで和平交渉をしているが、戦争をするための一里塚でしかない。まずは、兵糧攻めを徹底的し、戦争をせざるを得ない
状態まで追い込む。そして、戦争は至極当然に始まるだろう。その間にある日本は一番の標的になることは間違いはない。
 私の9.11の出来事があった。丁度その時、私が居間のTVの前でうたた寝をして、寝室に行こうとしていた時であった。
就職をしたばかりの下の子供が帰省中であった。寝室のTVで二人はその事件があったことを知っていたが、居間で私と交代のタイミング、
歴史的事件と解っていながら無視をして黙っていた。寝室から開放されて、居間にきたのに今更呼ぶことがないと。
翌日、初めてその事件を知ったが、二人はそんなことは全く知らぬ顔。たまに帰ってきた子供と家内に怒ることも出来ない。
これが私の9.11であり、家内の私に対する可愛いテロ?である! テロの後の一ヶ月はライブで見たか見ないかが話題の中心。
ライブで見たという話を聞くたび腹がたった。多くの人が見ていたのには驚ろいた。 今でも9.11になると腹が立つ。 
昨夜その話をすると、「『ありがとう』を回数いっている割にくだらない事に拘っているのね」と軽くいなされてしまった。まあいいか。
 --今日から、一年前と二年前の同日の随想日記をコピーします。
暇だったら、読んでください。 三年日記帳のつもりで読み返す習慣をつけるためです。
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2002/09/12
 勉強方ー速読法
昨年から今年の前半は、ホームページ立ち上げとその為のパソコンの勉強であった。
今年の前半からは、「読書法と文章作法を中心とした勉強法」に集中した。
特に読書法の方法論が目から鱗という内容が多く、じっくり
身に付けるというより、いろいろな方法論の知識に気がいった。
しかし読めば読むほど、それだけ吸収力が確実につく!更に集中力とポイントの把握が飛躍的に付いた。
空の上から下の動物の群れをみる鷲のような感覚が強くなった。 共通の内容は大体がこんなものだ
まずは前書き、後書き、目次を集中して読んで骨格を把握。−これは10年以上前から実施していたが。
・キーワードをさがす。
・図や箇条書きや太字のところを読む。
・それが終わったら最後の章からポイントを探しながら、一とおり流し読みをする。
・常に目次をベース基地にして各論を読む。
・旅としての読書か、旅行としての読書かハッキリ分ける。 (読書そのものを楽しむのかーA、
 知識を多く得たいのかーB) 両者の速読の仕方がまったく違う。前者ープロセスを楽しむにも早読法がある。
次がこの1年間に仕入れたポイントである
・目をスキャンに例えて、 一ページをなぞる、そして半ページをなぞる、
  4~5行の段落でなぞってから2~3行ずつ飛ばし読みをする。ーー A、B両方可能
(字数制限のためカット 2011年9月12日)
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2001/09/12
 [142] 宗教戦争
今朝おきて初めてアメリカのテロのニュースを知る。
・株を持っていなくってよかった!
・次に全面宗教戦争の可能性!
・そして恐慌の引き金にならなければよいが!  まずそう思った。
3日前の日曜日TV映画で、イスラム系アラブ人によるニューヨークのある地区の無差別テロの
「マーシャル・ロー」というのを見たばかり。 さすがアメリカ映画と思ってみていた。
それは劇場公共の場を狙った無差別テロで、今回のテロに酷似していた。かなり迫力のある内容であった。
その桁違いの内容が現実に起きようとは思っていなかった。 21C最大のニュースと解説が言っていた。
厳重な警戒態勢の中で行われたのが重大だ。 今日から、戦争・恐慌も含め何が起こっても不思議でない。
数万でなく、数百万単位の死者の起きる戦争になる可能性がある。 恐ろしい事件だ。