人間、それぞれの能力があるが、それには当然ながら限界がある。その一つに自分で勝手に決め込んでしまう心理的限界がある。
30歳・40歳までは、その限界を壊し続け、アップスケールする成長期である。自己能力の限界の設定と、その達成。
そして破壊になり、限界の挑戦の繰り返しになる。機会を見出し、挑戦、変身していく、これが成長である。これは仕事だけでなく、
趣味の分野でも同じ。40歳代に入ってからは、秘境・異郷旅行を趣味にし、カナダのロッキーから、アフリカのケニアタンザニア
南アフリカ北アフリカ・中東、そして南米、シルクロードへと、行き先を広げていった。 未知の世界に初めて行くときは、
まず心理的限界を乗り越えなければならない。直前に大きな心の揺れが出て、計画断念まで考える。しかし一歩、家から出れば、
あとは成り行きに任せる。限界は誰にもある、要は、その先に踏み出すかどうか。 口では軽く言えるが、いざ実行となると、
そう甘くはない。挫折は、その限界に跳ね返された時に生じるが、自分の再構築する機会になる。 諦念とは、限界を知り、そのまま
素直に受け入れることをいうが、実に辛い。 世界的カーレーサーの言葉に、「限界は誰もいける、問題は、それから先に、
どれだけいけるかである」という名言がある。世界的レーサーだからいえる言葉。野球の野村元監督の講演で印象に残った言葉がある。
《 自分は二流の能力しかなかった。その事実を認め、戦い勝つためには「考えること」しかない。一流選手の中で勝ち残るために、
その間にプラスの要素を加える工夫しかない。それが考えること、データー野球である・・・云々》 凡人は、一に準備、二に準備、
それを常に楽しみ工夫してやるしかない。あまりに、考えない人が多い。そう思ってきたが、一番考えないのは、この私。
これは全ての人に当てはまるが。 実際に、あと10年間は考える時間が欲しいが・・。 ところで、モバイル携帯端末が普及して
ネットで世界が繋がってしまった現在、能力の限界も今までとは違ってきている。脳がネットで世界中に繋がったのである。
面白く、かつ恐ろしいことで、ここに時代の大きな断層が出来てきた。20年、30年前だったら、数百億もするコンピューターが、
ただ同然に世界中の人々が持てるようになり、現実世界をネット世界が覆いだしたのである。これが断層となって既存のシステムを
根底から破壊はじめてきている。 ところで人間を不幸にしている要素に、その限界を認知できないことがある。そこに不幸の種が
出来てくる。として、限界を遥かに超えたところで、砂利の大きさと形の差異でしかない。面白可笑しく楽しむしかないか、最後は!
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3788, 閑話小題
2011年08月09日(火)
  * 水戸黄門が放送終了という
 水戸黄門が、今年の12月で放送を終えるという。放映開始が私が社会に出た年1969年で、42年になる。 
1979年には視聴率は43.7パーセントというから、信じられない人気だった。それも現在10パーセント前後まで落ちていた。 
勧善懲悪がハッキリしていて、印籠を出す時間が分単位で分かるという。 初代が東野英治郎で現在の黄門様は5代目。
最後は黄門様のお上の力を披瀝することで、各藩の下々や家老などの悪事を暴く筋書き、40年以上も経てば飽きられて当然。
当初の頃、年に数度みた記憶があるが、最近は全くみてなかった。 由美かおるの入浴シーンも売りだっが、数年前に彼女も
還暦を向かえとこともあり、なくなってしまった。 当初のころ、芥川龍之介の逆視線の「桃太郎」の物語と、水戸黄門
勧善懲悪が重なりを感じてつまらなくなった。 桃太郎が勝手に鬼が島に鬼を征伐に行って、宝物を奪略してきたという筋書き。
立場変われば善悪は逆転するという捻れた物語。鬼にとって桃太郎こそ、勝手な侵略者。 
そういえば姉の一人が大好きで、脳の構造までが、印籠を出すタイミングを常に計っているようだったが・・・
 地方都市の世界は家紋か〜 城下町小唄は今も続いている。 全ての世界も同じようなもの、 そこしか知らないものにとっては
  * 無言の圧力
「毎日のように、貴方の随想日記を読んでいると、無言の圧力を感じる」と、ある人にいわれた。成る程、そうかもしれない。
ここでは思いの一部分も書ききれてないが・・ それを毎日続けることで、書いた言葉の背後にある無言のエネルギーを感じるのか。
理路整然と筋道を書き上げることは、それなりにエネルギーを要する。とはいえ、書き、修正を加え完成させると、それを第三者として、
それを見つめている自分がいる。それも毎日10年分の同月同日の文章もコピーし読み返していると奇妙な感覚になる。同化しているような。
一文章 2時間×10年=20時間の集中したエネルギーもある。(テーマ探しは別) 書いた瞬間に全て忘れているためか、
書いた本人が一番、エネルギーの痕跡を感じる。書いてしまった文章は過去のエネルギーであり、時間がたってしまい再度読んでいる時、
現在の自分のエネルギーと混同する。それが読み続けることで「無言の圧力」のように感じるのか。 それを感じさせるだけ稚拙ということ。    
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3423, 5つの「あ」
2010年08月09日(月)
中国奥地で国際援助の植林活動をしている日本人が、「5つの‘あ’」で現地で頑張っているといっていた。
「 あせらず、あわてず、あきらめず、あてにせず、あなどらず 」である。
「中国人の反感の視線の中で、こういう地味の国際活動は、この5つの精神でないと持続できない」という言葉が重い。 
人生訓でもある。 そこで、≪5つの「あ」≫と検索で調べてみると、他にもあった。
* 『あせらず』 不安、焦燥があってもゆとりを持つことが必要です。
  『あわてず』 現時点で急な展開を求めるべきでなく、少し時間的猶予を…
  『あきらめず』まだ自分には使っていないものがあるから、それを使えば安全・自由です。
  『あるがまま』現実をありのままに見つめて、目の前のことを、感謝・喜びとして感じると、あるがままに行動できますよ!
  『ありがとう』今日、一日の無事に感謝し喜びをこめて“ありがとう”と表現しよう
* あんしん. あんぜん. あたたかさ. あいじょう. あかるさ
* 挨拶、ありがとう、謝る、頭を下げる、新しいこと  などがあった。
 しかし、中国での植林事業では「「あせらず、あわてず、あきらめず、あてにせず、あなどらず 」が良い。
 自然体の具体的な心の持ち方ということ。逆に「焦り、慌て、直ぐに諦め、誰か・何かを当てにして、あなどる」が、日々の自分たち?
  それにしても、中国でボランティアで長年、植林にたずさわっている姿に頭が下がる。
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3048,閑話小題 
2009年08月09日(日)
   * 印税は定価の一割
  作家の一冊あたりの手取りは大まかにいうと、定価の一割という。 といって、一万冊売れると思って出版はしたが、
 半分も売れなければ、その一割が入るかどうかだ。本を出版して一万冊売れるかどうかが目安(現在は7〜8000冊ともいうが)
 1500円の本が、まあ売れたとして150万円でしかない。だから作家にしても、ノンフィクションのライターが
 物書きで生活するには並大抵のことではない。 現在は、出版不況で総合月刊誌の休刊が相次いでいる。
   * モノを知らないから困るのではない
 「我われは、モノを知らないから困るのではない。知っていると勝手に思い込んでいるから困るのである。」という名言がある。
 その上に、知っていることが、実は間違っていることもある。
 「人は、それぞれが知っている範囲の中でしか、理解しえない」ということも最近つくづくと思うこと。
 結局は何にも知らないも同然だったということだ。特に他人に対して、それがいえるのでは。
 知っていたつもりの人が、全く知らない一面というより、多面を持っているのを知り度肝を抜かれることがある。
 我われがインドのカースト制度の差別社会を見るとき、それは実は気づかないだけで、日本でも歴然としてあること。
 自由、平等、そして思いやりのある博愛、等々は全部ウソ。 それを知っているつもりで、実態は不自由で、
 身分社会が厳然としてあり、大方が金で左右される取引社会の真っ只中にある事実が見えてないだけ??。
   * 昨夜は高校の同級会
  昨夜は、高校の同級会。 幹事だったので気を使ったが例年通り盛況に終わった。出席が15名。 ドタキャンが一人と、
 連絡なしの欠席が一人。 二次会は6人出席。 ドタキャンもあろうと会費を千円を上乗せをしていたので何とか凌いだが、
 問題の二人は、これまで一度も出席をしたことのない男。 亡くなった山田君の奥さんに三回忌という名目で出席して貰ったが、
 故人も喜んでいただろう。 それより故人の奥さんが、その場に馴染んでいたので安心をした。
 驚いたのは、奥さんも含めて無職が一人だけのことだった。 自営業が半分以上ということもある
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2683, iPhoneは、超小型パソコンだった! −3
2008年08月09日(土)
  −Phnoe の経過報告
これが気に入っているのは携帯電話に馴染めなかったことが大きい。ボタン入力が苦手なこともあり、気楽に弄りまわせないでいた。
それより気楽に電話をかけたりメールを出す相手がいないこともある。家内が昨年の春に初めて自分の携帯電話を持ったとき、
嬉々として使い出した。妹とメールの遣り取りを遊び感覚でしはじめた。土日の暇なときに、「いま、暇。何してる?」
とかをメールで入れたり、私がTvを見ている前で、ワンセグで他のTvを見たりしている。
それに比べ私など二日に一度あるかないかの電話機能しか使ってないし、金・土曜日のホテルの宿泊数の報告をショートメールを
週末にもらう位。実のところ、「外出時に持っていると安心できるのが唯一の所有理由」というと、言い過ぎか??。
(字数制限のためカット 2010年8月9日)
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2007年08月09日(木)
 2319, 5次元世界が存在する?   ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
何かSF的な話か、新興宗教の本に出てくる異次元の話が、たまたま見ていたNHK・TVで放送していた。
「エッ、何?」と注目してみた。あと数年もしないうちに「『5次元の世界』が発見される可能性がある」という。
来日中の理論物理学者のリサ・ランドールがNHKのアナウンサーと、朝から異次元を語っていれば、私でなくても誰でも驚くであろう。
彼女は、いま全米が注目する物理学会のニューヒロインで、5次元世界の提唱者。加速器を使った粒子の衝突の実験で、消えてなくなる
素粒子が存在することから、その理由を探しているうちに5番目の次元に移動するのでは?と、思い至ったという。
5次元の世界は私達が触ったり、感じたりはできないが、物理的には必ず存在するという。3次元空間の中にスライスされた
2次元の平面(膜)が無数にあって、その膜のひとつに私達や銀河が張り付いているようなイメージという。 これは「超弦理論」の
M理論」に非常に似ている。 M理論とは「プレーンとプレーンの間は唯一重力が伝播されていて、あるときプレーンとプレーンが
何かの要因で接触すると莫大なエネルギーが解放されてビッグバンが起こり、新たな宇宙が発生するメカニズムを理論化したもの」 
M理論は11次元の超重力理論であり、ランドール博士の5次元宇宙と何処が違うか私の知識内では理解できない・・ 
ランドールは子供向けに数式を使わずに「ワープトパッセージ」という本を書いていて、全米の科学分野でベストセラーに
なっているという。20年位前に、NHKがシリーズで壮大な「宇宙」についての番組を放送していた。
その中で、「ブラック・ホールが周囲の星など何もかも吸い込んでしまうが、その宇宙の歪みからできた穴の行き先は、
この宇宙とは違う宇宙に通じている。」という説を紹介していたが、それにも通じるのかも知れない。
その時、その別宇宙への目に見えない管が我々周辺にも満ちている、と。それにしても、数年以内に5次元世界の存在が証明される?
現実的には信じがたいことである。発見されれば、科学にとって、いや人類にとって衝撃的ニュースになる!
別宇宙の空間が我々の周辺に満ちている?そんなバカな!        (≧∇≦)ノ~~~マタネー
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2006年08月09日(水)
1954, ある首斬り役人の日記 −1
 「ある首切り役人の日記」 フランツ・シュミット/ 訳・藤代幸一  白水社
 −そろそろ、お盆! 少し背筋が凍りつく内容もよいだろう!ー
何気なく図書館で借りてきた本。少し気味悪いが、人間の極限における生々しい姿が書かれている・・・
初めは事務的に時系列の処刑の記述が、時間が経つにつれて具体的にリアルになっていくのがわかる。 しかし汚職とか、
政治闘争の結果の死刑は見当たらない。16世紀に実在した、死刑執行人の日記で、自分の仕事内容を記録したもの。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、ドイツで刑の執行を行った親の代からの首切り役人フランツ親方の日記で、剣と綱で
生涯に361人の処刑をした。他にも鞭打ち・指切りなど死刑以外に彼の手にかかった処刑者は345名である。
彼は日記を書くにあたり、極力個人的感情を入れないようにしている。だから真に迫ってくる。1~298まで、それぞれの犯罪と
死刑の方法を書いている。そして年末に、その年に処刑した合計数が書いてある。日記と言うよりは記録の書といってよい。
・犯罪の種類として、追い剥ぎ、泥棒、殺人、嬰児殺人、同性愛、近親相姦、詐欺、教会からの窃盗(罪が重い)・・・ 。
・刑は、打ち首、絞首刑、車刑、火刑から、追放刑、むち打ち、腕の切断、指の切断、耳の切断等々、
 現代からみれば残酷のものが多い。当時はこれは当たり前の処刑であった。権力者の見せしめの意味が大きかった。    
 死刑の中で、首切りは苦しまないで瞬時に絶命するので一番望ましいものだった。 
            (字数の関係でカット2011年08月09日)   
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2005年08月09日(火)
1589,自民郵政解散の攻防−3
            (字数の関係でカット2008年08月09日)
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2004年08月09日(月)
 1224, 広松渉ー哲学について −26
広松渉の「新哲学入門」を私が理解したレベルで書いてみるが、内容はかなり難しい。
しかし、これを理解しないかぎり現代の哲学を語ることができない。簡単に加工可能なデジタル社会の現在、
存在・認識・実践そのものを根底から考えなければならない時代になっている。荘子の[胡蝶の夢]で、蝶になった夢から
醒めた男が「醒めた自分こそ蝶が夢をみているのではないか」。「蝶が人間になった夢が現実」とすると、
見えている事実は脳内の作用でしかない?TVドラマの世界に入り込んでしまい、現実をむしろ虚構と思い込んでしまう
可能もある時代である。この書は、認識、存在、実践の近代的世界観を根底から批判しているが、最後の章の
「実践するとはどういうことか」から、感想と印象的な文章を書きだしてみる。
  −−−−−−−−
 第三章 実践するとはどういうことか
   第一節 行為の存立構造
 行為の存立構造の、糸口として、演劇(芝居)を喩えのモデルとしてすると構図が見えやすくなる。
社会学では、役割行為論がスポーツ・モデルが展開するケースが多く見られるが、演劇モデルを取り上げる。
   ー人生劇場の舞台
人生劇には、舞台的場所や道具的与件があり、総じて幕場的状況がまずある。−−神といった超越的「劇作家」の
存在を考える立場もありますが、これは暫く括弧に収め、[即興劇]ということにしましょう。
人生劇では[舞台]が大変に広く、観客席や楽屋までが舞台であり、観衆や裏方も俳優に導入される。
舞台的場面は、自然的環境と社会・文化的環境とに二分して考えるのがふつうである。*人生を徹底的に、舞台劇場として
自分を醒めた目で書き出してみると、全く違った見方ができるだろう。長期的将来の計画をたてるのは「劇作家」
の存在の視点であろうし、現在は過去の自分という劇作家の結果といえる。何も考えず惰性に流されて生きている人もいるが。
   ー行為の共演性と役割存在
行為という時、一個人だけで自己完結的であるように扱われるのが常套です。いわゆる集団の行為といえども、個々人的行動の
代数和のように扱われがちです。確かに単独行為があるが、舞台的・道具的条件なるものからして、他人たちの介在によって
初めて成り立ちます。・・・今、例えば、農夫が孤独に畑を耕しているとします。畑は彼自身が拓いたものではなく、
農具も彼自身が作ったものでなく、農耕動作も彼自身が案出したものでありません。いずれ他人が作ったものです。
行為は、本質的には、協演的存立構造にあるものと看じます。行為の協演性とは、行為が役割分担ということです。
・・たとえば、[ハムレット]という劇は、先王役、新王役、ハムレット役、といったまさに「役・割」によって成り立っています。
・・・人々は幕場的情況に相応しい仕方で、余程の場合以外は、期待された行動以外は「ナチュラル」に遂行する態勢を形成しており、
共演者どうしはおたがいに相手を「当方の期待する所作を当然体現する筈のもの」と覚識する。*劇である限り、何らかの形で
行為の協演性がある。行為が役割分担になっている。それはそれぞれのお互いに期待された役を演じるということだ。
その中でも、それぞれの個性ー主体がある。 (字数の関係でカット2009年08月09日)
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2003年08月09日(土)
 857, 閑吟集-チロリチロリチンチロリ
 よのなかはちろりに過ぐる ちろりちろり (49)
 何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ (50)
 何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり(51)
 ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あじきなき世や(52)
 夢幻や 南無三宝 (53)
 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54)
 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ (55)
   ー 大意ー
世の中は、ちらっと、瞬く間に過ぎる ちろり、ちろりと。 浮き世は「風波の一葉」でいいじゃないか。
古希まで生きられる人間が「古来まれ」でもかまわない。「水の泡」「露の間」のようなはかない「夢幻」の世。
「夢の夢の夢の」ような世間だからこそ、すべてを肯定して「狂へ」ばいい。ー数年前にこの「閑吟集」の一節を読んで、
この歌の中に流れている諦念と反面、強烈なエネルギーにショックを受けた。その翌年の年賀葉書に書いて出したりもした。
またコピーをして、知人に配ったり、手帳にはさんで、この一節を暗記をした。そして数ヶ月間近くいつも口ずさんでいた。
たまたまモロッコ旅行の飛行機やバス移動の中で一人口ずさんでいた。その時の自分の気持ちをそのまま歌にまとめてあるようだった。
一種の無常観を歌っているし、「ちろりちろり」には茶化したユーモラスな感じが漂っているのがよい。「ちろりちろり」と
人生はあっという間に過ぎていくものよと、諦念混じりに笑っているのが心の琴線に触れてくる。反面、強烈な現世肯定の歌にもとれた。
「狂う」とは常軌をいっした行動ととれるし、ある物事に集中する意味にもとれる。びくびくと、したり顔をしてつまらない一生を送るより、
ただひたすらに「狂う」ように集中して生きろと。この世の儚さをそのままに受け止め、一期の夢と見切る覚悟があればこそ、
人は「狂う」ことが出来るのだ。読み人知らずの作者が5百年近くの時間を越えて語りかけているようだ。「世間」を「男女の仲」
の意味もあり、そう解釈するとまた意味が違って来る。「ちろり」は、昔、酒を暖めるのに使った、
「銚釐(ちろり)」という道具を連想すると、男女の交わりを暗示していることになる。
(以下、字数の関係上カット2008年9日)
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2002年08月09日(金)
 482, 毎日が刺激的
下の息子に一昨日、電話をしたら自分の会社が買収されてIBMになるという。Pwc−プライスウオーターハウスという、
世界最大のコンサルタント会社でナンバー2を2倍以上引き離している優良会社。まさかと思って知人に聞いたら、
日経新聞に8月1日に出ていたそうだ。アメリカ最大の倒産のエンロンに関連して、あのアンダーセンが消滅寸前。
会計部門とコンサルテング部門の二つの部門を持ってることが、今回のエンロンの事件を引き起こした。
その轍を踏まないように、コンサルテング部門をIBMに売却するという。全世界に12万人の従業員を抱え、IBMより上と
見ていたのに。二分割して吸収される。入社2年目で本人には全く影響はないだろうが。外資系は劇的なことを平気でする。
初めからIBMに入社したと思えばよい。しかしあくまで吸収先という事実は変えることはできない。またゼロから再教育は
最低必要条件である。本人は長い目でみたら、よい勉強になる。外資を短期間で二つも経験できるのだから、最大の教育だ。
考え方一つだ!直接本社か、子会社か、関連会社か。今回IBMのホームページを見て、初めて知ったが
100?出資が子会社で、関連会社は出資比率で書いてあった。
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2001年08月09日(木)
[103] センチュリーベーカリー
  −昭和50年3月〜8月31日ー
あまり他人に話した事がないが、焼きたてのベーカリを立ち上げた事がある。千葉千城台のビルと養老の滝1122号店を立上げ一年、
空きビルを埋めるべく何がいいかみた時、当時団地では全くなっかった‘焼きたてのベーカリー’に目をつけた。
冷凍生地を主体とした焼き立てパン屋である。商社の東レの子会社の蝶理という会社が、このフランチャイズをやるという
新聞記事をみて早速やることにした。東十条にある関連のパン屋に朝4時に起きて、二カ月オープン!
何時ものように、パニックそしてーー。素人は初めは良いがある時期がくると、応用が利かない弱点が出てくる。
その時期、長岡の実家で問題が生じ帰ることになった。第三者の経営委託に切り換え急遽長岡へ。
恐らくあのままやっていたら3〜4年で行き詰まったのではないかと思われる。
しかし若さか今考えてみると良くやったと思う。苦し紛れで‘開発型委託経営ビル’を造った事になった。
考えてみれば、ジャスコ、いとはん(北陸ジャスコ)、ビル開発(飲食フランチャイズ+ベーカリー立上げ)、
実家の衣料デスカウント・ハウスと12年近く、全く未経験の体験の自己配転していたことになる 。