昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい)院代が2時間近く出演し、
「生きる」ということ、「死」について、説いていた。最近、「恐山」出版されたようだ。
東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れてくるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。
院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。
・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 ・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) 
・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。
・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がることが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。
・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。
・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人には心があったのであって、いまさら、この時代だけを
「心の時代」と言うのか?「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品を作っているではないか?
 等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、
 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。
 東北大震災で奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが
 感じられなかったという。哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 あっという間の二時間だった。
 30年近く前に行った恐山は、強烈な印象である。山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。 あちこちに置かれていた遺品。
そして、イタコと涙ながらに話している人たち。目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。

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3706, 自己を見つめる −23
2011年05月19日(木)
   ー 他者について ー             「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)   
 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。そして一般的には、「他者」は、自分以外の人や、
生物、そして物を総称して呼ばれる。  二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。
【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえばブーバーなどを中心として、多くの思想家によって、
二人称の「汝」と向き合った、「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて強調されるようになったのも
当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になってゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題として
重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に
設定するほどである。こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まるとも言えるが、
とりわけ現代において強調された重要な問題意識であると見てよい。
 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を
行使しようと隙を窺っている、油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、
永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは幻想であり、むしろ、個別の体人同士の
峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本事実と見なされるわけである。
 ヤスパーも、人間関係において、やはり、争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。
・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、
 すぐに露呈してくるからである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われるかの、生死を賭けた争いの火花が
 噴出してくることは、誰もがつとに覚悟している。 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順や
 業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、憂き世での浮沈が結果としてくる。
・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、
 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも
 気懸かりの種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が
 真に信頼の置ける人物であるか否かを、人は不断に確認しようとする。・・・   】
▼ ソクラテスデカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。
  しっかりした「自分」があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、19世紀初めに
  生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。自分が自分でいるのは、先に「私」があるのではなく、むしろ他者が
  先にいるからであると。少なくとも、相互作用が必要と言う。「他者」が「私」のことを意識することによってはじめて、
  「私」は、この世に位置づけられる。 人生の節目どきで、身近にいた他者が変わる時に、この意味が実に鮮烈に見て取れる。
  特に内面の希弱な人にとって、他者の交代の節目は、自分を支える基盤が無くなり、大きく動揺する。老齢になるほど大きくなる。
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3341, 今日からデジカメ写真がうまくなる
2010年05月19日(水)
    「今日からデジカメ写真がうまくなる」 久門易著
 元もと写真が好きで多く撮ってきたが、デジカメが出来てから、それがより多くなったようだ。
それにしてもデジカメの機能の日々の進化は目を見張るものがある。 プロとアマチュアの差は、
「多くの角度から枚数を撮って、その中からベストのものを選択できる要因の差」という。
その繰り返しの中で「一枚だけでもベストの写真が写せる」能力がつくのだろう。
世界中の秘境で写真を撮るのは良し悪しがある。対象を、身体全体で感じ取るために現地に行くのに、
ファインダーを通した小さな視界の中でしか見えなくなるのである。写真は素晴らしいのが残ったが、
現地での体感が残らないのである。その辺の兼ね合いが意外と難しい。今回のテーマとそれたか。
 この本、ブックオフで見つけ買って読んだが、幾つか教えられた箇所があった。
基本中の基本だが、といって、言われて成るほどと分かることもある。場数は多くつんできたが、スナップの基本を正式に
学んだことがなかった。場数や、アマチュアの人からの聞きかじりで、素人からアマチュアの入り口に入りつつあるのが
現段階と思っていたが、この本を読んで気づいたことは、まだまだ素人の段階ということ。この本は、ズブの素人向きだが、
基本の基本が曖昧だったことを確認した。
・その一つが、料理を撮るときは対象を大きく写すである。 これまでの経験からして、それをしてきたが、
 画面からはみ出すほどは写したことがなかった。 まだ中途半端であったことを事例の写真を見て納得させられた。
・また人物を撮るときは、望遠モードで撮ると対象が浮き出てよく撮れる!というのも、初めて知ったこと。 う〜ん
・「対象の背景のバランスを意識して撮る」のは場数をこなしてきたので、分かっていた。そして背景から逆に
 対象の主役を決める知恵は自分でつけていた。これは、中級に入るのだろう。
・写真を撮るさいに、対象の中身を良く知っているかどうかが問題になる!というのも肯けること。
 子供を撮るときには、その子供の個性を知った上に、それを引き出すためリラックスさせることも必要だ。
・「写真は、真実を写さない!と、むしろ思ったほうがよい」、というのも本当だろう。そのために演出も必要と。
・被写体に当たっている光を充分に意識するのは分っていたが、写真を撮るさいに、カメラ内の光調整の変更を殆ど
 したことがなかった。それと、オートだけでなく、カメラについている機能を、その場に応じて変えることもなかった。 
この本を読んで、今年の桜の花の写真を見直したが、10年以上、撮り続けたためか、修正ポイントは無かった。
むしろ普段の食事や、知人とのスナップ写真に大きな変化が出てくるだろう。 対象を純粋な目でみて、それに同化する、
そして、自分が感動し、愛し、一体化し、対象によって撮らされている! というのが、撮る人の中にないと、
良い写真など撮れるものではない。 最近のデジカメ、デジビデオは、素晴らしい! 大自然も普段も、である。
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2966,ミューズが降りる
 2009年05月19日(火)
先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸について語っていた。
年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が降りてきて、自分でも信じられない芸になる。
その幾つかの中の一つの「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。名優の演技には、度々あるのだろう。 
森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?。 談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」
 ーネットでミューズを調べてみると・・・
ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文・芸術一般などの女神たちの総称。
個々の女神は、Muse ミューズで単数の形になります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神のあいだに生まれた、
9人の姉妹とされている。ー 芸の中の人物を演じていると、その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 
霊感の鋭い人の感覚は、鈍い人に解りようがない。スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗っているときは、
誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。 頭に浮かんだイメージに自分を通してエネルギーを入れると、
魂が入るということだ。芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。
私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界か、混同することがある」(新聞紙上)
と、同じようなことを言っているのだろう。 ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、
誰にもあることでしかないか?言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、それだけ人間の脳力は
深いということ。 (後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。)
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602, ごっこ遊び
2008年05月19日(月)     
         ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
  ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー
ごっこ遊び(ごっこあそび)はこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである。
通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。 何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、テレビやマンガの
ヒーローやヒロインのまねをして遊ぶ場合がある。こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなものでごっこ遊びにしてしまうので、
「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ」 など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】とある。 子供の頃に、
多くのごっこ遊びをした記憶がある。最近は、若者の間にアキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。
他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーションゲームから派生したアメリカで考案された遊び。
参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、
架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。
様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物のように活躍できる。考えてみれば、世の中の多くは
ごっこ遊び」のようなもので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。
 (字数の関係でカット2,011年5月19日) 
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2007年05月19日(土)
2237, お金の正体 ー1
      「お金の正体」 ー日下公人著      (((。・-・)从(・-・。)・゜
「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。
特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。しかし、どれを読んでも面白いのは、
金が欲の集約でもあるからである。この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、実際読んでみると、面白い。
「お金の正体」はつきつめると「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。
幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。
私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。
(字数の関係でカット2,010年5月19日)  
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2006年05月19日(金)
1872, グーグル Google -8    ー 読書日記
   (字数の関係でカット2,008年5月19日)                              
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2005年05月19日
(木) 1507, 猛女怪女列伝
  ーアナタハンの女王
終戦直後の日本で、このようなドラマがあったと「新潮45」という月刊誌のー猛女怪女列伝ーで初めて知った。
 太平洋戦争での敗戦濃厚になった、昭和19年6月から6年間、敗戦を知らない南海の孤島「アナタハン」で取り残された
「男31人、女1人の生活」で、一匹の『女王蜂』比嘉和子をめぐる、壮絶な性と生のもう一つの戦争があった。
その殺戮の中で生き残ったのは20人、残りの12人は、『女王』を争って殺されたり、
原因不明な死を遂げたと生還した兵隊達によって証言されたという。
 (字数の関係でカット2,009年5月19日 H0903
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2004年05月19日(水)
 1142, 自由について ー2
「自由ほど不自由」ということを感じたことを誰もが経験していると思うが?これは「自由な自己決定」を迫られる
「不自由」ということにある。自由とは主体的であるということだが、その主体ということが怪しいのだ。
主体的と思いこんでいるだけでしかないことに気がついてないのだ。その主体も外的要素によって規制されているから矛
盾が出てくる。目の前の「自由」が、ちゃんと何かによって規制されていることを嫌というほど、思い知らされていることを。
人生経験の中で主体と思ってきたことも、所詮は限定された世界の泳がされてきた小さな池の魚でしかなかったことを。
主体を「気短」という説がある。なるほど、面白いドキッとする内容である。主体的ということは、気短で、その結果として
目先の判断で動いているだけという。なるほど、そうかもしれないところが、身に沁みる。自由から、何で気短に行きつくのが
不思議であるが。現在の社会の様々な問題の根底の部分に、「自立した自己」や「自由な主体」などの、幻想が潜んでいる
のではないだろうか。「ゆとり教育」とかいうものが、幻想でしかないことを国は気がつき始めた。国民レベルは、
それが幻想ということを初めから知っていたが。自由は戦いとるもの、積極的な自己目的を追求する姿勢の中にこそある。
「不自由論」という本がある。曖昧な自由論を批判している内容である。 風刺漫画を思い出した。
「夫婦が、お互いの首についた紐を握りしめ溜息をついている絵」である。何とも不自由そうであった。
 ーーーーーー
【-自由について-】
・あまり安価で手に入れたものは軽く扱われる。自由のように神々しいものが高価でなかったら実におかしいではないか。ーペイン
・人間の自由を奪ったものは、暴君でも悪法でもなく、社会の習慣である。ーJ・S・ミル
・痩せた自由は肥えた奴隷にまさる。 ーイギリスのことわざ
・自由は外的な事実の中にあるものではない。それは人間のうちにあるのであって、
 自由であろうと欲するものが自由なのである。 ーエルンスト
・自分自身を支配できないものは自由ではない。 ーマッティアス=クラウディス
・自由に気がついていないときこそ、人間は一番自由なのだ。 ーローレンス
・自由は責任を意味する。だから、たいていの人間は自由を恐れる。 ーバーナード・ショウ
・人間が自由であり得るためには、神があってはならない。  ーシェリング
・自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。 ーサルトル
・真に重大な自由はただ一つです。それは経済的な自由なのです。  ーモーム
・自由は新たな宗教であり、われらの時代の宗教である。    ーハイネ
・ビロードのクッションの上に大勢で座らされるよりも、
 カボチャの上に座って、カボチャを自分で占領した方がいい。 ーヘンリー・ダビット・ソロー
・自由を愛することは他人を愛することだ。力を愛することは自分を愛することだ。 ーハズリット
・おお自由よ!汝の名においていかに多くの犯罪がなされたことか。  ーマダム・ジャンヌ・ローラン
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2003年05月19日(月)
 775、「ドラッカーとの対話」ー読書日記 ー1  著者/訳者名:小林薫/著
【本の内容】 ピーター・F.ドラッカーとの40年にも及ぶ交流に基づき、その思想のエッセンスを読みやすい形で凝縮。
 ー私の感想文ー
ドラッガーといっても、そう難しい難しいことを言っているわけではない。
学生時代にドラッガーの「現代の経営」訳者の野田一男教授の講義を受けて、当時「経営者の条件」「創造する経営者」
「断絶の時代」「現代の経営」など数冊、読んだ。 現在も多くの本をドラッガーは書き続けている。
彼の要約書が多くでているので、私なりに纏めたいと思っていたら、この書にであった。小林薫という名も懐かしい。
この書の印象的なところを書いてみる。
・現在が200~300年に一度の大転換期にあり、100年スパンの
 期間にわたっているという。そして現在はその40~50年目あたりという。
・彼の名言は「強みの上におのれを築け」である。これは個人にしても、組織にしても、国としてもそういえる。
 何ごとも強みがあると同時に弱点もあるが、弱点に対しては目をつぶり強みを活かすように努めるべきである。
イノベーションも彼の大きなテーマである。変化をチャンスとして捉えて、イノベーションをするのが経営だ。
・彼は常に価値、解りやすさ、人格、知識、ビジョン、責任、自己管理、社会的責任、自己実現、尊厳を述べている。
・知識こそ最大の経営資源であり、中心的資源であるが、彼の変わらざる主張である。
 このような急激なIT化による情報化になればなるほど、彼の50年をかけて主張してきたことが
 現代に受け入れられる。話は変わるが、彼の「経営者の条件」がなかなか面白い。
 これは最後にインターネットで調べたー書評と目次ーをコピーしておくが、焦点を成果にあわせよ、
 自分の時間管理からまず始めよ、貢献について、自己ー自社の強みの発見に努めよ、
 重要事項から始める癖をつけよ、と経営者や上に立つもののあり方が書いてある。
 この本かどうかは忘れたが、上司たるものダーテーであってはならない、潔癖であるべしというのが彼の変わらぬ主張である。
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 2002年05月19日(日)
411,自分の人生のつくり方 -いろいろな悩みー3
それでは自分の人生のつくり方とは?どうしたらよいか。ライフワークをきっちりつかまえて、その都度脱皮すればよい。
「脱皮できない蛇は死ぬ」というが、そういう人間で満ちている。ライフワークとは一生涯を通じてやり遂げる趣味と仕事。
そして一生涯を通して脱皮の時期がある。7年説、8年と10年という説がある。
ライフサイクルというが、
・7年ー7歳、14、21,28、35、42、・・と節目がある。
・8年ー16、24、32、40歳・・
・10年ー20,30,40,50年歳と・・
 またこういう説がある
1、児童期・青年期  0〜22歳
2、成人前期     17〜45歳
3、成人中期ー中年期  40〜65歳
4、成人後期ー老年期   60歳以降
重なっているところは移行期、これが一番わかりやすい。これと7年説が私の一番納得できる。
その節目ごと、脱皮していく事をいう。「節目を叩け!」という諺があるが。
自己実現という言葉がある。たしかユングの言葉であった。自分のなりたいこと、
したいことを実現することをいう。それも一生涯を通してだが。それを自分の人生という事にならないか。
子狐がここにきて、にわかにそれをつくろうとしている。やらないよりはいいが。
10年?20年スパンで何をすべきか判断して、それぞれ節目を作り、やり通すのがライフワークである。
それをやり通すことが、結果として自分の人生という。「濡れ落ち葉」はそれを全くやってこなかった人、
そして、これからもそれを見つけられない、その気力のない人をいうのではないか。
中年クライシスという中年の危機といわれてのが、これである。中学の先生もそれだった。
今度中年クライシスについて書いてみよう。 周囲はその人たちで満ちている。
一ヶ月前、150m先の58歳のご主人が自殺したという。 家を新築したばかりなのに!
 それにしてもそういうことに無知すぎる!
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2001年05月19日(土)
 どうも不調
昨日1日このがサイトがひらけなかった。きのう23時に帰ってきて、
文章を書いたが記載出来なかった。これから散歩に行く。