11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとに
アップしていた。12周年を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、ここまで続けることが出来た。
内容はともかく、「自分に納得できる文章にすること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、手を抜いた
文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。
読んでいると、変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。 ここまで書きためると自分自身の墓場そのもの。 
飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。言葉の力は大きい。 
 大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。
「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、
脳から文として出し、吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し11年分の自分に出会っているが、
そこに自分の小さな歴史をみている。 もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思うことさえある。
 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かったこともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら
面白い断片が数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。このシリーズは心底では自分に120点。
だから逆に書き残さなかったのが良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・・また人を傷をつけるのか?
 毎日、書き出す習慣も慣れてくるとゲーム感覚になる。 ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。
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3691, 自己を見つめる −13
2011年05月04日(水)
   * 運命について  ーp226   「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」の中に立たされていることになる。
 私たち人間は、そうした運命的なものの呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、
 それに聴従することによって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。
  ・・・自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結びつけることによって初めて、人間は、
 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における
 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。 ハイデッガーによれば、私たちは、この世の中に生きるときに、
 予期しえない形で「降りかかってくる」、さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、
 人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではないということである。
 人間は、非力で、無力なのである。しかし、それでいて、人間は、自分なりの情熱と威力において、
 自己の本来的存在の証を立て、それを刻み残そうとする。 そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な
 困難と格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、それに聴従して
 本来的に実存しようとするのである。 ここに、優れた運命思想があることはたしかである。 】
 ▼「運命」について、考えさせられる内容である。( 存在の真理の「呼び求める促し」に立たされ、運命的なものの
 呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる)
 これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとすることである。それぞれ天命、宿命、運命がある。
 その中で、運命は自分で切り開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようとすることである。
 そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが
 運命に従うことになる。 それとて下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。
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3326, 人みな骨になるならば ー12
2010年05月04日(火)
 この著書は、蓮如上人の「白骨の御文章」と「般若心教」の視点から、当たり前と信じている日常の思い込みを一つずつ取上げ、
その根拠を潰している。 何かにとらわれり、行きづまった時に、この書は、それが如何に取るに足らないことかを諭してくれる。 
葬式や法事で参列者全員がこの「白骨の御文章」を読経することがある。死を第三者でなく自分に当てはめて考えさせるためである。 
 そこで改めてネットで検索して、コピーしてみた。 
   ー蓮如上人の「白骨の御文章」ー
≪ それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。 一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
 我や先、人や先、今日をも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
 されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
 既に無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて
 李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
 あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、
 はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。≫
ー以上だが、父の生前の口ぐせ、「死んでしまえば(生きている方からすれば)それまでよ!」である。
あるのは、いま、ここ、だけである。過去の、あの時も、現在も、「いま、ここ」しかない。 一期一会である。
それぞれが、いま、ここ、で生きている。そして、それも、確かに存在していると感じるが、実は幻想。
自分の感覚という器官が能作しているだけである。 夢・幻でしかないのである。 で、確認で酒を飲む、のか! 
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2951,人はどうしてオヤジになるか? −2
2009年05月04日(月)
 * 女はどうしてオバサンになるか?
「人はどうしてオヤジになるか?」というなら「女はどうしてオバサンになるか?」を考えてみたくなる。
  ーそれではオバサンとは、どういう人なのだろか?ー
《30代後半から40歳前後の大きな境目として、女を捨てると同時に恥じらいを捨て「怖いものがなくなった」存在で、
特に徒党を組むと非社会性が露出する。 お婆ちゃんといわれる前に、それまで内に圧縮されていたエネルギーが非社会的行為として
露出する歪んだ「突然変異の一時的生きもの」である。彼女?を見ようと思ったら、デパ地下とか、ホテルのランチバイキングに行くと
徒党を組んだ姿が見られる》 ところで、秘境旅行に行くと、必ずといってよいほど「離れオバサン」が参加している。
これが恐ろしい存在である。具体的に書くのを憚るほど唯我独善。 今回は、そこまでは書かないでおく。
逆に40歳前後までに、女としても人間としても自分を見つめ、「個」としての自分を確立し、責任を持って生き、
自信に満ちた態度を持てる女性を「マダム」という。それに対しオバサンは自己管理ができないで、集団化した第三の性化した存在。
そうこう見ると、オジサンとオバサンは似ている部分がある。 自分が確立できない哀れな存在で、孤独に耐え切れず、
周囲の顔色だけを窺っているところが同じ。そうもこうも、教養を積んできたかどうかに行き当たるが。その教養とやらも、
どうみるかにある。「で、どうしてオバサン化してしまうのか?」というと、長年の教養の積み重ねをしてない結果の品性の無さが
具現化した姿を言うのだから、ただ現象に流されていれば自然とオバサン化していくのである。
早く、好きなことを見つけて教養として身につけるしかない。 幻想論からみると、品性のあるマダムという自己幻想を常に
意識をして、知識と外見を整えることである。「女を捨てるなというけどね〜、私の魅力を認めてくれる男が何処に
居るっていうのよ」って声が聞こえてきそう。「捨ててしまっているから、魅力が無いの!」水掛け論になるか!
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2587, 幸福大国ブータンから、幸せとは何かを考える
 2008年05月04日(日)
 国民の97%が幸福と実感し、自殺者ゼロの国、40年前には国土の5割以下だった森林面積が、現在は7割以上に回復し、
経済成長ではなく「国民総幸福」を国の指標とし、独自の「豊かさ」を目指すブータンという国がある。
数年前にTVのドキュメントで見て気になっていたが、図書館で、この国の第四代国王王妃が、その国の素顔と
ブータン人の死生観などを書いていた本を見つけ早速読んでみたが、何とも心の豊かさが滲み出ている内容であった。
 ブータンの幸せ指数世界一だが、物資や食料の欠乏は、心の貧困には繋がらない証明になる。
  (以下は字数の関係でカット。2001年05月04日)
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2007年05月04日(金)
2222, 平凡って幸せなの?  ー2       ♪ヾ(*'ー')*'ー')*'ー')/" オッハヨウ!
 平凡って幸せなの?という、何気ない家内の質問に、「そういえば、平凡など考えたことがないし、
平凡の日々を過ごしていながら、平凡を嫌って生きてきた自分に気がついた。」というのが本音である。
しかし過去を振り返ると、平凡な日々のなかにこそ人生の真実があったように思える。
しかし、これも縦に立ち上がっている、問題の陰に隠れてしまって記憶には残らない。
記憶に残らないということは、無に等しいと思いがちになってしまう。ただ合せ鏡で平凡の生き方をしている人を見ると、
やはり?とも、思ってしまうが。「平凡とは?」と検索をしたら、面白い質問に行き当たった。
 まずは、その部分を・・・
<平凡な生活に対する疑問>
「毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか?
はっきり言って僕は、そういう人間は死んでしまってもいいと思います。毎日何も変化のない
暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・みなさんはどう思いますか? 」
▼ この答えが、面白いので後にコピーしたが、平凡は一番身近の問題であり、過去には多くの人が名言を残している。
 ところで平凡って何だろうか? 非凡とは何だろうか? 考えてみたら非常に難しい問題である。
「死んでしまえばよい」でなく「死んだも同然」と言えば良いのだ。「死んでしまえばよい」でなくては「釣り質問」
にはならないか? ところで、若い時に「こんな生活を送っていて良いのだろか?
もっと良い生き方が在るのじゃないか」と何時も思っていた。
今でも、「二度とない人生、悔いのない一日を過ごすよう心がける」が、
私の信条の一つである。これも「平凡の人生を否定する言葉」ではないか。
平凡に対する、テーゼ・アンチテーゼとして、自分で何時も問答をしなければならない問題である。
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*投票でベストアンサーに選ばれた回答
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「あなたのいう「平凡」=「変化がない」ですか? まずは平凡に生きてみてください。
こんなに難しいことはないでしょうから。平凡に生きていたいです。 」
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*ベストアンサー以外の回答
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「平凡こそ幸せです。どのような人生が、素晴らしく最高なんですか?
非凡に生きるってどういうこと? 忙しくで自分の時間も持てないくらいに仕事してるってこと?
平凡の中でも、充実した人生があります。もう少し年取ったらわかります。」
 ーー
「平凡な人間は死ねですか。まるでどこぞの独裁者ですね。自分がどれだけすばらしい人生を送っていらしゃるんですか。
人間一番不幸なことは自分の愚かさに気付かないことです。」
ーー
(字数制限のため、中間カット 2010年5月4日)
ーー
以上だが、なかなか含蓄がある答えが多い。平凡、非凡を何を持っていうのかという問題にもなるが、王陽明に影響を受けた
我が長岡藩の河井継之助は「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。
牛羊となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人間の血や肉をくらいつくすかどちらかとなれ。」と凡庸の行きかたを
諌めている。平凡と凡庸は違うだろうが、平凡と「前に進めなくなる」ことは違う。その辺も、比較の問題でしかないが・・・ 
あらためて、平凡とは何だろう?何も考えないで、流されている人を質問者は問題にしたのだろう。
元々死んだも同然だから、責めること自体がナンセンスであると、言いたいのだろうが、前に進むとは何?
それが、どうした!という自問自答が出てくるが・・・
うまい飯喰って、笑って、クソたれて、寝る日々のどこが悪いのか?と言ってしまえば、それまでか! ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2006年05月04日(木)
1857, HP開設、5周年  ー2            才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
自分の日々の読んだ本や新聞のポイントを書き出し公表し続けた結果、インプットの吸収力が数倍強くなった。 
アウトプットの加工の過程で、知的生産を自動的に促すことになる。
その積み重ねは信じられないぐらい自分を成長させてくれる。思いをそのまま書いていれば誰かが読んでいるはず。
そして「どこか深いところで自分が自分を納得すればよい」と割り切ることが出来る。
もう一つ良いのは、何年間の同月同日の文章を読み返すことが出来ることだ。
一つの文章を書き上げるのに、テーマ選定を含めると2~3時間がかかる。
5年分を読み返すということは、過去の10~15時間分の自分のエネルギーに毎日ふれることになる。
これが自分を大きく後押しをしてくれる上に、あとでみる自分の姿も面白い!過去の自分との対話をすることにもなる上に、
忘れてしまった自分の姿に驚く。 随想日記を読むと、同じテーマで書いてあった。さらに一昨年も同じテーマである。
去年、一昨年の方が、よほど良い内容である。だから内容が落とせなくなるのである。過去5年分の同月同日の日記を読むことは、
同時に内省をしていることになる。 毎日、自分でもよく続いたものと感心する!が、これらに縛られてしまうのも不安である。
今さらだが!ところでグーグルが高性能な検索エンジンを提供したことでブログは企業やマスコミの大手HPと同じ力を持つようになった。
 (以下は字数の関係でカット。2001年05月04日)
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2005年05月04日(水)
 1492, HPを開設して、まる4年
今日5月4日はHPを開設日で、丁度まる4年になる。海外旅行をしている間を除けば、随想日記をほぼ毎日書いてきた?
一日一つのテーマを取り上げて考えることを、自分に課してきたことになる。まさか4年も続けられるとは、
思ってもいなかった。久垣啓一の図解WEBというHPに刺激され、糸井重里が「HPを開いて毎日文章を書き続けている」と知り、
自分も挑戦してみようと決心をした。初めは1000の文章を書き上げることを目標をした。
書くテーマが全く思い浮かばないことが何度かあった。ある本に、その時は「全く思い浮かばないことをテーマにしたらよい」
と書いてあった。そして、それをテーマにしたこともあった。しかし、1000を超えた辺りから苦痛度が少なくなった。
「自分が楽しくなければ気持ちが伝わらない」ということも解った。書き続けていると自分を掘り下ている実感が出てくる。
一度書いた文章は、自分から離れてしまうことも知った。書き上げてしまえばコピーができるし、パート2,3と
掘り下げることも可能になる。ネット上の発信基地であり、備蓄基地にもなる。表現できる場を持っているという実感が
自分の心を楽にしてくれる。このHPの開設と維持で、パソコンとインターネットの世界を身近に引き寄せた。
HPの開設を通して、パソコンをマスターするのが本来の動機であった。
「パソコンは、奈良時代に最新のヘリコプターを持ち込んだようなもの」というが、{全くその通り!}ということも解った。
これに携帯電話とBS/TVなどが連携して時代を変えていることも実感している。
話は変わるが、3日前に図書館で8冊の本を借りてきた。そして、一昨日DVDを三枚レンタル店で借りてきた。
8冊の本の2冊とDVDの1枚に共通点のテーマがあった。その内容は明日から、この随想日記で取り上げるが「いま」についてである。
なぜ、あえてHPの5年目のテーマに「いま」について書くのかというと、「毎日の、いま」にしか、永遠の入り口・切口が
ないことが解ったことだ。その時々の「いま」をパッケージにしている充実感がよい。「いま」の重要性を実感するようになった。
「いま」は永遠なのである。 いや、「いま」が永遠になっていくのである。とにかく4年も経った。
やはり1000というのが大きい目安であった。そして、その辺りから大きな変化が出てきた。次はあと三年の七年が目標である。 
 ▼ たしか去年も同じテーマで、同じような内容を書いたようだが、内容は全く憶えていない。そして、書き上げた後に
去年の文章を読み返してみて、ほぼ同じことを、一年前にも書いていたことに驚いている。
人間なんぞ同じことを繰り返し考えているに過ぎないことが、読んでいてよくわかる。こんなものか少しは掘り下げているのか。
一度読んでから、書けばよかったのだろうが。前の同月同日の文章を貼り付けるのは、いつも書き終わってからだ。
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2004年05月04日(火)
1127, ホームページを開いて3年
 今日で、ホームページを開設し、随想日記を書き始めてマル3年になる。だいたい二年が続けるかどうかの分岐点になるという。
まる3年も、分岐点であることも間違いはない。毎日書き続けるのは本当に!シンドイが、あとで振り返った時に続けていた方が
良かったと後悔するのが解っているので、止めるに止めれないのも事実である。といって、そのつかうエネルギーは膨大である!
常に、何かに急きたてられているような気分である。その位のほうが良いのかもしれないし、10年20年後に振り返った時に
残っているのは入れたエネルギーの文章だけかもしれない。いやそれすら、残っていないかもしれない。
三年で、書きたいと思うことは殆んど書いたという実感がある。遺言書といってもよい。自分自身にプラスになるのは、
手に取るようにわかる。特に毎日の随想日記は、自分の背骨が一本、日々の生活に入った感じだ。毎日、思ったことや、
考えたことを文章化することは、まったく違う領域に自分が入ってしまう。それを、さらに公開するとなると、
自分のノートに書き出しているのとでは全く違ってくる。同月同日の一年前・二年前書いた文章を毎日コピーしながら読み返すと、
何か不思議な感覚になる。今日からは三年前の文章も毎日読むことになるが、まったく忘れているから何か変な感覚になる。
知らない自分を見ているような、内省をしているような感覚である。話は変わるが、HPを開くキッカケを書いてみる。
パソコンを手元に置いても、どう使ったらよいか迷っていた矢先に久恒啓一氏の「インターネット勉強法」の中の
「ホームページ」の勧めを読んで、パソコン教室に通ってHPつくりに入った。その本には、HPつくりは「自分の墓場つくり」
と書いてあったのが印象的であった。なるほど三年経ってみて、書きたいことを全部書き出してしまった実感がある。
その意味が分りすぎるほどわかった。はじめは1000回、次に3年と目標をたててきた。1100回目から、あまり気張らずに
リラックスをして楽しもうと割り切った。逆にそれが良かったようで、それからは肩の力が抜けたようだ。これからは、趣味として、
お遊びのHPとして変身するつもりである。それまでは、かたく考えすぎていたようだ。あまり他人から理解しがたいタイプなので、
丁度よい手段なのだろう。それにしても、クソ真面目に、毎日書いているものだ。
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2003年05月04日(日)
 760, いかに生きたか いかに生きるか
去年の文芸春秋の12月臨時増刊号の「日本人の肖像ーこのすがすがしい生きかた」ー
 シナリオ作家の舟橋和郎を文章を紹介する。
  文章が鮮明で、半世紀以上前の情景がアリアリと浮かび上がってくるすばらしい文章である。
  小林秀雄という人物と、乃木大将の決心と、舟橋和郎の人物が何ともいえない文章で浮かび上がってくる。
  (以下、字数の関係でカット2,008年05月04日)
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2002年05月04日(土)
 396, 光の旅人
三条で昨日見た映画「光の旅人」がなかなか面白い!当たりであった。
昨年の9・11に最も救いを求めていたアメリカで、10月にNO.1にヒットに記録された映画という。
ー内容は
以下は字数の関係でカットした、HPのこの日をクリックすると出てきます。
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2001年05月04日(金)
 ウオーキングについて
(以下は字数の関係でカット。