千、二千、三千回目に、そのぞれの感想を書いてきた。 旅行中も「書きだめ」をしたのを知人に頼んでアップをしていたので、
ほぼ休まず書いてきた。自分でも11年近く四千も連続して書いたと驚いている。 次は五千が目標になるが、四千回を契機に、
時どき休むことにする。 また五千回に到達した時点で半年位は休むつもりである。 
 この程度の文章は誰でも書けるが、一応自分で納得した内容を書き続けるのは大変である。充実感があり、習慣化したから可能だった。
「チョット聞いてよ。こんなことがあったよ!」という長屋のハッツァンが、クマサンに自慢気に話している感じである。もちろん、
自分のために整理し知識として残すのが目的だが、せっかくの獲物?を共有することで、学び続ける動機づけにしている。 
気楽に、面白可笑しく、バカ丸出しで、地頭で、書いたため、それが、そのまま伝わっていたはず。 それも四千ともなると、
自分の脳内そのものでもある。 自分の貯めた文章を毎朝、同月同日分を読む楽しみは格別。今では、その日書いた分を含めると
11年分の同日の自分に出会っている。 書いたことも、その内容も、ほぼ忘れた文章が、早朝に読み返すのは不思議で奇妙な感覚になる。 
だから倒産とか、それに関わる嫌な日々も、この御陰で毎朝、心が洗われる。 文章を起承転結でまとめるのはプロならいざしらず、
気力が無いと無理。 但し、一度、その習慣をつければしめたもの。 しかしブログに字数制限があるため、当日分の書いた分だけ、
過去に書いた文章をカットする。それが、身を切る思いになる。しかし、それが好い加減な文章を書くと数年もしないうちに、
自分の手で削除することになるので、内容の質を落とせなくなる効用がある。 文は、一度書き、アップすると、あとに戻せない。
何気なく書いたために明らかに傷をつけた人が何人かいる。 注意はしているが、厳重な注意が必要だが、それが見えなくなってしまう。
時系列に書き続けていると、ある意味で、メモ帳、雑記帳にもなるが、毎日、書き連ね、別ボックスに分類すると、違った意味=価値て、
価値が出来てくる。 また分類ボックスの一番下に、過去に書いた文章の検索が出来るようになっている。 時々、検索をすると、
キーワードを入った文章が出てくる。もし、秘境旅行、と入れれば、過去に書いた文章が時系列に出てくる。これは記憶の検索になる。
 千、二千、三千回目の随想日記も、この検索で調べたもの。
・・・・・・・・
2003/12/30
1000, \(~o~)/千日の随想日記!
 1昨年の5月2日から今日の12月30日までは973日である。更に旅行をしていて休んだ一回分の日にちを加えると
約35〜40が合わない。調べてみると206〜222とか250,251辺りとか何箇所かが間違いている。しかし小説風の「宗親日記」が
大体その位の数を書いているので、合わせて一千回の到着日とすることにした。 あくまで自分ひとりの記念でしかない。
 子孫への永久保存版としてー「子供や孫に見せるように」と、また「遺言」のつもりで書いてきた(書き始めて一年位経ってからだが)。
だから続いたのだろう。自分の父親や、祖父がこのような文章を残していたら、実際のところ面白いだろう。いま考えてみると、
随想日記を書き始めた日を境に自分が間違いなく変った。一日一日が充実してきた。 20〜30人位?の人に毎日読まれていると思うと、
見守られているような感覚になる。 作家などの物書きが必死になって書くのも解るような気がする。 死ぬ前に全てを消し去るのもよいし、
また書き残すもよいのだろう。いずれにしても50年以上は残らないのだろう。 いや死んだと同時に消滅してしまうか。
そうすると生前葬の遺言みたい、いや墓みたいなものだ。 ところで実感としていうと一番勉強になり良いのが、自分。
・テーマ探しに46時中頭が1杯    ・そして構成に苦労して
・書き上げた後に、何回か書き直し   ・誤字と矛盾をさがす
そのプロセスで内容を練り上げることが、思考を練ることになるからだ。といってこの程度の内容であるが。
 ス〜と書ける日はよいが、全く書けない日がある。それでも何とか書くからよいのだ。
・・・・・・
2006/09/25
2001, 二千日の随想日記!          おはよ〜!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・
 この随想日記が昨日で2千回目になった。母の十周忌の命日というのも何かの因縁である。 
千回時の達成感ほどではないが、やはり2千回は・・・。 といって意識したのは3日前だから、
千回の時ほど達成感がないのは事実。千回時ほどの心理的な圧迫感がないが、常に黒い影?に追われている感覚は同じ。
あまり深刻に考えないで、書けることを書けばよい!と気楽に思うようにしている。一種の気楽な喜〔苦〕業と思えばよい。
 次は三千回が目標になるが、楽しむ?しかない。 2009年6月某日になるが、どうなることか。
千回はきつかったが、二千回の労力は半分になった? 楽しまなかったら、続かない。
  良寛の  たくほどは 風がもて来る 落葉かな  と同じで、習慣の流れにまかせて
       書くほどは 知恵(空)がもて来る 話・題(色)かな   というところか!
 だいたい2〜3つ位は時間の合間に下書きを用意して、寝る前に30分かけ一応書き上げ、当日の朝に修正をする。
朝はそれでも一時間はかける。テーマ探しと、下書きの時間を入れると合計三時間は一文章にかける。
その三時間のプロセスは考える時間になる。そのために毎週図書館と本屋に通ってテーマ探しをする。
アウトプットを習慣づけることによって、インプットを図るのが目的の一つになる。
もう一つのプラスは五年分の同月・同日の文章を読み返せること。未来の自分の眼に対して、好い加減な文章をかけなくなる。
毎日読み返すことは、このようなコントロールがはたらく。 最大の読者は未来の自分である。書いた文章を会社に行って読み返すと、
数時間の経過後の冷徹に自分の文章を見ている自分に驚く。自分が初めの読者であると同時に、一番の批評家になっている。
これは、書き重ねるほど鋭くなっていく。これは読書力の強化につながっている。 千回目の日記が懐かしい!
   ーーー
3000、3000回か〜
2009年06月22日(月)
 この随想日記が3000回になった。1000回、2000回の時ほどの感慨がない。
書き続けることに慣れてきたのだろう。 誰に頼まれたわけじゃなし、ただ習慣だから続けているだけ。
確かに、続けているとプラスにはなる。 考えざるを得ないからである。 それと、常に何か書くことがないか
注意を周囲に向けるようになった。 その現場で、キーワード探しと、その組み合わせをするようになっている。
書くことを職業にしている人は、考えることを職にしていることになるが、紺屋の白袴で・・・・?
ところで、千回、二千回の時に何を書いていたか、調べてみた。 なるほど、今回も同じような気持ちである。
ふと、気づいたが、自分とは時間の経過と同時に広がっているということ。それと、心の底の変わらない‘X’が魂ということになる。
・・・・・・・
3634,  閑話小題   
2011年03月08日(火)
 * てっぱん
 毎朝のNHKの連続TV小説の「てっぱん」が面白い。私生児?の19歳の女性の目を通して家族問題をテーマにしたもの。
舞台は大阪と尾道。下宿先の訳ありの住人たちが個性的で人情があり、互いを支えあっているという設定。
実際の社会は、この夢のような暖かさはない。逆に虐めと見下げの中で、本人は崩れていく。
往年の美女、藤純子がお祖母さん役で、番組そのものを引き締めている。全体に流れている湯気が出ているような暖かさは、
家族崩壊が問題になっている中、大きな問いかけになっている。それにしても、19歳のヒロインの持てること。
逆に周囲の男たちの持てないことが何か不自然である。 それがTV小説であるが。
それと、ここには悪役、三枚目役が全くといってよいほど出てこない。 それも良いのかもしれない。
 * 携帯電話の買い換え
 先日、家内の携帯電話の買い替えのお付き合いをした。 私の携帯電話を半年ほど前に、iPhonからドコモに
買いかえたばかりなので、家族割引もあるので家内もドコモにした。 私も家内も型落ちのゼロ円のもの。
しかし半年前には2〜3万はしたもの。 その二つを比べると、その差に驚いてしまった。携帯は日進月歩なのである。
売り場は半分はスマートフォンで占められていたが、これまでの携帯電話ではカメラ機能が強化されたものがメイン。
数年で、大部分がスマートフォンになるのだろう。世界中の情報が、これら端末情報機器から大量に流される時代。
一時代前までの社会的格差は、そのまま情報格差に比例していた。それが、フラット化していけば、社会的格差が、
これまでと違ったカタチになってくることになる。これが北アフリカ、中東のアラブ圏で起こっている変動として現れている。
パソコンも、卓上、ノート、そしてタブレット型と進化をしてきた。携帯電話からスマートフォンへ雪崩をうって移行を
始めたが、これがどの方向に変化していくのか? スマートフォンタブレットの境目は、どの辺になるのだろう?
35歳が子供の頃からゲーム器やパソコンに慣れ親しんで育ってきた年代の分岐点となる。その人たちが社会の中心点に
なろうとしている現在、時代は大きく変わってきた。 もう化石人間などという言葉は、誰も使わなくなった。
 誰もが使えるようになってきたからだ。しかし、情報格差は、違う意味で果てしなく広がり出した。
 ・・・・・・・・・
3269, ドル亡き後の世界
 2010年03月08日(月)
   「ドル亡き後の世界 」副島 隆彦 (著)
 10年ほど前から、著者の副島の本を何冊か読んできた。何か山師的な表現で眉唾ものだが面白い。
 外れも多いが潮流は的を得ている。 この本も買おうか迷ったが思い切って注文をした。
 (そして、土・日曜の二日間ジックリと読んだが、これからの具体的な恐慌のスケジュールが書いてある。)
  ー以下は、ポイントを荒筋にまとめてみた。 恐ろしいことだが、こんなものだろう。
FRBの「景気回復宣言」は大本営発表で、大嘘。アメリカの景気は冬季オリンピックが終了後の2010年3月頃から崩れ始め、
 いったん持ち直すものの、2010年末にアメリカは恐慌に突入し2012年が大底となる。 まずは株、為替、債権は世界的に暴落し
「金融恐慌」が顕著になる。一ドルが80円を割り、60〜70円代に、ダウ平均は6000〜7000ドルまで低落、日経平均も5000円を割る。
オバマ政権は経済的な失敗から任期途中で辞任する。
・日本はいまだ米国債を購入しているが、中国は米国債を徐々に売る準備をしている。
 RMBS、CMBS、CDOなどの金融派生商品のリスクが一気に顕著になる。
アメリカは借金を返せなくなり、デノミ、計画的インフレを引き起こさざるを得ない。
・このプロセスで、中国のプレゼンスは必然的に高まる。アメリカ中心の世界は崩壊し基軸通貨としてのドルは地位を失う。
・個人資金の保護のためには「金」や成長可能な日本株を底値で買うべし。(株価が5000円を割ったとき)
・国家戦略において、アメリカの国家戦略に勝る国はない。軍事力は他国を圧倒、食料も世界一、金(ゴールド)も圧倒的に保有
 ドル暴落で借金棒引き、穀物の暴騰などで逆に潤う。アメリカの借金や財政から考えて、ドル暴落や大恐慌が起こって
 一番得をするのはアメリカである。 結局は世界がアメリカは借金の棒引きをしてしまう。これが国家戦略というもの。
・1ドル=10円時代の到来も有りうる。 日経平均は4,500円を割るのは二年以内?。
・ドルの暴落後は、ハイパーインフレーション、そしてデノミが起こる。日本は米国債や外貨を溜め込んでいるので、
 日本国民の資産が吹っ飛ぶ可能性が大。 既に800兆円もアメリカに貢いでいる。
アメリカは現在、増刷した紙切れドルで米国債を買うという禁じ手を使っている。アメリカ自身がもう自国通貨を信用していない。
 各国の大使館に現金を送って現地通貨に替えている。2012年の底を経て、3年かけて世界の覇権はアメリカから中国に移る。
 したがって2015年には中国が新しい世界覇権国になると予言。 上海万博が開かれる5月1日から10月31日までは、
 世界経済や相場に何度か暴落はあっても決定的なものにはならない。上海万博が無事終わったその後にアメリカ発の大恐慌が起こり、
 世界経済は地獄を見る。その過程では、日本でも日経平均が一時、5000円を割り、1ドルが70円を割ると言う。
  ▼ 以上だが、100年、いや500年に一度の変わり目、これより劇的なことが起きても不思議ではない。
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2894,厭世的時勢に、楽天であること
2009年03月08日(日)
 「厭世」とは、まず自己を厭うがゆえに世界を厭う心の習性をいう。「楽天」とは、幼児の頃から両親を初め周囲から愛され、
それ故に自分を愛する心の習性をいう。人生を振り返ると、悲しいこと、苦しいこと、不安、恐怖心など、多くの精神的苦痛が
あったが、なぜノイローゼや自殺に追い込まれなかったかというと、それ以上に楽しいこと、面白いこと、明るい展望があったからだ。
 いや、それを見守ってくれる家族・友人があったからである。そのもとは幼児体験、そう両親の絶対的な愛情が基本。
楽天性は、まずは親子関係の中でジックリと育てられる。基本的に親は子どもに絶対的な愛情を降り注がなければならない。
しかし家庭内にも色いろの事情がある。幼児期に親父が事業に失敗してしまったり、両親の不仲もある。 
最近では離婚確率が家庭内離婚を含めると過半数。その中で自分を楽天的性格にするためには、教養を自ら積むしかない。 
最近になって「楽天は意思」とつくづく思う。人間は誰でも心の底は楽天でないと生きていけない。「自分だけは大丈夫!」
と思っているからこそ、エネルギーが、生命力が、発露してくるのである。いずれにしても、誰もが直ぐに死んでしまうのだから、
生きている間は、面白可笑しく生きること。ただし、将来の見通しだけはシッカリと立てた上だが。だから楽天には長期的な生存確保が
前提になる。毎日、安心して日々を過ごせる生活力があり、時代の変化に堪えられる力を持ち、それ故に互いの信頼を維持できることが
基本になくてはならない。その前提がないと心が不安定になり、厭世家になるのである。楽天家過ぎてホームレスになった人はいても、
楽天的なホームレスは、ごく一部を除けばいない。このブログをみていると悲観論者と思われるかも知れないが振り返ると楽観主義者?。
その場その場を何とか切り抜けてきたが、「最後は命までは失わないだろう」という開きなおりがあった。
問題に対して「正中心一点無」と、中心点に気持ちを集中するように勤めてはきたが・・・
それを心がけていると一時的にマイナスになっても、何時の間にかプラスに転換している。
「ベストを尽くして駄目なら仕方がないじゃないかい、皆の衆」の心である。再び書くが、幼児期の親の絶対的なシャワーの
ような愛情こそ、人間のエネルギーの溜池である。その溜池が無い人は分からないだろうが有る方は無い人を直ぐに見抜いてしまう。
 親を見ろ、特に母親を。 家庭を持ったら連れ合いを見ろ。 次は、子供を見ろ。 ほぼ見える!
愛情が満ちているかどうか、品性が備わっているかどうか、その部分だけを見れば良い。 言えた(品)柄でもないが・・
最悪を想定して、その時の備えを常に整えていること。 それを受け入れる心の想定をしておくこと。
これが、「厭世的時勢に、楽天であること」の結論。「悲観の線路の上を楽観という電車で走ること」  
地道に生きていれば、何があっても、何とことはない? そうもいかないのが人生だから辛いところだが。
・・・・・・・・・・・
2530, 千年働いてきました ー2
2008年03月08日(土)             ー読書日記
 第四章の 日本版バイオテクノロジーの発明の「売り手、よし買い手、よし羊よし」が面白い。
  その要約とは・・・
ベルトコンベアーに送られる前、羊たちは一匹ずつ仰向けにされ、脚の付け根あたりに注射をされる。
オムツ代わりに付けられるのが、テニスのネットみたいな白い網で包まれて、その後に放牧される。
それからひと月ほどして、ネット羊たちはまた作業場に舞い戻ってくる。そのネットをオーストラリア人の作業員が
二人がかりで外してみたら、すっぽんぽんの羊が姿を現す。羊の形をしたウールのコートが、つるりと出てきたようなものである。
SFチックである。「羊の毛刈り」という重労働を劇的に軽減することに成功した企業の名は「ヒゲタ醤油」。
創業390年という醤油製造業の老舗中の老舗が、伝統的な「醗酵技術」を応用したものだった。
 羊の毛刈りは牧畜関係者にとって、頭の痛い問題だった。中腰で行う重労働で賃金は安いが、腰をやられてしまう。
そこでオーストラリア連邦研究機関が目を付けたのが、ヒゲタ醤油が開発し、大量生産化に成功した薬剤。
そのキッカケが抗がん剤で頭髪が抜ける現象であった。それを逆用した薬剤を作ったのである。
それで、毛が散らばらないようにネットを付けたのである。
その薬剤は毛が直ぐに生えてくるようになっている。薬代は一匹あたり50円位で毛刈り代の10?ほど。
 ーー
面白いものである。 ヒゲタの社長がいうに「醤油は微生物をうまく利用して商品を作るわけだから、
オールド・テクノロジー。同じバイオだから出来るんじゃないかと、バイオに進出したわけです」
このヒゲタ醤油も創業が1616年、あと数年で400年になる。
携帯電話一つを取ってみても、
「折り曲げ部分」福田金属箔粉工業(創業307年)
「振動装置」田中貴金属工業(創業121年)
「液晶画面用鏡」村上開明堂(創業125年)
「人口水晶発信器」エプソントヨコム(創業116年)
と、まさに「老舗製造業」の伝統技術の集大成といった趣なのである。
そんな「老舗企業」21社の5つの共通点を著者は以下のように指摘している。
 1 同族企業だが外部の優秀な人材の登用を躊躇しない
 2 時代の変化に対応して事業内容は変化させてきた
 3 創業以来のコア家業は譲らない
 4 分をわきまえ好景気でも投機をしない
 5 「町人の正義」を実践してきた
「自分の本分を守るり、変化には弾力的に、投機などせず、婿養子などの血を躊躇しないでいれる」ということだ。
そういえば神社仏閣、いや天皇も仕事に一種とみれば・・・・ 宇宙のゴミの中の微生物の話は止めておこうか!
・・・・・・・・・
2007年03月08日(木)
2165, 駅周辺専門店ビルの開店、三店!          (~Q~;)  おはよう??  サム?!
 三月に入って、新潟駅周辺の大型集合専門店ビルなど三店がオープンした。
 さっそく見学をしてきたが、なかなかよい!新規オープンは夢があって新鮮で良いものである。
・まずは駅から徒歩10分のSCの中にあるダイエーの撤退後の専門店街ビルの「ラブラ万代」。
 SCの万代シティーは、「伊勢丹」と「若者向けファッション店街ビル」と、「ラブラ万代」の集積化で、
 さらに集客力を増すだろう。今回開店したラブラ万代は3万平米の規模の地下1F、地上6Fのビル。
 最上階に紀伊国屋があり、他にユニクロ、ロフト、ギャップなどがあり、地下にはイオンの食品スーパーが
 入っているが、そのテナント・ミックスが非常によい。(評価 90~95点)
・次に上越新幹線の改札口にある、JRの専門店街の「CoCoLo」の本館が改装オープンしたが、
 今までの少し堅い雰囲気がカジュアル的になり、開放的で入りやすくなった。毎週一度は通っていた地元の本屋の
「文進堂書店」は、至近距離に開店した大型店の「ジュンク堂書店」に壊滅的な打撃を受けるだろう。 (評価 75~80点)
・駅裏にある大型ビルの一階と地階の2フロアーの「ジュンク堂書店」は、シンプルだが、主通路とサブ通路の幅広く
 とったなかなか良い店である。書店として5千平方は広いスペースで、『本以外一切扱ってない』のがよい。
 店内6箇所に、検索のパソコンを置いていて自分の欲しい本が探せる。100万冊の在庫の取り揃えが売り(特徴)である。 
 ロビーのような広いスペースに椅子と超大型のTVがあり、セルフのコーヒー・スタンドがある。ちょっとした時間を
潰すのにもってこいである。書店は20~60分の滞店時間が相場だが、これなら60~90分の時間がつぶせる。
 「ターミナルの超大型店の新しい業態とは、こういうもの」と、見せつけられたようだ!
 街中のスーパーストアの新しい業態である。              (評価 90?95点)
 これら開店は新潟駅周辺への一極化の動きの一現象である。「何処も同じ都市の風!」ということだ。 ○^*)ノ バイ!
 ・・・・・・・・
 2006年03月08日(水)
1800, 「一夫多妻」男          (ρ_・).。o○ おはよぉ・・
少し話は古くなったが、「一夫多妻」の事件は日本中の多くの男達の丁度良い、酒のツマミ?。
私など家内一人でも辟易しているので、羨ましいとは全く思わなかったが?
本人は酒池肉林で幸せだっただろう?その後、12人の多妻は現在でも共同生活をしているという。
行くところが無いのだろうが、何か現代の病巣を象徴している。
この事件から直に思い浮ぶのは、九州のキリスト研究集団千石イエス(千石剛賢)である。
本人は数年前に78歳で本人は亡くなったが、残った彼女らはクラブを今でも経営しながら集団生活をおくっている。
(TVで、この事件に関連してクラブ内の様子を放送していた。)マスコミが騒ぐほど千石イエスの会は問題の無い会。
今回の事件が産経新聞の社会面のトップ記事で詳細に掲載されていた。そのポイントをまとめると
・擬似家族に温かさを求めていた。現在でも12人の女性は、主のいなくなった東大和市の民家で暮らしている。
 親との関係が希薄な中、一夫多妻の生活の中で集団生活の楽しみを見出した。♪(〃⌒▽⌒)八(〃⌒▽⌒〃)八(⌒▽⌒〃)♪
 彼女たちは、「外の世界が間違っており、自分たちだけが正しい」と凝り固まった状態にあるのではと推測される。
・「夢の中に出てきた宇宙生物に指示された」という話は嘘。恐怖心をあおり一緒に暮らすのが目的だった。
 女性を増やしていったのは、収入も増え生活も安定するためで、女性が増えるほど、孤独や寂しさを解消できると思った。
・洗脳とマインドコントロールは違うもので、洗脳は強い力でねじ伏せるもの、マインドコントロールは日常の生活の中で
 情報を与える方法で、このばあいはマインドコントロールであった。
 (字数制限のためカット2,011年3月8日)
・・・・・・・
2005年03月08日(火)
 1435, 人生の第四コーナー
私の年齢ともなれば競馬でいえば第四コーナーを回って最後の直線コーナーになる。
名馬は、この第四コーナーから最後の追い込みに本当の力を出す。逆にいえば胸突き八丁でもあり、一番大事な
時期でもある。両親の生き様を直接目にすることができた。それは、長年かけた楽しみを追及することである。
その準備を如何にしてきたかが問題であるが、その一つにお金もある。先日書いた中年クライシスは、社会的世界だけで
生きてきた人間に生じる。ライフワークのベースをつくっておかなくては、人生の第四コーナーの直線で息が尽きてしまう。
今年の4月1日から、私の同期の定年が始る。私の知る限り生き生きしている人は僅かである。
自分の趣味と独自の世界をつくっていなかった人が多い。人間には、社会的側面の欲求を満たす部分と文化的側面の欲求を
満たす部分がある。直線コーナーまでは、社会的側面の充実が主になり、その後は文化的側面の欲求の充実が主となる。
社会的側面を一つずつ剃り落としていく為には、本当にしたいことを見つけておくことである。そのためには、
まずは孤独、孤立を恐れてはならない。それを恐れていては社会的仮面ーチンドン屋ーを演じ続ける日々しか過ごせなくなる。
51歳の年に、ジックリと考える節目の時期があった。そこで「60歳までに、それ以降の人生を全て詰め込んで生きる。
人生の余白を残さない!やりたいことは、この十年で全てやりつくす」と決めた。 これは人生設計というより、
ある程度の悟りに近かった。その60歳まであと1年、この8年でやり残したことが多い。
このHPも一種の自分史でもあり、遺言でもある。他人から見たら、この程度のことかも知れないが。
・・・・・・・
2004年03月08日(月)
 1069, フランチャイズ・ショー ?3
変わったものでは、「ブランド物の中古品仲介店」があった。
そのシステムが理にかなっていて面白い。TVで以前、このシステムの商売を見たことがあるが
FCは初めてである。「その辺街中情報」としては、とっておきの内容である。
ーその内容とはー
(字数制限のためカット2,010年3月8日)
・・・・・
2003年03月08日(土) 703, 
「金持ち父さん貧乏父さん」ー読書日記
 この本を読んで、読めば読むほど納得する事が多い。もうこの歳でいまさらというひとがいたら何回か読んで、
自分の子供にぜひ説明すべきだ。貧乏父さんなら失敗談として尚更である。読んでいて気がついたことは、
大阪商人に似ていることだ。徹底的に節約型で、合理的である。違うのは投資に対しての積極性だろう。
金持ち父さんと貧乏父さんの考え方の違いを書き写してみる
ー金持ち父さん   ・・上段
 貧乏父さん語録  ・・下段ー
・「どうやったらそれを買うためのお金を作り出せるだろうか?」「それを買う為の金がない」
・「一生懸命勉強をしろ、そうすればいい会社を買う事ができる」「一生懸命勉強をしろ、そうすればいい会社に入れる」
・「この家は負債だ。持ち家が自分にとって最大の投資であり、最大の投資という人は大いに問題がある」
 「この家は私たちにとって最大の投資であり、最大の資産だ」
・「私が金持ちなのは子供がいるからだ」 「金がないのは子供がいるかだ」
・「金は力だ」「お金には興味がない」 
・「私はお金のために働いているのではない、お金が私のために働いているのだ」「お金のために働いているのだ」
・ 「人は損をするのが怖くって、その為に損をする」
金持ちは自分のためにお金を働かせる中流以下の人間はお金のために働く「無知」が「欲望と恐怖」を大きくする。
「恐怖と欲望を大きくするのは無知だ。ある程度のお金を持った人の多くが、金持ちになるほど、それを失ったときの
恐怖を強く感じるのは無知のせいだ。お金はニンジンなんだ。けして手に入らない幻みたいなものだ。
もし馬が自分の姿を遠くから眺めることができれば、自分の立場がわかり、ニンジンを追いかけることが
自分にとってためになるかどうか、考え直すかもしれないだろう?」人間の一生が「無知」と「啓蒙」のあいだの
絶え間ない戦いである。人間が自分を知るための情報や知識を求めなくなると、すぐに無知が忍び寄ってくる。
 (字数制限のためカット2,010年3月8日)