* まず、50冊の本を業者に送付
 iPadなどのタブレットPCの普及と同時に、手持ちの本をデジタル化をする動きが出てきている。
本の裁断機と自動スキャン機を買って、手持ちの本を一万冊をiPadに入力した人の「iPadバカ」と
いう本をネットで購入し、読んだが、その手間など自分には無理と諦めていた。ところが、最近、マスコミで、
「スキャンの代行業者が出現、出版元や作家からクレーム」という報道を知り調べたら、業者は溢れるほどあった。
裁断機とスキャンを準備し、ネットで誘導すれば誰でも、何時でも参入できるからだ。半月前に思い切って、まず50冊を選定し、
いざ業者に送ろうかとしたが、何かが引っかかって、箱につめたままにしていた。 ともかく50冊をと思い切って業者に送付した。
一週間後には完成するが、送ってしまった本は、二度と戻らない。 それが正しい判断かどうかは、一年後にならないと分からないこと。
とはいえ本棚に並んでいても、それが図書館にある本と、何処が違うのかというと、あまり違わないことも事実。 
金を出して読んだ本は本気で読むから買うのである。 本棚に置いておくのは、それと時を共にした愛着と、再読するため。
それがパソコンに入っただけと、割り切ってしまえば良いだけだが・・・ 考えあぐねて、とにもかくにも送付することにした。
  * つれづれに 一昨日は、中学校の同期会
 中学校の同級会が開かれ出席してきたが、今年に入って二回目である。出席は11名。この数年は、年に二回は開かれている。 
春から私の生活圏が小さくなった分、それはそれで有難い。 あいも変わらず女性は元気が良い。 帰ってみれば午前様。
店は何処もガラガラで、よくやっていると老婆心が出るほど。 男5人の出席のうち、中小企業の社長は3人。背中の重しが取れた分、
天使のように気持ちが軽くなった。 そのため現役の人と接すると、何かエネルギー負けを感じるのは仕方がない。プラマイ、ゼロ。
一線で働くということは、それ自体が歪みの増大になっていることに、最近になって気づいた次第。 それが個性でもある。
 ところで高校の同級会、去年も、今年も開かれてない。一昨年、私とM君が幹事で、恒例でその年の幹事が次の幹事を指名して
持ちまわるシステムになっているが、任命責任がないでない。この時期は、むしろ行われないほうが良い。娑婆はシャバシャバか!

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3476, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー12
2010年10月01日(金)
  * 次のツアーの選定の仕方
 ツアーの選定を、どのようにして決めるのか? その都度に選定のプロセスがある。
多いのが直近に行ったツアー仲間の情報と、自分が、その時点で行きたいところを数ヶ所あげて、
その資料を集め情報を得るところから始る。 まず直近に行って良かった周辺を探すことが多い。
エジプト・トルコが良かった直後にイスラエルが面白い!と聞いて資料を集めて決断。
そして、次はシリア・ヨルダン・レバノンのコースを決めるとか。
インドに行って、ネパールに行き、その後、中国のウィグル地区からカラコルム・ハイウェーを通ってパキスタンに抜け、
アフガンの国境の麻薬通りに行くコースの順に行ったりとか。一ヶ所から周辺の二ヶ所を選ぶケースが多い。
それを結んで行くと、それが世界一周コースになったりする。スペインも中央、南、北スペインの三ヶ所だったり、
オーストリア、スイス、北イタリアも、そうだ。 南米も、同じ理由で行き先を決めていった。
 情報は、その都度行ったツアー仲間と添乗員が、その最大の情報源になる。他の人も同じこと。従って聞くほうも
聞かれる方もオープンになる。 国内では単に自慢話になるが、旅行先では情報交換クラブ仲間になる。
インド派、アフリカ派、欧州派、南米派、遺跡派、シルクロード派など、その人により違ってくる。
万遍なく行っている人は、「旅行道派」ということになる。 私の経験からすると、一度行って良かった処に
通い詰めるのも良いが、やはり万遍なく色いろな世界を見ておいたほうが良い。TPOSが良いこともある。
ある人が、これから世界中を10回行くとしたら、どのような場所を選ぶとしたら、
《 南米三ヶ所、アフリカ三ヶ所、カナダ、ウィグル・カラコルム、北スペイン、スイス》と答える。
それか、船旅で100日間世界一周のコースがあるが、あれでも良い。そこに行ってから付け足しをするのも
合理的である。 一人150万が高いか、安いかを如何に判断するかだが。集中の妙である。
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3101,返済猶予法案の成立から見えてくること! −2
2009年10月01日(木)
 返済猶予法案の成立が現実味を帯びてきた。無理だろうという一般的な見方だったが、面白くなってきた。 
実際のところ、こうでもしないと中小企業はもたない、と前回書いたとおりである。
新聞やマスコミの論説などからして実態の厳しさが分かってない。「昭和初期の恐慌ほどではない」とか、
藤井財務大臣が言っているが、その数倍の津波が来ているのが理解できない?のである。 
「三年の返済猶予」など出来きないと信じているから驚いてしまう。非常時に非常手段は必要なのである。
成立し実行されれば、5年、10年を経過した後に振り返ると、「これが実行されてなかった本格的な恐慌になっていた」、
ということになっている。 大手銀行に資金注入をしておいて、中小企業の返済猶予に何がモラルハザードだと、
よく言うよ!ったく、である。 これまでの官僚と自民党の床柱意識に我われは毒されていたのである。
 ーネット新聞からー
亀井氏が打ち上げたモラトリアムは、民主党国民新党社民党による「連立政権合意書」にある、「中小企業に対する
貸し渋り貸しはがし防止法(仮称)』を成立させ、貸し付け債務の返済期限の延長、貸し付けの条件の変更を可能とする」
「個人の住宅ローンに関しても、返済期限の延長、貸し付け条件の変更を可能とする」との記述が元とされる。
 これに対し、金融機関側は「借り手の返済意欲が緩む」「不良債権処理額が膨らむ」などと反発しており、全国銀行協会
永易克典会長(三菱東京UFJ銀行頭取)は「一律的、長期にわたって発動された例は過去にない」と慎重な検討を求めている。
鳩山由紀夫内閣は「官僚依存から政治主導」を掲げており、現時点で、財務省金融庁の現職官僚らの言動は聞こえてこないが、
大蔵省OBである藤井裕久財務相は「そこまでの状況なのか」と疑問を呈している。
 果たして、天下り先が反対している「亀井モラトリアム」に対して、官僚らはどういう態度を取るのか。
政治評論家の浅川博忠氏は「亀井氏は修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の政治家。連立政権の中で、国民新党
存在感を発揮するためにも、中小企業や弱者受けする政策を打ち上げたといえる。 批判は織り込み済み。
今後、丁々発止をしながら、落とし所を探っていくだろう」と分析。 そのうえで、「財務省金融庁の現職官僚らは、
亀井氏の手法をよく知っている。 鳩山内閣は『脱官僚』を掲げているため、賢明な官僚たちは矢面に立つことは避ける。
以心伝心で、藤井氏にモラトリアム批判させながら、しばらくは『お手並み拝見』といった具合ではないか」と語っている。
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 以上だが、自民党時代なら有得ない話。タップリ献金を受け銀行に尻尾を握られているから、少し凄まれれば、
取り下げざるを得ないのである。 今のところ、まだ、民主党は毒は盛られてないから、大丈夫なだけだが。
それにしても、自民党に永い時間政権を与えすぎていた。粉々に解体するのを怒り(いや喜び)を持って眺めるしかない。
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2736, 正直こそ、最大の正当防衛
2008年10月01日(水)
 議論に絶対負けない法 −4          読書日記
学生時代に、「青雲寮」(25人)という名の寮に4年間いた。 三日前にも40年ぶりに訪ねた夢をみた。
夢の中の寮は部屋も40年前のままだったが、古くて瓦解する寸前の汚い風景。そこで初めて知ったのが、自分の見たことのない世界。
今回は夢がテーマではないので詳細は書かないが、北は秋田から南は福岡までの人種を知った。こでまず驚いたのがウソを平気で言う
何人かの人である。8人兄姉の末っ子のため、ウソなど必ず見抜かれることを体験上知っていた。しかし、それは私だけの話し大体、
15%の割りでいた。(もちろん、ウソを付く程度のレベルで言っている。人を陥れるために付くウソを平然と言うと人種のことである)
正直であること、それが一番の自然体ということは、特に母から常日頃いい聞かされてきた。 だから、それが当たり前ということは、
圧縮された異種の人間の集合体ではベースではないことを、そこで知った。しかし長い人生を歩いて、正直こそ一番の力になることを知った。
反面、正直とウソさえ知らない人種がいる。 それは無知の人間である。 ただ親の価値観を引き継いで、その価値観の中で生きていて、
その価値を疑ったこともない人たちが大部分だろう。 自分もそうなのだろう。
その価値観に従うことが正直なのだろうから何がなんだか分からなくなる。
 −次の箇所が、そのあたりの人間の歪みを、言い表している。
 p−93
私たちは子供のころから本当のことを言いなさいと諭され、人生のさまざまな場面において「正直は最良の策」だと
確信するようになった。 だが、一生のあいだに、真実を語る事に、ほとんど上達しない。
おかしなことに、私たちの社会は正直であることを奨励しない。 大学に「真実を語る法」と題する講座はない。
「うそつき自主治療協会」など、というものもない。 真実を語る人だと自称する人には一度もお目にかかったことはないし、
もし自分の言うことは全部本当のことだという人がいたら、私はくるりと向きを変えて逃げ出すだろう。
私たちは幼いころの経験から本当のことを言うとたいていは罰を受けると学んだ。
本当のこと書うと、負けるか、拒否されるか、追い出されるかだ。 悪いことをして、それを正直に告白すると、
たとえ悪気がなく些細なことでも、たいがいは罰を受ける。自分が怖いと思ってることを正直に言うと、馬鹿にされる。
(字数制限のためカット2010年10月1日)
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2007年10月01日(月)
2372, 人は60歳で何をしたか
                 ー読書日記
 「人は60歳で何をしたか」藤原治・著 文芸春秋
何度もここで書いたことだが、50歳になった時、はたと今後如何に生きようか? 
一年考えた末に、「この十年で、60歳以降も含めた全ての人生を生きよう」という結論に達した。そして、そのつもりで生きてきた。
現在に至って、このコンセプトは正解だったと自己満足をしている。これは他人が評価する問題ではない、自分自身のことである。
昨年の一月に還暦を迎えた時に「この10年間の生き方は満足できたが、次の10年をどのように生きようか? 
そのコンセプトを一年間考えよう」と決めた。 正直にいうと、その満足できる結論は出ていない。 しかし大よそ考えたのは
「この十年生きてきた中で、やり残したことが幾らでもあったはず、それを追求だけで幾らでもあるはず、それを探せばよいだけ」である。
「やり残しを探し、一つずつ潰していく」しかし50代のコンセプトからみると、何か攻撃的ではない。50代のそれは好きな
世界秘境ツアーを可能な限り行けばよいし、嫌なこと、嫌な人間のいるところに、一切顔を出さなければよかった。 
秘境・異郷旅行を徹した?上に、このHPの文章を遺言と思いを書き足せば良かった。他に身体に害にならない程度に美味い酒を
楽しめばよかった。これまで読みたかった本は幾らでもあったが、それを読めばよかった。その結果、60歳になった現在、
何か張りが無くなってしまった。この10年の間、少し無理してきたこともあり、唯我独尊の生き方でもあった。
50歳で人生の元は取った実感があったし、60歳で人生の余白も埋めた実感を持てた。そこで、他の同じような年代の人は如何なのか、
気になりだした??(いや、それより60歳代のコンセプトを満足してなかった!からだ)ところが面白いもので、丁度良い本を
図書館で見つけたのが、これである。それを読むと、60歳の地点で色いろな人生の立ち向かい方があるのに驚かされた。
意外に老成している内容が多いのには驚いたが、えり抜かれた人は当然ながら、それぞれの人生に最大限の努力をしている。
この本を読んでみて、小さな世界に満足していた自分の卑小さが合わせ鏡のように見えてくる。
生きてきたようにしか、その後も生きられない。それでも真摯に生きてきた人は、その後の人生でも枯れるのではなく、
むしろ成長しているのが解る。次回からは、その印象的なところを抜粋しながら考えてみる。、
同じ歳とはいえ、比べようもない相手ではあるが、自分が情けないような、悲しいような気がする。これは生まれた天分だから、
仕方ないとしてもである。二度とない人生、一日一生の思いを更に深くすれば良いのだが!

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2006年10月01日(日)
2007、「私」のための現代思想 −5          おはよ〜!(*^ワ^*)i
  第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか
私たちは<世界>に投げ出され、その<世界>の中で何らかの<物語>を遂行しながら生きていく存在である。
私たちは<言葉>と<価値>によって<世界>を認識し、<物語>をつくります。ここでの物語とは、
私たち一人一人が持っている、自分が生きていく上での「脚本」のことです。
そして<世界>とは、そのそれぞれの<物語>が上演される「舞台」のことです。
 ーハイデッガーの「世界劇場」− 私たちは「役割」を演じている
ハイデッガーは「世界劇場」という概念を通して「人間の生」を把握しようと試みた。
彼はまず私たちの「存在そのものー現存在」と「役柄」は異なっている、ということから考える。「役柄」は、
人間は「この世界で何らかの役柄を演じている存在である」ということを表す概念である。
学校においては学生を、家では息子を演じ、また友人や恋人を演じたりしている。
これらを心理学では「ペルソナ」と呼ぶこともある。これら仮面は、あらかじめこの世界に用意してあったもの。
少なくとも、その役割の性格から大きく離れたりすることはない。つまり私たちはこの世界に突然投げ出され、自らの意志によって、
その世界に予め用意されていた仮面のうちから幾つかを選び出して、それを演じています。このように「この世界に投げ出されると」
ハイデッガーは「企投」と呼んだ。またその「役割」に没入している状態を「耽落」と呼んだ。私たちは、この「仮面を被った自分」を
「本来の自分」と勘違いしている。仮面を被った状態の自己を「対象化された自己」という。被ってない状態の自己を「現存在」と呼んだ。
学生である男と、先生である自分がであったとする。そのお互いの立場ー役割を一瞬で把握して「相互関係的な役割演技」をすることを、
「原初的な出会い」という。その前段階としての「存在の認識」がある。それは果して存在しえるのだろうか?という問題がある。
しかし、「役割のみが存在している」のであれば、私たちは、いきなり役割を認識できるわけです。しかしそうではありません。
少なくとも短時間で「役割を持たない誰か」が認識され、その上でその人の役割が想起されるという段階を通っているはずだ。
ハイデッガーは、我われが人生という劇場で役割をこなすためには、「役割を演じている役者である自己を自覚すること」
であるという解決を薦める。それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」ということです。
そうすると大根役者と言われても、それは「役割上のことでしかないのだ」と考えることができます。「芝居が下手だ」とか、
「華がない」と言われようが、そんなことは気にならなくなる。 うまく演じることにどんな意味があるのだろうかと考えれば、
うまく演じられないことにマイナスの意味を見出すことには、それこそ意味のない。なぜなら「どうせ芝居でしかない」からです。
−−−−
評)もっと辛辣にいえば、人生などお笑い劇場でしかない。真面目に演じれば演じるほど喜劇の道化になっていく。
 それに早く気がつけばよいのだが・・・ 人を笑わせることは難しいが、こと人生にかけて簡単だ。
演じていることを自覚しなければよい。それがお笑いになる。没頭することは最も大事である。
 反面、どこかで没頭している自分をみている自身の時間が必要である。アウトサイダーと、インサイダーの両者の眼が。
   ・自分の人生という物語のシナリオと、
   ・そのシナリオに従って演じている自分と、
   ・その背景となる世界(劇場)を観ている観客と、
   ・観客を意識しながら見守っている監督、を意識して生きる!ということだ。
   そのためには、自分の人生の役を愛すること。そして、その背景となる世界と、観客と監督を愛することだ。
   そう考えると、やはり宗教と倫理は必要ということ??
この第二章 のー「私」はどこで、どのように生きているのかーの答えー総括ーは、
「私」は「世界劇場」で、私の「役割り」を果たして生きている。
ハイデッガーは、我われが人生という劇場で役割をこなすためには、「役割を演じている役者である自己を自覚すること」
であるという解決を薦める。それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」
ということです。そうすると大根役者と言われても、それは、「役割上のことでしかないのだ」と考えることができます。 
−である。
それぞれの人生劇場は二度とない!だから一瞬たりとも無駄にはできないのが人生である。
自分の役を愛し演じとおすしかない!「私」と、私の「世界」は日々刻々腐っていく。生ものだから。
汚れていくなんて甘いものではない!腐っていくのだ。腐っていくのは仕方がないことだ。腐っていくことを
自覚するしかないのである。 そして、それを自分で笑えればよい! いや笑うしかないのだ。
他人のことは解るのだが、自分のことは解らない。だから生きていけるのである。
せめて心が腐らないようにしたいが・・・
そのためには、学び続けなければならないというが、今さら何じゃい!という、腐った声が聞こえてくる。
                        ー 以上である。   ーつづく  \(^▽^*)バイ!           
・・・・・・・・
2005年10月01日(土)
1642.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・1
 1, 人生を見せてもらいました!      宗親
居酒屋を二十数年も経営をしていると、社会の裏表が見える。
人生を人の数十倍、いや数百倍も見たように思える。
・数年前まで羽振りの良かった人が、今は乞食をしているとか。
・あのお客が会社の金を使い込んでいたとか。
・がんで亡くなったとか。
・かけ落ちをしたとか。
・実の娘に手を出し、子供ができたとか。
・遠くの親戚から、思わず数億の遺産が転がり込んだとか。
ここで書けないような犯罪の話の内容を聞いた。それらを中心にボチボチ書いていくつもりだ。
まあ人間は酒が入ると、人間性が丸出しになるし、幼稚になるからね!
・・・・・・・
2004年10月01日(金)
1277, [人生の目的]ー五木寛之著ー読書録
 数年前に話題になった本だが、当時あまり興味を示さなかった。先日、たまたま図書館にあったので借りてきて読んでみた。
幼児期のころから、かなり厳しい生活体験をしている為、書いてあることは暗いが、しかし重い。
彼のーあとがきにかえてーの一文が、全てこの本を伝えている。
ーー「人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。寂しいだけでなくて、むなしい。
むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。
自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかたになるが、
「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってよい。そのためには、生きなくてはならない。
生きつづけてこそ、目的も明らかになるのである。「我あり、ゆえにわれ求む」というのがわたしの立場だ。
  (字数の関係でカット08年10月01日)
この本に、前回借りた人が書いた、メモが挟んであった。達筆な年配の人のような字だ。 それを書き写してみる。
「他力の信は義なきを義とす。生きている限り生老病死の影は、私たちにさしつづける。
 このことは、わがはからいにあらず 災難に会うときは会うがよろし 死ぬる時は死ぬがよろし 
 人生は暗夜の山中行である 人は彼方の灯火に勇気づけられる それを他力本願という」
・・・・・・・・・
2003年10月01日(水)
910, 人生の縮図
 先日、ある世界を垣間見た。といって書くには、あまりにシビアな世界であった。しかし、それを書くのが随想日記の真骨頂である。
ある売り物の物件を見にいった時の人生模様である。生々しい状態であった。「あるリゾートホテルをどう転用したらよいか見てほしい」
と頼まれた。半年前に経営委託を受けた人が、支払いができないで逃げた直後。オーナーが嫌気をさして混乱しているという。
 現場に行くと数日前まで営業をしていたのが、ありあり。給料2か月分をまだ貰えない行き場のないマネジャーや
従業員が3人いた。彼等はそこで働き出して半年、派遣会社の身分で、保障は全くないという。
現在の日本の姿が、そのまま現れている状況であった。 これ以上の景観がない位の場所にあり、オーナーが
半分趣味で建てた素晴らしいリゾートホテルである。
(字数の関係でカット08年10月01日)
・・・・・・・
デフレと対策  2002/10/01
現在上手くいっている店を見ていると、やはりデスカウントの業態の店である。
それも思い切って、20年前か25年前のプライスを打ち出しながら、現在の嗜好を取り入れた店や会社だ。
衣料品は20年前の半値以下の商品が多くなってきた。自転車も、半値か四分の一だ。 電気商品もしかりだ。