このところジムが何か変である。4月初旬に入会したが、当時は平日の午前中に関わらず会員で満タンで、
「ここは不景気とは別世界、私の知らないうちに社会は変わってしまった」と、思い知らされた。 まずは値段の安さである。 
昼間の空いている時間帯(主婦と定年後の団塊世代を狙いをつけた時間帯=金曜ー定休、日祭日を除く10時から17時)のコースが、
月に5980円である。 私は、ほぼ皆勤で10〜12時の二時間は通っている。20日で割ると一日300円でしかない。
 しかし私が入会後、一月もしない5月のゴールデン・ウィーク後から、ジム内の会員数が激減をしている。
まずは三割、そして五割、最近では三分の一ほどになってしまった。嘘のようだが、本当である。僅か4ヶ月のうちである。
平日昼の時間帯からみて、景気に敏感な主婦層が多いこともあるが、東北大震災の影響が直撃したようだ。
会費が二月分前払いのため、連休明けから激減したようだ。また場所柄、農家関係も多いこともある。考えてみれば新潟は福島の隣県。
イメージからして、農作物は中長期的にみて大打撃は避けられない。農業関係者なら敏感なはず。 連休後から御友達紹介キャンペインを
始めたが、新規の見学者が、このところ少ない。 スポーツジムはレジャーの範疇に入る施設である。 10年前の9.11テロと、
3年前の9.15−リーマンショックは、数百年に一度の文明と政治経済の大激震。その影響が、まずは日本に直撃。 それで今回、
私の事業も倒産に至った。 その上に、1000年に一度の地震津波の自然大災害と福島原発事故である。 そして先週末からの
世界同時株安が襲ってきている。 ジムが劇的に会員が激減していくのも当然といえば当然。
 家内は10年前から信濃川の川辺のイオン内のスポーツジムに通っている。 そこで家内に、会員数が減っているかどうか聞いたところ、
「元もと少ないので、減った感じはない」という。 とすると、ジム愛好者が居酒屋が新規開店に殺到するように、新しいジムに
様子見に来たのが一巡し、前のジムに舞い戻った要素もあるのだろうか?と考えてみたが、新しく大きい方が、より多くの種類の設備が
付加されているので、大方が元に戻るというのも考えにくい。 やはり大震災の影響である。それと私自身の見方が、時が時だけに、
悲観的にみてしまうことも考慮してもである。休日は、市営の公共施設のサンライフにいくが、そこで一通りジム設備が揃っていて、
我慢すれば出来ないことはない。公共のジムを二つ兼ねれば、それなりの満足感を得ることも可能である。スポーツジムからみる、
景気も、そう甘いものではない。 それにしてもジムは、ゴルフをしない者にとっては健康にとって、非常によい。 
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3426, iPad 対 キンドル ー3
2010年08月12日(木)
   『iPad 対 キンドル ー日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』 西田宗千佳著
 * iPadは「eBook」ではない?!
 初めの発表会でiPadが画面に出たとき、会場は単に大型のiPhoneに、がっかりしたようだった。
しかし途中から、会場の雰囲気は変わっていった。「10インチ」の意味が、デモを通して来場者に分かってきた。
アップルの狙いは「eBook」ではなく「リビング」ということが、ジョブスの紹介からみえてきた。
モバイルデバイス、要は「屋外に毎日持ち出して使う機器」だけでなく、リビングにシーンを移動したのである。
この数年、小型モバイルパソコンが爆発的なブームだったが、これは、台湾などでつくられた低価格の
モバイル小型ノートパソコンが、その原点にあった。 使用者は、そこに本や書類を入れて、リビングやカフェなどで
見ていたのである。そこに目をつけ考えられたのが、このタブレット式パソコン。そのためiPadキンドルとは似て非なる
ものとなったのである。大型のiPhoneというだけでなく、大きさをソファーやチェアやベッドで寝そべって見れるところが、
ポイントとなっている。 我家の居間のテレビ前の座り机の横にパソコンを置いている。その台は回転が効いて、
私が使ってないときは、家内が向きを反転させ使っている。だから、iPadをデモで見たときに驚いてしまった。
居間で時間を遊ぶ面白さがよく分かるからである。 次にiPadの価値はiPhoneに使われている「アプリ」にある。
既に多くのものがiPhone用に開発され、世界中に普及している。それが、使えるとなると、その顧客を取り込める。
そのためkindleeBookの「単機能」に対して、iPadは「汎用」に特徴になる。 またeBookに関していうと、
手軽な「文庫本」的なキンドル、それに対して「雑誌」的なiPadといえる。現在iPadが月に100万台の大ブレークの販売に、
一挙にタブレット式パソコンに火がついてしまった。これは、これまでの出版業界だけでなく、マスコミそのものの根本からの
崩壊に繋がる。紙の出版物は10年後には半減どころか、10分の一になる可能性すらある。傍目には面白が、恐ろしい時代である。
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3051,人を殺すとはどういうことか
2009年08月12日(水)
「人を殺すとはどういうことか
   ―長期LB級刑務所・殺人犯の告白」  [著]美達大和
 図書館で何気なく題名に引き寄せられて立ち読みをしたが、その生々しさに立ちすくんでしまい、借りてきた本である。
LB級刑務所は長期の重犯罪者達の檻、その大部分は良心のカケラもない人たち。これは獄中でつづった特異な半生記・観察記で、
今年になって出版されたもの。著者自身が2件の殺人を犯し、無期懲役刑に服しながら獄中でつづった手記で、前半が自分の半生。
後半が刑務所の他の受刑囚たちの観察記である。 本人は今も無期懲役に服している。
高い知能と冷徹さを生かして社会的な成功を収めた後、自らの価値観に従ってふたりの人間の命を奪う。 
逮捕後や公判中も罪の意識はまったく感じなかったが、検察の論告を聞いているときに突然、情動のスイッチが入り、
後悔や反省の念がわき起こる体験をする。最初の殺人は26歳のとき、金融業で成功を収め、ヤクザの組織に在籍していたときに
起こした。用意周到な犯行ですぐに発覚することはなかった。 2件目の殺人はその数年後。その動機について
「私から見て誠実と感じられなかった被害者の言動などが主因になりました」という。2件目の犯行で逮捕され、1件目の犯行が発覚。 
 その後、償いの日々を送りながら他の受刑囚を観察し、犯罪の動機や今の感情についてインタビューを試みる。
そこでみえてくるのは、フィクションでは描ききれない矛盾に満ちた人間の生々しい姿。
強盗殺人を犯したある男は、被害者に「全くざまあみろだ」と言い放つほど冷酷な人間が、TVのご対面番組には涙を流す。
ヤクザ同士の抗争で殺害した被害者の強さを畏敬し「ヤクザとしての自分の生き方がしっかり決まった」と出所していった男。
また受刑者に共通する「異常な執着心」「利己心の強烈さ」など18点もの負の特徴を上げる。
長期刑務所は“反省や更生とは、ほとんど無縁の”“悪党ランド”というほど人間に対する希望を失う。
そこが犯罪や裁判のテクニックを学習する場所になっていることを憂慮している。 受刑者が「向かってくるから刺しちゃったよ」
「黙って言う通りにしてりゃ殺されなくてすんだのに」「あんな所に居やがって、お陰でこっちはこんな所だ、チクショーめ!」
といった具体的な言葉も紹介する。 著者に対して性格鑑定が行われているのだが、その報告書において鑑定人は
「当職は、30年の職歴の中でこのような奇跡的な知能レベルに遭遇するのは初めて、他の症例を調査しても前例がないこと。」
と記するほど、比類ない知性の持ち主。 彼は自伝の中で「粗野な在日韓国人の父と品のある美しい母、経済的絶頂と零落、
商才と稼業、典型的なヤクザ者の生い立ち」を告白する。
 第二章以降は12人の同囚受刑者へのインタビュー。獄中でその罪と心象風景を聞きとったうえで、最後の一人を除き、
淡々と記述する。相手はすべて殺人犯である。 そこで彼は「罪と罰は均衡しているのか、矯正と刑罰は両立しうるのか」
という問いを司法と法執行に投げかける。 現役の囚人が書いた生々しい仲間の姿が生々しく痛ましい。
  阿部譲二とその御仲間達とは、少し違うようだ。
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2686, 人生のハレとケ
 2008年08月12日(火)
以前に何度か取り上げたことがあるが、再びハレとケについて考えてみる。人生にはハレのときもあれば、ケのときもある。
ハレは、田舎の祭りや、稲刈りのとき、(晴れ晴れの時)ケはそれ以外の地道な日々の生活である(ケチケチ、倹約の時)。
 我々は、この二つのリズムの中で生きている。過去を振り返った時を考えれば、華やかの出来事に目が行くが、
しかし何気ない出来事の方が深い味わいがある。書いたことすらも忘れていた学生時代の日記が半年分、倉庫の奥にあった。
そして、その日々を此処で連日書いた。それを読み返すと何気ない日々が、何と面白いかがわかる。ハレもケも書いてあったことで
面白かった。私のハレを振り返ってみると、それが秘境・異境ツアーであり、事業のの立ち上げの時であった。
写真にも旅行記も残っているし、立ち上げは辛い反面、華やかだった。そして記憶が鮮明に残っている。そのために背景のケの日々が、
その光によってかき消されてしまいがちになる。家内が(というより女性は)、そのケの楽しみ方を知っている。 
とにかく日々の平凡を楽しんでいる。これは天性なのだろう。 私も日々の生活を楽しむ術を知っている方だが、女性には敵わない。
生活を楽しむ!ということだろう。 隣に人がいてもいなくとも、ただ目先のことを楽しむ!ということを。
だから、面白くないことを我慢するなど勿体ない、とつくづく教えられる。白(ハレ)と黒(ケ)があるから互いが成り立つのであって
白だけだったら白色の白が理解できない。現在の我々を見渡すと、ハレだけを追いかけている。 しかしケ=普段の平凡な日々を、
如何に充実させることこそ人生の価値。話しは変わるが、ユニクロが狙っているのは、普段着を如何に充実させるか、ハレ(外着)の他
メーカーの商品を引き立たせる裏方に割り切っている。「隠れユニクロ」と言われようとも、普段着を如何に良くし楽しむことに
徹していれば、大多数の人が支持をしてくれる。ケの文化こそ今一度見直す必要な時のような気がする。
『日々、是好日』これこそ、知恵さえ使えばできること。 現実の日本は正にケの時である。
   さて、今日の昼飯何にするかな! 鼻歌を歌ってスキップか〜
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2007年08月12日(日)
2322, 政治家の家族とは・・ −3    (o´・ェ・`o)♪。o.+゜。*ぉはょぅ☆♪
 *銀座のママと政治家の共通点*
彼女自身気づいているかどうか解らないが、銀座のママという職業にとって、政治家の家庭で育った環境が大きくプラスになっている。
夜の水商売は虚飾の世界である。前に書いたが、政治家も「あるべき理想的政治家」という仮面を被る世界。社会を選挙民という
票田と捉え、人の集まりには可能な限り顔を出し、理想像を飾り票に結びつけていく。 そこには、本人個人の顔は無い。
議員として相応しい人物としての演出された顔である。夜の虚飾も高級?な社交場の演出と提供である。愛?と社交を求めて集まってくる
「社用族ータカリ族」や、「成り上がり族」を相手にホステスと自分との愛のゲーム(仮の自由恋愛の駆け引きの遊び)を夜ごと提供する。
お世辞と奇麗事と作り笑いに一晩の遊びと癒しを求めてくる男達を遊ばせ、笑わせ、満足させてナンボの仕事である。
遊ぶ方も、遊ばせる方も、全て解っていながら気違い水(アルコール)で酔い、歌い、憂さをはらす。 サカリのついた狸と、
それを遊ばせる狐の化かし愛?の世界というと、チョッといいすぎか?政治家も、できもしない公約を掲げ有権者に夢を売る。
選挙が終われば、選挙民は公約など忘れてしまうことなどお見通し。政治の政は、祭りごとである。(政治ー政を治める)祭りごとなど、
年に数度の祝い事を難なくこなすことでしかない。その祭りには酒と女は欠かせない。だから酒を飲むことも、男にとっては一つの祭りごと。
古代ギリシャに出てくる巫女は売春を兼ねていた。それも社会的身分が高いというから・・クラブのママは冷徹に名刺というカードを集める。
それが個人の財産であり、カードの蓄積を持っていれば、どの店でも渡り歩ける。ところでママの髪型が店の格をあらわすという。
髪の高さが値段を現し、前への出っ張りが店の格を現すという。笑ってばかりはいられないか!売春もしないのに女性が横につき接待する
クラブのシステムは、世界で日本だけ。ホステスという職業はお金を稼ぐために割り切っている女性が多い。
ママとかグランドボーイが、こっそりと、その落としどころを教えてくれる?酒飲みの男には、だいたい二種類の酒のみのタイプがいる。
酒とカラオケなど、その雰囲気が好きな部類と、酒場で女を求める部類と。後者はフィリピン・パブなど、別コースの中間地帯が用意してある。
蛇の道は蛇ということか? 暴力団が後ろについて、すんなりとコースがあるとか。
政治家も何でも、プロの道は厳しいものである。どこかで醒めた眼が必要である。そのためには、逆に熱中してないと・・
          o(*′з`)o"グッ☆o(*′▽`)〇))"バァァイ☆
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2006年08月12日(土)
1957, 片づけられない女ー2            \(^▽^*)おは!
検索に「片づけられない女」と入れたところ、「片づけられない女」サリ ソルデン著 という本が出てきた。
現代病の典型的な病で、これまでにもTVで多く扱われていた。ダラシない性格の女というわけではなかった。
ーまずは、その本の説明文ーから自分の部屋を片づけることができず、ゴミの中に埋もれるようにして暮らす女性について、 
 多くのマスコミは半ばおもしろがって取り上げる。本書はその原因が本人のだらしない性格にあるのではなく、
 神経系の障害である可能性を唱え、全米でベストセラーとなった。 この神経系の障害は、ADD(注意欠陥障害)と呼ばれる。
 幼いころから兆候が現れていても、 見落とされることが多く、大人になるまで本人が気づかないことも少なくないという。
 さらに、散らかす、なくす、忘れるといった特有の症状は、社会が女性に期待する女性像とのギャップが大きく、
 「片づけられない女」というレッテルを貼ることで、解決されてしまいがちだ。
 カウンセラーであり、自らADDである著者は、本書でADD女性が直面する困難に触れながら、ADDを持ちながら
 充実した人生を送るための意識改革の必要性を説き、同じ悩みを持つ女性たちにエールを送っている。
  ー内容ー
持ちものが片づけられず、部屋が片づけられず、頭の中の考えさえも片づけられず、
毎日の生活に苦労をしている女たちがたくさんいる。彼女たちは、雑用の山に圧倒され、すっかり落ちこみ、不安と戦っている。
(以下、字数の関係でカット 09年08月12日)
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2005年08月12日(金)
 1592, 幇間ー太鼓もち
幼稚園の頃から高校を卒業するまで、実家の店では年越しの宴会をしていた。そのため年末が子供ながら楽しみであった。
芸者を何人かよんだり、近くの太鼓もちを呼んだりしていた。といって長岡あたりではプロの太鼓もちはいない。
近くの酒の好きな漬物屋の親父がセミプロとして呼ばれていた。通称「八木漬物屋のオヤジ」である。彼がいないと場がしらけるほど
存在感があった。映画で観る幇間そのもので、芸者の三味線に合わせて色いろな芸をしていた。それをキッカケに他の人の芸が出てくる。
家族や従業員・取引先など50~60人の宴会が何時も盛り上がっていた。幼稚園の頃から日本酒をコッソリ飲んだ記憶がある。
幇間とは、いわゆる太鼓もちのことである。座敷に呼ばれて、芸者と同じように旦那衆におべっかを使って機嫌をとるのが仕事である。
落語によくでてくるヘラヘラしながら、しかし暖かい雰囲気を醸し出している技を持っている男芸者である。愛嬌があって、
人から何か好かれる魅力がなければならない。そして宴会などを上手く盛り上げる座持ち役である。人間は誰でも褒められ威張りたいもの。
太鼓もちは、その辺を熟知しており徹底的に自分を蔑みながらお客を持ち上げる。これは持って生まれた天性が無ければ勤まらない仕事。
もう亡くなったが俳優の三木のり平の太鼓もちは絶品であった。一度でよいから、この太鼓もちをやってみたいが、無理である。
営業のベテランは、その要素を経験から充分持っている人が多い。話のキッカケは何か褒めることから始る。 それも自然に、
いつの間にか持ち上げられてしまう。現在、プロの太鼓もちは、ほぼ絶滅?下町の旦那が余興で踊りなどを演じている位という。
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2004年08月12日(木)
 1227, 新潟駅前ランチ事情
新潟駅前のランチ事情も変わってきた。 この1〜2年で、横浜軒、松屋ロイヤルホストすき家、などの
ナショナル・チェーン店が進出してきた。それまでは、居酒屋やラーメン屋などがランチ定食を出していた。
売上不振のフグ割烹の専門店までも昼飯を出し始めていた。7000円が相場であったが、最近は300〜500円の店が増えてきた。
私も、そのプライスの店に行くようになった。朝食はウォーキングの後ということもあって、しっかりと食べる為か、
昼飯はジャンクション食と割り切っているので、手軽で済ませたいし、安い方がよい。500円以下の店は混んでおり、
700円以上のプライスの店はお客は少ない。先日、事務所の近くに「定食の専門店」が出た。 チェーン店ではないが、
とにかく安くて、自分で好きな惣菜をチョイスできるのがよい。 大体400円〜500円で済む。
私の場合、週一単位で店を使い分けている。回転寿司、蕎麦専門店、居酒屋、牛丼(豚丼)専門店、定食屋、
うどん専門店など10軒の店を、その日の気分で決めている。駅前のサラリーマンにとって、昼飯を食べるのは大変である。
12時直後に、どこも満席になってしまうからである。最近は、昼飯を抜くか、牛乳ですますケースが多いという。
 小遣いが節約ができるからである。ランチの世界も、デフレの影響がモロに出ている。
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2003年08月12日(火)
 860, プライド -1
プライドについて考えてみる。
プライドとか自負心を自分で意識する時は、「逆境の時」とか、「あまり自分の意にそわない時期」に多い。
プライドー自己尊厳ーとは程遠いと思われる人ほど、プライドが高いのに驚いた経験をしたのは私だけでないだろう。
新潟では長岡人を「異常な位プライドが高く、閉鎖的で彼らだけで群れたがる」と評している。
常に小さい世界で誰かを意識せざるを得ないからだ。まあ地元の悪口になるから、長岡人の話はやめておく。
 プライドが何故マイナスの状態の時とか、マイナスの人の心の状態に現れてくるのか考えてみる。
「自分の子供がよい会社にいるのを誇りに思う」とか「自分のやってきたことに誇りを持っている」とかに表現される。
それは誰かとか、何かに対しての満足感を表す言葉である。 その背後には、他と比べて、
・自分の収入は誰より多い ・誰よりも名声がある ・学歴は誰誰よりも高い
等々、常に比較の世界に生きている人の言葉である。自分の価値観をしっかり把握していれば、そんなことは如何でもよいこと。
私が嫌っている「子狐」世界は、その比較の世界に生きているからである。その小さい世界しか知らない無知の住人だからだ。
そういう人ほど表面的利害を求めて彷徨っている。それも隠しプライドー子狐の尻尾ーをたれ下げながら。彼らには本当の深い喜び、
満足感、充足感はない。 比較の世界に生きている人間に、自分の心の奥の芯の歓喜があろうはずがない。 彼らは、そのプライド故に
嫉妬、羨望、憎しみが異常発生してくるのだ。比較の世界では、上から見下ろすだけでなく、下からの歪んだプライドも出て来る。
ある会など、見ても無残な歪んだプライドの世界である。常に誰かの悪口、中傷の歪んだ暗い比較の世界である。真の価値観を
持ち得ない人が他者に対して持つ歪みが変形した世界になっている。自己宣伝に精を出しているチンドンヤ、噂を餌に営業をしている
??、太鼓持ちなど多士済々で面白いといえば面白いが。それも如何でもよいこと。
・・・・・・・
2002年08月12日(月)
 485, 「我思う故に我あり」-1
デカルトの「我思う故に我あり」という言葉はあまりに有名だが、フランスの‘生’の開祖と言われている
ビランが「我意欲す故に我あり」と、デカルトを否定して定義した。
「キリストの求めよさらば与えられん」もこのことだ。
どこかの女子大の哲学の教授の「我笑う故に我あり」という本があるが、あまり面白い本ではなかった。
前回家内と「何で私らだけこれだけ感動に多く出会えるのだろ?」
と話し合った。その時の答えは「求めたからさ!」たったこれだけを殆どの人がしてない。
そこで自分で何か面白いものはないか考えてみた。
「我 実践す 故に我あり」「我 行動す 故に我あり」「我 祈る  故に我あり」「我 感動す 故に我あり」
「我 愛する 故に我あり」「我 夢みる 故に我あり」「我 美食する 故に我あり」「我 セックスする 故に我あり」
「我 読書する 故に我あり」「我 前進する 故に我あり」「我 遊ぶ 故に我あり」「我 闘う 故に我あり」
「我 歌う 故に我あり」   幾らでも出てくる。「我ーーーーー故に我あり」
自分にとってのそれは何か幾つか考え明確にしておくとよい。それが自分ともi云える。
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2001年08月12日(日)
 [106] 坂之上小学校ー同級会
昨日小学校同級会、場所はかもがわ別館。 25人参加。
かなり盛大であった。二次会は全員参加。 楽しいひと時であった。
3クラス合同の会で100人強のうち4ぶんの1あつまったことになる。
5^6人が亡くなったようだ、それもこの2〜3年で。
そういう時期になってきたと言う事か。5年に一回の会で丁度いい感じだ。
どうしても女性が多いのは、当然の事だろう。 出席してよかった。