『議論に絶対に負けない法』ー ゲーリー・スペンス著
   * 人生を自由に生きるためには?
 【 「なぜカエルがジャンプするのか」ではなく、「どうすればこの小さな生きものをジャンプさせられるか」である。
 もちろん、カエルには栄養分が与えられなければならない。次に、カエルは自由にさせられなければならない。群集の前に立った時、
あるいは上司の部屋に座った時、私たちはカエルになり、すでに見てきたように、あまりの恐怖心からジャンプすることなど到底できず、
ただ小さく気弱な声で泣言を発することしかできない。 カエルを自由にさせるというのは、私たちが人生を生きることのたとえである。
ほとんどの人にとって、自由になることは怖い。 私は人生のある時期、過去という不健全な場所にしがみついていた。 
自分を解き放すことができなかったのだ。 計り知れない深淵に落ちてしまうのではないかという恐怖をどうすることもできず、
そうしていたら身の破滅につながることが分かってはいても、過去にしがみつくしかなかった。
 この恐ろしい時期のある晩、たった一本の枝につかまって崖っぷちからぶら下がっている夢を見た。私は何百メートルも下の谷底を
見下ろした。そこで、自分が絶対に助からないことを悟った。手は疲れ果てて、ついに滑り出した。結局は手を離さざるを得なかったが。
だが、落ちながら、突然自由になったのを感じた。リラックスをしながら落ちていくのを楽しむこともできれば、落ちていながら
叫ぶこともできた。 落ちながら、何とも言えない高揚した気分、完全な自由な気分を味わった。 私たちカエルは崖から飛び降りよう、
経験を信頼をして旅を楽しもう、と私は提案をしているのだ。  やってみなさい。 手を離しなさい。 ジャンプをしなさい。 】
 ▼ 海鳥の雛が、最初に断崖から海に向かって飛び出す時の映像を何度か見たことがある。本能に従い健気に恐怖に打ち勝ち飛びたつ。
  人間は、恐怖のイメージがあるから、なかなかジャンプが出来ない。 実際に、今回の3つの震災で、会社が倒産してしまった。  
  どちらにせよ年齢からして、このままの状態は維持出来ないなら、早めに清算した方がよいことは、数字が雄弁に物語っていた。
  決断をしてみると、自らの手から離れ、一人歩きをしていく。これも、ジャンプ。 「べき時に、べく事を、べきすべき」だった。
  私の場合、これに似た絶対言明がある。「正中心一点無」である。問題の中心を直感で見つけ、気持ちを集中することである。
  「恐怖の目をにらめつけよ」も良い。イスラム圏に行くと、目玉の飾りの魔除がある。玄関で目の力で、厄を守る飾りである。
  動物は、視線に非常に敏感である。考えてみれば視線恐怖症は、誰にも少しはある。日本は、それが世間の目になる。
  恐怖は、ジャンプのエネルギーそのものになる。
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3365, 「世逃げ」のすすめ
 2010年06月12日(土)
 『「世逃げ」のすすめ 』ひろさちや
 ー概要といえばー
 世間はおかしな物差しで人の価値を計ります。その「狂った」世間の物差しを捨てられないならば、世間から逃げるしかない。
世逃げとは、どこか別のところに逃げるのではなく、精神的に逃げることです。 禅の洞山の無寒暑を思い浮かべればいい。
目盛りがないのだから測れません。だから、測れない物差しが仏の物差しです。 測れないのではなくて、測らないのです。
仏の物差しは、物を測らない物差しなんです。 仏様は苦しみの世と言われました。その苦とは、思い通りにならないことです。 
世逃げとは、思い通りにならないことを、思い通りにしようとしないことです。つまり、あきらめの思想でもあります。
このあきらめとは、努力をするなということではなく、無駄な努力をするなということです。
無駄な努力とは、思い通りにならないものを思い通りにしようとすることです。仏教は「出世間の教え」。煩悩にまみれた
俗世間を厭い離れることが、仏教の姿勢である。ならー「世逃げ」しなさいーと!「世逃げ」とは、世間の物指しの他に、
神の、仏の物指し(目盛りのない物指し)を持ちなさい、ということである。
 ▼ 〜 以上が概要だが・・ 二年前に、この本の中の「ある一文」を紹介したことがあったが・・・
 ひろさちや、といえば仏教的視線で、世間から一歩も二歩も超越しなさいという論だろうと、思っていたが、
「『狂い』のすすめ」の続編の内容である。 学生時代に社会学を専攻、また人事管理のゼミ入って、人間の管理という
生々しい問題を冷静に捉えて、客観的?に見つめる「訓練の場」のゼミの真っ只中に入った。 そこでは哲学的にいえば、
現象世界(感性、悟性)を、思考、訓練で理性に昇華する訓練の場であった。 教授は分かっていたのだろうが、その先には、
それぞれの選択した社会分野で、目指す世界を自分で創造しなさい、それが「自由世界」だったのである。 教養とは一枚一枚、
束縛されていた固定観念を脱ぎ捨てることと思い知らされた。 とはいえ、自由は甘くはない。 サルトルがいう「自由という牢獄」
での苦しい独りの闘いを必要とする。 ここでは、仏教だけでなく哲学的思考も隠されている。
 狂い、世逃げの繰り返しを40年以上やってきて? その結果、アウトサイダー、珍獣、馬鹿○○として冷笑されている。
しかし、あの経験と哲学や宗教を学び続けてなかったら、とっくの昔に胡散臭い常識人になっていた。
 ここで「世間は人間を商品価値で測っている」というが、世間とは、そういうもの。 しかし少し考えてみれば商品価値だけが、
人間の価値ではない。女性の容貌が衰えようとも、エリートコースを歩んだ人が失墜しようが、エリートコースの肩書きや
職業がすべてではない。それとは別の変わらない価値がある。その変わらない価値を、初めから人生に求めなさい!ということ。 
結局それは、社会的なものとは無関係な自分の好きな世界を構築しておくことだ。フワフワした名声など、所詮は瞬時の現象。 
しかし、それでは自分は商品価値で人を判断していたのでは?というと、ない!といったら嘘になる。
 品性、教養、無心の人の傾向の強い人を認めてきたつもりだったが。振り返ると、そうでもなさそうだ。商品価値の高い人ほど、
それにともない、無価値の価値を身に付けている人が多いのも事実。 いや、その数倍も逆のがいるか? あれ等をみると! 
その、あれ等の一面しか見てないのだろうが。商品価値ね〜 モーツアルトも、ダビンチも、あの才能より、隣の善良な人が?
良いとでも言うのか?   良いでなく、好い?   それとも善い?
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2990、1ドルを競りにかけると
2009年06月12日(金)
 「世界は感情で動く」 マッテオ・モッテルリーニ著   ー読書日記
* 一ドル競りゲームから見えてくること
 ゲームで、「1ドルの競りゲーム」がある。 小人数のパーティの余興に面白いというが、そのゲームの中に、
深い示唆が含まれている。 もちろん、三人以上が参加するようにしておいて、1人に50セントまで値段がつくまで
買いにまわってもらえばなお良い。 このゲームでは、最後に競り負けた人が、その金額を払わなければならないルールを
前もって言っておく。5、10セントから始って、15、20、そして30セントと。そして50セントで、
頼んでいた人は降りてもらってよい。 競り人は、そこで二人から50セントずつ貰えるから、元は取れる。 
しかし1ドルを越えたところで、二人とも1ドルを失いたくないため、1ドルを越えても、どんどん競りあがっていく。
3倍の3ドルとか4ドルに。 そしてどちらも競ってせり上げた分の損をする。最後に勝ったほうも、大損をしてしまう。 
少し酒が入っていたほうが、冷静さを失うので効果がある。実のところ、これと同じことを我われはしているのである。 
事業や商売でも、株でも同じである。コンコルドという超高速旅客機が、そうだった。 完成させたがよいが、
どこからみても採算が合わない上に、大きな危険が伴うことが分かったが、それまで開発してきたエネルギーと資金からみて、
中断できなくなった。しかし、その結果として、事故があり、大赤字を重ねた上に止めざるを得なくなったのである。
株で見切りが出来ないのと同じである。 このゲームは、剥き出しの一ドルを、競っても理性を失うのである。
株屋の本質は、これである。 巧妙に仕掛けて競り上げる。 
 ところで、百戦錬磨の女が自分を売りつける時も似たようなものか? 相手を多く集めて競って売りつける。
買わされた方は、一生棒をふる。 何か何処かで見たような? 誰かが似たような経験をしている?ような!
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2626, 世界バブル経済終わりの始まり ー1
2008年06月12日(木)             (。・∀・)ノ゛おっは?
              ー読書日記ー    
  「世界バブル経済終わりの始まり」 松藤民輔著
一年前に発刊された本だが、現在の状況を、見事当てている。 バブル時期には著者は日興証券、メルリリンチ、ソロモン・ブラザーズ
などで年収2億円の凄腕セールスで知られていた。ソロモン・ブラザーズの時代に日本のバブル崩壊を読みきって、投資商品の主役が
「ペーパーマネー」から「金実物」の時代に以降すると予見し、独立。1995年に株式会社ジパングを設立。
2005年にアメリカ・ネバダ州の金鉱山を買収、日本第三位の金鉱オーナーになる。
この本の出版の少し前に、『アメリカ経済の終わりの始まり』を書いた。
  ー今回は印象に残ったポイントをマトメテみた。 次回は、この目次をコピーして、考えてみる。
*この本では、アメリカの現在は日本のバブル崩壊の前後に酷似していると指摘している。著者は、それを予見して、金の世界に
 移行したから、尚のことわかるのだろう。当時の日本の金融機関も、不動産業界に多額の金を貸し付けて日本経済の息の根を止め、
 かつ自分の首を絞めた。現在のアメリカのサブプライムローンと似ている。
*今回、アメリカの「バブルの塔」を、ここまで高めたのは日本にある。長期にわたるゼロ金利政策こそ、全ての元凶だった。
 1999年から、2006年7月までに解除されるまで7年間、実質ゼロの金が向かったのがアメリカの国債であり、NYダウである。 
 このオイシイ金利に、金儲けに聡いファンドマネーが目を付けないわけがない。日米の金利差を利用して、高金利のマーケットで運用する。 
 これこそ「円キャリートレード」である。5000億とも1兆ドルと言われている。日本のゼロ金利が、結果的に世界にバブルを輸出してきた。
 2001年9月11日のテロ以来イラク戦争をはさんで、腰折れをしないで済んだのも、日本資金の御蔭。ずばり日本の政府は日本国民を
 蔑ろにしてアメリカ国民に尽くしてきたのである。バブルが崩れだした現在、NYダウ以外の投資先を探して、淡々と大移動を始めた。
 それが石油高、穀物高の原因である。 だから大恐慌まで発展する可能性を大きく含んでいる。
*いったんすべての投資を手仕舞って備えるとき!
 誰の目から見ても、危ない局面であることは確かである。それも、ただごとではなく、世界大恐慌に近い事態になるか
 どうかの瀬戸際である。 今さらジタバタしても、如何にもならないこと。 それだけ深刻である。
 投資を手仕舞って、潮流をやり過ごすしかないが・・・やり過ごせるかどうかが問題である。
 一目散に高台に逃げるしかない。 金などの実物に紙切れを交換しておくしかない。
次回は、第一章から、目次ごとの項目に、書き込みながら考えてみよう。     (゚Д゚*)ノ⌒ 【さようなら!】
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2007年06月12日(火)
2261, 「アンラーン」について    (。・ω´・)っノ 【才ノヽ∋?】
「アンラーン」という面白い言葉に出会った。味と深みのある言葉である早速、検索で調べてみると次のようにあった。
ーー
鶴見俊輔の言葉の中で ー戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。 私が大学生であると知ると、
「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」といった。
まなび(ラーン)後に まなびほぐす(アンラーン)。「アンラーン」ということばは初めて聞いたが、意味はわかった。 
型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して、再び自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。
   ー
成る程、一度編み上げたセーターを、解きほどき、もう一度変化した自分の身体に合わせるように
編みなおすという喩えが、解りやすい。 また他にも
 ー
ドラッカーが『創造する経営者』の中でも、「知識は消え去りやすいものである。したがって始終、再確認(リコンファーム)し、
学び直し(リラーン)、習練(プラクティス)し直さなければならない」と知識の扱い方を述べている。 
さらに同書で、「知識が知識であるためには、進歩しなければならない」と。
知識は最も腐りやすい、そのため絶えずリニューアルすべきことについては、「知識をラーン(学習)し、
リラーン(再学習)し、アンラーン(脱学習)が、知識管理の大前提である」と述べている。
ーー
アンラーンすなわち“離脱学習”は、日本の弓道の「守・破・離」の「離」に酷似し仏教の「諦め」という言葉にも通じる。 
知識から知恵への転換ということだ。自分も含めて知恵の無い人が多いが、知恵に転換するまで知識に対しては貪欲に求め続け、
かつ掘り下げなければならない、ということだ。満60歳という歳は、人生の「アンラーン」の時期かもしれない。
一度、編み上げたセーターを解きほぐし、改めて新しいセーターを編み上げる転換期、
競馬でいう第四コーナーを回っているところだ。 少し息が上がってきた?・・・ 
そんなことはない、直線も面白そうだ!アンラーンか?! 「一生、一書生」という言葉もあるが。
「社会的な形式にこだわっているには人生は短すぎる!」「アンラーン!」     byebyeヽ(o・ω・o)ノ゛
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2006年06月12日(月)
1896, ダ・ヴィンチ・コード      ー映画日記       才八∋ウ_〆(∀`●)
何時も、映画はWOWOWかレンタルDVDで観ているので、久々の映画館は新鮮である。レンタルDVDの店が会社の近くに出来てから、
映画館に行く回数が減ってしまった。昨日、話題の映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観てきた。全世界で5千万部、日本で
五百万部売れた本の映画化である。ダ・ヴィンチの深い暗示が「最後の晩餐」の絵の中にあるのかと思っていたが、
あくまで漫画的な奇抜な内容の域を出ていない内容。難しく考えないで、推理小説の映画化と割り切って観ればよいが。
「最後の晩餐」の中の13使徒の一人の男が、よく見ると女で、それも娼婦だったマグダラのマリアという設定。 
マグダリのマリアといえば重度の生理の売春婦で、よいイメージを持たれてない。何故、ダ・ヴィンチが彼女を
「最後の晩餐」の中に入れたのだろうか?という疑問の謎解きストーリー。マグダリのマリアがキリストの子供を宿していて、
ヒロインがその血筋という設定になっている。キリスト教徒にとって大問題になっても不思議ではないが、
娯楽小説と無視しているようだ。ストーリーでは、「マグダラのマリアがキリストの子供を宿した事実が二千年の間秘密にされ、
その事実と血筋を消し去ろうという勢力と、守り抜こうとする二つの勢力が、秘密裏の戦いを繰り広げられてきた」という設定。
『聖杯』の意味は実をいうと、「キリストの直系の女性の血筋」という着想が面白い。キリスト教に関係ない世界の人にとって、
「それが如何した!」というレベルでしかない。敬虔なるキリスト教の信者にとって許しがたい内容で、ノーカットは
日本とインドと、あと数カ国という。ところで、「キリストは存在していたのだろうか?」という原初的な問いを、
イスラエルの旅の由緒ある寺院でたててみたことがあった。一瞬、周りにいた数人に凍り付いた雰囲気が漂った。
隣にいた無口の教養のありそうな人が、おもむろに低い声で「当時のローマ帝国の古文書の中に、
キリストと思しき人の処罰の問い合わせが有る。間違いなく存在していた」と答えてくれた。  
近年、発見された古文書(20世紀最大の発見といわれている)に「キリストは存在してなかったのではないか?」
という疑問の文章があったという。バチカンが、これを封印して現在に至っても、その内容が発表されてないという。
元々あったキリストの御伽話を、パウロが創作したに過ぎないと言われてきたが、信仰だけは事実の枠を超えた
 (字数の関係でカット09年06月12日)
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2005年06月12日(日)
 1531、わたしの酒中日記ー7
 2005年6月10日
バイアグラ飲めず!
今日は、高校の同級会があった。三年ぶりの同級会、久々のせいか21人も集まった。担任の先生が41年ぶりに、この会に出席してくれた。
16歳年上だが、もっとふけた男が?何人かいた。全く若い! 20年来、毎年続いていたが、仕切りをしていた?
スーパーツチダ社長の土田君が亡くなってしまい、この三年間は休会状態であった。
 (字数制限のためカット 2010年6月12日)
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2004年06月12日(土)
 1166, 豊かな時間
「貧しい時間」とはなんだろうかを考えてから、「豊かな時間」を考えてみる。
貧しい時間
・虚飾と虚栄に満ちた時間のなかで空虚に過ごすとき
・好きでないことを、状況から嫌々しているとき
等、思い浮かぶが、虚飾と虚栄の時間のなかで空虚?に過ごすことが豊かな時間の人もいるし、
群れていることが真に充実している人もいるし、刑務所にいるのが一番の充実している人もいるというから、複雑だ。
まあ質の問題になるが。豊かな時間、贅沢な時間についてソローの言葉がよい。「生活がいくら惨めであろうとも、そこから
顔をそむけずに、ありのままに生きることだ。自分の生活を避けたり罵倒してはいけない。生活は、諸君が一番富んでいるときに
一番貧しくみえるものだ。粗捜し屋は天国にだって粗を見つける。貧しくても、生活を愛しなさい。救貧院に入っていたとしても、
楽しくて胸のときめく、素晴らしい時間はあるだろう。落日は金持ちの邸宅の窓だけでなく養老院の窓からも、同じように赤々と照りかえる。
春が来れば雪は同じように早々とドアの前で溶ける。おだやかなこころの持ち主なら、そういう場所に住んでいても、宮殿にいると
変わらない満足感や、ひとを奮立たせる思想をいだきながら生きていけるだろう」 自分の本当の時間、自分の真に充実できた時間こそ
豊かな時間という。ありのままに生きることが、そのまま簡素な生活を生きることである。
   (字数制限のためカット2010年6月12日)
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2003年06月12日(木)
799, 「ありがとう」の言葉?2
「幸せの宇宙構造」 小林正観著 弘園社刊
(昨日の続き)
 ・・・ある講演会に『ありがとうの実践会』の人が200人ほどいらっしゃったとのことでした。
『私は60万回』『俺は70万回』『今はまだ97万回』というような人が次々に現れ、私は驚きました。
5万、10万回という人は結構多かったのですが。『ありがとう』の回数が5万回あたりで、奇蹟が起こるモードが
第一段階がくるらしい。10万回あたりで、第二モードがくるらしい。50万回あたりで第三モードに入り、
100万回を越えたあたりで第四モードに入り、1000万回を越えたあたりで第五モードに入り、
一億回を越えたあたりでは第六モードに入るらしい、というものです。その『ありがとう実践会』の中に癌の人がいて、
20人くらいの間がみんなでその人を囲んで、朝から晩までただひたすら「ありがとう」を言い続けたところ、
その人の癌細胞が無くなってしまった、という例も
  (以下字数の関係で中略カット2008年06月12日)
 ――
とりあえず、毎日500回を一ヶ月続けてみよう。そうすると二ヶ月で3万回になるが、私の場合は到達する前に、
不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を数百回言ってしまうから、涙が溢れることはない。いったという事実は事実である。
毎朝、両親と仏様には5?6回は言っていたのだが、まだまだ甘いことが解った。数ヶ月後には仏様みたいになっているか(笑い)。
                      ーつづくー
・・・・・・・・・
2002年06月12日(水)
435, 酒の話ー2      
 ー酒飲みの作法ー
女か酒か博打どれか一つは、癖の悪いものがあるものだ?私の場合それが酒だ。かなり危ないことが多くあった。
警察沙汰にならなかったっことが不思議なくらいだ。それでも最近は2年に一度は?? 酒で失敗したことで、
かなり自分の人生で失ったことが多い。しかし全然後悔していないのも、それだけ酒が好きということだろう。
更に失った以上に、失ったことで逆に得ていることのほうが多い?子狐との喧嘩はむしろ??、いやしないほうがいいか?!
酒席はお茶の世界と同じで、一会一期で飲んでいる。ボトルを入れる人の気持ちが解らない。
従って、非常に楽しい思い出が山ほどある。ただ飲みすぎて身体を壊さないように自己ルール化をしてある。
ー30数年の痛飲からの知恵である
 タブーとしてー自己規制
・一人酒 a 一人で気にった店を探して入るプロセスを楽しむ酒  b なじみの店に一人通う酒-
・自宅での日本酒の晩酌 ーこれが一番危ない、蓄積される。 
 自宅で飲んで二日酔いしてる馬?がいるーその代替として7~8年前より紹興酒に切り替えた
・誘い酒ー こちらから誘わない
・二日続けての酒席ー どうしても重なるが
・自棄酒ー面白くない時の憂さ晴らしの酒 ?不快さがより深くなる
・子狐との同席ー最近これだけは十分気をつけているつもりだが・・
・人の噂、悪口を話題にしないー 子狐どもの子狐たらしめているもの
・女性と2人だけで飲むことー家内は除くー
・23時を目途とする
このルールを憶えるまでに数千万の金と、あわや???のリスクを負った。好きとは、こういうことだ。
実際の酒乱はこんなもんじゃないと聞く。 軽症と思っているが。一応許容範囲か???
記憶が全く無くなるという、はじめは言い訳と思っていたが。実際経験してみて、嘘でないことが解った。
「酒飲まずタバコを吸わず100まで生きた馬鹿がいる!」というが、どうであろうか?
・・・・・・・・・
2001年06月12日(火)
[50] 日本のプロ野球がつまらない!
 どうして? もちろん理由は解っている。野球もいっきょにグローバルになってしまった為で、またイチロウ効果だ!
 (字数制限のためカット2010年6月12日)