「この風景、何処から撮っても絵になりますね」など、風景、場面の美しさを表現するのに「絵になる」という。
「アート画転換ソフト」は、その言葉のとおりにデジタル化した写真を絵画やアート画などに転換してくれる。
絵を描くのはプロでも大きなエネルギーを要するが、気楽に一瞬のうちに転換してしまうから驚きである。
デジタル写真を絵に転換すると、何故、気持ちが響くのだろうか? そもそも絵とは何か?
  ーそこで「絵」とは何かをウキィペディアで調べてみたー
≪絵画は、板や布、紙、壁といった支持体と、絵具などの描画材料による特定の支持体に対する描画で成立したもの。
板や布に描かれた油彩画やテンペラ画、フレスコなどで描かれた壁画を指す。紙に描かれた水彩画などは含めるが、
木炭や鉛筆で描かれたものは含めない。≫ この説明では、書かれた絵の意味することの説明にはならない。
絵は描く人の直接手描きの主観と気持ちが入っている。対象に集中した魂が絵画の絵画たる由縁である。
それからして、この転換されたデジタル絵画写真は、果たして絵画と言えるのだろうか。 先ほどの
「板や布、紙、壁といった支持体をパソコン画面かネット上に替え、絵具などの描写材料がデジタル写真による支持体とした
描画で成立したもの」とすると、デジタル絵画としての立派な絵になる。手描きはデジカメで現場で撮ったことに置き換えられる。
そう、これはバーチャルペインターという絵画ロボットが描いた立派な芸術である。それは、誰もが過って見たことのない
新しいバーチャルの世界であり、これまでは一部の専門家しか出来なかったアート画を、気楽に絵画ロボットが
変幻自在に描き上げてくれるのである。 そこに現れ出るのは、今までは絵としては表現出来なかった、
異次元のデジタル芸術の世界が創造される。 実際に、過去のアナログの写真をデジカメで取り直し、
ロボットで絵画転換をする度に過去が新たによみ返ってくるようである。
その現場で写した写真がアート画になるとは、数年前までは、誰も想像すら出来なかったことである。
IT化の凄みの一例を垣間見ている。成るほど、20、200万年に一度の境目で見えてくる現象はこんなものか。
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3242, 葬式は、要らない
2010年02月09日(火)
「葬式は、要らない」 島田 裕巳 (著)
 ーアマゾンの内容紹介よりー
 日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。
浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。
対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。
古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の変遷をたどりつつ、今激しく変わる最新事情から、
葬式無用の効用までを考察。葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊。
 〜この一冊を読んでいるといないとでは、葬式費用は大きく違ってくるはず。先日の新聞広告に、この本の見出しをみて、
以前にあまりに高い葬式費用について書いたことを思い出した。図書館の本棚に、「葬式僧侶と、葬式業者のボッタクリ」の内情が
書いてある本が数冊ならんでいる。それを宗教学者の島田裕己が書いたのだから、説得力も増す。最近、不景気も重なり
ジミ葬の流れが出来始めてきた。さらにGMSのイオンが葬式に参入するという。 これは葬式業者にとって大きな脅威である。
身内の死で慌てふためいている人の隙を突いて、世間様並みにというキーワードで、タカルのがナリワイ。 
戒名など、自分でつくれるし、そのほうが葬式坊様につくってもらうよい、ず〜〜〜とよい。
ネットで「戒名のつくり方」とでも入力をすれば、幾らでも基本が書いてある。直葬でけっこうと、いいづらいのが日本!〜
 * 直葬とは
 葬式をせず火葬だけすることを「直葬(ちょくそう)」という。これまで我が国では、人が亡くなってからは
死亡→通夜→葬儀・告別式→火葬というステップを経るのが一般的でした。
これに対し、死亡→火葬と、途中の儀礼・イベントを取り払ってしまうのが直葬です。
※ 直葬に対応してくれる葬儀会社をネットで探すには、「直葬+プラン+(地域名)」で検索するか、
 葬儀会社特有の呼び名である「火葬式+(地域名)」で検索するのが、おすすめです。
 * 直葬をどのくらいの人がしているか?
正確な統計はありませんが、専門家の推定では、2008年時点で東京都下の20〜30%、地方の5〜10%が直葬だと見られます。
直葬そのものは生活困窮者や天涯孤独者については昔から行われてきたが、それが一般に広まり始めているのが、最近の特徴。
 * なぜ直葬が増えているのでしょう。
 あくまで仮説に過ぎませんが、次のような要因が考えられます。 平均寿命の伸長(つまり死亡年齢の上昇)により、
社会的儀礼としての葬式の必要性が薄れた。 格差社会の進展で、生活困窮者そのものが増えている。
宗教、とりわけ仏教離れ。 葬式を金銭や時間、手間の点で「ムダ」と考える人が増えている
メディアでの報道により、直葬が「市民権」を得つつある。 http://www.yuigon.info/keywords/chokuso.html ー遺言情報局
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2867, 「ほめる」言葉  − 4
2009年02月09日(月)
人は9割がたが褒められた事がキッカケで成長するという。子どもの頃を振り返ると納得する。
母親が38歳時の子どもだったこともあり、母はことあるごとに褒めていてくれた。
また4人の姉の存在が女性心理からみた褒める以前の知職を経験的に教えられた。
・下手に女性を褒めないこと ・嫌らしくしないこと ・媚びないこと 
・心を開いているようで開かないこと ・優しくすること ・何気なく褒めること 
・噂話は絶対にしないこと、などである。 
褒める以前に、その人の品性の裏づけがないのは、相手の心に響かない。 話しは変わるが、十年ほど前のこと。
同級生が300人ほどの何かの講演会の締めの挨拶に立った。その会の後に。同級生が十人ほどいたので急遽、親睦会を開くことになった。
和気藹藹と飲んだ後に、その男が隣に来た。「挨拶は如何だった?」と聞かれたので、「御前さんも、やっと面(ツラ)が出来てきたな」
と言うと、すかさず「どういう面だ?」と一歩つ込んできた。そこで思ったまま「我われに笑されている自分を、笑っている面だ。
それが何とも味があった」と、その時の本人の嬉しそうな顔は、まだ忘れられない。 上手く褒めた時は、褒めた方も嬉しいのである。
 このところ「褒め言葉」系の本を数冊読んだためか、無意識で相手を褒めている自分が、そこにいた。
何時の間にか、それが無くならないように習慣の核にしないと。 先生は幾らでもいるのだから!
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第三章 相手の成長をうながす「ほめ言葉」 ー相手の小さな進歩を見逃さない-精神対話士 Mさん
   −以下は字数の関係でカット(2010年02月09日
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2008年02月09日(土)
 2502, 「体験と偏見による養生の実技100」
「体験と偏見による養生の実技100」の例が、主観的だが面白い。
  その中で6項目を書き出し、考えてみた。
13、中心は辺境に支えられる。心臓や脳を気遣うなら、手足の末端を大切に。指先、掌、足裏など。
  解)フランスの、あの「成り上がり大統領」に聞かせてやりたいものだ。
35、人生50年というのは正しい。それ以降はオマケと考えて感謝の日々を送る。
  朝、目が覚めたときには、胸の上で手を合わせて、「きょう一日の命を、ありがとうございます」と言う。
  眠りにつく前には、同じく「きょう一日の命を、ありがとうございました」と言う。
  解)もともと、おまけと考えればよい。 死を悟ったときに気づくことだが。
50、仏教では「われありて、かれあり」という。笑うことは心身によいが、泣くことも同じ。涙は魂を浄化する。
  解)泣き笑いか、人生は!
 (字数の関係でカット2010年02月09日)
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2007年02月09日(金)
 2138, 中年の心象風景   オッ(*^○^*) ハ〜ヨウサン!       −読書日記
【人生のことは、小説が教えてくれた】 高橋敏夫著 中経出版
この本の中に、中年期の心象風景を見事に書き出した文章を見つけた。よくぞこれだけ巧く表現できるのか感心する。
中年期も終わり、そろそろ熟年ー初老期に入りかけてきて、人生を振り返ることが多くなってきた。
今まで振り返らないように意識的に前向きに生きてきたが、最近は、「ここまで来れば、振り返るのもよし、一日一日を一期一会
として生き、日々・現在を充実するもよし」の心境になりかけている。ここには、中年期の人間の心象風景がズバリ語られていた。
私は(いや誰もが?)現在でも、この心象風景はつづいている。いずれにしても、夢と現実の段差と隔離を心の中に抱えて日々を、
ただ精一杯生きるしかない、色で例えれば紫色かダークブルーの時期である。青年期に抱いたあるべき理想の自分とはかけ離れた自分を、
青年期の残像としての自分がつめる屈折した時期である。(大部分がと!あえて言っておこう)
 ー まずは、その一文を書き写してみよう!
青春が夢みる時代であるとすれば、つづく中年は夢の実現の時代ではない。わたしたちのほとんどにとってそれは、夢の不可能を知り、
夢という言葉さえ忘れて生きる苛酷な時代である。夢みることが、「現状の否定」に発するとすれば、その不可能の自覚は屈折した
「現状の肯定」になりざるを得ない。楽天的な「現状肯定」ではなく、「現状の否定」が不可能であることを知った者の「現状の肯定」
になるからだ。しかし、このときわたしたちは、はじめて「現状」というものと直面している、といってよいだろう。
それは否定しようもなく、わたしたち個々人の思いを越えて、たしかにここにある。現状のおもさをうけとめたとき、わたしたちは
ようやく性急さから解放される。現状とむきあい、性急な夢に逃避することなく、ねばりつよく生きることを選ぶしかないのである。
そして、性急な夢から解放されたとき、わたしたちは、ねばりつよく生きることに見合う、ながく、しずかな「夢」をいだきうるのだろう。
夢みる青春からみれば、それは夢でないかもしれない。たしかに、この「夢」は青春の夢の廃墟からはじまるがゆえに夢をこえた夢なのだ。
 現状否定から現状肯定へと移行するように見えて、その逃れえぬ環境でねばりづよく生きることで、わたしたちはしずかに、
だが着実に現状を変更し、わたしたちじしんを変更していく。ここには、現実の大きな力によって押され退きつづけながら、
ここからはもう退けないという思いがあり、生きつづけることでいっそうふくれあがる破壊衝動があり、家庭の中の男と女の従来の
あり方への不満があり、見方を変えることで生にあらたな実感を導きいれようとする試みがあり、生活の細部でつながる、切れそうで
切れない人と人の関係があり、そして、情痴のさらにその奥のさらにその奥の情痴へとつきすすむ紛れのない生の暗い輝きがある。              
 ーー
 〜 以上だが、何とも中年の風景をそのまま見事に描き出している。
この内容は、決して中年期だけでなく、人生の最晩年でも味あう深い諦念でもある。いや、青年期の挫折の中で何度も何度も
味わった心象風景である。挫折の底で味わう屈折感は、現状否定した自分が最悪の状況の中で自分の棚卸をしながら、
歪んだ自己肯定をせざるを得ない何ともいえない味がある。この屈折した味わいこそ人生の一番の味わいでもある。
そう考えなければ、どうして耐えることができようか? 何故、粗大ゴミと言われなければならないのか?
そして、それをそのまま受けとめてしまうのだろうか。 分別すれば宝の山なのです!
ただ、その時その時に垂直に立ち上がって分別していればの話だが!   
次回は、藤沢周一の「海鳴り」の一節を取り上げながら、歪んだ切ない中年男の心象風景を考えてみる。
それさえ、ふり返る歳か〜!            (゚∇^*)ホンジャ、バイバイ! ♪〜
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2006年02月09日(木)
1773, 年金の話 −2     ('-'&)オハヨ♪
60歳になって、前倒しにすれば年金が貰える年齢になった。誕生日の前後に個人年金振込みの通知がきた。
家内が15年前から生保の個人年金の掛け金をしていたもので、私には一言もなかったが、それが今年から70歳まで落ちるという。
自動的に簡保に毎年積み上げる仕組みになっていて、70歳からの年金になるという。それを種銭にして旅行でもと思ったが、
そうもいかないようだ。個人年金は、不安ビジネスというが、それをさらに積み立てるとは凄いシステムだ!
二人で月々?0万が入れば、普通の生活は保障される?が、ハイパーインフレが起これば、お終いである。
そして、その可能性が大ときているからやはり使ったほうがよいのか? コーヒーまあ(@゜▽゜)_且~~どうぞ w
都会のサラリーマンの65歳の年金者の平均値として2500万の貯金を持ち、夫婦で月額30万円の年金収入があり、
その30パーを預金にまわすという。 何か日本人の貧乏性の性格が数字にそのまま表れている。
 (字数の関係でカット2009年02月09日)
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2005年02月09日(水)
1408, LOVE&FREE
ー世界の路上に落ちていた言葉−1  ー読書日記ー
図書館で何気なく借りてきたら、読むほどに面白い本である。著者は32歳だが、思い切った生き方をしている。アウトロー
アウトローでしかないが、生き方にバランスが取れているのがよい。バナナ(皮は黄色で中が白)にドンドンなっている典型である。
 ーはじめにー から引きつけられた。
1998年11月から2000年7月にかけて、約1年8ヶ月間。結婚したばかりの妻と二人で、気の向くまま
世界数十ヶ月の路上を歩いた。自分は、三年間続けた会社を離れフリーになったばかりだったし、銀座のOL だった
妻のさやかは、寿退社をしたばかりで、長いたびに出るのは「今しかない」という絶好のタイミングであった。
旅のコースも、期間も、特に決めなかった。「スタートはオーストラリア。あとは気の向くままに。
まあ、金がなくなったら帰ろう」それだけを決めて出発をした。世界中の路上で、カフェで、ビーチで、バス停で、
安宿のベッドで、・・大好きなコーラを片手に、タバコをふかしながら、自分の「ココロの井戸」を掘るようにして、
いくつもの詩を書いた。「いいじゃん!」と感じる場面に出逢う度に、ポケットからデジカメを出して幾千枚の写真を撮った。
帰国後、旅中に残した詩と写真の中から、特に気に入ったものを選んで一冊にまとめたら、この本が出来上がった。
  ー以下は字数の関係でカット(2008年02月09日)
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2004年02月09日(月)
 1041, 職業性格形成論
条件と原因とは同義語である。職業は人間の性格まで決定をしてしまう。先日書いた「わたしは悪い不動産屋」の中で、
「不動産業者は瑕疵を探してしまう癖が人間性までも出てしまう」と書いた。その時に以前から書いてみようと
 思っていた「職業性格形成論」をまとめてみたくなり、早速書いている。
・サラリーマンに嫁いだ姉をみていて驚いたのが、ミスに対して異常に 神経をつかっていることである。
 対象のプラスではなく、マイナスのミスだけ眼がいってしまう性格に変ってしまったのだ。組織人だった旦那の影響である。
・母がそうである。いつも話が1・5倍から2倍に膨らむ。
 すぐ上の姉にいわせると、値入れを1・5から2倍にするのが原因だという。そのシビアな指摘に驚いた。
・代議士ならサシズメ数十倍のハッタリが性格になってしまう。 それと虚言癖だ。
・作家も虚言癖の傾向になるか、観察眼で物事をみる性癖になる。
・警官は、全て犯罪捜査の視点でみてしまうようだ。警官という職業自体、必要悪の部分がある。
 国家内の法律遵守の暴力装置だからだ。
・先生は、常に教えたくて仕方がないとか、生徒を比較するように社会も 比較順序をつけてしまうという。
・私の仕事は装置産業、一度投資をすると15年〜20年はどうしようもない。
 あとは社会情勢次第。そうすると、マクロ的な世界や社会に興味を持ってしまう。 
 面白いものである。  そう考えてみると、誰もが自分で思いあたるだろう。
サンマをみると、普段生活があのままという。常に話しまくっているかパフォーマンスをしてないと不安になるといっていた。
TVタレントや俳優は、私生活のすべてが演技の勉強になっている。そして演技と実生活が混同してしまうという。
そこまでいかないとプロとはいえないのだろうが。職業は生きていく上で重要な位置を占めているものだ。
但し、何事も例外の人はいる。当たり前のことだが、泥棒や犯罪も職業にすべきで無い。人間性まで泥棒になってしまうからだ。
いや、泥棒の性格の奴がなってしまうのだ。中・高校の時、粋がって他人の小物を盗みまわっていた人がいた。
泥棒にはならなかったが、結果は似たような人生を過ごしていた?これは「三つ子の魂 百までも」か。
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2003年02月09日(日)
 676, ぶざまな人生ー4(読書日記)
 ー偽善論ー
この偽善論がなかなか面白い。偽善主義者を、もともと偽善者ではないと切り捨てている。偽善者以前ということだ。
善を隠れ蓑にしながら、相手を実害を与え、自分は実利を取ろうとする奴だ。「不幸の事件を逆手に使い、自分はあたかも
最大の同情者のように振る舞い、実利を得ようという輩」だ。これは汚い欺瞞者であり、詐欺者である。身辺に幾らでもいる?!
不可避的な偽善には、少なくとも善がある。真実の善など本当にあるのか。どこでどうやって見分ける事が出来るのか。
偽善をなせ。それを、あるかないかわからない真善に次ぐ、次善となせ。一生偽善をなせば、それが真善である。
偽善でいいと思う、「偽善」でしかなしえない「善」がこの世の中にある。私は「偽善」を憎むほど、善を成すものでない。
 ー以上が著者の言わんとするところだ。
「真善などあろうか?それなら偽善を次善としてなせ!」とは思い切った事をいう。所詮、善悪とは個人、社会、宗教が創りあげた
価値観でしかない。その基準が、どれほどの価値があるものか?偽善いや善悪という言葉そのものが怪しいのだ。
「人を殺すのは悪でないというのか?」もちろん悪いが、戦争で相手国の非戦闘員を殺してしまったとして、それもどこまで
悪と言えるだろか?全てが状況だ。その為に初めて旧約聖書が善悪の基準を創った。孟子性善説荀子性悪説があるが、
これも何を基準に善悪といっているのだろうか。あくまで両面を言っているだけだ。それなら、手っ取り早い「偽善とやらから、
世間体のいう善と思える奴を、仮面を被って次善と割り切る」という著者の論法も肯ける。偽悪の方がまだましと思っていたが、
偽善も必要か?偽悪の背後にあるのは善ではない?偽善の背後は悪じゃない? 次善論じゃないか? よっしゃ、早速褒める
訓練本でも買ってきて、カミサンや居酒屋やスナックのママから褒めてみようか?下心がないのだから偽善と違うか?
褒めるのは偽善でなく、義務か!
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2002年02月09日(土)
 326,イルカのような人
イルカはどんな状況でも楽しみを見つけ遊ぶという。私の身辺にイルカのような人がいる。「今日如何して一日を楽しむか」
それしか頭に無い。オリンピックといえば一月前からそれを楽しみに待っている。始まれば夜半でも寝ずに見る。
ウインブルドンのテニスが始まれば、これも然り。毎日のTVも当然いくつか楽しみの番組がある。一日が楽しむ為にフルに使われる。
昼は誰か友達と安くて美味しいランチを探し食べている。その為か顔までがイルカのようになってしまっている。笑い顔なのである。
必ず笑いのネタを何処からか見つけてきている。働くことは大嫌い!遊びならどんなハードな事でも平気、仕事は少しやると顔がはれ
寝込んでしまう。2〜3人のグループで常に群れているところが、更にイルカに似ているところだ。そういう人は今でいう癒しを
周囲に与える。それが唯一のの社会的貢献だ。こういう人は西欧系の人では当たり前のタイプかもしれない。
我々の年代の日本ではすくないが若い人ではいくらでもいるのだろう。社会学で人間には二タイプに分けられるという。
仕事タイプの人と、遊びタイプの人とに。難しくいうと「仕事タイプをホモ・ハーベン」「遊び人タイプをホモ・ルーベン」という。
いるかのような人は「遊びタイプ」の典型である。これで一生終えるだろう。母親がこれに劣らず、一生を楽しんでいる。
家系からきているから間違いない。人生とは、このような人には幾らでも楽しみを与える。反対の人には、いくらでも苦しみを与える。
何か法則があるのだろう。この視点でみると私はシャチというところ?いや、オットセイか!
・・・・・・・
2月09日  1969年
 昨夜も一昨夜もショックが続く。留年をして、もう一度やり直そうかと言う気持ちが出る。といって今更躊躇するのはオカシイのではないか。
高木も留年という。客観的に耐えられないとしても、一応卒論を書き終えたことは間違いない。いろいろあって動揺をしているのは
解っているが。真面目に考えすぎである。気持ちがボロボロなだけだ。もっと冷静にならなくてはなるまい。