「ゼロから始める都市型狩猟採集生活 」坂口 恭平 (著)
 先日、「新潮45・9月号」を図書館から借りてきたが、そこに養老孟と設計士兼作家の坂口恭平の対談があった。
「都市型狩猟採集生活ー対談」がテーマで、上記の著書の内容についての対談。彼は巨大建築物を設計することに違和感を持ち、
これ以上、新しい建物を作っても仕方ない、それより現在あるものを転用したり、人が見捨てた場所を転用したりすればいいと考え、
路上生活者の家に興味を持った。都市から溢れ出た「ゴミ」によって作られた工費0円の家。その写真集「0円ハウス」まで出版。
たまたま図書館で、その写真をみたことがあるが合理的だ。 路上生活者は都市に落ちている余剰物を「自然素材」と捉え、
それらから家を建てている。彼らにとって、都市は鬱屈したコンクリートジャングルでなく、資源ゆたかな世界に見える。
坂口は、廃棄されるゴミを山や海の幸のように〈都市の幸〉と名づけた。 彼らは“都市の幸”で暮らせば、
政治、経済、労働、あらゆるものから解放され、自分自身にしかできない生活を獲得している。
   ー以下の文章はアマゾンの書評にあったものをコピーしたものだが、なかなか考えさせられるー
 * 「アルミ缶拾いは他人よりも先に拾わないといけない生業なのに、達人たちの話を聞くと、みんなあまりガツガツ
  していないことに驚かされる。ようするに焦ってはダメなのだ。採集したあとは周囲を掃除する位の心の余裕が必要だ。
  そんな姿を見ている人がいる。 それが次の顧客との出会いにつながるのである。」 (p.68)
 * 「高い解像度で都市を見ることができるようになったきみは、社会のルールを何一つ変えることなく文句一つ言うことなく、
  独自の生活をつくり出すことに成功する。・・・  社会システムは、いくら変化させてもまた同じ循環を繰り返し、
  人間を苦しめつづけるだろう。 それよりも まず、きみの精神、視点、創造性を変革させるのだ。・・・
  <都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる唯一の革命なのだ」 (本書P148)
* 「路上生活者支援に積極的なのはキリスト教会であり、それに比べて仏教寺院の多くが冷淡であるのはどうしてか?」
   ーこの対談の最後に坂口と養老の言葉がよい。
 坂口:意外だったのは、「都市型狩猟採集生活の民」たちが、激増する自殺に危惧の念をもっていたこと。彼らは、
  「自殺する前に、なぜうちのバラックのドアを叩きに来てくれないのか?」という。うちの手伝いに来て、  
  アルミ缶を一緒に拾ってくれれば、金なんかなくても生きていけることが分かるのに、なぜ相談してくれないのか、と。
  人生を失敗し、すべてを失ったと思っても、絶望して死を選ぶ必要がない。「どん底に落ちたら、とりあえず周辺を歩け。
  歩けば何でも見つかる」と、住民の酋長といわれる男が言っていた。
 養老:身体を使うことは大事。私が好きなイタリアの箴言に「どん底に落ちたと思ったらそこを掘れ」って。
  〜〜
  日本には、トレーラー・ハウスの住人が少ないのは、公営住宅などが揃っていたり、生活保護などの支給があるからか。
 それにしても、ホームレスの仮設住宅?に合理性を見出すとは、感心させられる。カラスも雪国でチャンと冬を越せる。
 何か無駄なものを人間は持たされてしまったのではないか! 立って半畳、寝て一畳というが、老後の心配で節約など・・
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3148,殺人事件の半分は家族内殺人
 2009年11月17日(火)
 先日、図書館で「新潮45・2009・7月号」{殺人事件の半分は家族内殺人}ー橘由歩 のレポートが目に入った。
子供の頃から両親に、「それぞれの家には必ず問題がある。だから、あまり深入りをしないこと」と言われてきた。
しかし、このレポートの題目をみるまで『殺人の半分が身内』とは知らなかった。さらに知人の殺人が9割を占める
というから驚きである。これまでは、家族内殺人はイメージとして1〜2割である。いや、もっと低い。
それだけ家族内では問題が発生していることになる。彼女の著書で取り上げている10人の
家族内殺人者の共通点がDV被害者というのも印象的である。
  ーまずは、一番印象的な部分を書き出してみるー
≪ 本書に登場する10人の殺人者に共通するのが、虐待家庭で育ったということだった。 
 子どもとは本来、親の愛を求め、親からありのままの存在として認められ尊重されたいと希う。
 それをどこかで歪めなければならなかった子どもたちだった。
 自分の心を育てる時間を持てなかったということだ。 その空っぽな心が、他者への依存性を生む。
 前述の母親たちは、子どもによって自らの空虚感を埋めてもらおうと子どもを使った。
 だからこそ、子供に依存し、子どもを自分の為に使ってはいけないということだ。
 子どもが心を育てる場所と時間を、大人は決して奪ってはならないと。≫
  ーー
  多くの若い人を採用し、教育過程でみえてくるのは、両親の子どもに対する影響である。
 特に母親の甘やかしと将来への依存が、子どもに大きなマイナスを与えている。 子どもにとって
 厳父と優しい母のバランスが必要不可欠。 夫にとって、妻が一番危険であり、妻にとっても夫が危険である。 
 親子も同じことがいえる。 家族に殺される確率は1千人に1人というから、ありそうなことである。 
 自分で自分を殺す自殺は、身内とはいえないが他殺の20倍になるという。一番恐ろしいのは自分ということ?
  ーー
 「身内の犯行」 橘由歩著  ーネットよりー
 著者は、奈良の長女薬殺未遂、板橋の両親殺害爆破、渋谷の「セレブ妻」夫バラバラ殺人など10の事件の現場と当事者を
追っているうちに、興味深い共通点が見えてきたという。家族を殺(あや)めた人たちは、虐待を受けて育った人が多いのだ。
「子どもは、安心と秩序のある環境で、ありのままの存在として受け入れられて育つもの。
ところが、暴力や無視、親が自分のために子どもを利用する環境で育つと、どこかが歪まざるをえない。
秋田の畠山鈴香も、虐待を受けていくうちに、嘘を言うことで身を守ってきたんです。鈴香は無期懲役が確定し
裁判は終わってしまい、結局、娘の彩香ちゃんや近所の豪憲くんがなぜ殺されたのかわからないまま。やりきれないです」
 年をとった親を引き取り、幼いころの恨みが蘇ることもある。50代後半の男性が85歳の母を殺した中津川一家5人殺害事件は、
「強い母」への憎悪から起きた。 もちろん、虐待を受けた人がみんな殺人者になるわけではない。
暴力を我慢し、自分を殺した鬱積がどこかで爆発するのだ。 親や子、配偶者のために自分を犠牲にする献身的な姿には無理がある、
そんな嘘っぱちはもうやめようよ、と呼びかける。「血縁だと関係を切れないから、殺人まで追い詰められてしまうんですね。
家族のためにオレはこんなにがんばってる!と我慢しているお父さんも多いでしょうが、自己満足になっていないか、
本当に子や妻の立場で考えているか、たまに点検してみる必要があると思いますよ」
ー「子供たちを厳しく育てたので、殺意を持たれていたかもしれない?」と、多くの父親は思った?だろう。
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2783, 外は広く、内は深い
 2008年11月17日(月)
日本総研会長の寺島実郎文芸春秋の中で『新編 東洋的見方』(鈴木大拙著)についての文章の一節である。
【・・・大拙の語り続けたことを集約すると、「外は広く、内は深い」という言葉に行き着く。
「独りよがりではいけない」そして「自らを失ってはいけない」ということで、
「眼と心を星空に向け、その眼と心をもって世界を見直すこと」という言葉は心に沁みる。
西洋的な見方は分別的知性であり、「分けて制する」、つまり主客を分別することで知の成立を図る思考であり、
そこから一般化、概念化、抽象化という体系が生まれ工業化や産業化が成功裡に展開される土壌になったと大拙はみる。
他方、東洋的な見方は対置概念を退け、主客未分化のまま「無分別の、分別」によって円融自在に全体を捉えようとする知性である。 
西洋に真摯に向き合いつつ、論理万能の分断的知性の限界を大拙は見抜いていた。ある時、弟子が「禅の話などアメリカ人に
分りますか」と尋ねたという。大拙は「君たちには分るのかね」と答えた。 大拙の本質に迫る話だと思う。】
  〜〜
  己の人生を振り返りと、「狭い世界の中で、浅い知識」を振り回して生きてきただけの輪郭が見えてくる。
  この随想日記で書いていることが、私の輪郭で、私の馬鹿の壁である。 いまさら、こんなものだが・・・
  私の秘・異郷のツアーは、そのことを毎回、学びに行くようなもの。
  僅か1〜2週間の中で異次元の世界を垣間見て、世界の「外の広さ」と」内の深さ」を直感することが出来るのである。
 「眼と心を外の広い世界に向け、その眼と心をもって現実を見直すこと」で、独りよがりになり、自らを失っていることを
  改めて見直すことが最大の収穫になる。 毎回、つくづく外は広く、内は深いことに驚愕し帰ってくる。
  そして、「己の世界の狭さと、内の浅さ」に独り溜息をつくことになる。
 「うえをみれば、きりがない。したをみれば、そこがない。よこをみれば、なさけない」 を捩って、
 「外をみれば、果てが無い。 内をみれば、際が無い。 自分をみれば、なにも無い」になる。
                                最期の二行は必要ないか?
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2007年11月17日(土)
2418, よく生きる −3
          才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
宗教の問題も、それぞれの人間にとって大きな問題である。日本人が平気で外人に「私は無宗教」と言うと、
腰を抜かさんばかりに驚くとか。多神教の風土が無宗教と言わしめるのだろうが。しかし著者の次の内容は、
宗教の必要性を解りやすく説いている。私達は大いなる根源から送り出され、そして根源に帰って行くのだ。
その道筋は、それぞれ違っても行きつくところは同じであろう。その違った宗教観を持った人の集まりが社会である。
宗教観と社会観を理解してないと、よく生きることは出来ない。 
 ーその部分を、「まえがき」の部分から抜粋してみるー
 (3)さて、人は自己を実現して自分の存在を確保し、他者との交わりによって愛の喜びを味わっも、挫折、病気、老化、
それが第三の論点、すなわち宗教の問題です。この問題は一言でいえば、私たちと私たちの存在の根源、言い換えれば、
宇宙のすべての存在者の根源との関わりの問題です。この根源は、人類の中で、存在、神、絶対者、道、天、空、ヤーヴェ、
仏、アラー、ブラフマンなどなど、いろいろな名前で呼ばれてきました。要するに、私たち個々の存在者はこの根源から送り出され、
死を通しての根源へと帰るのです。このとき、この根源を善意に満ちた親と考え、優しい親元へと帰るのだと信じることができれば、
安らぎが生れるでしょう。それはすべての存在者を生み出した根源ですから、そこでは自分と他老の区別が意味をなさなくなる。
それが自他不二の世界であり、絶対者の懐に抱かれて万人が肯定される世界です。 ところで宗教的人間は、一般に特定の宗教に
献身していますが、人類の歴史を血まみれにした宗教戦争の惨禍を乗り越えるためには、各人が自己絶対化を捨てなければ
ならないでしょう。多者共存が人類共生の不可避の前提となった現代においては、それゆえ、すべての偉大な宗教が
それぞれ異なる道を通って共通の根源へと向かっていると考えるべきでしょう。普遍的な霊性が肝要なのです。
 (4)そして最後に、第四点として、社会の問題があります。人間は本性的に社会の中で生きる存在者ですから、
どのような社会を作るかは人間の幸福にとって死活の問題です。人類は、おしなべて初めは王制から社会を作り始め、
やがて貴族制へと移行し、それらの劣化した形態である独裁制、寡頭制を経て、現在ではデモクラシ喜最良の社会形態として
是認しつつあります。これは、すべての人間が自由で平等な存在者ですから、誰か特定の人間や種族が、支配権力を独占することは
許されないという認識にもとついて成立した社会なのです。この原理にもとついて、統治構造の問題、経済活動の問題、
福祉制度の問題、一言で言えば正義の問題についてさまざまな工夫がこらされていますが、自由と平等はもはや揺らぐことのない
人間社会の究極理念です。この理念は、やがて、民族という生物的な枠に囚われていた人類を世界市民へと解放し、国境のない
自由で平和な世界へと私たちを導くでしょう。それは、現在では夢のまた夢ですが、哲学はユートピアを語らなければならないのです。
 −−−
一生懸命、自分の求めることを追求していけば、どの努力したレベレの人と邂逅できる。
それは本の中での過去の人を含めてだが。また、生老病死を知った人間は人生の不条理も知ることになった。
そこで自らの神に縋るしかない。一生をかけて神の御魂に帰る準備も必要。
また、我われが住んでいる社会に対しても良くするように努力しなければならない。
 よき人生か〜                   ゚★βyёヾ(*゚∇゚*)ノβyё
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2006年11月17日(金)
2054, あたりまえのことばかりー8
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
団塊の世代が本格的に60歳を向えようとしている。その中でサラリーマン生活を過ごしてきた人達が、
大量に定年を向えようとしているが、彼等にとっての大問題が第二の人生である。
常に集団社会の中で、「孤独」の確立が出来てない人が大部分である。
「どうしてよいのか解らない」のが、本当のところだろう。 せいぜい、前の会社のOB会の集まるスナック・居酒屋とか、
ゴルフ会とか、町内会の会に出るぐらいしか知恵が出てこない。この問題を、著者は「孤独」の意味を探りながら論じている。
彼らこそ、群から離れて「隠棲」に入ることが、サラリーマン社会に生きてきた人ほど必要であろう。
隠棲といっても、ブログで繋がる便利さもできているから、それほど深い寂寞感はないだろう。
しかし、孤独は生やさしいものでないことも事実である。
 ーーー
ー孤独は苦しいものなのか ー
隠棲するということは、静かで豊かな魂のありようのために、意志的に選ばれる行為だったはずである。
それが、「引きこもり」という言い方によって、何らか心理的に問題のある一種の症候群に目されるようになったのはなぜだろう。
自宅や自室に引きこもって、長時間にわたって社会と全く接触を持たない若者が、30万人はいるという。
家族とさえ打ち解けず、家族でさえその理由は解らない。 本人たちは、非常に苦しいものらしい。
孤独を欲していて、実は孤独を欲してないのだろう。本人は人と関わりたいと思っているが、
うまく関われない、無力感、挫折感、自己嫌悪感の泥沼の長期化、恐らくそういうことなのだろう。
(字数制限のためカット 09年11月17日)
・・・・・・・
2005年11月17日(木)
 1689, 今日という日は誰もが素人だ!
「今日という日は誰もが素人だ!」三浦綾子の本にあった言葉だ。つくづく良い言葉と思う。  
                               ~~■P_o(δ-δo) COFFEE
 誰も今日という日は初めてで、何に出会うかもしれない日である。
その気持ちを忘れてしまうから、素人の持っている新鮮さを失ってしまう。
茶道に『一期一会』という言葉がある。 その言葉の真髄に    ヽ(δ◇δ)ノ エーーー!
「今日(今)という日(瞬間)は二度とない、誰も初めての経験であり、最後の経験になる」がある。
それを意識をすれば、全ての出来事に「驚き」が出てくるはずである。生きるということは驚きであり、
感動であり、感激である。その気持ちは、素人だからこそ生まれてくる。  Σ(δOδ*)ハッ
今日という日は、昨日までの自分の積み重ねがあったからこそ存在することも事実である。 
今日という日に素人になるには、昨日の玄人であるほど良いのも事実である。 (*δ-δ)ノ彡☆゜・。・゜バイバイ
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2004年11月17日(水)
 1324, ライオンの柵内に男が侵入
10日ほど前のTvのワイド・ショーの衝撃映像が面白い。台湾の動物園のライオンの柵内に、男が入り込んでいる映像が流れた。
思わず息を止めて見入ってしまった。寝ていたペアの雄ライオンが立ち上がリ、その男に突進していった。
そして、男の腕にかぶりついたが、あくまでも威嚇をしているようだった。その男は恐れる風でもなく、振りほどくと
後ずさりをして岩の上に上がった。次に、ライオンは前足で男の体に数回爪を立ててパンチのような攻撃をした。
それを三回ほどした後に、攻撃を止めてしまった。相手に敵意がないと思ったのか、これ以上攻撃をするとマズイと
本能的に思ったのか。ライオンのみぞ知るである。 元にいた場所に戻って、全く無視をして寝てしまった。
その後の映像では、かぶりつかれた腕や、体全体に咬み傷や引っ掻き傷がアチコチ映し出されていた。
しかし命に別状はなかった。みている方も、思わず悲鳴を上げそうな緊迫をした内容であった。
Tvでは、餌を食べた直後であったのが幸いをしたといっていた。 私の解釈を加えると、         
・この男が後ろ向きにならなかったことと、   ・恐怖心がなかったこと、
・動物園の野生を失っている飼育ライオンであり、
 人間の中で育ったため、自分のテリトリーの中に入っても、それほどの怒りではなかったのだろう。
その男は、キリスト教の狂信的な信者で、その愛を確かめる為に自分の身をかけて、実験をしたという。
動物的な、躊躇する何かが体全体から出ていたのだろう。キリストの愛は、ライオンにも通じたということか。
そういえば、中村天風の話しを思い出した。「サーカスのライオンの檻に入ったが、気合いでライオンが襲ってこなかった」
という。 これも考えてみたら、飼育と訓練が入っていて攻撃しないように躾けられていたライオンにすぎなかっただけだ。
・・・・・・・
2003年11月17日(月)
 957, ナレッジマネジメント −1
「図解、解る!ナレッジマネジメント」の本から、ナレッジマネジメントの意味と本質を考えてみる。
数年前に、「ナレッジマネジメント」という言葉がしきりにいわれた。ナレッジは言葉の通り「知識」である。
この場合はむしろ「知恵」に近い意味と考えてよい。「人、物、金、情報」の経営資源に対して、変化の激しい情報化社会では、
「情報」が最も重要になる。 この情報をコントロールした変化対応が、生き残りがポイントになる。
それを活用する「知識」活用がナレッジマネジメントである。「第5の重要な経営資源が、ナレッジー知識(知恵)である」
まずは現場社員が持つ「知的資産」の活用が求められている。知とは「組織経営、企業活動に価値ある全ての情報」である。
ナレッジ経営の第一目標は顧客満足にあり、顧客志向が鮮明でない企業は生き残れない。その為の「組織知」の拡大と、
「個人知」の共有が必要である。 ナレッジマネジメントの目的は、顧客サービスの向上である。
 ある事業の立ち上げをしようとすると
・「情報」収集がまず第一歩になる。
・次にその情報の蓄積が「知識」になってくる。
・その集積と熟成が「知恵」に変わってくる。
 その「知恵」で「情報と金とモノと人の組み合わせ」を再編成をして、企業目的を遂行していく。
 情報化の時代に、知恵をまず第一の資源としてエネルギーの集中が必要とされる。 事業を創めるとき、
「目的を持って人を集めるのでなく、優秀な人を集めて事業の目的を決める」という今までの逆の発想も重要になってきている。
「まずは知恵のある人間を集めて、目的・目標をさがす」。目標を決めて、その手段として人材を集めるのは、
あくまで道具を集めるにすぎない。道具は道具の知恵を遣って「馬鹿の壁」をつくっていまう。
道具は道具以上の力を出すことが無い。 今までリ・エンジニアリングからベンチマーキング、そしてナレッジマネジメント
色いろな技法が開発されてきた。事業のベストプラクティスから、小さな業務上のコツまで、さまざまに収集、蓄積できれば、
間違いなく会社の有力な財産となるはずである。ナレッジは知識というよりは知恵に近いものである。    ーつづく
・・・・・
583, 風邪のひき方-こころにのこった詩

  • 2002年11月17日(日)

なかなか良い詩があったのでの載せておきます。 
明日は「かぜをひいたら」という人生で初めてつくった詩を載せます。 
散歩で即興でつくってみたので今日一日で何回か修正してみたいと思っている。
                       辻征夫
 かぜのひきかた
こころぼそい ときは  こころが とおく うすくたなびいていて
びふうになびいていて  みだれて  きえてしまいそうになっている
こころぼそい ひとはだから まどをしめて あたたかくしていて これはかぜを 
ひいているひととおなじだから ひとは かるく かぜかい? とたずねる
それはかぜではないのだが とにかくかぜでないのだが こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは こころにあがらう げんきもなく かぜですと つぶやいてしまう
すると ごらん  さびしさと かなしさがいっしゅんに さようして こころぼそい
ひとのにくたいは すでにたかいねつを りっぱに きちんと かぜをひいたのである
・・・・・・
[230] 抽象概念と具体概念
 2001/11/17
抽象概念と具体概念を、ある本に書いてあったのをまとめてみた。 
 −少し硬い表現だがー
・それ(抽象・具体概念)以前は「非言語的原始概念」−原始記憶の集合や組み合わせを、頭の中でこねくりまわしている
 状態を言い、あと一歩で言葉になる状態をいう。頭の中のヴィジュアルな素朴な原始記憶を「非言語的原始概念」という。
 言葉にまとめておかないと、この原始記憶のジャングルのままになってしまう。 ー毎日このような文章かをしていると、
 なにか毒だしをしているようだ。宿便を毎日吐き出しているいるようでもある。ほとんどが以前文章化したことがある。
 一日7〜9万回考えていた一部でしかない。 それを概念として、まとめる事が最大の収穫でもある。
 文章化とは原始記憶の集合や組み合わせを、頭中でこねくり回した状態を概念化していることになる。
‘経験を素朴な言語化をして置いておいた原始記憶’の蓄積があるから毎日かけるのだ。
 抽象的言語と具体言語とそのミックスしたものを概念化として吐き出す。これが慣れてくると面白い、こうなればしめたものだ。 
 毎日飽きずに書いているのは、実際のところ面白い。 何かわけのわからないことを書いている! 抽象概念も具体概念も、
 所詮は・・・ わけが解らなくなってきた。 あまり理解していないためだ。 しかし、キーワードの抽象・具体概念とその以前の
 「非言語的原始概念」について少しは理解したか。