* アフリカに魅せられて ー5

 アフリカは、ケニアタンザニアに4回。南アフリカ、西アフリカ、モロッコ、エジプト、それぞれ一回、
そしてイスラエルのコースでシナイ半島に立ち寄った一回を含めて9回行ったことになる。
あとエチオピアか、マダカスカル島に行きたいと思っている。アフリカの魅力は手付かずの大草原と、そこに住む野生動物と原住民。
それぞれの部落で社会形成が成されていて、彼らと我われの社会と何が違うのだろうか考えさせられる。
父親がいて、母親がいて、子供がいて、それぞれの家庭がある。そして集落があって、酋長がいて、一族を束ねている。
その視点で現在の自分が住んでいる社会と何が違うというのだろう。ポストモダン主義は、それを哲学した。
 これまでの欧米=先進国という思い込みを根こそぎ疑問、未開発地域の人たちにも同じような文化が存在していることに注目した。
戦国時代、そして江戸時代の日本に日本を訪れた宣教師や商人が、日本の文化レベルの高さに驚愕した手紙などが記録で残っている。
それがアフリカのマサイ族の部落などから感じ取ることが出来るのである。それはアフリカだけでないが。
初めてアフリカに足を入れる前までは、恐ろしく未開発で、文化程度の低い地域と思い込んでいた。しかし、
サバンナで出会うマサイ族の衣装と野生動物から身を守るために持っている槍の取り合わせは、決してパリの美しい女性の
センスにひけをとらない。サバンナの背景にピッタリで様になっている。彼らは彼らで何処かの街の市場で、自分に
似合った柄の羽織?を買い求め着ている。それを上から視線で見る輩もいるが、現地でみれば、自分の無知を知ることになる。

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3092,つれづれに ー閑話小題ー
2009年09月22日(火)
* 自民党総裁選挙だと!
 民主党が政権を取り、自民党が新たに建て直しのための総裁選挙が始った。
早くいえば敗戦処理のための一期だけの総裁である。
三人がTVで議論をしていたが、民主党の閣僚の斬新さと比べたら明らかに見劣りがする。
勝てば官軍、負ければ賊軍で、まともなのは河野太郎だけで、二人はボケ。
派閥領袖達が談合の結果、谷垣禎一を総裁にするために西村康稔をワザワザ擁立したのはミエミエ。
その筋書きを国民が見ていることを老害連中には理解できないのである。 恐らく谷垣になるのだろうが、
その方が日本にとってよい。 それだけ自民党が嫌われ、立ち直りが遅れるからである。
今のところ政権交代は、現在のところ、それを選択した国民の方が、驚いているはずだ。
数年間は自民党の、これまでの悪臭が際立ってくる。 官僚に牛耳られてきた結果の腐りが、である。
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 * 図書館にて
 昨日の午後に自宅近くの図書館に入ったところ、入口近くカウンターの7〜8人の館員が一斉に私を見ている。
それも全員が立ち上がっていて氷突いている。 一瞬何ごとか竦んでしまった。 
次の瞬間、一人の男が怒鳴りだした。 私が入って来たので、中断したようだ。 ホームレスのようで目が据わっている。
何かの欝憤を晴らしているようだった。 対応が悪かったのか?館内でトラブルを起こして追い出され悪態をついたのか?
ところが「俺は長岡高校が大嫌い」だとか、要領を得ないことをいっている。二メートルほどだったが、強盗でもないので
無視をして本の返却をした。あの館員達の顔からしたら、かなりの剣幕だったのだろう。男の館員が受付の外で対応していたが、
ああいうのは相手との間隔をつめて身体を逆に密着すると、相手も気が飲まれる。
それにしても、銀行強盗に出くわしたような雰囲気だった。 ホテル業は1〜2年に一度、流しのヤクザが因縁を創作して
トラブルの演技で金を強請にくる。 また酒に飲まれた機嫌の悪い客が怒りをぶつけてくる。現場は、本当に大変である。 
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 * 5連休か〜
 秋の5連休とかで、高速道路の千円効果もあってか春のゴールデンウィーク並みのようである。
この不景気の中、観光地は思わぬ特需で息をついているという。私の方もだが。
高速道路の無料化は地方にとっては大きなインパクトになるだろう。さっそく「知人の奥さんが4名で東北まで
一泊で遊びに行ってガソリン代と往復2千円を加えて、割ったら一人当たり交通費が二千八百だった」とかいう
話題が入ってきた。そうこう考えると、高速無料化は日本全体にとって莫大な経済効果をもたらすだろう。
学生時代のゼミの後輩が、その火付け役である。さぞ、鼻が高いだろう。
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2727, ザ・オオズモウ
 2008年09月22日(月)
  *大相撲が面白い!
 ロシア人力士の麻薬事件と理事長辞任の異常事態の中で大相撲が始った。 
一場所を中止をする位の大事件なのに、それ以上は騒ぎ立てなかった。
ロシア人が不服を申し立て、そこに注目させた戦術が良かったようだ。 所詮は、その程度。
これからも次々に同じような問題が起こるだろう。大相撲の始まりは、神社の神事で力自慢の余興から始った。 
歌舞伎と類推すると、その本質が見えてくる。その意味では、外国人に開放したことで割り切るべきは割るきるべき。
歌舞伎に外国人開放したと同時に、それは「ザ・カブキ」に変質してしまう。
柔道が「ジュウドウ」に変わってしまったのと同じである。大相撲は、「ザ・オオズモウ」になってしまったのである。 
それが不可能なら、システムそのものを変えるべきである。それと「国技」とかいう名前も返上すべきである。
外国人の総量規制を一部屋一人ではなく、一国一人とし、20人以内にすべきだろう。
一年に2度位、それぞれの部屋単位でドーピング検査をするようにして、問題が発覚する前に処分するべき。
もちろん、抜き打ちは当然に徹底すべきである。日本人と外国人のマリファナに対する罪悪感が違うから、
尚のこと、徹底すべきである。
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  *立ちあいの厳格化で、朝青龍が引退?
 最近になって気力が衰えていた朝青龍が、両手を確実についての立ちあいのため不調である。
この力士の特技が立ちあいの張り手である。下位の力士が横綱に張り手は出来ないのを逆に利用して
張り手を武器にしていた。地位を利用した戦術と感心していたが、両手の手つきでは、張り手がやりづらくなった。
これで、力が半減してしまう!数場所以内の引退もあるだろう。新たな戦術をつくりだして再出発するには気力が衰えている。
しかし、ヒール役(悪役)としての彼の役割は、あまりに大きい。前の理事長が擁護していたから、あれだけの不祥事の中、
引退をしないで済んでいたのだから、これまでの所業の積み重ねからして、
新理事長の下では早々の引退だろう。 元もと芸能的色彩の強い業界だから、麻薬あり、
リンチ殺人あり、八百長あり、それはそれで結構じゃないか! その辺が結論。 
後記)2002年〜4年にかけて大相撲を取り上げていたが、成るほど時代は大きく変わっている。
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2007年09月22日(土)
 2363, 郵便配達夫シュバルの理想宮  −2
シュヴァルの凄さは、理想宮が明らかに意味あるものなら解るが、今でいうテーマ・パークを、誰の理解もされずに
ただ黙々と石を集め、自分の心の命じるまま理想宮をつくり続けたことである。ただ、そのプロセスの中で生甲斐を
感じていたはず、もし感じてなければ続くわけがない。他の人から見たら何ら意味もないことを、自分でも意味など
考えてなかったのだろう。あるのは、それに取り組んでいるときの何ともいえない喜びである。 続けているうちに、
評判を聞いた外部の人が見に来て褒めてくれたこと、認めてくれたことなどで、意味を見つけていったのである。
それは結果として、潜在意識の具現化につながっていく事になる。そのテーマ・パークはみる人の気持ちをうつのである。
もちろん、周囲の人は、その奇異な建物をみても理解などできようがない。むしろ外部の人は、それを冷静に客観視
できるから興味も加えて評価が可能になる。創造者は、まずは気違いにならないと新しいことは創造できない。
そして周囲は、その姿をみて、気違いという。 だから面白いのである。
 ーその部分を抜粋したみるー
ー村の気違いー
シュヴァルは、村では最初から異端者であった。農地を持たない、という一事だけでも、村において、人を異端者と
するに足りたであろう。そのうえ彼には、孤独癖、厭人癖があって、周囲の生活に決してなじむことができなかった。
パン屋をしながらの数年間の放浪は、そのことを示している。郵便配達という職業は、この異端を一時期
蔽い隠していたけれども、彼が宮殿を建設しはじめるに至って、この異端は露わになり、決定的なものとなる。
{近所の人たちは、私の毎日の石運びに気づきはじめました。彼らは最初、道路管理官に売るための資材を私が集めている
のだと考えました。やがて私は、そうではないことを覚らせました。《じゃあ、どうするんだ》と彼らは訊ねました。
 (以下、字数の関係でカット2008年09月22日)
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2006年09月22日(金)
1998, 「私」のための現代思想  −2  
   (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜  −読書日記
第一章 「私」を縛るものは何か ー
 ーまずは問題とはー
まず「我われの世界は正しいのか」という問題をまず考えなくてはならない。
我われの世界には正しい部分と、腐った部分がある。《「世界」と「私」は、ともに腐っていく》という方が解りやすい。
この世界で自分が腐っていくのを実感することは、さらに腐敗にまみれないようにするためには、非常に重要である。 
我われを拘束する要素として、<言葉><価値><社会>が考えられる。
 ー言葉ー
私たちは<言葉>を使ってこの世界を認識し、他者に何かを伝えます。言葉は「思考の枠組み」であり、
便利な道具ではあるものの、逆にその「枠」の外には出られないという意味で束縛となる場合がある。
 ー価値ー
私たちは何らかの、<価値>を求め、それに照らし合わせて自分の行動を決定したり選択したりします。
自分が重要だと考えている<価値>そのものが、私たちを束縛している場合がある。
 ー社会ー
この枠組みは、私たちがよりよく生きるために構築されてきたものですが、そこに窮屈感や閉塞感が出ることがある。
これらは「束縛」となる場合と、「自由になるための武器」になる場合がある。 この束縛から脱するには、
これらを得なくてはならない。 得るためには、まずは言葉・価値・社会とは何か知らなければならない。
 まずはーー《言葉》についてーー
言葉の機能の中心には「分類」があります。これは、言葉は「私たちが知覚したものを分類する」ために
用いられるという意味である。私たちが「何かを学ぶ」ということは、
ー社会において重要とされている分類基準を自分のものとするー
ということを意味しています。このとき私たちは、少しだけ「自分を殺す」ことになります。
それが「大人になる」ということであり、「社会化する」ということです。
フランスの精神分析家のピエール・ルジャンドルは =換言すれば、    
「 自己と世界に対する関係は言葉のスクリーンを経由する 」ということです。
 人間のアイデンティティには複数の水準がありますが、自己への同一化
(それが主観的なアイデンティティ形成です)と、世界の同定および世界への同一化ということです。
その全てにとって前提となるのが言葉のスクリーンなのです。
自由に「思考」するためには =「他人の考えるように考える」ということは、重要である反面、
「他の人が考えるようにしか考えられない」という状況を発生させてしまう。
そのときに人は「言葉による束縛」もしくは「言葉の専制」を実感します。
そうならないために‘社会の側の分類規準は便宜的なものでしかないことを、しっかりと把握しておかなくてはならない。
自分を殺さずに、社会の側の分類規準と上手くやっていかなければならないが、
そのとき重要なことは、「言葉の主人は自分である」という意識を持ち続けることである。
すなわち言葉は、自分を拘束するものではなく、認識の道具であり、意思伝達の道具であり、思考の道具である。
(以下、字数の関係でカット2009年09月22日)
 ー感想ー
 この随想日記を書き続けることの束縛が、反対に言葉の束縛を一つずつ開放してくれる。
 一つの束縛が、一つの開放の獲得になる。要は、それぞれの束縛が物語としての基盤になっていれば、
 それが人生の物語の完遂になっていく。まずは、言葉による自分の物語の構想を若いうちからしておくべきである。
 それが、その人の価値観になるのである。             ヽ(●´ω`●)ノ。バイ!
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2005年09月22日(木)
 1633, 閑話小題
 ー雲を消すー
私が、雲を消すことができるというと、頭がおかしくなったと思うだろう。しかし消せるのである。 
まずは雲の消し方を紹介しよう。晴れた日にたくさん浮かんでいる雲のうち、3センチくらいに見える雲を指さして
「消えろ、消えろ……」と念じると、だいたい三分ほどで雲が消えてしまう。
ぜひやってみると面白いはずだ。小さな雲は、常に発生したり消えたりを繰り返している。
指をさして念じなくとも、小さな雲は三分くらいで消えるもの。そうした現象の種明かしをしらないと、
実際に雲が消えたように見えて、念動の存在を信じてしまう。 実際、それを信じている人もいるから面白い。
 ーあのビルの臭いー
爆破当時にニューヨークの9・11の貿易センタービルの下を通っていた地下鉄で
電車が通過する時に、ものすごい臭いがしたという。何千?人分の腐った人間の出汁の臭いとか。
思い出したくない地元の人は生ゴミの臭いと言っていたという。(マスコミにはあまり出てこないはなし)
また、その翌年アフガンでは10万人以上が餓死したというが、そのことは殆んど新聞には報じられなかった。
 ー晩婚化と高齢化ー
現在の晩婚化は高年齢化に深く関係しているという。もうかなり以前だが、『人生ゴムバンド』という説があった。
高齢化になったぶん、人生の節目と節目の期間が延びたという。なるほどと肯いた。私の知人数人が30代半ば結婚したが、
現在も子供が学生である。65歳までは収入は落とせないと言っているが、そう話しながらでも本人は嬉しそうである。
下の子供が大學を卒業した時にホッとしたと同時に、何か物足くなった。年金が満額出るのはあと三年だが、その時は・・・
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2004年09月22日(水)
 1268, 大相撲に思うーつれづれに
大相撲が始まると、相撲について書くのが恒例になってしまった。場所ごとに刻々と、相撲の様相が変わっている。
最近は、朝鮮相撲、モンゴル相撲、レスリング、そして日本相撲の「国別異種格闘技」の様相に変ってきている。
外国人の出身地もハワイ、アメリカ大陸から、モンゴル・旧ソ連圏になってきた。彼等は、お金を稼ぐという目的が
ハッキリしていて、ハングリーなのだ。それと骨格も違うのだから、日本人がどの面から見ても勝つ要素が少ない。
異種格闘技K−1では、日本人がほぼ駆逐されてしまったが、相撲も、あと一年で大関横綱は外人で独占されるだろう。
国別異種格闘技として割り切って大相撲を見ると、むしろ面白い。日本人も個性的な面白い力士が出始めてきている。
小さくて、その小ささを武器にしている力士や、気力を売りにして神がかり的相撲をとる高見盛などである。
一つ気になるのが、「一部屋に外国人一人の制限」である。ある新聞の冗談とも、本音ともいえる提言が書いてあった。
「外人枠を撤廃をして、東西それぞれを日本対外国人に分けて対抗戦にしたら!」なるほど、そのとおりにすべきである。
前半は外人対日本人、後半交流戦とかして。 これこそ、グローバル化である。 これに、今のプロ野球を重ねると、
面白い姿が見えてくる。このプロ野球の恩恵を受けていたのが、日本のトッププレーヤーである。グローバルに見れば
二流選手(大リーグからみた)でしかない。2Aか3Aクラスの選手が、二倍以上の年収を受けていた事実が判明した。
今回の騒動の中で、それが露出されるだろうから皮肉なものだ。相撲もプロ野球も大きな曲がり角にきている。
TVでは巨人戦を開幕来、殆どみていない。しかし大リーグは結構見ている。
一リーグ戦にすべし!
今、反対意見を言っているのは、目先しか見てないファンか、選手ごときと、それをネタにしているマスコミである。
大リーグと契約をして、公式の交流戦に参加すればよい。アメリカの方が断る可能性があるが、といって日本の市場が
できるから彼等にもメリットがあるはずだ。 話はかなり逸れてしまった。
ー後記ー
書き終わって去年と一昨年の随想日記をコピーしていたら、三年続けて同日に相撲のことを書いてあった。
それにしても奇遇である。潜在意識が呼び寄せるのだろう。 年々、内容が変化しているのが面白い
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2003年09月22日(月)
 901, 相撲を考える
 大相撲が昨日で千秋楽、朝青龍が優勝をした。他の格闘技も多くできたこともあるが最近の大相撲はつまらなくなった。
つまらなくなったという点で、今のプロ野球に似ている。NHKのBSでメジャーリーグを見るようになってから、
全く見なくなった。以前、「過去の相撲の大一番」を特集していた。
子供の時から相撲が好きであった事もあって、ラジオやTVで大一番は殆ど見ていた。
・私が見た中での大一番は「栃若の千秋楽の全勝の一番」である。
大鵬柏戸の千秋楽の全勝同士の一番も素晴らしい一番であった。
・生まれる前なので見てないが、歴史に残るのが双葉山が69連勝の後、安芸の海に負けた相撲も大一番といえる。
 栃若が全勝で向かえた千秋楽の前日の逸話がある。 栃錦があまりのプラッシャーに「一人でこっそりと映画に行ったところ、
 前の席にやはり若乃花がいた」という。大乃国双羽黒・保志・小錦が一度に昇進していく時期も面白かった。 
 相撲は、立合いの一瞬に大方が決まってしまう面白さである。また数秒間の中に、それまでの二人の全てが圧縮されて出てくる。
 いま人気の高見盛の相撲が面白い。特に「入魂の儀式」としての、最後の仕切り前の気合を入れる仕草が人気をよんでいる。
それが神憑りになるから見ていて面白い。 緊張を気合に転換するための、純粋な仕草さが受けているのだ。
勝てば胸を張って退場するし、負ければ泣きそうな顔をして引きあがる姿が滑稽、忘れかけた人間の原点を見せ付けられるようだ。
 今場所、横綱をかけていた魁皇が逆上せ上がって自滅していった姿が印象的であった。高見盛の人気に対して
個人的嫉妬がアリアリで、軽くいなそうとしてヒンシュクをかってしまった。勝負の世界は一瞬の隙がチャンスを潰してしまう。
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2003年03月12日(水)
 707, モンゴル大相撲
 先場所の各段の優勝は序二段を除いて全て外人が取ってしまった。
今場所からは、両横綱とも外人である。外人力士が50数名いるうち8割がモンゴル出身である。
  − 以下字数の関係でカットー2007年9月22日
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2002年09月22日(日)
 527, 大相撲ー頑張れ武蔵丸
 まさか貴乃花が千秋楽で同点決勝に持ち込めるとは思ってなかった。
もし優勝をしたら大騒ぎになるだろう。こういう時に勝つのが大スターであるが、彼はそれを持っている。
しかし心情からみたら武蔵丸の勝利が望ましい。前回あまりにも貴乃花が劇的すぎた!武蔵丸のその時の姿がリアルに
ある記事に書いてあった。おまけにその為に貴乃花を大怪我をさせてしまい、かれが負けると、場内に座布団が荒れ飛ぶ。
 この一年余り、独り横綱も大変であったろう。それが7場所も休んだ主役に優勝をさらわれたら、余りに気の毒である。
もし彼が勝ったら、盛り上がった今場所に水を差すことになる。貴乃花が勝ったら、一応彼の人生の大きな節目に
なるのではないだろうか。大横綱の道を歩く為には、今日は負けた方がよいだろう。大鵬の30回の優勝に向けて、
身体を作り直すチャンスだ。 勝てば他の力士に焦点を当てられてしまう。
 それにしてもスターの要素を持った若手がいない。このままでは、ますます人気の陰りが増すだろう。
幕下と十両に元学生横綱の個性派と外人が数人いるが、輝いているかというとどうか?
他の格闘技で面白のが、どんどん放映されているから八百長体質があるなら、相撲人気はますます落ちていくだろう。
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[154] 性善説性悪説   2001/09/22
 以前、身近に[おれは性善説だ]と口癖の男がいた。本当に性善なら‘それを売り言葉に使うのがおかしい’
という事も解らない。人間なんぞ性善も性悪もごちゃ混ぜになっているもの。
光のあて方でどうにもとれる。「性悪の路線の上を性善で走れ」あたりが少しもっともらしいのかもしれない。
 善良は、ある状態ー苦労やぎりぎりのところに立ってない状態ーでいっている戯言でしかないというと、
言い過ぎか。善悪とは、多様にあり解釈の結果でしかない。詐欺師やその手合いはその事を熟知している。
従って善良という言葉の衣服を綺麗に着こなす。 本当に世の中、悪がいる!芯からの悪党がいる。 その人間が
‘俺こそは実は性善’だと信じていたら、手のつけられない悪党になれる。それか、政治家いや政治屋向きであろう。
 自分中に隠れ住んでいる‘邪悪なるものと神聖なるもの’と、とことん付きあってみれば、性善説性悪説
見方の一片でしかない事にきずくはずだ。どうでもいいことだが、言葉の遊びレベルでいっているだけだが。