「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
■ 自問自答が知性を磨く (Pー189)
  他者との対話とは別に自分自身との対話=自問自答がある。
    著者の考える=哲学するについてが、なかなか面白い。
≪ ポール・ソシャールの『言語と思考』には次のように書かれている。
*「子供は三歳半ごろ自分を指す代名詞〈私=I〉を使いはじめ、そのときに動物心埋の水準をはっきり乗り越える。
 …つまり反省意識という人間の段階は、言葉に結びついている。思考が内言語(註:個人の頭の中だけに聞こえている言葉)
 であるからこそ伝達できるのであり、意識状態の科学である心理学もできあがるのだ」
*「(I)の言語化と(you)のそれとは切り離せない。それは対話の言語化である。自己の想像した対者との対話も含んでいる」
*「人間では、言語は外言語であると同時に内言語でもあるので、外言語としてはコミュ二ケーションの役を果たし、
  内言語としては思考と反省意識を確保する」
*「人間を理解し、その水準を見定めようとするものは、言語問題に取り組まなくてはならない」
*「言語は人間の発明したもののうちで最高のものである。人間は話すからこそ知恵があるのだ。人間の身体は原初から
  何も変わっていない。変わったのは精神の働きだけだ。人間は言語のおかげで自己を完成し、知性を発展させてきた」
*「言語の無限の能力は単なる感情や状況を示す信号だけでは満足しなくなる。…… 言語は対象を離れ、独立する。
  本質的にコミュニケーションの手段ではなくなり、思考の道具となるのだ。人間だけがこの〈内言語〉を持っている。
  内言語はもはや言語ではない。発音されないからだ。音情報は脳に移動され、自己の意識化を助ける」
*「人間は言語化されていない思考を心に浮かべることはほとんど不可能である」
まだいくらでも引用したい文章はあるが、読んでいてもつらくなる。なぜなら言語段階から見ると日本人が人間として
いかに未成熟かが歴然としてくるからだ。特にこの「反省」「内言語」の段階は幼児並みに思えてくる。
どうやらわれわれの大脳皮質は、前述した角田説の逆作用で、成長を停止しているとしか考えられない。
饒舌な内言語の会話が知性を磨く。連続的な自問自答である。われわれは内言語失語症を起こしている。
だから「失理症」に陥る。主語のない「味言語」は、結局主観と客観の区別がつかない。
それが「無反省」、つまり精神の言語化、あるいはまた逆に言語の精神化を妨げる。 ≫
 〜〜
子供が、(自分)という言葉を持った瞬間から人間になるというが、そこから、自分に対するyouが出現する。
いや、youが(自分=I)を創出する。それが、動物と人間の境目になる。人間の記憶が、その辺から始るのは、
自分という言葉を語るからで、その時から人間は飛躍的成長が始る。また日記が人間の成長に大きな役割を果たすのは、
それを一度、ノートに外に出すことで内語を外語とする作業の中で考えることになるからである。サルトルの対自、即自である。
  偶然だが、去年の今日、同じようなことを書いていた。 面白いものである。
 ・・・・・・・・
3014, 魂とは何か
 2009年07月06日(月)
  「魂とは何か」ー池田晶子著 −2
 何度か魂については、ここで何度か取り上げてきた。 
先日、「戒名は自分で付けよう」という本を読んで自分と、家内と、二人の息子の戒名を作ってみた。
そのためか? 近くの図書館で池田晶子の「魂とは何か」という本を見つけ借りてきた。
池田は二年前に亡くなっているが、この本は10年前のリメーク版である。
ここで頭脳明晰な池田晶子が、魂となると歯切れが悪い。それもあってか、この一週間は、「魂」漬け。
魂というと、「霊」と「私」「精神」「心」が浮かぶ。「心」は、TPOSで変化するが、「魂」は「それを見守っている、
産まれ、死ぬまで変わらない自分そのもの」。池田は、ヘーゲルなどの論を借りて、〈魂〉は「考える」より「感じる」ものだと、
「思考感覚」という。魂の表現を、無理を承知で言葉にしている。 
  《その一部を抜粋してみる。》
ーひょっとしたら「〈私」が魂」なのでなく、「〈私〉の魂」という言い方もなく、「魂の〈私〉」に近い。ー
  *この部分も鋭く、というより頭の底からひねり出している。
ー以前、誰だったか神秘主義者の本を読んでいて、ひとりの人間を構成するものは、「肉体と精神と魂」という
 言い回しがあって、深く腑に落ちたのだったが、それは正確だろう。 肉体とは個別だが物体であり、
 精神とは物体ではないが非人称であるなら、その人を他の人ではなくその人たらしめている当のものとは、
 他でもない、〈魂〉ということになる。 なぜそれを〈私〉と、私は言わないのか。
〈私〉とは、おそらく、たんなる形式であろう。 あえて「たんなる」と言うのは、形而上的な形式と形而下的な内容とを、
 思考によって峻別した時、そこに残る内容は、形式からみれば、なお不可解なままだからである。 内容のない形式とは、
 論理としては可能であっても、思考が驚きによって始まったその振り出しへ戻れば、謎は依然として同じである。
 すなわち、なぜ〈私〉は、この人間なのか。 なぜ〈私〉は、この人間なのか。 なぜそれを〈私〉と、私は言わないのか。
〈私〉とは、おそらく、たんなる形式であろう。あえて「たんなる」と言うのは、形而上的な形式と形而下的な内容とを、
 思考によって峻別した時、そこに残る内容は、形式からみれば、なお不可解なままだからである。内容のない形式とは、
 論理としては可能であっても、思考が驚きによって始まったその振り出しへ戻れば、謎は依然として同じである。
 すなわち、なぜ〈私〉は、この人間なのか。なぜ〈私〉は、この人間なのか・・・ー
 〜〜
* 魂を明快に表現出来るなどありえない。 それでも何度か読み返しているうちに、少しずつ、その中心に近づいていく。 
我われは、大自然に触れたり、世界的な芸術作品をみた時に〈魂が振動した〉という。 
実際に私も何度も、いや何十回も経験している。 あの時の「魂の振動」という時の魂とは何だろうか? 
べネゼイラのテーブル・マウンテンのキャンプで見た夕景。 あの荘厳な景色で感じた魂の響き。 
人間を遥かに越えた大自然の時間の蓄積と、美と、荘厳な一瞬に、自分が、その中に融けて永遠と共鳴し、
「私が、いや私の先祖が産まれる遥か前から存在している命と魂が共鳴している」という瞬間の「魂」とは、何だろう。
登山好きの人は、早朝などに独りで、それを直感しているのだろう。  宇宙の響きというのだろうか?
・・・・・・・・・
2649, 閑話小題
2008年07月06日(日)
 *凄惨な事件のあとのマンションは?
昼飯に喫茶店に行って週間ポストを読んでいたら、以前から知りたいと思っていた記事に出くわした。
最近、週間ポストが面白い。 定年を迎えたシニア(団塊の世代)にも客層を広げたようだ。
セレブのバラバラ殺人や、江東区の凄惨なバラバラ殺人事件の部屋が、既に他の住人が入居をしているという。
まずは、セレブの殺人現場になった部屋は、女性が入っているという。家賃は20万円だったが、5万円ダウンの15万円。
江東区の方は2万引きの7万円で、これもまた入居済み。こういうイワクつきのマンションの販売価格は大よそ2割のダウンが相場。
こういう事件があると、わざわざ値下がりを期待して部屋探しに来るという。 何とも感じないらしい。家主の方からしたら、
事件のほとぼりが冷めるまで待つより、何割か下げて貸した方が得と判断するようだ。地方なら、嫌がられるかもしれないが、
都会は冷めているということだ。いや借りる方に変わった人がいるということだ。絶対数が多いということか。
 *深刻なスタグフレーションへ突入?
原油穀物などの値上がりで、彼方此方から悲鳴が上がってきた。イカ釣り漁船は集魚灯の明かりでイカを集めるために
燃費が経費の4割もかかる。さらに漁場が遠くイカも小型のため、操業すれば赤字となる緊急事態。といって、この不景気の中に
あってイカの市場価格をあげられないジレンマに陥っている。全漁連は「このまま高騰が続けば漁業経営者の3割が廃業に
追い込まれ、漁業生産の40%が減少する」と危機感をあらわにしている。 これは、決して日本だけでなく世界中で大問題。
私の宿泊業も、大よそ売り上げの10?が水道光熱で灯油はその三分の二を占めている。(7パー)もろに純益が吹き飛んでしまうことになる。 
同業も同じ条件なので泥縄的に対処していけば、収まるところに収まるだろうと楽観的にやれるほど甘くはない。それも序曲でしかない。
 *ツタヤのネットレンタルに入会してみた
ツタヤの一ヶ月の無料レンタルに借りてみたが、心配したとおり、はまってしまった。週に二本で、月に送料込みで2000円の
レンタル料が高いとみるか、安いとみるかだ。以前、会社の事務所の至近距離にDVDのレンタルショップ開店してから5年間、
週二本を借りていた。二年前に閉鎖したが、実のところホットした。昼休みの食事の途中にあり、金曜日には寄らずには済まない。
年間100本、5年間で500本はみたことになる。 ネットで、ツタヤのHPをみると、いくらでも観たいものがある。
このレンタルシステムがよい。見終わった後に同じビニールの封筒で送り返すと、やはり二本送ってくるのである。
これとWowowに入っているのだから、ますます馬鹿になる。 これ以上は、なりようはないか!コテコテの馬鹿か? ったく。
・・・・・・・・
007年07月06日(金)
2285, バーナム効果
 詐欺師や占い師や、健康食品のネズミ講などで、相手を信じこませる言葉のつかい方に、「バーナム効果」という手法がある。  
  ーネット百科辞書の「ウィキペディア」によるとー
「誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象」
という。アメリカ合衆国の興行師・バーナム にちなんで(心理学者のポール・ミールによって1956年に)命名された。
アメリカの心理学者バートラム・フォアの名をとってフォアラー効果ともいう。
  ー
被験者に何らかの心理テストを実施し、そのテスト結果を無視して以前に被験者とは無関係に用意した
「あなたはロマンチストな面を持っています」「あなたは快活に振舞っていても心の中で不安を抱えている事があります」といった
診断を被験者に与えた場合、被験者の多くが自分の診断は適切なものと感じてしまうが、これはバーナム効果によるものである。 
占いや超能力(特に千里眼など)、霊視、血液型性格診断といった試行や現象が科学的根拠がないにも拘らず持っている
説得力の大部分は、このバーナム効果で説明出来るとされる。
 ーー
「フォアの実験」
1948年、フォアは学生たちに性格テストを実施し、そのテストの結果に基づく分析と称して下記の文を与えた。
フォアは学生たちに分析がどれだけ自分にあてはまっているかを(まったく異なる)から(非常に正確)の段階でそれぞれに評価させた。
このときの平均点は4.26であった。その後、フォアはどの学生にも、次のようなまったく同じ分析を与えていたと種明かしをした。
『あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っており、それにかかわらず自己を批判する傾向にあります。
また、あなたは弱みを持っているときでも、それを普段は克服することができます。あなたは使われず生かしきれていない才能を
かなり持っています。外見的には規律正しく自制的ですが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向がある。
正しい判断や正しい行動をしたのかどうか真剣な疑問を持つときがあります。あなたはいくらかの変化や多様性を好み、制約や限界に
直面したときには不満を抱きます。そのうえ、あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、十分な根拠もない他人の意見を
聞き入れることはありません。しかし、あなたは他人に自分のことをさらけ出しすぎるのは賢明でないと気付いている。
あなたは外向的・社交的で愛想がよいときもありますが、その一方で内向的で用心深く遠慮がちなときもあります。
あなたの願望にはやや非現実的な傾向のあるものもあります。』
フォアはこの文章を占星術から構成していた。 次のような条件を満たす時、
被験者はテストの正確さにより高い評価を与える事が後の研究でわかっている。
 * 被験者が分析が自分にだけに適合すると信じている * 被験者が評価者の権威を信じている * 分析が前向きな内容ばかりである
 ーーー
 以上であるが、言葉のテクニックでお仕事をなさる方のノウハウをまとめてある。政治家の口先の公約のようなものである。
健康食品を小道具にしたねずみ講や、TVで最近よくみる女ヤクザだった細木和子などが、このバーナム効果を最大限利用している。
引っかかる人は、その手合いからみると、すぐ分るという。「迷いが先に立って適切な手を打つことが出来ない他人志向的な人」である。
詐欺師や類似した方々は、こういう子ヤギ?を探しに癒し系の会や宗教団体の会、会員系の健康食品の会に素知らぬふりをして顔を出す。
そして子ヤギを見つけ出しフレンドリーを装い近づく。 そしてこの話術をフルに使う。元々相手は騙されたいのであるから、
これほど楽な相手はいない。以前の話だが、家内が興奮して言うには、あるファッション店で、女店員が
「奥様、不思議でしょうがないです。どれを着てもお似合いです。どういうことでしょう?鏡のせいでしょうか?」と言われて
次々と試着させられた。ところが、どもこれも鏡に仕掛けがあるのでは?と、思うほど似合ったという。
たまたま、そういう商品が揃っていたのだろう。これも一つの暗示か、それとも偶然の一致なのだろうか。
「誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象」
という、バーナム効果を服に書き換えてみると・・「誰にでも似合うようなありきたりの服を、その人だけにお似合いと捉えてしまう
心の現象」ということになる。 ファジーが世の中の現象なら「世の中、ほぼバーナム効果で成り立っている」というと言い過ぎか。
・・・・・・・
2006年07月06日(木)
 1920, 浮かれる景気   \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/
 「浮かれる景気」ー 読書日記
浅井隆の本である。書いてある内容は極端に聞こえるが、中長期的視点からみれば当たり前のことである。
発刊されたばかりの本を偶然図書館で見つけた。この数年彼が主張してきたことを書きかえているだけだが、決して間違ってはいない。
「現在の景気は、目先のミニバブルでしかない!来年か、再来年から、間違いなく国家破産に近い状態が来る。現在からでも遅くはない、
それに対応した準備をしておきなさい」というのが主旨。さっそく速読をした。かれのHPに要点が書いてあった。
ー株式会社第二海援隊 浅井 隆 
 (字数の関係でカット2008年7)                ☆゜+.バイ!
・・・・・・・
2005年07月06日(水)
 1555, 将来の不安ー3
不安について考えてきたが、図書館で島田裕己の「不安を生きる」という本があった。2005年・4月10日発刊というから最近の本である。
オウム教事件の時にオウム教擁護的発言でバッシングにあって、東京女子大学の教授を辞めざるをえなくなった人である。
宗教学が専門のためか「不安」心理に対しては専門であり、深い。宗教には「不安」に対する明確な解答が用意されている。
不安と宗教心は裏腹の関係にある。不安こそ誰もが何時も直面している心の闇である。その闇に神の世界を提示して見せるのが宗教である。
不安の正体を知ってしまえば自然と解決方法は出てくる。更に不安を解消する一つの手段として具体的にネットワークの存在を提案している。
 ー面白そうなところを抜粋してみる。
P-76 ところが不安がないということは、下手をすると今の状態に安住することにつながってしまう。
そうなると緊張感もなければ、進歩もない。進歩もないということは達成感もないということです。
イニシエーションという言葉を使えば、一つの役に挑戦することがイニシエーションになってくれない。
逆にそれをイニシエーションにするには不安が必要になってくる。心の安定ということでは、不安を悩みに変えていく必要があるけど、
安定は停滞につながっていくから、いっぽうで不安も必要になる。海老蔵は、弁慶をやる前日に寝過ごしてしまったと思った時、
これで役者をやめなくてはならないと思ったそうです。それだけ不安を経験しているからこそ、不安が欲しいという発言が出てくる。
彼は不安を次の発展へのバネにしようとしている。
ーー
不安について以前にも書いてきたが、その対応として思い当たるものをドンドン書き出してみることだ。
それが悩みという具体的に落とし込むことになる。その対応として思考と行動が生まれるきっかけになる。
そういえば、10代、20代の頃は、不安が常につきまとって、それがエネルギーになっていた。  ーつづく
  ーーーーー
 「不安を生きる 」筑摩書房  島田 裕巳【著】
私たちの社会には今、漠然とした不安が広がっている。将来の変化を見通せず、未来への希望が持てない。
会社もアテにできず、心底頼れる人も見当たらない。そんな思いを抱く人が増えている。
こうした事態は、都市化が進展し、かつて私たちを支えていたムラ的な
共同体が衰弱してしまったことと無縁ではない。しかし、便利な生活を手に入れ、自由を享受する私たちは、
もう後戻りすることはできない。不安とどう向き合い、どう生きればいいのか。
この問いを多角的に追究した本書は、現代社会を生きる私たちにとって示唆に富む一冊である。
1 不安と悩み    2 体感不安の時代  3 不安をとらえる視点  4 不安をバネにする  5 仕事と不安       
6 都市生活者の不安 7 不安を煽る「癒し」産業  8 「支え」としての共同体  9 自分の足場をつくる
・・・・・・・・・
2004年07月06日(火)
1190, 大丈夫!ー2 
 * 哲学についてー13
  ー不安の哲学ー キエルケゴール
「大丈夫!」を繰り返していうことで、漠然とした不安感が半減したと前に書いた。
これを読んでいて、もし鼻先で笑っている人がいたら、その人は表面的人生しか生きてない人である!
不安感は大きい人ほど、それは自分に目覚め、自由と可能性を考えているか、生きているからだ。大丈夫!を繰り返すことは、
毒消しに単純だが絶大の効果がある。単純であるが、どうしてそこまで心理的の効果があるかを考えてみる。
人間の不安の90数パーは、考えすぎの影でしかない。 ルーズベルト大統領が就任演説で言ったという、「われわれが恐れるべきは
『恐れ』そのものだけである」人間は全て、恐れから派生する大きな影に脅えている。その意味で「大丈夫」を繰り返すこととは、
90パーの影を消す効果がある。不安といえば、哲学者のキエルケゴールが主題にしたテーマである。
彼が考えた「不安」は「ああもなれる、こうもなれるという、いろいろな可能性を持っているからこそ、不安が生まれる」と考えた。
そして「不安はたとえてみれば目眩のようなものである。・・自由がいまや自身の可能性をのぞきこんだとき、
めまいがおこるのである」といっている。若いときは、その意味で多くの自由と可能性があった。その分だけ、大きい不安が自分を
支配していた。そして絶望感に陥っていた。さまざまの可能性を持つからこそ、不安と絶望感があるのだ。
不安感が絶望へのプロセスを生むことになる。 不安から「絶対的な何か」が欠けているという絶望感に陥ってしまうのだ。
「どうしようもならないもんな?」という言葉が出てきて、そしてお決まりの繰り返しの暗い気持を引き込んで絶望の世界に入っていく。
これが、神の前に1人たたずむありかたであり、人間としての基本的な姿としてとらえて「単独者」と呼んだのだ。
真の自分に至ることとは、神と触れ合うことである。しかし、人間はさまざまな現世的価値観の中で生きている。
しかも、その価値観は全て有限なものである。そして有限なるがゆえ不安に襲われ、神と自分との絶対的な距離を感じる。
それが絶望のきっかけとなるとキエルケゴールと考えた。大丈夫という言葉は、ある意味で「神からの言葉」ともいえる。
「ありがとう」という言葉と同格の重要な意味の可能性を含んでいる。キエルケゴールは、その不安と絶望からくる内面の大きな揺れを
(心の中の)「大地震」といっている。それだけ、この大地震は人間にとって一大事である。最近香港で、生活保護を受けていた人が
亡くなったあと、通帳が発見されたという。そこには、なんと数億あったという。この人は不安感にさい悩まされていたのだろう。
大丈夫と楽観し過ぎて地震や火災から逃げ遅れたり、倒産したり、失業したりして明日の生活に困ることが多いのが人生。
過剰な不安感をあくまで問題にしているから、勘違いをしないことだ。自分自身のことであるが。
・・・・・・・
2003年07月06日(日)
 823,ある時間の断片ー30
ー11月2日 1968年
10時起床、食事後12時半まで床屋。13時頃から「早稲田祭」に行く。 14時半頃に帰ってくると深井が部屋に来ている。
1時間位話して彼は帰る。その直後急に頭が痛くなる。 「香港風邪」というやつにかかったらしい。佐藤君のところに行って
お茶を飲んでいると、佐々木さんから電話で東京駅に迎えにこいとのこと。でかい荷物だ、やっとのことで寮に運ぶ。その佐々木さんが
「明日のバスハイキング」のバスの値段が高いと苦情をいいにくる。 道理からいって、因縁をつけているだけとうことが露骨だ。
今更キャンセルや値下げができるわけがないだろう。幹事ということで言い返せないし、一応先輩だ。折れることにした。 
差額の半額を私が持つことにした。頭の回転がきかないのか、自分の面子を立てたいのか解らないが。よく自分で我慢したと驚く。
クールに割り切った方が良い。その反動で。孝道を怒鳴りつけてしまった。佐々木さんに対する怒りと香港風邪で
頭がいたいことも含めて、彼にぶつけてしまった。人間的な含みがまだまだないということか。
・・・・・・・
2002年0706
旅行中
・・・・・・・
2001年0706
旅行中