* キルケゴールの「宗教的実存」
 キルケゴールは、「個人の生は3つの段階を経て深化する」と主張した。
1、美的実存:  美しいものを求めて、そのときそのときの享楽を求める生き方である。 ドンファン的生き方。
2、倫理的実存: よいことをし、社会的の規律を守り、習慣などに従い、全てに道徳的な生き方。
3、宗教的実存: 神である絶対者との関係の中で生きることにより、真の人生を手に入れることができる生き方。
 この宗教的な生き方も、二つに分けた。「宗教性A]と「宗教性B]である。
 「宗教性A」は、自力救済を試み、自分の主体や理性によって自分を支配しようとする。
    しかし、それはキエルケゴールによると罪になる。 支配するのは神である。それに気づいた時に「宗教性B]になる。
    ここになるものは、もはや理性でも倫理でもなく、絶対的な神の服従であり、ここに至って絶望は癒され、
    無限で絶対的な存在でありながら、この世に生きて死んだイエス・キリスト、神でありながら人でもある存在に
    依り頼むことによって、人間の力では決して果たしえなかった絶望からの脱却が可能になる。
  この宗教的実存を説いた彼は、教会からは嫌われていた。キルケゴールは、「何となく日曜日に教会に・・・」とか、
 「デンマークキリスト教国だから・・」とかなどの習慣的な信仰は偽ものとする批難の対象にした。
 殆んどの人が、その対象になるから彼を嫌い、「全デンマークの牧師の敵」とよばれていた。
・彼は「私にとっての真理」を追い求めた。人類にとって真理を求めても何もならない。個としての人間が、
 生きていく上の支えとなり得る真理こそが必要と考えた。
・「たとえ全世界が崩れ落ちようとも神的なものに絡みついてはなれないでいることを望んだ」が、しかし、
 そうした永遠とのつながりを欠いた人間の状態は、無に脅かされており、人間に不安を呼び起こす。
 その不安の奥に、神との関係がある。 有限性と罪責の中にある人間を救う神。その神と引き離された存在
 であるという事実は、人を絶望させる。この絶望を、彼は「死に至る病」といった。
 それは「宗教的B]でしか癒すことができないといったのである。厳しい宗教的生活でしか果たして癒されないだろうか。
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2893, 年寄りの持病自慢は、老人の猥談だと!
2009年03月07日(土)
50歳半ば頃から同級会では、年金か成人病の自慢のしあいか、誰かの死の話が中心になる。
青春時代に自分の体つきや身なりを気にしたり、性体験を陰で話したり、猥談を話したくなる時期があるが、
それと同じく、自分の「体調」や「病気体験」について語りはじめる老人の「健康談議」を「老人の猥談」というらしい。 
五十歳代半ばの下半身の衰えは男の共通の話題。 その次は癌体験か糖尿病か心臓病などの成人病の披露のしあい。
こういう場しか、深刻な悩みを聞いてくれるところがないこともある。 それを老人の猥談とは上手くいったものだ。
要するに下半身のことや持病の露出は、人様の前では極力避けるべきである。
猥談に関しては家では御法度であった。マナーとして当然のことだが、それが平気でいう人がいて驚くことがある。
母からは、「匂いのするような話をしないこと」が刷り込まれていた。それと同じことが、「自分の持病を公然と話すことが、
老人の猥談談義」というと、なるほど肯ける。言うなら、抽象的に、なるべくは人前では言わないことである。
歳を重ねるほど二重三重に注意しなくてはなるまい。60歳までは死は後ろから迫ってくるが、
70歳になると前からくる感じになるという。だから互いに傷口を披露したくなるのだろう。
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2529, 山田風太郎アフォリズム
 2008年03月07日(金)
彼の本が好きで、何冊か図書館で借りて読んできた。暗い中に何ともいえない温みがあり、2年に一度は彼の本を読んでいる。
また亡くなる前に朝日新聞に『あと千回の晩飯』が連載したことがあった。なかなか文に鬼気迫る内容だったことを憶えている。
先日も『人間魔界図鑑』を借りて読んだが、著作群の中からの警句やアフォリズムなどを一冊にまとめたもので読みやすい。
手元に置いておきたい本と判断し、アマゾンの中古本を注文することにした。
以下の文章は 「人生(時間)のセイムスケール」というHPの中の山田風太郎アフォリズムなどを抜粋コピーしたもの。
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★「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」
★「我が命は地球より重い。他人の命は犬より軽い」
★「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている」
★「みんないう。いつか死ぬことはわかっている。しかし、「今」死にたくないのだ」
★「---いろいろあったが、死んでみりゃ、なんてこった、
 はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆」
★「死が生にいう。〈おれはお前がわかっている。しかし、お前にはおれがわかっていない〉」
★「死の瞬間に何人も悟るだろう。--人生の目的なるものが、いかにばかばかしいことであったかを」
★「生きながらそれは、多少ともすでに神曲地獄篇の相を帯びている」
★「いかなる人間も臨終前に臨終の心象を知ることができない。
 いかなる人間も臨終後に臨終の心象を語ることができない。何という絶対的聖域」
★「生は有限の道づれ旅 死は無限のひとり旅」
★「幸福の姿は一つだが、不幸のかたちはさまざまだ、とトルストイはいった。
  同じように、人は、生まれてくる姿は一つだが、死んでゆくかたちは さまざまである」
★「女ほど世にも尊きものはなし、釈迦も孔子もひょこひょこと生む」(「お血脈」という落語のなかの狂歌
★「死をはじめて想う。それを青春という。
★「人間は正視することの出来ないものが二つある。太陽と死だ」(ラ・ロシェフーコー
★「同じ夜に何千人死のうと、人はひとりで死んでゆく」
★「人は死んで三日たてば、三百年前に死んだのと同然になる」
★「人生の大事は大半必然に来る。しかるに人生の最大事たる死は大半偶然に来る」
★「君の骨も乾かぬうちに、君の名も行為も忘れられた」
★「もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。
 したがって社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう」
★「臨終の人間〈ああ、神も仏も無いものか?〉。神仏〈無い〉」
(字数の関係でカット 09年03月7日)
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 次回は、『人間魔界図鑑』の中の面白そうなところを抜粋してみる。
後記)また二年前の今日、山田風太郎アフォリズムについて、書いてあった。
 偶然というより、必然か、ネタ切れか、同じことしか考えられないのか?
 その程度ということか? 死について心せよ!ということか!
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2007年03月07日(水) 2164, 宮城まり子
                  (~Q~;)  おはよう〜〜 サム!
3月の日経新聞の「私の履歴書」は、「ねむの木学園」園長の宮城まり子である。まだ6回目だが、なかなか面白い。
 宮城まり子といえば私の小学校の頃から映画などに出ていたが、甘っ2007たるい声が印象的であった。
その後、芸能界をやめて「ねむの木学園」を開いた。もう二十年前のことになるが、TVでその
  「ねむの木学園」を放映した。 その時の子供の絵を見たときの衝撃は今でもハッキリと憶えている。
ピカソのような絵だが、絵から純粋な子供の心が直に伝わってきたからである。
役者をやめた後からも、人生の舞台の「役割り」を正直に生きている人である。
「人生を思いのまま生きている人がいる!」というのが当時の感想であった。
私の履歴書」の一日目に書いてあった、学園を開設するにあたっての、愛人?の作家・吉行淳之介との3つの約束がよい。
1.愚痴はこぼさないこと。2.お金がないと言わないこと。3.君を信じてくる子のため、やめてはいけません。
その時、宮城まり子は「ハイ」と答えたという。 三回目の、彼女の母の教えの「感じたまま」の言葉が印象的である。
ーそこを抜粋してみるー
私は母と並んで絵を描くのが好きでした。小学校に入って間もない頃でした。
並んで描きながら私は母に聞きました。「お母さまはどうしてそんなに絵がうまいの?」すると母は
「まりちゃん、人の絵をうまいなどと思っていけません。人は人、自分は自分。自分の絵をお描きなさい。」
  と少し厳しい口調で言いました。
「お母さんは大人になってしまったから、あなたのような素直な絵は描けなくなってしまったの。
 あなたにはあなたの絵があります。好きなように描きなさい」大きくなったら絵描きさんになりたい。私の初めての夢でした。
しかし母の言いつけを守ると学校で叱られました。絵の時間にラジオ体操をする人を描いたときのことでした。
その人がとても気持ちよさそうに見えたので、感じたままに描いたら 腕が背よりも長くなりました。
  先生は「真面目に描きなさい」といいました。
「ねむの木学園」では私は絵も担当していますが、一度も「上手ね」と言ったことは ありません。
  「うれしいわ」と言っています。だって「上手ね」と言ったら子供はそれで安心をして満足してしまいます。
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書き写しているうちに20年前のTVの内容を再び思い出してきた。「ねむの木学園」の知恵足らすの子供が
  ピアノ演奏をしたが、鍵盤に魂を込めたピアノの音に気持が引き込まれた。
感動のあまり、その番組のビデオを何人かに見せた思い出がある。
    今月は、毎朝彼女の魂と出会うことができる!
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2006年03月07日(火)
1799, 風太郎の死ぬ話   (○´・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ
              −読書日記
山田風太郎の「死」に関する本を読むと、色いろの人の死に様が面白可笑しく書いてある。そして読み終わって
「死」が軽く思えてくるから不思議である。また「死」を考えることは「生」を考えることになるのに気がつく。
死に様が、そのまま生の完成といえるということだろう。これまでも山田風太郎の『死』について取り上げてきた。
暗いと言われるが、お経を読んでいるようで逆に安らぎを感じる。私が風太郎の死に対し一番好きな言葉がある。
「・・・いろいろあったが、死んでみれりゃ〜、なんてことった。はじめから居なかったのと同じじゃないか皆の衆」である。
この本の中にも強烈な言葉が次々と出てくる。
・信長は本能寺で死んだからこそ信長であり、西郷隆盛は城山で死んだからこそ隆盛なのである。あるゆる欲望を満喫し、
 大往生した死に方は、その人の人生が誰の同情も関心も共鳴を買わないという点で、芸術的に失敗作である。
フィリップ・アリエスの「昔の死は、人が死にいく人物を演技する喜劇的な悲劇であった。
 今日の死は、人が自分の死ぬのを知らない人物を演技する悲劇的な喜劇である」を取り上げ、
 これによって著者の風太郎が「人は管につながれて生まれてきて、管につながれて死ぬ」というアフォリズムを作ったという。
・「 臨終の人間『ああ神も仏も無いものか?』  神仏『無い』」「また臨終の人間『いま神仏が無いといったのは誰だ?』
 答え無し。  ー暗い虚空に、ただぼうぼうと風の音」
  −−−    
  ここからはこの本(風太郎の死ぬ話)から少し離れる!
 死といえば宗教学者であり東京大学教授だった岸本英夫の「わが生死観 」の言葉が深く響いてくる。
 十年間の死と闘いの中で冷静に死の恐怖の心理を克明に書いている。
   父の死に際をみていたので、その恐怖感が理解できた。
ーその一部を紹介してみるー
もう一度くりかえしていえば、死後の生命の存続を信じない私が、 癌というような思いもかけない病気のために、
  生命飢餓状態におかれ、死の暗闇の前にたたされたのである。天国や浄土などの理想世界を信ずるものにとっては、
死後の世界は、暗闇ではない。 一つの実体である。しかも、輝かしい世界である。
しかし、私にとっては、それは、真黒の暗闇であった。私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持で凝視しつずけた。
そうしているうちに、私は、一つのことに気がつきはじめた。それは死というものは、実体ではないということである。
死を実体と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実体ではなくて、 実体である生命がない場所で
あるというだけのことである。そういうことが、理解されてきた。生と死とは、ちょうど、光と闇との関係にある。
物理的な自然現象としての暗闇というのは、それ自体が存在するのではない。光がないというだけのことである。 
光のない場所を暗闇という。人間にとって光にもひとしいものは、生命である。 その生命のないところを、
人間は暗闇として感じるのである。死の暗闇が実体でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見。
これを裏返していえば、人間に実際与えられているものは、現実の生命だけだということである。
人間は、日々の生活をくり返して生きている。 これは、疑いのないことである。 人間にとって生命は実体である。
しかし、人間にとってあることは、今生きているということだけである。人間には、生命がある。五十年か六十年か生きているが、
その寿命の中の一日一日は、どの一日も、すべて人間にとっては同じように実体としての生命である。どの一日も同じように尊い
寿命がつきて、死が近ずいたとしても、その死に近い一日も、健康の時の一日と同じように尊い。そのいのちのなくなる日まで、
人間は生命を大切によく生きなければならない。死というのは別の実体であって、これが生命におきかわるのではない。
ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。このような考え方がひらけてきた後の私は、
人間にとって何よりも大切なことは、この与えられた人生を、どうよく生きるかということにあると考えるようになった。
いかに病に冒されて、その生命の終りが近ずいても、人間にとっては、その生命の一日一日の重要性はかわるものではない。
つらくても、苦しくても、与えられた生命を最後までよく生きてゆくよりほか人間にとって生きるべき生き方はない。
このようにして、死の暗闇の前に素手でたっていた私は、このギリギリの限界状況まできて、逆に、大きな転回をして、
生命の絶対的な肯定論者になった。死を前にして大いに生きるということが、私の新しい出発になった。
それ以来、私は、一個の人間として、もっぱらどうすればよく生きることができるかということを考えている。
しかし、そう生きていても、そこに、やはり生命飢餓状態は残る。
人間は、一日一日をよく生きながら、しかも同時に、つねに死に処する心構えの用意をつずけなければならない。
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岸本は死の告知を受け、   ガ━━Σ(゜Д゜|||)━━ン!!
「身の毛がよだつほどおそろしい」と実感を述べている。その恐怖を乗り越えて、
「いま」を生きることの尊さに目覚め、「今が最後」とつねに思いつつ生きるところに、自分の安住をおいた。
             ☆~~ヾ・ェ・)o尸~死んじまえばそれまでよ!       マタネ~♪
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2005年03月07日(月)
1434, 滝の話
1月前になるが、「白川義員の世界百名瀑布に挑む」をNHK・ハイビジョンを見た。
再放送で見るのが二回目だが、一回目見たときと同じ位の感動をおぼえた。
よいものは何ごとも、見れば見るほど、知れば知るほど、その奥行きの深さが見えてくる。
滝、氷河、山脈、草原、断崖、海岸などの大自然に対する感動は何にも変えがたい。水には、生物が発生した
  「海水」の原点がある。「生き物」のように、色いろな表情をみせるため、本能的な何かが騒ぐ。
世界3大瀑布といえば、
・ブラジルの「イグアスの滝」      ・南アフリカジンバブエの「ビクトリアの滝」
・カナダの「ナイアガラの滝」である。  ・そして、4番目が南米のベネゼイラにある
「エンゼルフォールの滝」である。その中でイグアスの滝は、ずば抜けている。とにかく規模が他の滝に比べて桁違い。
昔、アメリカの大統領夫人が、この滝を見て「ああ、可哀想なナイアガラ!」と思わず言ったという。
しかし、何で三番目がナイアガラなのか解からない。ただ、美しさは抜群である。
遊覧船で滝の近くまで行って、180度の滝に囲まれてみる豪快な光景はさすがに凄い!
   ー以下字数の関係でカットー
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2004年03月07日(日)
1068, フランチャイズ・ショー −2
 主観を込めて「面白い順」に書いてみる。
・まずは「1980円のフグチリ」を売りにしているフグ専門店。
 フグ専門店の3分の1値段で、ふぐ料理の価格破壊を目指している。 味は高級専門店にまけないという。
 以前TVで見たことがあったが、実際担当者から生で聞く話は格別面白い。
「フグ料理や開店指導やフグの供給」をするという。 客単価は6700円とか。
   開店資金まで希望なら融通するとか。 現在は東京から30キロ圏がチェーンテリトリーという。
 別にフグ屋をする気はないが、何事も好奇心で聞いてみたが、本当に面白い!
・次は介護ビジネスで、デーサービスだけに特化した業態のFCが面白い。
 一日あたり、顧客?一人単価一万円、人件費一人当たり一万、ハード(施設)の
 ランニングコストが一日1万。ビジネスとして割り切ると面白そうだ。
 30人収容で、職員9人のチームでまわす。開店指導から軌道に乗せるまでのノウハウの販売である。
・保育園の開店指導主体のFCもあった。開店が一番大変で、一度オープンをしてしまえば、
 その後のノウハウはほぼないとか。開店ノウハウ販売型FCと堂々と言ってのけるのもよい。
・目立ったのが、インターネット・カフェである。 漫画本とゲームとインターネットの併設のもので、
   時間制の料金システムのものが 印象的であった。(例:15分ー100円)
・自分史のCD作成の商売もあった。50万円で写真から履歴や文章などをCDに収め、10年間大手銀行の貸金庫に
 預けて置くシステム。死んだ後に配る饅頭本の現代版といえる。  面白いことを考えるものである。
                     ー 続く
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2003年03月07日(金)
702, 心と魂
以前に社内報の事業百訓で、 「心」と「こころ」と「魂」の違いを書いたことがあった。
 ーホームページH09/05-見聞皆師
先日、ある本を読んでいたら、パソコンのハードデスクを「魂」、ソフトを「心」に喩えていた。
ーその概要は以下に書き写す
 魂と心は厳密に言うと違います
・魂はパソコンでいうとハードディスクやCPUを中心としたハードウエアにあたり、
・心は基本OSを含むソフトと例えることが出来る。
 心の基本形成は、親の心のエネルギーを吸収しながら6才頃に、そのアウトラインがほぼ完成するという。
 パソコンでいえばウインドウズのインストールを終えた状態。
・「こころ」の核となっているのが魂で、これは生まれながらのもの。
・魂は天命・宿命に関わり
・心は運命を左右します。
・そして双方の共同作業の結果が、あなたの「個性・能力」となって現れる。
魂の進化は心とともに ある。 パソコンは平成8年春の製品でクロックは120しかありません
150以上を指定してあるウインドウズMeはインストールできない。メモリーとハードディスクは最大限増設してあるが、
クロック増設の手間と費用に見合うだけの魅力がMeに有りや否や?深層心理学者のユングは「魂はしだいに進化し、
聖なる方向に向かっていく」といっている。この進化の方向に関わってくるのが心なのです。 Me(心の向上)を諦めたので、
ハードウエアのクロック(魂)は120のままで進化していません。こころの葛藤とは魂と心の綱引きをしている。
魂は多くの業(ごう、因縁ともいいます)を持っていて、その業は縁あらば表へ出ようとしています。 それが自己本位の
好ましくない事だったら、心がセーブをかける仕組みになっているが、本質的には「魂の方が強力」です。
魂が要求している事柄を実行して良いかどうか…を
・「判断するのが心なのです」が、・「決断するのは魂」です。心が「ノー」という結論を出すと、
そこで魂と心の綱引きが始まるのですが、魂が心の判断を無視して行動を起こすと、人間社会の中では往々にして問題行動となる。
40にして惑わず、という言葉があるように、どうやら人間は、その年代以上にならないことには、
「魂を制御できるだけの心は完成しない」ようだ。
ー以上であるが、喩えが解りやすい。
 また他の本で「自己」と「魂」は似ているとか。 自己の背後にある大本が「魂」といってよい。
自己実現」を「魂をつくること」と言い換えたほうが むしろ解りやすいことからも納得できる。
 ー魂の喩えとして
・心の親 ・心の故郷 ・心の実家 ・宗教心 ・他己 ・御祖先様 ・心の積み重ね ・神ーラージX
「心を込める」と「魂をいれる」と言葉の重みが違う。「魂を入れる」は全身全霊を入れるという意味合いにがある。
そうすると全身全霊ということか。対象の物事に対して「魂がこもる」ともいう。
一生は「魂をつくること」ということか。自己実現を図る事だ