* レストランで財布を落とした男「千ポンド入りの財布を落とした。
  見つけた人に百ポンドはらうぞ!」というと、奥のほうから「俺は二百ポンド払う!」
* 教会での結婚式に参列していた小さな男の子が小さな声で母親に訪ねた。「ママ。あの女の人ドレスはどうして白いの?」
 「白いウェディングドレスは,幸福の色なのよ。人生で一番幸せな日に着るのよ」
 「フーン」男の子はしばらく考えて,また聞いた。「じゃ、ママ。なんで隣の男の人は黒い服を着てるの?」
*「ママ、新婚旅行って何?」 「結婚したばかりの男の人と女の人が一緒に旅行することよ」
 「ふうん、ママもパパと行ったの?」「行ったわよ、とても楽しかったわ」
 「その時ボクも一緒に行ったの?」 「もちろん行きましたとも。行きはパパと一緒に、帰りはママと一緒にね」
* A子が久しぶりに車を運転していた。 その時、母親が心配そうな声で彼女の携帯に電話を掛けてきた。
 「もしもし、A子?母さんよ。今どこ?」 「東名高速に入ったところ」 「東名高速!?気をつけて!
  今ニュースで言ってたんだけど、そこを逆走してる狂った女がいるんですって。あなた見なかった?」
 「見た見た!でも一台じゃないわよ」 「え?」 「さっきから何百台も逆走してるわ」
*「どうしたんだ?そんな暗い顔をして」 「ああ…。実は俺、もうすぐ父親になるんだ…」
 「本当か! おめでとう! でもなんで喜ばないんだよ?」 「妻にまだ話してないんだ…」
* 週刊誌の人生相談のコーナーに、男性読者から次のような手紙が送られてきた。
 「ボクは20歳の独身男性です。六ヶ月前から、誰が見ても魅力いっぱいの女性と同棲しています。
 彼女は美しくて、利口で、愛想がよく、かわいらしくて……。僕たちはお互いに声を張り上げたことなど
 一度もありませんし、口げんかで二人を包み込む青空にかげりがさすなどといったこともありませんし、
 そこでお伺いします。僕は彼女と結婚するべきでしょうか?」 回答者はただ一行、こう返信した。
       「そんな素晴らしい関係を台無しにするのは、おやめなさい」
* 妻 「ねえ、このあたしの作った肉じゃが、どうかしら」   夫 「愛してるよ」
  妻 「料理の味のことよ」  夫 「食べたから言ってるのさ。それでも愛してるよ」
* 朝食中、夫が広告を見て言った。 「見ろよこれ。タイヤの激安セールだって。ほしいな」
 「何のためにタイヤなんか買うのよ! 車なんてないのに、バッカみたい」
  夫はムッとした顔で、「お前がブラジャー買うのに俺が文句言ったことがあるか?」
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887,日本は輸出立国か?
2009年03月01日(日)
野口悠紀雄は、その著書で、
アメリカの金融立国に対応して、日本も円安に誘導して資金をアメリカに供給し、
かつ円安メリットを最大限利用して輸出立国をつくりあげた。 金融恐慌は日本も同罪である」と断じている。
しかし統計の数値からみて、果たして日本が輸出立国かという素朴な疑問が生じるのも事実である。
他国のGDPの輸出比率をみてみると、意外なデーターがある。
・中国 37パーセント ・韓国 37パーセント ・ロシア 30パーセント
・欧州平均 50パーセントの数字。(中は大きなばらつきがあるが)
原油輸出国のクエート 56パーセント。 他の産油国では90以上だろう。
  対して日本は 15パーセント なのである。間違いだろと思ってしまう数字である。
 これからみると、日本は輸出立国と果たしていえるのだろうか。しかし輸入も13〜4パーセントがあるので輸出は必要である。
特に資源輸入国なので、それを稼ぎ出さないければならない。他の先進国は、天然資源や食料があるが日本にはないので車や
電子製品などを輸出して、それを輸入でまかなうしかない。石油などのエネルギーを20兆円、食料6兆円の輸入は必要。
したがって、少なくともそれだけの輸出を確保しなければならない。食料自給率が40パーセントを割ったことも、
日本にとって不利である。食料輸入国と割り切って、それを他でまかなえばというが、戦略的輸入制限をされる可能性がある。
日本はバブル崩壊後に、自動車と電機製品を牽引車として日本経済を支えてきたことも事実。島国の日本は、やはり輸出産業を
中心にしなければならない。  それからすると輸出立国である。今まで通りのアメリカの属国として与えられてきた恩恵が
なくなりつつある日本の舵とり、日本の政治の質があまりに貧弱なのは現在の混乱をみれば分かるが・・・
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2008年03月01日(土)
 2523, 賢人の知恵 ?2
 面白そうなところを幾つか選んで、考えてみる!人間や、それを構成している社会などは数百年経っても、
 簡単に変わるものではない! 人間は全て、飯くって、?!して、寝て、死ぬのだからだ。    
    ーー
“知恵を備えていることが最大の幸運であり、それがないことが最大の不運だ”
 ー解ー 知恵は知識が醸成され出てくるもの、そうでないのは浅知恵でしかない。
“言葉は飼いならされてない野獣と同じ、一度解き放つと戻ってこない。”
 ー解ー 全く、これでどれだけ無駄をしてしまったか!
“第三者の悪口を言うのは、下手な駆け引きでしかない。”
“運のいい人を見分け、ついていない人からは逃げるに限る。”
“大事なのは知識より知人である。”
“落ちぶれた人とはかかわりを持たないほうがいい。”
“友人に貸しがあるなら、つまらないことで返してもらわないこと”
“うそをついてはいけないが、すべてを明らかにする必要もない。 ” うそも方便だが、その方便がつけないから・・・?
“敬愛される立派な人と行動を共にしていれば、その威光のおかげで、こちらまで輝いて見えるのだ”と言う反面次の次のページで、
“「自分より光っている人は、・・相手の方が常に注目や栄光を集め、こちらはそのおこぼれにありつくだけだ。
 ・・自分より優れた人とではなく、平凡な人と肩を並べて歩くこと”
 “平凡な人と付き合おう。自分より優れた人と一緒にいると自分が目立たないから。”など、矛盾もしている。
 “みんなが王になれなくても、一人ひとりが王にふさわしい行動を目指すことが可能だ”
 ー解ーこれが少し分かりかけたのが、ごく最近になってからだ。神と言い換えてもよい。
“自分という作品を完成させようではないか”
 ー解ー この人は、牢につながれたのが完成か?でも、この方が素晴らしい!
”賢人は、何ごとも偶然はないことを知っている。ただし運命に身を任せるより、自ら運命を切り開いていく人になろう。
 よく考えればチャンスに敏感でいること以外に成功の道がないことがわかるはずである。”
 ー解ー 何がチャンスか、それを常に問いかけていないと敏感になれない。
“持てる資源を一度に使い切らないこと。今の境遇を保ちたいなら、後方に備え・蓄えを用意しておこう。
 失敗の恐れがあっても、利用できる援軍があれば力は倍になる。後方部隊は、前線より重要といえるだろう。
 彼らは信頼と不屈の精神で成り立っているからだ。常に大事をとることを考えよう。
 ー解)当時の彼に孫子を知るはずもないが、孫子の兵法と同じことを所々で述べている。
“人には七年ごとに転機があるという。これを精神向上のためのしよう。
 最初の七年は知性の誕生で、その後七年ごとに新しい美徳が輝いてあらわれるのだ。
 この間に起こる変化を意識して、うまく手助けしよう。 変化は新しい地位や仕事などの形で
 ごく普通にあらわれるかもしれないが、かなり大きくなるまで気がつかないときもある。
 人は、二十で孔雀のように気どって歩き、三十で獅子のように吠える。
 四十で酪駝のように節制家となり、五十で蛇のような陰険さを身につける。
 六十はくだらない犬、七十はする賢い猿、そして八十は……、何も言うまい。”
 ー解)ーくだらない犬のとしになったか? それにしても辛辣である!
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2007年03月01日(木)
2158, 幸福に驚く力 ?4
          (~Q~;)  おはよう?? キョウハ スゴク サム? 
ーまずは、要点の抜粋から
  *日常の幸福に驚く力*
 何かを買ってもらった喜びと、何処かに連れて行ってもらった喜びを除いた子供時代の一番幸福な思い出は
何だろうかと考えると、チョッとしたことの中に喜んだことを多く発見することができる。
つまり日常にあるそういう幸せをしっかり受け取る力が子どもにはあるのです。しかし、それを放っておくと、
イベントや買い物の方にいってしまう。そういうものに邪魔をされて見えなくなってしまう。
そして「凡庸で退屈なことは悪だ」という情報社会の空気の中で自分たちの日常なんてつまらないものと思い込まされていく。
そういう力が今、私たちに色いろなカタチでのしかかってきている。そんな中で子どもの文学は、日常の中にある幸福に
驚く力を培ってくれるのです。問題は、そういう物語を手繰りよせる力が弱まっていることですね。
とにかく、いつの時代でも、読み書きはちゃんとしておいて欲しいですね。読む力が衰えてきますと、
先人の残した素敵な日常の物語、幸福物語が、手元に手繰り寄せることができなくなります。
数々のそういう物語がすぐ傍らで手が伸ばされるのを待っているのに。そうなると、一人一人がただ孤立していきます。
 解)昔の日記を読んだり思い出など過去を振り返る時「そこにある日常に、むしろ面白い深い人生の意味が含まれている。」
という視点で見直すと、過去が違って見えてくるから不思議である。その時の淡々とした日々のちょっとしたことの積み重ねが
人生なのである。そのことに気がつけば、現在の日常のチョッとしたことや、何でもないことの中にある幸せに気づくことになる。 
何故そのことに気づかないのだろう?それは「自分が物語の中で生きていることに気づいていない」からである。
もし本人が不幸と思っているある日のことでも、冷静に振り返れば幸福が背後にあったことに気づくはずである。
  *凡庸や退屈が悪と思わせられる社会*
「これから入っていく情報化社会は、価値観が相対化され、思い軽いがない、みんなのッぺらして凸凹のない社会になる」
「この社会は、物珍しく刺激的なことが善とされ、凡庸な退屈なことは悪とされる」と西垣通がいっていた。
 解)『「凡庸や退屈が悪と思わされる社会」が悪い!』というのも、『いや二度とない人生、凡庸は「悪い!」』というのも、
 所詮はそれぞれの人の判断で、相対的なことでしかない。でも、内省してみると、凡庸を悪と思ってきた傾向があったようだ。
「二度とない無い人生!悔いの無いように生きるべし」が人生と信じるなら、凡庸と退屈な日々を否定する人生になる。
 それも相対の世界観でしかないが。
 ー字数の関係でカット(2009年0301)
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2006年03月01日(水)
1793, 心に効くクラシック
   ォ'`ォ'` 。+゚ヽ(。・c_,・。)ノ゙。+゚ォ'`ォ'`  ー読書日記
 ー深夜のクラシックー
              ー字数の関係でカット(2008年0301)
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2005年03月01日(火)
1428, ワインの話?1
 思索紀行ーぼくはこんな旅をしてきた  ー読書日記
飛行機の中や、ホテルで国ごとのワインを飲んできたが、ー美味い、不味い。辛口、甘口。酸味の濃厚さ。
口当たりが良い、悪い。香りの良し、悪し。白・赤・ローゼー位の語彙しかなかった。
勿論、一万円を一本飲むより、1千円を10本飲んだほうが良い。サエゼリアのグラスの一杯80円のハウスワイン
良しと思っているようでは、何おか言わんやだ。ハウスワインとして割り切っていれば、それで充分だが。
この本を読んで、一本数万、いや数百万のワインを飲む意味が少しは解ったような気がした。
ワインに対する知識は、昨年ウィーンに行って少し聞きかじった位だ。
「良いワインを飲む回数が重ねた分だけ、少しは味がわかってきた」と思っていた。
しかし立花隆のこの章を読んで「何も解ってないということが解った」。
映画で、金持ちが地下にワイン貯蔵庫を持っていて、それを一人密かに飲むのを楽しみにしている
場面を見たことが何回かある。欧米の大金持ちの道楽の一つになっている。
欧州の紹介番組みで、ワインの酒蔵の醸造オーナーが、数十年前の取って置きのワインをレポーターの飲ませる場面を見た。
レポーターは涙を溜めてその美味しさを話していたが。この本で知ったことだが世界のワインの有名産地に殆ど行っていたのだ。
南アフリカ、スペイン、ドイツ、チリ、イタリア、フランス、オーストリアなどなど。
この知識があったら、その楽しみも増えたのにと残念至極である。「人生は知らないということを知るプロセス」だが。
知らないということは多くの経験の機会を損失をしていることになる。それも一生を終える時に、つくづく実感をするのだろう。
これから書く内容は、この本の第三章「『ガルガンチュア風』暴飲暴食の旅」のワインについての記載をまとめたものである。
20年前に書かれていた文章に解りやすくワインの話が書かれていた。その内容を、知識として貯蔵するために簡略してまとめた。
ーーーー
ワインには、AOCワイン(原産地表示ワイン)と、ハウスワインに分けられる。
欧州の一般の人は、殆んど普段は安いハウスワインを飲む。フランス国内では、前者は一本千円単位、後者は百円単位である。
といって、日本で売られている不味いワインとは全く違う。毎日千円単位で飲めるほどフランスは豊かではない。
欧州では、ワインはがぶ飲みをしてはいけない。特に高級ワインほど、深く味わねばならないとか。
・単に味覚で味あうだけでなく、・目で見て色を味わい、
・香りを味わえという。    ・更に、プロや通になると言葉で味わいを表現しなくてはならない。
その表現法も様式化していて、そのための用語集もあるという。まずワイングラスに注いで、
それを光にかざしてみる。色を見る。色の表現だけで、数十種類もの表現がある。                 
                 ーつづく
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2004年03月01日(月)
1062, 「まず街灯の下を探せ」
野口悠紀雄の「超」整理日記「デフレとラブストーリーの原則」の「まず街灯の下を探せ」が面白!
?暗い夜道を歩いていて、鍵を落としたことに気づいたとする。どこを探せばよいか ?物理学者のアドバイスは、
「まず街灯の下を探せ」ということだ。数学の試験問題を解くには、この「街灯の下原則」に頼るしか方法はない。
「当面している問題は、過去に解いたどの問題と同じタイプか」と考え、それに当てはめて解くのである。
最初の発見者は十分な時間をかけたはずだ。それと同じことを、限られた試験時間内にやるというのは、無理なのである。
つまり、「学校の数学は暗記」ということだ。必要なのは、問題のパターンを覚えることだけである。
「自分で考えて解かなければならない。しかし、私にはできない。だから、私には数学的な能力がない」と思い込んで
数学から離れていく人が何と多いことだ。暗記した問題のパターンに当てはめれば解けると確信すれば試験の成績はよくなる。
事例問題を暗記しておくのがよい。 「街灯が事例問題」の例である。
ー以上であるが、
まずは知らない街に行ったとする。そうすると、何かの本かのTVか雑誌で聞いたことがある店に行く。
知らない店に行くより外れの確立は少ないだろからだ。経営でも考えられる。
何かを新規にしようとしたらベストの事例(灯り)を見つけ、その灯を頼りに鍵を探すことだ。
街灯を知識・情報以外に、考えられないだろうか。意志だろうか、それとも愛だろうか、知恵だろうか、それとも?
情報化社会ほど、情報と知識と、それを活用する知恵が必要とされる時代である。
まずは光り(情報・知識・意志・愛・?)が一番重要になる。この街灯が情報社会の到来で、世界中に灯ったのだ。
その為には、まずは目指す街灯を探さなくてはくては!
・・・・・・
2003年03月01日(土)
696, ルーツ ー1
ー我家の家系
自分のルーツを探って行けば、ビッグバンにいきあたる。そして宇宙の創造、地球の起源、生物の起源、動物の起源、
人間の起源、日本人の起源、そして家系、自分になる。  家系といえば最近「家」の崩壊が始まっている。
数年前に佐藤愛子の「家系」が数年前にベストセラーになった。10数年前にアメリカでも、ある黒人のルーツ探しの
TV映画が放映されて、ルーツ探しがブームになった。
私の家の家系の話をしてみる。30数年前に父のところに遠い親戚の変わった?おじいさんが訪ねてきた。
「自分ー堀井のルーツを調べたいのだが、小千谷に郷土研究家から詳しい事を調べたい。
そのためにはまとまったお金が必要だ。資金援助をしてくれ」とのことだった。
その場で断ったが、父は「自分が調べて解ったら教える」と約束した。そしてその小千谷の郷土研究家のところに
行って調べてもらった。そのコピーを子供たちや親戚に配った。勿論私も貰って手元に今もある。
実家の店の屋号が「池津屋」で、道具屋を戦前までしていた。
父は「山本五十六」や「ツガミ社長の津上退助」や「野本互尊」との付き合いがあった。
戦前戦後と長岡ではこの「屋号」は老舗として一目置かれていた。
母が実家に嫁いだ時の資産が八萬円だったというから、地方ではミニ資産家だったようだ。
小千谷の近郊に「池津」の村があり今でも30代続いている「大本の本家」がある。
その時に両親が訪ねて行ったと聞いた。幕末にある先祖が長岡に出てきて古道具屋を開いた。
その孫娘が婿をとって、分家の道具屋を開いたのが2代前の祖父祖母である。
本家筋はもう商売を7?80年前にやめた。両親は戦争中に道具屋から仏壇屋に転進、戦死が多く大繁盛したという。
                          ー続く
・・・・・・・
2002年03月01日(金)
346, 20歳の頃ーある教授との出会いー3
  武澤信一教授  人事管理ゼミ
私の人生で最大の師は大学の恩師武澤先生である。もう亡くなられて7年になる。
イメージはキザな気取り屋で、底知れぬ教養人です。話しているだけでコンプレックスの塊になる。
特に人事管理の世界的権威のレベルと聞いていた。先生との出会いがなければ、30数年間一日平均
2〜3時間の読書を続けられなかったと思う。 知的コンプレックスを脳の中心に叩き込まれたためだ。
非常に印象は冷たく、傍にいるだけで居たたまれなくなる人だったと思います。
親分肌の正反対のタイプだ。あだ名は「絹布団」自分でも気にっていたとか。
初めは冷たく感じるが、長く付き合ってもらえれば温みが感じられる。
目上の人で筆不精の私が何回も、手紙や葉書をやり取りしたのは先生が初めてであった。
                ? 遺稿文を載せてみるー
ーさようなら武澤先生ー  
       ー武澤先生ご遺稿・追悼文集ー「はげみ」より
武澤信一先生、そして懐かしい武澤ゼミ、八王子ゼミナール、はげみの会、最終のゼミナールとその晩のコンパ。
そして先生の退職時のはげみの会(最後のゼミナールと称して参加者の全員の自己紹介と経緯の説明)等々、
様々なことが思い出されます。私の学生時代、いや50年の人生で恩師武澤先生をのぞいて考えられない位、大きい存在でした。
‘ご遺稿・追悼文集’発行の手紙をいただいた時「よかった」と思わず言葉が出てしまいました。
先生に対する追悼の思いを表現する場が、もやもやした中途半端な気持ちにあったからです。
立大3年の終わり頃、親友だった石川譲冶さんより「今入っている武澤ゼミが素晴らしいから、面接に来ないか」と誘われまま、
気楽に試験に行ったのが武澤ゼミとの出会いでした。 そして入ってまもなく大学3年間の、いや人生の22年間の不勉強に、
呆然としてしまいました。そして2学期から卒論を書くにあたって、知的コンプレックスは極限に達してノイローゼの一歩手前の
状態になってしまいました。進路もこのまま果たしてこのまま進んでいいものか?直接その迷いを先生にぶつけてしまいました。
その時の武澤先生の一言が「迷いを数字で表現してみなさい!」でした。その時の自分の答えが忘れることができません。
「51対49」でした。すかさず先生は「それなら、51の方を選ぶべきです!」しかしその後、最終的に選んだのは
49の就職の方でした。「それなら初めから相談に行く必要がなかったのではないか」という矛盾でした。
その後就職をしたのですが、その後そこを辞め大学に編入しなおし、再び就職後事業を起こしました。
そして現在に至っています。そのプロセスの中でいつも先生の影が、自分を追い立てていたようです。
また「51対49」が私の人生観の一つになりました。何事も「51対49」と考えると、迷いも冷静に対処できるのです。
好き嫌い「51対49」差し引き2。正しい、間違い「51対49」差し引き2・・・・。
1989年の夏、先生が新潟大学で第19回の労務学会全国大会で議長をされました。
その時、私のホテル(シングルイン新潟)に泊まっていただきました。そして「卒業後の30年のつもる話」を、
させていただいた事を忘れる事ができません。そして新潟の夜をハシゴをして飲み歩いた事も。
ところで武澤先生と最後にお会いしたのは、1993年の「はげみの会」でした。
二次会で先生が異様に元気がないのが、気になっていました。そして、その会の帰りがけにエレベーターの前で、
私の手を握って「堀井君、遠くから有難う!身体にくれぐれも気をつけて、元気で!」と上下に激しくふった時、
「もしかしたらこれが最後のお別れになるかも?」と思ってしまいました。しかしまさか、こんなに早く現実になろうとは・・。
天国の武澤先生、本当に本当に有難うございました。ご冥福をいのります。
                                      1996年7月13日発行