「人を殺すとはどういうことか
   ―長期LB級刑務所・殺人犯の告白」  [著]美達大和

 現役無期懲役受刑者の言葉だけに、一言一言が重く深く響いてくる。受刑者の大部分が罪など悔いてないのである。
犬や獣のような連中が殆どで、自分の欲望のためなら他者の生命は全く価値も尊厳も感じないと暴露する。
照魔境で照らすと、多くの悪魔の姿が映っているに違いない人たち。 著者は、ここで罪の深さを知り、
カントなどの哲学書から「天上の輝く星、そして内なる良心」の重要性を語る。 
「内なる良心に目覚めることこそ殺人の罪を償う道」であることを獣のような仲間をみて実感する。
 P−10ー 生命を奪うということは、生命だけでなく過去の記憶や未来の希望も全て破壊し尽すということなのです。
それ以外にも、さまざまな負の感情を植え付け、歳月の経過と共に風化させるどころか、増殖させてしまうことに
気がつき愕然としました。・・・・私は殺人には償う術はないと思っていますが、それではどのように生きればいいのか
について、懊悩してきました。 ・・・考え続けるほどに、人間の原初的な善の心の発掘が必要だと知りました。
・・・「獄」という字は、獣や犬がものを言うと書きますが、実際に生活してみると、そのとおりでした。
正常な感覚を持っている者は本当に少ないのです。
 P−250ー 私はここで服役するまで、人はもっと自省し学習すると思っていましたが、現実は違いました。
反省や更正とは無縁の世界に、初めは反省や償いの心を幾らかでも抱いていた人も、流され、
その世界に同化していったのです。真摯に己の罪に向き合うことが、変わった生物でも見るかのような空気があるのです。
「愛する者を奪われた人は、どこにも光はない。地獄のような人生が死ぬまで続く」何とも救いのない言葉です。
・・・加害者が死刑になることで、遺族の応報感情を和らげ、新しい人生を生きる区切りになるというのが
 被害者の遺族の書いた本に書いてあるのを目にしました。
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これらの文章から、とんでもない世界を一人の囚人を通して知らされた。結局は己の良心である。
人生は、何処かで一つ間違えると、こういう世界に迷い込んでしまうのかもしれない。
犯罪者の過去は、次々と周りの人を究極の不幸に落としこんでしまっている。 
著者は二件の殺人事件で終身刑になり、同獄の姿から自分を合わせ鏡として見ることで己を知る。
人を殺すということは、その下地があるということだ。 そして殺人の結果、多くの人まで不幸のどん底
落とし込んでしまう。 しかし、当の本人には、それすら見えてないのである。 
 知能指数の低さからを起因とした無知と卑しさが、そうさせたのである。 

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2688, 「エリック・ホッファーの 人間とは何か」
2008年08月14日(木)
                   −読書日記−
ー遊びをせんと生まれけむー

亡き佐治敬三氏がサントリーの会長だった頃(1995年頃)、
口ぐせのように言っていた言葉に「美感遊創」がある。
・「美」は、羊が大きいが語源。大きく艶やかな羊の美しさを表わしている。美に感応する心である。
・「感」は、 感性、感動、共感。 旅に出て自分の世界の外に出会って感動したり、
  絵画、音楽、映画、演劇などに感動することが人生を豊かにしてくれる。
・「遊」は、神代の昔から人間にとって一番大事なこと。 「遊びをせんとや生まれけむ」と「梁塵秘抄
  にあるように、人間は「ホモ・ルーデンス」。 遊ぶことで人間性を回復し、活力を得る。遊び心。
「創」は、新しい断面、局面を切り開いて、個性のある創造をすること。一瞬の新しいものへのシュンパツ力。
 以上だが、この4つが人間の心の豊かさの要素である。 確かに、人生はこれを磨くプロセスであった。
  この中でも、「遊び」が、人間にとって最も有用な行為になる。
エリック・ホッファーの 人間とは何か」という著書に、遊びについて次のように述べている。
《実用的な道具はほとんどすべて非実用的な関心の追求や暇つぶしにその起源がある。
最初に家畜化された動物ー小犬1は、もつとも役に立つ動物ではなく、もつとも遊び好きな動物であった。
猟犬が出現したのはかなり後のことである。最初に家畜化された動物は子供たちのぺットであった。
おそらく,植物栽培と灌漑も、初めは遊びとして行なわれたのである。 車輪・帆、煉瓦なども遊びの中で
発明された可能性が強い。 たとえば、南アメリカのアステカ人は車輪を使わなかったが、
足の代りにローラーをつけた動物の玩具をもっていた。装飾が衣服に先行した。
弓は武器となる以前は楽器であったといわれている。 人間が初めて粘土を使用したのも、土器をつくるためではなく、
土偶をつくるためであった。 こう見てくればわかるように、昔から人間のもつとも有用な行為は、遊びであった。
土器をつくり、布を織り・金属を加工し、動物を飼育するはるか以前に、人間は絵を描き、線刻画を描き、
彫刻をし、像をつくったことを銘記すべきである。 芸術家としての人間の誕生は、労働者としての人間の誕生よりも
はるかに早かった。 遊びが労働に先行し、芸術が有目的な生産に先行した。
人間はしばしば必要に迫られて楽しむためのものを有目的なことに利用した。 必要に迫られて働いている間は、
依然として人間は動物界の一員である。人間は、ただ生きるだけであったら不必要なもののためにエネルギーを注ぎ、
さらに生命の危険さえもおかす場所に、特異な存在としての人間となり、最高の創造力を発揮する、
したがって、人間の人間化が起こったのは、自然の恵みで豊かで、余暇があり、遊び戯れる性向があった状況に
おいてであったと考えるべきである。 自然界における人類の台頭は、心細い戦場においてではなく、
エデンのような遊びの庭において起こったのである。・・・・ 私にいわせれば、オートメーションの時代の到来は、
魔法円の完成である。人間はエデンという遊びの庭で初めて人間になった。 そして今、人間は遊びの庭に帰還して、
人間の究極的使命を、すなわち人間性の完成をはかりうる機会をてにしている。》
  〜〜〜〜
  遊びの重要性を上手く説明している。 良く遊び、良く学び、良く働く、をバランスよく豊富にすることが
  人生の豊かさだが、私の場合は、そのバランスはとってきたが、「良く」に問題があった? まあ、いいだろう。
  遊びが4、学びが3、働きが3というところだろうが、厳しい娑婆では、働きが4で、他が3だろう。
  まあ、学びも、働きも、遊びまで持ち上げるのが理想である。そのためには好きなことを仕事にすれば良い。
  
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2007年08月14日(火)
2324, 嘘でしか語れない真実もある!
                 (。・・)ノぉはょぅ♪
芥川龍之介に「人生には嘘でしか語れない真実がある」という言葉がある。その典型的なものが旧訳・新訳聖書。
あのような奇跡などあるわけがないが、あの話を通して事実では語りえない真実を語っている。
末期がんの患者に、「あなたは助かりませんよ」と知らしめることが、いいのか?
死ぬ直前まで嘘で固めて、気づかないようにしてやる方がいいのか?これは誰も判断の出来ないことである。
日本には「嘘も方便」「嘘からでたマコト」という言葉があるが、時には嘘も大事なこともある。
女性の化粧など、嘘で固めた外形?ではないか。 いや、真実を引き出す行為か?
プロの物書きは、まずは真実を伝えるためなら平気で嘘を書きなさい!と教える。
読み手は些細なことが事実かどうかより、真実を伝えてくれることを望んでいる。
「正直に拘ると、人生あまりに窮屈で面白くなくなります」という言葉が浮かんできた。 
何処かの小説で誰かが言っていそうである。詐欺師など、嘘のプロが普通の人を如何みているのだろうか?
少なくとも、言葉の効用を知り尽くしている。 嘘にも色いろある。相手を陥れる嘘や自利のための嘘は結局は
自分に跳ね返ってくる。相手のためになる嘘は、それがプラスになり生きてくるものである。嘘でしか語れない真実?
といえば小説などが、その典型?背理法という言葉がある。数学の証明の方法の一つで、俗に「ユニコーン
(空想の動物〜 一角獣)証明」と呼ばれる。「ユニコーンが存在したとしたら〜」などとあり得ない仮定をし、
続けてその夢想から導き出される現実との矛盾を指摘し、最終的に「ユニコーンは初めから存在しなかった」
と結論付ける方法である。不合理な仮説を否定することで、真実を導き出す方法である。
嘘を言ってしまったが、言い続けているうちに自分でも嘘が事実のように思い込んでしまうのが人間の記憶。
長期の裁判で度々死刑囚が無罪になることがある。間違いなく有罪のはずの被告がである。
嘘と、話をオーバーに表現するのと、何処が違うのだろうか?現象、事実、真実。そして、
それらを言葉に換えたとき嘘になる? 言葉は嘘の器?それとも真実を伝える器? 両方か!
                (○´ω`○)ノ**SeeYou**
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2006年08月14日(月)
1959, 人生を物語るとは? −1
           (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
人生を物語るとは?
 自分の人生を振り返り、現在への筋道をたどって、その意味を考えるという、人生の総括である。
悪く言えば自分の人生を絶対肯定化、正当化しようということだ。
自信が無いからか? はたまたドブ沼のドロさらい? いや宝探し? 自分の人生を物語ることが、
自分の人生の意味づけなら、「物語の意味は何か?」を、考えてみる必要がある。
哲学者のリクールは『時間と物語』の中で、「物語」の本質は「筋」の存在にあり、
「筋」とは不調和なものを調和の中に組み込み、そのことによって不調和なものを理解可能 なものとし、
感情の上でも受容できるようにするのだと論じている。成る程!そういえばそうだ。哲学者は上手く真理をつくものだ。
「物語」とは「筋」に 沿って配列された出来事の連鎖ということになる。 たどってきた過去を振り返り、
現在という到達点に至った道のりの要所ごとの出来事を再編成していく作業が、その人の物語になる。
ーある本に「物語」について解りやすく書いてあった。
 先ず、それを紹介してみようー
  自分の人生を回想的に語るとき、
・第一に、 私たちは人生において 経験したことのすべてを語ることはできなし、  語ろうとも思わない。
 「語るに値すること」「語ってもよいこと」「語るべきこと」といったフィルターを通過した出来事のみが語られる。
  回想とは模写ではなく、抽象である。
・第二に、 私たちは人生において経験したことを、たんに時間の順序に従って語るわけではない。
  一見、そう見えるかもしれないが、実は出来事間の因果関係、起承転結というものがそこでは意識されている。
  語り手は、「人生上の出来事を因果の連鎖によって結びつけることによって、自分がかくかくしかじかの人生を歩み、
  別の人生を 歩まなかったのはなぜか、ということを説明しようとしている」のである。
・第三に、私たちはそうした 因果関係の連鎖として語られる自分の人生に対して、「幸せな人生だった」とか
 「つらい人生だった」とか―実際の評価はもっと複雑であろうが、何らかの評価を下している。
  このように個人が自分の人生を回想的に語る(抽象し、説明し、評価する)
  とき、そこには「人生の物語」のパターンが 先行的に存在している。
  だからこそ私たちは、それほど苦労することなしに自分の人生を語ることができるのである。
   また「人生の物語」のパターンは、人生を回想的に語る場合だけではなく、
   これからの人生を どのように生きていこうかと考える場合にも役に立つ。
   子供は「人生の物語」と出会うことによって、「人生」に対して自覚的(目的論的)になる。
   日常生活を構成する諸々の活動が「人生」として 組織化されてゆくのだ。
「人生の物語」には四の類型に分けられる。 
 ・まずは努力と上昇を二大要素とする「成功の物語」 ・そして「幸運の物語」 
 ・「挫折の物語」 ・「堕落の物語」
    「幸運の物語」とは「努力せずに上昇する(棚からぼた餅)」 物語であり、
    「挫折の物語」とは「努力はしたが上昇できなかった」物語であり、
    「堕落の物語」 とは「努力せずに下降していく」物語である。
    「成功の物語」こそが近代社会における「人生の物語」の正本であり、
     他は正本の正統性を際立たせる ための異本である。
     とくに「堕落の物語」は反面教師として「成功の物語」とワンセットで取り上げられることが多い。
 ー以上である
  実際の人生の総括とは、混沌としたドブ沼からこれらの要素を探し出して、ドロ(成功・失敗・挫折・幸福)
  を抜き出していく作業である。成功とか、挫折とか、堕落とか、幸福とかは、二次的なものでしかない!
                                     ーつづく
 ・・・・・・・・・
 2005年08月14日(日)
1594, 犬の散歩

毎朝、ウォーキングをしていると、犬の散歩の人と行き会う。行き会う人の半数近い。
何時も思うのは、犬と飼い主が似ていることである。特に年配の人と犬は、長年の付き合いのせいか、そっくり。
顔つきや体型が似てしまうのは同じ環境にいるためだろう。以前も、散歩の犬に関して少し書いたことがあるが、
時代時代に犬の流行があるようだ。ハスキーが多い時期があったり、ラブラトール・リトリーバーや
ゴールデン・リトリーバーだったり、最近はポメラニアンミニチュア・ダックスフンドなどの小型卓上犬が目立つ。
実家では、必ず犬を飼っていた。そして、それぞれの犬の思い出が多くある。
まぎれこんだり、拾ってきた犬で、雄雌関係なく「コロ」という名前であった。
しかし結婚をしてからは、家内が犬が大嫌いで「飼うこと相成らぬ」である。
もし人生に幾つか悔いが残るとしたら、その一つが「犬が飼えなかったこと」である? 
といって、いま現在では躊躇する。そういえば、最近「雑種」をあまり見かけなくなった。
どういうことだろう?恐らく放し飼いが全く無くなって、チャンス?が無いのだろう。
ところで、雑種を三匹連れているオジサンが、いつも口笛をふきながら歩いているが、
その口笛が聞きほれるほど上手い。その三匹の犬、飼い主に似てか?すれ違う犬に大きく吠え掛かる。
口笛と犬の吠え声で、その存在がわかる。ところであるベストエッセイ集に「犬に似る」というエッセイが微笑ましい。
   そしてプロの文章はすばらしい。
最後の文章を抜粋してみる。
  ー犬に似るー 
 ついでだが、犬と飼い主はたいていの場合、そっくりである。
ずんぐりした人はずんぐりした犬をつれているし、短足胴長の犬の飼い主は短足で腹が太い。
 それでは、いつの間にか名前が平仮名の「そら」に落ち着いたわが家の犬はどうか。
しばらく前まで、スマートで端正な犬だとうぬぼれていたが、このところ、
目の青色は薄くなり、鼻の頭は白く乾いている。猫やカラスを追いかけるとすぐに息を切らす。
息を切らすと、はあはあと長く舌を出し、腹を大きく波打たせる。どったと寝転がっていることも多い。
 そのそらのようすは私にそっくりらしい。いや、私がそらに近づいたのだろう。
先日、家の前を通っている二人連れの会話が聞こえた。「ここの犬、この家のご主人とそっくりよ。
毛の色も一緒だし、体格もうりふたつ」「へえ、じゃ、どっちが犬かわからないわね」 私は思わず吠えそうになった。
                                  (坪内稔典 俳人
最後の一文がきまっている。

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2004年08月14日(土)
1229, 死亡欄

この数年、新聞を見ていると死亡欄に目がいってしまう。それも自分より年齢の下の数をさがしてしまう。
傾向として40歳台から死ぬ人がおおくなる。反面90歳後半や100歳という人も結構多い。
時々、子供や20歳そこそこの死亡も目に付く。やはり女性は80歳台、男性は70歳台が多い。
それぞれ一行の名前と年齢の中に、膨大の人生が詰まっていると思うと人生の深さを感じる。
中学や高校の同級生では、大よそ15?が亡くなっている。特に、50歳を過ぎてから多くなってきている。
そういう年齢になってきたのだ。同級生のある葬式で、「もう、死んでも何で死んだと言わなくなったものな〜」
というコトバが印象的であった。最近は会うごとに同級生が老けていくようだ。まさか自分が、
この連中と同じ歳と思いつつ、トイレでつくづく鏡を見て、そうかそういう歳と納得する。
ところで、ほんの30〜40年前まで人の寿命は50歳と相場が決まっていた。
それが一挙に80歳近くまで延びた。あと50年もしないうちに、なんと100歳になる。
100年もしないうちに2倍になる。それが良いかどうかは何ともいえないが、人生50年より80年の方が良いから
100歳の方が良い。確かに、人生が50年としたら短い。50歳の時に、こんなものかと思ったから、間違いはない。
ところが80年なら長いと思うだろう。シェークスピアは、人の一生を「束の間の灯火」と言った。
                                  今日は盆だ。
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2003年08月14日(木)
862、「財産を無くす人、財産を残せる人 」
 ーデフレ経済下21世紀の日本型蓄財術-  ー読書日記
               清水洋/著
ー私のマトメタ内容ですー
 時代を見極めよ、そして早く決断を!その為に日本の現在をどういう時代かを整理してみると
・「デフレ基調」に変わった。
・官僚型社会主義システムの崩壊過程にある。
・市場原理が支配する自由競争になるー競争の激化。
・レース型競争社会からゲーム型競争社会になる。
・圧倒的な「勝ち組」とその他大勢の「負け組」と分けられる。
・これから5年間は「最悪期」に入る。
国債の暴落とハイパーインフレの可能性が大である。
その結果  ・不動産価格は5分の〜10分の1
      ・株式は5分の1から20分の1
      ・ゴルフ会員権は5分の1から1000分の1
      ・失業率は15~20?
      ・消費税は15~20? になる。
 ー以下は字数の関係上、カット。(03年08月14日)

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2002年08月14日(水)
487,アメリカンインデアン

以前‘アメリカンインデアン’について書いてある本を読んで仰天した。
口伝で代々受け継がれてきた内容が3万年以前のものだたりする。その内容がどうも正確なのだ。
特に「一万年前にシベリアを通ってベーリング海峡を渡る」の内容もあるという。
一万年前は氷河期で海面の水位低くて、海峡は陸路渡れた。その時の具体的な内容が口伝で詳しく語り継がれている。
その時の渡った員数が55人だったということまで伝えられている。 イロコイ族という種族で、その決まりは
今のアメリ憲法の原案に影響したいう。大地震に襲われ各地をさまっよった末に、未開の大地の話を聞いて
シベリアの大地からベーリング海峡を渡る話は、一万年前の話としてもリアルのものだ。インデアンというと、
未開の野蛮人というイメージがあるが、彼らの世界に、3万年以上の祖先の歴史が延々と語られてきた事実がある。
更にアメリカに渡った後の物語が延々と続いているという。 彼らの口伝ー物語の全体は「一族が学んできた
`知恵’の物語」として構成されている。「人は力をあわせれば、できない事も可能になる」とか「判断は迅速に」
とか現代でも、いや現代こそ学ぶべき事が多い。今一度彼らの教えをじっくり学ぶ時期に人類はきている。
奇麗事で言っているのではない、まさしくその時期である。

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2001年08月14日(火)
[107] 「私の死亡記事
 「私の死亡記事」‐文芸春秋
図書館で何気なく借りてきた本だが、これが面白い!各分野の有名人に「物故者の解説を、当の本人執筆という点である」
そのお願いの文章が、前書きになっているところがまた面白い。 よくこれだけの有名人が真面目に、あるいはふざけて
書いているのがいい。まず自分の死亡時期の設定、そして死亡原因、生前の業績を当の本人が書くのだから。
どちらにしても真剣に書いてあることは文面よりわかる。特に生前の業績に対しては意外と自己正当化しているのが可笑しい。 
−私も書き始めたが侘しくなってきた。死亡時期‐父と同じ71歳(そうすると後16年の時間)
・死亡原因‐酒の飲みすぎによるショック死。
・生前の業績ー書くに値せず。
・葬式方法は葬式坊主に一円の金も払わないようにとの遺言の為に音楽葬、但し身内のみで。近じか真面目に書いてみよう。