* 中国のウィグル地区の暴動について
ウィグル地区のウルムチで、暴動が発生した。 必然的な事件である。
中国が、20〜30年前のソ連になるか、100年前のアメリカになるのか、絶妙な分岐点に立っている。
共産主義という建前で一党独裁で強権を支配しないと、多民族をマトメルことは不可能なのか?、
それとも、ソ連のように一度解体をして新たに出直すことが自然なのか、歴史が証明を待つしかない。
ハッキリしていることは、漢民族少数民族を支配をし、搾取をしていること。 それが、共産主義
建前との隔離が情報化のため白日に曝されていることから、暴発のキッカケになっていることである。
中国の暴動は拡大はすれど収まることはないだろう。 「中国の民は、サラサラの砂で統治するのは至難の業」。
だから独裁統治も必要だが、時代は自由と個人に重心が移動をしてしまった。 ネットで、それぞれの地区で
呼応して暴動が起きる可能性もある。 情報化の流れを押し留めるは困難である。

 * 大阪のパチンコ屋の無差別テロについて
恐ろしい事件である。自殺をするに不特定多数を巻き込もうとするのを「拡大自殺」というらしいが、
秋葉のテロ?と相似点が多い。 時代のマイナーを凝縮している事件である。
一度、歯車が狂うと、元に戻すのは不可能に近いのだろう?  とにかく仕事が無い・・
そのために離婚になり、虚無的になり失業。 そして借金地獄から自殺かホームレス。
「年金年齢になったので、大丈夫」とは妄想でしかないのか。 自民党一党独裁を容認してきた国民は、
それゆえに、年金の元金もアメリカの国債を押し付けられ、皆無に等しい状態??。
それさえ気づいてないから、すくいようがない。 最後はハイパーインフレで、丸裸の帰結が待っている。

 * あれから40年か〜
あと数日で、大学卒業から40年になる。腰痛で出席が微妙だが、何とか出たい。
「あっという間であり、しかし長かった! 何とか、たどり着いたが、面白かった」が実感である。
そういえるのは、今のうちか? 

 ・・・・・・・・・
2652, 人間、互いに理解不可能なのは、如何して?

2008年07月09日(水)

ある哲学書(*ー参照)の中に、何故人は互いに理解不可能なのかを分解していた。。
長男がUターンで帰ってきて、再就職のことなど、節目ということもあり、話を始めるが全く互いに通じない。
それでいて、居酒屋などに誘うと親子三人が仲の良い家族になる。 そのことを、知人に話したところ、
 ・一人は、「親子で対話など有り得ないこと、会話さえないのが実情だろう。親子であるのは、ただ説得だけ」。 
 ・そしていま一人は、「私の息子は三十半ばになるが、今まで会話さえ殆どしたことがない、
  最近になって上京した時に ご馳走をしてくれと、電話がきだした。会話さえ、していること自体で充分」。
そういうものか?と、思いつつ、それでも何とか成らないものかと思っていた矢先、わかりやすい道理に出くわした。 
               <*?(哲学ワンダーランド・貫成人著)第一章の?「話せばわかる」1?3)>
    ーまずは、その部分を書き出してみる。
  ??
 ーひとは誰でも、自分の「地平」に束縛されているー

二十世紀ドイッの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900?2002年)は、
‘理解しえないものをいかに理解可能にするか’ をきわめる「解釈学」を構想した。
かれによれば、人々がお互い理解不可能なのは各自が持っている「地平」が異なるからである。
たとえば、物置から古い掛け軸がでてきたとしよう。その値打ちを判断するには相当の経験と知識を必要とする。
それに、そもそもそのようなものに価値があると考えていなければ、その価値を判定しようとも思わない。
実際、古いものには価値がないと思われていた明治初年には、貴重な文物が安値で買いたたかれて海外に流出した。
およそ何かを判断するときには、一定の知識や価値に頼らざるをえない。
そのような判断や価値付けの拠り所となるものをガダマーは「地平」とよぶ。
大海原や砂漠に立ったときに三六〇度ぐるりを水平線、地平線が取り囲む。「地平」とは、地平線の内側、
自分が立っている足下とは逆に、地平があればこそ、その中にある何かを認識することができる。
もちろん、今わたしが位置する地平の外側にある対象も、わたしが移動すれば見えるようになる。
しかし、そのとき地平もわたしと一緒に移動しており、したがってその対象が地平の内部にあることには代わりはない。
物置から出てきた掛け軸の場合、この地平にあたるのは、骨董品を貴重とする価値観、その値打ちを判定するための経験、
知識だ。一定の価値観や知識があればこそ、古びた品物をそのまま捨ててしまうのではなく、目をとめ、
値打ちを判定することができる。あらたな経験を積み、地平が移動し、拡大すれば、これまでわからなかった
ものの値打ちもわかるようになるだろう。肝心なことは、自分の足下にある地平を通常、ひとは意識しないということである。
自分にどれだけの経験があるのか、どのような価値基準をもっているのかのリストをもっている人は誰もいない。
いつの間にか身につけた価値観や経験に応じて、ひとは、その場の諸問題に対処する。
その結果、各人は、自分でも気づかないまま自分の地平に束縛されている。 なにしろ、自分がどのような価値観や経験を
持っているかを客観視する方途はないのである。 しかも、このように地平に幽閉された状態であるかぎり、
それぞれは自分がそれまでに身につけた価値観や経験から、身の回りのすべてのもの、したがって他人をも判断するしかない。
もし、相手が自分とは異なる地平に立っていれば、その相手の言うことや、やることはまるで理解の範囲外ということになる。
古物に意味を認めない人物には、物置の掛け軸を二束三文で売ってはいけないという人物の言うことは理解できないのである。
では、この状況が変わることはありえないのだろうか。
自分とは異なる他者を理解しうるためには、各人が「心を開いて」いなければならないとガダマーは言う。
他人の言葉や行為をすべて自分の地平の枠内で処理しているかぎり、そもそも【自分とは異なるものがいる」
ということ自体に気づくことはない。けれども、何かのきっかけで、自分が何らかの地平にとらわれていることに気づくときがある。
そのときはじめて、ひとは自分の地平を対象化し、相対化するだろう。そして、それまで自分がとらわれていたのとは別の地平も
ありうるということに気づくことになる。 官僚出身者特有の話し方をしていた政治家も、落選が続けば、
土地の人たちの言葉でしゃぺり、かつ、自分の意見を伝えることができるようになるだろう。  
  ??
 他人から理解してもらえないという嘆きほど、バカバカしいことは以上からみても解るだろう。
 一人の人間を理解するなど、到底不可能でである。自分でさえ理解できないのに。
  ただ馬鹿なオッサンだけは解るが! 

 ・・・・・・・・・・
2007年07月09日(月)
2288, ちょっとした勉強のコツ ?2
  (p≧w≦q) オッ☆ o(≧▽≦)o  ハァァァァァァ♪ ヨウ?
             
                 ー読書日記
 この本の中の「三つのことば」についても、面白い!
  ーまずは、その要約をしてみたー
  ーーーー
ことばには三種類ある。
?ひとつは、生まれてまず覚えるもので、たいていは、ものの名前。
それと、ごく少数の動詞をふくむにすぎない。日常の最小限のコミュニケーションはこれでできる。
この特質は、ものごとを直接的に指し示すところ。‘いま’‘ここ’にある事がらについての表現である。
  これをアルファーとする。
ーもうひとつは、ベーターのことばとする。
これは、人間の文化、価値のあるウソを多くふくんでおり、そういうものにかかわりのあるもの。
虚構、フィクション、創作、創造など。 昔話、おとぎ話などをいう。
昔話をきいているうちに、見ることのできない、触れることもできない非現実的世界を
頭の中に描き出すようになる。 つまり、想像力によってストーリーを理解することば。
?そしてもうひとつは、ガンマーのことば。
これにはベーターのことばと違って、ストーリーがない。
その代わりに、ものごとの関係を扱う。それは論理といいかえてもよい。
物語りや小説を読んだだけではガンマーのことばは育たない。
論説や理論のある文章、表現にふれることで体得するほかはない。
……
(字数の関係上カット、2008年07月09日)
                ヾ(。´・ェ・`。)By?               
・・・・・・・・・
2006年07月09日(日)
1923, 孤独であるためのレッスン
 おっ w(゚Д゚)w ハァョ?   著・諸富祥彦
        ー読書日記
             
孤独について何度か書いてきた。自由と、孤独と、死は、哲学的にみても大きな人間の課題である。
図書館で、ずばり孤独について具体的かつ解りやすい本をみつけた。
我われは、ひとり孤独に生まれてきて、さいごはひとり孤独に死んでいく。
その土壇場で人は死を恐れるのではなく「自分はやりたいことをやった!」
といえない自分に直面することを恐れるのだという。真の疎外感は、その恐れに支配された時に出てくる。
だから、やりたいことを早く見つけ、世間とかいう奴を無視するか、処理をして、やりたいようにしないと
仮面の人になってしまう。仮面の人は孤独を恐れ、群れることこそ人間の性(さが)と信じている。
この本は、そういう連中は無視をして孤独の重要性を説いている。

そのための条件を以下のとおり書いている。
 ー孤独であるための八つの条件ー
一 「わかり合えない人とは、わかり合えないままでいい」と認める勇気を持て。
二  人間関係についての「歪んだ思い込みやこだわり」に気づけ。
三  自分の人生で「ほんとうに大切な何か」を見つけよ。
四 「自分は間もなく死ぬ」という厳然たる事実を見つめよ。
五 「たった一つの人生という作品」をどうつくるか、絶えず構想しながら生きよ。
六  ソーシャルスキルを身につけよ。他人の話を聴き、他人を認めよ。
七 「この人だけは私を見捨てない。どこかで見守ってくれている」。 そう思える人を見つけよ。
八  自分だけは自分の味方であれ。「自分を見守るまなざし」を自分の中に育め
   まあ、巧くまとめたものだ。
 
また、ー孤独の中の四つの出会いー  を一章にわたって書いている。
   ・自己との出会い ー自分の中の深い自分と出会う
   ・他者との出会い ?深い孤独を知っている他者と出会う
   ・普遍的なものとの出会い ー深い孤独の中に普遍的なものをみる
                  公平な内なる観察者
   ・`人間を越えた何’かとの出会い
        ?人間を越えた何かは大自然の深い波に出会い感動した時に感じる何かである

この出会いは深い孤独の世界でしか出会うことができない。そして逆に深い孤独でこそ、人間関係も自由に柔軟になる。
「『ひとり』でいることのできる人の人間関係は、とても自由で、柔軟で、開かれたものです。
他人の視線はあまり気になりませんし、他人と自分を比較したり、評価し続けたりすることもありません。
他者とのほんとうの『つながり』に開かれた生き方と言ってもいいでしょう。」
ーおわりにーの最後の締めくくりの言葉がよい!
 ・・
他者とのつながりをきっぱりと絶ち切って、自分の孤独を、深さのほうへ、深めていくこと。
そのことによってしか孤独は癒されない。表面的な人間関係は、さらに孤独を強化する。
もし、孤独を癒すことができる人間関係があるとすれば、それは、その関係の中で、互いがより深く
孤独に徹していけるような人間関係、その関係の中で、互いがますます深くひとりなり、
自分自身になりきることができるような人間関係でしか、ありえないだろう。
孤独は素晴らしい。人間が真の自分に出会うのも、自分の人生で何がほんとうに大切か知るのも、すべては
孤独においてである。孤独を深めていける人間同士が出会ってはじめて、深い心のふれあいというのも、可能になる。
孤独になる勇気を持つこと。 孤独を楽しむ能力を持つこと。
この二つを備えた人間しか、本当の幸せを獲得できないはず、である。
池田晶子が自分の本で孤独について次のようなことを書いている。
     ーー
「自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求めるような友だちは、やっぱり本当の友だち、
本当の友情じゃないんだ。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられる者同士の間でなければ、
生まれるものでは決してないんだ。

なぜだと思う?
自分の孤独に耐えられるということは、
自分で自分を認めることができる、
自分を愛することができるということからだ。
孤独を愛することができるということは、
自分を愛することができるということなんだ。」
「孤独というものはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。
今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する
仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちと
いることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて心ゆくまで考えることができるからだ。」
孤独について書いた内容をコピーしておきます。(一部カット二〇〇八年月9日)
                  
・・・・・・・
2005年07月09日(土)
1558, BOSEのステレオ?6

購入してから4ヶ月経つ。
7万円台のものでもよかったのではないか?と疑問を持ちはじめた頃、
TVの横から、6m位先の部屋の隅に置いてみた。 そして、それが正解であった。
二m先のTVの横なら7万円代のものでも充分だが、部屋全体の反響を使って聞くなら、これが丁度よいようだ。
ただ、このコンポの効果的な使い方を知らなかったのだ。そして、このステレオの良さを改めて知った。
それと「ベストクラシック・100」シリーズが、3千円で販売された。 100曲で3000円は安い。
・ベストクラシック・100
・ベストクラシック・100モア
・ベストピアノ・100  と買いこんだのが良かった。
半分ほどは、過去に買ったシリーズのCD に入っているが、音質がよくない。
家内には、「7万台で充分だったのでは?」と、言われつづけてきたが、位置を変えてからは何も言わなくなった。
イギリス人はゴルフやテニスなどの道具は思い切って良いものを揃えるという。
良い道具を揃えると対象に気持ちが入るし、途中でやめるわけにいかなくなる。また一生物になる。
今まで、音楽に対してはそれほど興味があったわけではないが、一日一~二時間は聴くようになった。
「人が皆、我より偉くみえる日は、コンポを聴いて妻と愉しむ」というところか!

・・・・・・・・・
2004年07月09日(金)
1193, ニーチェ(1)
  ー哲学についてー14

 ー概略はー
ドイツの哲学者。(一八四四?一九〇〇) 実存哲学の先駆者。

キリスト教的・民主主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、
強者の自律的道徳すなわち君主道徳を説き、その具現者を「超人」とする思想に達した。
機械時代・大衆支配時代に対する批判は、一面ファシズムの支柱ともなった。
薯「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」 「権力への意志」など。
  ーーーー
 人生を振り返って、一番影響を受けたのがニーチェである。
 高度経済成長の時代という背景もあったのだろうが、自分の能力を最大限発揮するのが男の務めと考えていた。
 儒教頑張りズムに相通じるところもあるが。 自分が考えることは、しょせんは全てが借り物。
 ただ借り物と意識をしないで踊っているにすぎない。それを気がつくかつかないかでしかない。
  ー印象的なことを書き連ねてみると、 
 この世には神は存在せず、人間には不滅の魂などないというショーペンファウアーの主張には賛同した。
 人生とは大部分が意味のない苦しみや争いの連続で、[意志]とよばれる非合理な力に引きずられていくだけ
 という点でもショーペンファウアーに同意している。しかし、この世界は部分にすぎない、
 それも大して重要ではないという彼の主張には反対をした。この世界こそすべてだと考えた。
 更にショーペンファウアーの「人はそのような軽蔑すべき世界から背を向けて、
 関わりを持たずに生きるべきだ」という結論を否定した。 逆にニーチェは、
「人は自分の人生を精いっぱい生き、可能なかぎりのものを手に入れるべき」と考えた。
ニーチェ哲学の最大の課題は、
 「神が存在せず、意味もない世界で、人はどのようにすれば情熱を持ち続けながら生きていけるか」。
 自己の能力を最大限に伸ばした人間は一種の超人的存在であるため、ニーチェはそれを「超人」といった。
 ニーチェにとって人がもつべき最高の価値観とは「自己の人生を肯定する」ことであった。
 「誰もが完全に自己を表現し、充実した人生を送り、人生を肯定すべきである」と説いた。
ニーチェの二つの主張がある。
・充実した人生そのものこそ意味があり、価値があるとした。 充実した人生は芸術作品のようである。
・すべては永遠の無に帰すのではなく、永劫回帰する、というものである。
 時間は巨大で宇宙的な同心円を描いて進むため、以前おこったことはすべて、
 ふたたび巡り帰ってきて、その後永久の時を経て同じことが繰りかえします。
 人は精いっぱい生きることで、永遠に生きたいと思う人生を送る。
 時間は永遠に繰りかえすことで、限りある閉ざされた世界にいる人間に、永遠といえる生命を与える。
                          ーつづく
・・・・・・・
003年07月09日
826, アラスカ旅行記 ?1

一週間の予定でアラスカツアーに参加してきたー2003年7月2日ー8日行く前は、もしかしたら
「外れ」になるのではと不安であった。山脈や海を中心とした旅行は『天気』に大きく左右されるからだ。
それと「アラスカが良い」という人の話は過去の旅行仲間から一回も聞いたことがなかった。
良ければ必ず情報が入ってくる。このツアーは大手の旅行代理店が数社共同で、日本航空のジャンボを借り切って、
アラスカとしては廉価で打ち出した企画のパックである。ーだいたい一般の30?OFFあたり。
SARS対策に、アラスカ州日航と大手代理店が組んで打ち出した破格の商品ということを現地ガイドに聞いて
初めて知った。今夏は一ヶ月間だけの企画で、来年は未定だそうだ。
直行便以外は、成田からシアトル経由で入るか、ソウルに飛んでそこからの直行便で行くかどちらかである。
その為シアトル経由は14時間、ソウルでも10時間以上は軽くかかる。ーソウルからの直行便は出ているが、
日本はないということ。その為、一週間にしては内容の非常に充実したものであった。
パタゴニアやアフリカには34時間以上かかったのに比べ、6時間というのは信じられない感覚である。
全くの素人がキングサーモンの釣りのオプションに参加をすれば、
ガイドの指導のもと一m以上の鮭を釣れるのだから、さすがアメリカはサービスの国と感心する。
ー印象順に書いてみると
1、何といってもマッキンレー山である。 あまり期待をしていなかったが、実際に見るマッキンレーは
 想像を絶する素晴らしさであった。特に軽飛行機から見たマッキンレーは言語に絶する内容であった。
 ー詳しい内容は明日書く予定。
2、氷河もパタゴニアを見ているので、全く期待していなかったが、実際は決して見劣りしない素晴らしい内容。
3、期待していたアラスカ鉄道の景観が思ったより良くはなかった。 どこまでも単調な景色でハイビジョンで
 見たものとは違っていたー値段の高い展望車でなかったこともあるが?それと天気がよくなかった。
4、ハイライトのデナリ国立公園のワイルドライフツアーのガイドが偶然に
 日本人ガイドの有名な伊藤さんであった。星野道夫やミッキーハウスの坂本某の本の出てくる人だ。
 まる一日、彼のガイドで現地の色いろなことや、星野道夫などの現地でのエピソードを詳しく 話してくれた。
 彼はガイド兼猟師で狼やムースやヘラジカの狩猟の話しが別世界を垣間見た おもいであった。  
            ーこの内容も後日書く。
                           ?つづく
・・・・・・・
2002年07月09日
スイス旅行中
・・・・・・・
2001年07月09日
北欧旅行中