「うれしい定年 さびしい定年」ー 55歳からの賢い生き方ー
                   北 連一 (著)      読書日記

 還暦を過ぎてからの年賀葉書に、「無事定年を向かえ、悠々自適の毎日を過ごしています」とか、
地元のスナックなどで偶然あった高校時代の顔見知りに「いや〜サンデー毎日も疲れるよ」と言われ、
その意味も最初は分からず、解釈してもらって分かる次第。特にサラリーマンを無事平穏に過ごしてきた人は
定年後の日々を切り替えるのは大変だろうと察する。 私の知人は、殆どが現役なので、
深刻な話はまだ聞こえては来ないが、従兄弟などの親戚からは戸惑いが伝わってくる。 
群れから離れて、奥さん1人相手か、独りで生活せざるを得ない厳しい現実が起こる。
そして、まずは「老人性うつ病」が襲ってくる。 これは抉らすと危ない。
現在の私も少し「うつ病」気味である?、とにかくムカツクのである。いや、恐慌下の売上不振なだけか。
 
 そんな折、先日図書館で、この本を見つけたが、切実さが直に伝わってくる内容。
具体的に定年後の人間関係、それも一番の難敵の奥さんとの力関係を取り上げている。
ヤット、会社の人間関係から解放されたと同時に、今度は小さな家の中での息の詰まるような関係。
「定年退職後初めて人間になった」「毎日が正月」と喜ぶ人がいる一方。「定年葬」と悲観に暮れる人もいる。 
この本は「定年退職前後はこういうもの」と、飲み屋でグチを聞いているようで、いやに納得する。 
【 定年前に‘やっておいてよかったことは’、料理ができるようになっていた,遊び仲間がいる,
 ローンが終わっていた,書斎と書庫を持っていた,娘たちを追い出したことだと吐露する。
  ‘やっておけばよかったことは’,会社離れをする前に,定年後のシミュレーションをやっておく,
 妻とのコミュニケーションをとっておく,熱中できる趣味を持つこと、だという 】
こういう人生もあるのかというような内容だが、「定年の敵は女房だ!」という人のケースなど、
深刻な内容も赤裸々に取り上げている。  8人兄姉の末っ子だったことや、親戚に多くの従兄弟たちの
生き様がみえる立ち位置に居たことからみてきて、「人生の敵(ミカタ)は女房」というのは深く肯けるが。 
その辺は、受け止め方の問題ということ。 孤独に対する訓練を長年かけて訓練をしてきたかどうかが、
最大の問題ということ。 それと、家庭菜園や読書などの独り遊びが出来るかどうかである。
 それと「ハッピーエンドなど、妄想でしかないと、割り切ること」である。

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2632, 娘に贈る12の言葉
2008年06月18日(水)

「人生と投資で成功するために  娘に贈る12の言葉」 ジム ロジャーズ (著)
              b(’0’)d おっ w(゚Д゚)w ハァ?
   ある本に紹介されていたジム・ロジャーズの「中国の時代」「娘に贈る12の言葉」を
   アマゾンで取りよせて、読んでいる。成るほど面白い。二年ほど前に、ロジャーズの本を
   二冊読んだが、なかなか面白かった。 それに劣らない力作である。
  「ビジネスマンの父から息子へ送る手紙」を彷彿する題目だが、内容は全く違う。
ー まずは、その12の言葉
・他人に流されてはいけない
・大好きな事には情熱のすべてを注ぎなさい
・常識はそれほど常識でない
・世界は自分で見ておいで
・哲学を、つまり「考える」ということを学びなさい
・中国の時代 中国語を身につけて欲しい
・歴史を勉強しなさい
・汝自らを知ること
・変化をとらえ、そして受け入れなさい
・未来を見つめなさい
・大衆に逆らいなさい
・幸運の女神は努力を続けたものに微笑む
   ーー
   ジム・ロジャーは一貫して、他人に流されないこと、好きで情熱を傾けられることをすること、
   徹底的に歴史、哲学、経済を学ぶことを推奨している。
   ジム・ロジャーズが生まれてしばらくして、この本の訳者が我が子に伝えたいことは何かと
   尋ねたところ、彼の答えは「自立した考え方をする」「疑問を持つ」だった。
   また、投資家にとって大切なことは何かを聞いたら、
  「大きな流れを見ること。ビッグチェンジがあるところに、ビッグチャンスがある。
   それを見極めるためには、自立した考え方をし、疑問を持つことだ」というものだった。
   投機家を意味するスペキュレーターhw、もともと「突っ込んで考える人」という意味だそうだ。
   その為には哲学を学び、思考することを学ばなければならない。
      次回から、12の言葉の幾つかを取り上げて考えてみる。
                                ゚Д゚*)ノ⌒【さいなら】
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2007年06月18日(月)
 2267, 「遊び」
                (゚∇^*)オハヨ♪
 遊びの重要性は、両親をみていたり、学生時代などの経験から「働き」と「学び」と同じくらいに
 位置づけてきた。その三つのバランスを如何に組み合わせるかが人生の豊かさと信じて、
 年、月、週の計画に組み込んでいた。人生で最後残るのは、特に「遊び」の中の充実感である。              
 「遊び」をネット百科事典『ウィキペディアWikipedia)』調べてみた。
  ーーーーwww**ww*w(/⌒∇⌒)/?∞**www***w ーーーー
楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス (生体)解消などの目的で生物がする行動の総称。
普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事、睡眠や、自ら望んで行われない労働などは含まれない。
 また、工学などにおいて作られる、ある一定のたゆみ、ゆるみ、余白のこと。
これを作ることを「遊びを持たせる」という。ハンドル等、機械で人間が操作する部分の遊びは、
不覚筋動を機械の動きに反映させないという効果遊びとは、楽しむ、娯楽、休養、リラックス、
ストレス解消などの目的で生物がする行動の総称とされます。どのような時代においても遊びは存在し、
太古の昔から現代まで私達の心を楽しませてくれています。
人間以外で、動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。
ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟するとあまり遊ばなくなるが、
ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物は成熟後も遊びたがる傾向があるようであり、
野生動物でもカラスには、成熟した個体に遊びと思われる行動が見られる。
フランスの思想家、ロジェ・カイヨワホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス
に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。その中でカイヨワは遊びを次の4つに分類している。
アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ・アレア(偶然)、くじ(宝くじなど)、ギャンブル(競馬など)
・ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ままごと
・イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ
 カイヨワの説は遊びはこれらの4つの区分に分けられるとしたものであったが、
 遊びは必ずしもこれらの単一の要素からなるものではなく、複数の要素を含むものも多いとする説もある。
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 なるほど、と思うが・・・

「遊び」については、今まで何回か取り上げてきた。人は良く遊び、良く働き、良く学ぶことが、良く生きることになる。
そのどれも必要なことであり、それぞれにとって、背後に二つを必要とする。
何ごとも楽しみになるまで追求すれば、しめたものである。私の場合、ゲーム化が楽しみへ持ち上げるポイントであった。
ゲーム化に対しては批判もあるだろうが、何ごともやりかたである。到達地点を設定して、その間の障害を乗り越えながら
プロセスを楽しめば、遊びへ転換する。ゲームは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博として一般的に認められているが、
日本では、「ゲーム」という言葉を使う場合、漠然とした「遊び」と比べ、「パッケージ化された遊戯の一形態」
という印象を与える。学び、働きに対して、遊びが一番充実していた!ようだ。 
遊びは他の二つと違って、他者との対比の必要はない。一番好き嫌いの主観的要素が生かせるからよい。
同じ人生、楽しまなくては! 何ごとも「遊び」まで持ち上がるまで集中すべし!ということか。
 
 ー以前、カラスの遊びについて書いた部分を抜粋してみるー
 カラスは「羽の生えた類人猿」というほどの高い知能が、動物学者の研究観察から認められている。
 その一つに人間と同じような“遊び”の感覚があることである。
・目的もなく電線の巻いてあるテープをはがしたり、
・空中でゴルフボールや小枝を落として奪い合うラグビーのような行動で仲間と遊んだり、
・滑り台で、人間の子供のように滑り降りたり、
・くちばしでレールに小石を並べる行為も、電車が石をはじくのが面白くて始めた“遊び”といわれる。
 そのように無駄な行動を楽しむことをみても、彼らが知的動物であるといえる。
「無駄」なような行動も、「ラグビー行為は、オオタカなどの猛禽(もうきん)類に襲われた場合に備えての
 チームプレーの訓練」という見方もあるが、それを遊びにすることが、高度な知的行為である。
 ーー イルカや、サルなど知的レベルの高い動物ほど日常の中に
 遊びが入っているところが、注目に値する。   d=(^_^)=b
     競争、偶然、模倣、めまい、か???!
    何かの偶然の重なりで娑婆に生まれ、ママゴトのような人生の中で、
    ワッペン取りや、かけっこ競争や、ブランコ遊びをして、
    ふと、気づくと孫に囲まれ、遊びの手助け!、 これが人生。                   
          Bye♪  ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪      
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2006年06月18日(日)
1902, 感動と感激について             
        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)

感動・感激・感謝は、人生の豊かさという面で大きなキーワードである。
感謝は「ありがとう」というキーワードで多く書いてきたので、今回は感動と感激について焦点をあててみる。
まず「感激と感動の違い」についてである。感激は人の言葉や物事に心が感応することで、
感動は大自然や音楽などに魂が感応することである。
感激は、その気持ちが対象に向かうのに対して、感動は自分の内側深くに向かう。
どちらも、対象の波動に自分の心・魂が共鳴することである。
 期待 <実感 → 感動・感激
期待と実感のギャップが大きいほど感動、感激、感謝が大きい感情になる。
その為には期待を小さくして、実感を大きくして、そのギャップを大きくすれば、
感動を大きくすることが出来る。反対に期待が大きすぎた時に感動は小さくなる。
秘境・異郷旅行は、正しく感動を求めるもの。厳しいところほど感動が大きい対象に出会える。
そこへ到達するまでの苦労が大きいほど、感動が大きくなる。そこでは魂の根底を大きく揺さぶるものがある。
この感動と出会うまでの人生と、その後の人生と、分ける位のインパクトになる。そこに慣れてくると感動は小さくなるが、
それで良い。それは自分が対象に同化したことになるからだ。冷静に対象を見つめることが出来るようになる。
感動・感激・感謝の経験の質量が、心の豊かさといえる。
人生を振り返った時に、自分の心に残っているのは感動と感激と感謝、そして後悔の念である。
一般的に感動・感激は年齢を重ねると同時に少なくなっていく。 ある調査によると、毎月一度以上感激・感動する人は
10〜20歳代で50?だが、30~40歳代になると30?に減るという。私の場合、歳を重ねるに従って、感動・感激の
場面が増加している。感動はその蓄積が、その質・量に比例して心の壁を低くし、さらに感動に対する磁力を強くする。
親の責任の一つとして子供に「感動・感激のシャワーを多く浴びさせること」がある。 
それは自分自身に対してもである。ある質・量を超えると、その人間の質のアップ・スケールが生じる。
一番の効果は、内面に自信が出てくることである。それと自由の意味も解ってくる世間とかいう奴にも迷わされないようになる。
感動は意識して自分に与えなくてはならない滋養である。
そのためには自分を太鼓に喩えていうと、常に手入れをして、その革を張り詰めていなくては共振はしない。
                 i (ω・`) bai         
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2005年06月18日(土)
1537, 「これから5年・地価は半値になる」?2
             ー読書日記
ー対談方式だが、概略をまとめてみた。 {??}は私の意見である。
40年前の山の手線内の駅の数が、多くの地下鉄などの開発によって、現在では三倍以上に増えたという。
山の手線内では殆んどの場所から5分以内に、何処かの駅に歩いていけるようになった。
それが地価の高騰を招いたのであって、山の手内の地価の高騰はバブルではなかった。
それにつられて上がったところが、バブルになったと看破している? {それにしても、あの高騰はバブルである!}
最近目立ち始めた高層ビルも、2000年頃から建ち始めたもの。
2003年には都内の大型オフィスビルが面積換算で、例年の倍以上も完成。
1999年には36万?大型オフィスビルが、2003年には218万?と4年で6倍に増えてしまった。
そのオーナーも森ビル、三菱地所三井不動産と大手が目立っている。
ところが、そのビルにはチャンとテナントがはいっているから不思議。需要の多いビルには法則があり、
『新・近・群・大』である。駅に至近で、新しく、複合かつ多くのビルが群れていて、大きい。
それに最近では、地価の下落後のため、安い家賃のビルが出て来ている。安いもプラスされている。
なぜ坪10000円の中小ビルから、30000円もする大型ビルに移動するかというと、
ワンフロアーに子会社や部門を集約して、効率化を図ったのだ。
超高層ビルなどを『親ビル』、中小のビルを『子ビル』と表現すると、親ビルが子ビルのテントを
ドンドン吸収している。その子ビルが『孫ビル』の小さなビルのテナントを吸収する図式が出てきている。
『孫ビル』とは、新宿や池袋などにあるペンシルビルである。
最近では更に『親ビル』同士の闘いが始まって、大小入り乱れての大乱戦の状態になっている。 
これが地価の崩壊を更にすすめる。 先ずは親ビルが玉突き状態で『子ビル、孫ビル、ひ孫ビル』と
崩壊させ倒産させている。それが周辺の地価を引き下げているのである。
特に、銀行への金融庁に対する引き締めが強まれば強まるほど、中小のビル経営が崩壊、
これが社会現象を悪化させ、更に二等地の地価を引き下げるというマイナスの循環が出ている。
{こういう事態から5年~10年先を考えると、先行きは真っ暗闇といえる。
 一強多弱の世界が、不動産の世界にも明確に現れてきている}   
                      つづく
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2004年06月18日(金)
1172, ビューポイント

学習曲線というものがあって、自転車の乗り方や勉強や企業経営も同じである。
新しいことを学ぶということは,S字を横にしたようなパターンをたどる。
初めはゆっくりだが、次第にペースが上がり、ピークに達してから穏やかに下降するパターンである。
エントロピーは学習パターンがピークを過ぎたころにみられるエネルギーの喪失を意味している。
山道を車で走っていると、何処にもビューポイントがある。大体が8?9合目の辺りで、それまでの急勾配から
緩やかな坂に変わるところだ。下界と遠景が遥かかなたに見え、その前後は今までいた道がよく見える。
そこでは駐車場になっていたり、土産物屋や休憩所になっていたりする。
そして、どういうわけか道の枝分かれをしているところが多い。そこで立ち止まって、自分の歩いてきた道を
観察する必要がある。そこでは一歩後退をして見ることも重要である。 大きな分岐点になるからだ。
人生においても、事業においても全く同じことがいえる。ジョージ・ランドが「展望点ービューポイント」を
喩えている論法が面白い。頂上への8?9合目辺りで坂が緩やかになるポイントで、サーファーが波の衰えを感じて、
崩れる前に新しい波に乗り換えるのと同じポイントである。新しい学習曲線への波に乗り換えるポイントになる。
自分がビューポイントに達したかどうかは簡単に解るわけがない。しかし注意をしていれば兆候を見つけることができる。
それが過ぎてから初めてわかるケースが多い。波が最終局面になって、初めて気がつくケースが多いことも事実だ。
とくに事業はそうだ、他人事でない。その時はブラックジョークではないが、再生のプログラムになるが。
それぞれの人生にとってのビューポイントで違う波に乗り換えることも必要だろう。
乗り換えた波がより合わない波の場合が多いから難しいのだ。

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2003年06月18日(水)
805, 「ありがとう」の言葉ー4

一週間「ありがとう」を、一日おおよそ500回を言った実感を書いてみる。まずは、気持ちが落ち着いた。
特に夜半2時半に目が覚め、この経済の異常事態や事業のことをあれこれ考えてしまう。
ベッドの中では考えない訓練はしてあるのだが、今の状況は過去になかった異常な事態である。
会社も日本経済もだが。しかし、その時しめたと「ありがとう」を繰り返すと、あれこれ考えないで済むのだ。
また新幹線の中や散歩やふとした空白時間に繰り返していると、結果的に否定的な考えが激減している。
不思議といえば不思議である。単純に思えるかもしれないが、何か否定的な感情を消す作用があるみたいだ。
それと、意識をしていると結構細かい時間が多くあることに驚く。マイナスな時代に、否定的な言葉の毒消し作業がよい。
 死ぬ時に、周囲に対して心の底から「ありがとう」と言っていけたら、残った人に対して
最高の癒しになる。と同時に自分の死に方としても最高の死に方になる。
その為には「ありがとう」を数万回、数十万回、脳の中に叩き込んでおくというのも理屈に合っている。
以下はインターネットで調べた、50年以上「ありがとう」を言いつづけて2億回言っている人を書いた内容をコピーした。
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(字数の関係でカット2008年6月18日)

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2002年06月18日(火)
441,時間持ち

「金持ちがあるなら、時間持ちという言葉もあってよい」というのを本で読んだ事がある。
若いときから時間だけは多くあった。時間のブルジョアといってよい。現在もそうである。
初めは持て余していたが、今は充分?に有効利用をしている?
現在も装置産業を選んでしまった為、時間だけはたっぷりある。
初めの数年は本当のところ、どうしてよいか戸惑った。小人閑居して不善をなす」というところもあった、今もか。
経営セミナーに出るか本を読むか??しかなかった。 お金と同じである。人がお金を持て余さないのは、
お金を自分のために使おうとしている為である。「主体的」に使えるから、お金は幾らあっても持て余さない。
お金は自由の塊そのもの。時間があるということは、自分で使える自由があるということだ。
時間を持て余すことは、その自由を使いこなせない事。もう十数年も前の事になるが、ある長岡の不動産屋の社長が
毎日が日曜日のくらい暇な日程の私の姿を見ていて笑っていた。
3月のある日、年度替りで不動産屋が一番忙しい時だった。奥さんと二人パニックに近い状態に。
その後二人で喫茶店に行った。本人自慢げに「イヤー忙しいくってね?」
私「その仕事何パーセント、500円のパートのできる仕事?」不動「99パーセント」
私「ふーん、あんたの時給はいくら?」不動「一万円あたりかな!」
私「時給一万が、500円(当時)の仕事をして喜んでいるんだ」その後、本人はすぐ一切の雑務をしなくなった。
話しは外れたが、時間もち(金持ち)とは、主体を持って使いこなしているかどうかだ。

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2001年06月18日(月)
[56] 母のアルバム

昨日母のアルバムを見ていたら、若かりしころの父とその兄弟達の写真があった。
そこでパソコンのアルバムに取り入れようスキャンしたところ、上部が細くなる写真に映し出された。
何回やってもそうなるので、ひっくり返してやってみてもおなじように上部が細くなる。
怪奇現象化と薄気味悪くなりっていると、TVのBSデジタルラジオから
‘故郷’曲(ウサギ追いしかの川ーーー)が流れてきた。
遇然の一致は解っているがなにか不思議な感覚にになってきた。
仕方がないので隣にならんであった、母の見合い用と聞いていた写真をスキャンする。
何回やっても歪む、かなり小姑に虐められた話を聞いていたので‘あの世でも上手くいってないのでは’
と心配になってきた。 思い出の写真コーナーに載せてある。