2002年02月24日(日)
 341,遊びについて−1

人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。
まずその達人を事例で考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。
戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。
そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症のノイローゼーになった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。
それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。約40年近く遊びきって
亡くなった日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。

子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。
重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。その為に勉強もしなくてはならない。
しかしそれだけでは、それだけの人生だ。それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。

遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる。天才はその典型であろう。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。何でも遊びの対象にした「遊び心」を。純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか? 私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。
今は大事な趣味ー遊びになっている。純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。「遊びになるまで集中する」という事か。

これから散歩だ!