2007年02月20日(火)
2149, へべれけに酔っ払いてえなあ。
       v(=゚ω゚)ノおはょぅ   −読書日記

この文章を読み終わったとき、その衝撃で暫く茫然としていた。短い文章の中に労働者の生活と哀歓が
よく表現されている。内側にしか破壊衝動を向けざるを得ない者たちの深い哀しみと諦観をみごとに語っている。
この諦観は中年期の男の誰もが何度も味あう屈折した心情でもある。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、
皆な私が悪いのよ!」でなく、「お酒が悪いのよ!」と、オダをあげなくては生きていけないのが人生。
知人が先日亡くなったが、連れ合いが父親の葬式の晩に自死したという。へべれけに酔っ払っても、何もかも壊しても、
その傷は癒えるわけがない。食道ガンだったというから、毎晩飲みつづけるしかなかったのだろう。                           
 
【人生のことは、小説が教えてくれた】より −2
                      葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」高橋敏夫 中経出版
 松戸与三は恵那山の麓で発電所の建築現場で働いていた。
一日中顔をセメント粉にまみれながら樽からコンクリートミキサーに移す仕事に就いていた。
仕事にヘトヘトになつた頃、樽の中から小さな箱が出てきた。
しかし、作業は彼にはこの中身を確かめる時間を許さなかった。
彼は腹掛けの丼(ポケット)にほうりこんだ。「軽いところを見ると、金も入ってねえようだ」ミキサーがからになり、
終業時間になった。「なんでセメント樽から木の箱が!?」思わせぶりに頑丈に釘付けしてあった。
石にぶつけ何度も踏みつけた小箱のなかからボロに包んだ紙切れが出て来た。
 それにはこんなことが書かれてあった。
ーーー
私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器へ石を入れる事を仕事にしていました。
そして十月の七日の朝、大きな石といっしょにクラッシャーの中にはまりました。そして石と恋人のからだは砕け合って、
赤い細かい石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へはいってゆきました。

そこで鋼鉄の弾丸といっしょになって、細かくこまかく、激しい音に呪いの声を叫びながら、砕かれました。
そうして焼かれて、りっぱにセメントに成りました。骨も、肉も、魂も、粉ごなになりました。
私の恋人の一切はセメントになってしまいました。残ったものはこの仕事着のボロばかりです。
私は恋人を入れる袋を縫っています。私の恋人はセメントになりました。

私はその次の日、この手紙を書いてこの樽の中へそうっとしまい込みました。
あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私をかわいそうだと思って返事を下さい。
この樽の中のセメントはなにに使われたでしょうか、私はそれが知りとうございます。
あの人はやさしいいい人でしたわ。そしてしっかりした男らしい人でしたわ。まだ若うございました。
二十六になったばかりでした。あの人はどんなに私をかわいがってくれたか知れませんでした。
私はあの人に経帷布(きょうかたびら)を着せる代りに、セメント袋を着せているのですわ!
あの人は棺にはいらないで回転窯の中へ入ってしまいましたわ。
あなたがもし労働者だったら、私を可哀想と思って、お返事をくださいね。その代わり、
私の恋人の着ていた仕事着のきれを、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがそうなのですよ。
このきれには石の粉と、あの人の汗とがしみこんでいるのですよ。 お願いですからね。このセメントを使った月日と、
それから詳しい所書きと、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、ご迷惑でなかったら、
ぜひぜひお知らせくださいね。あなたもご用心なさいませ。 さようなら。

松戸与三は、湧きかえるような、子どもたちのさわぎを身のまわりに覚えた。
彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗にそそいであった酒をぐっとひと息にあおった。
「へべれけに酔っぱらいてえなあ。そうしてなにもかもぶちこわしてみてえなあ。」とどなった。
「へべれけになって暴れられて堪るものですか、子供達をどうします」細君はこう云った。
彼は細君の大きなお腹に7人目の子供を見た。葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」から葉山嘉樹明治27年福岡県生まれ。
早稲田大学に入学、父の家を売って作ってくれた学費400円を浪費してしまい、学校を退学。生活のため船員になり
カルカッタ航路の船員になったりのち、労働者、新聞記者、夜店の古本屋など転職し、労働組合の組織、
ストライキの指導に専心、三度も入獄の目に合い獄中、小説を書きつづけた。

 「セメント樽の中の手紙」は大正15年雑誌「文芸戦線」所載。    ホン |Д´)ノ 》 ジャ、マタ
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