自分らしくあれ!

  クリントン女史が慌ただしく日本を駆け抜けていった。
  大学生との対話の中で、ある女子大生の質問 
  「女性なのに、どうして、そんなに強くなれるのですか」に、
  「自分らしくあることよ」と、答えたのが印象的だった。 
 
 ーそこで「自分らしくある」ことを、哲学的に考えてみる

まずその「自己」を考えると「他者」の問題にぶつかる。他者の中の「これ」は時間の経過と同時に発生?する。 
さっき向こうから歩いていた「これ」が現在、橋に立っている。その時に、さっきの「これ」が「自分」になる。
生まれて今まで、他者の間で生きてきた。その他者との境界線の内側が「私」である。
「自分らしさ」とは、それまでの人生で他者との接点の「あり方」、あるいはその内側の蓄積である。
その時点時点で、何かを追求している在りようが「自分らしさ」である。
何かに没頭していて我を忘れている姿に「自分らしさ」が生まれてくる。
初めから「自分らしくあろうと振舞ってはならない」ということである。
役者が仮に信長を演じていたとすると、役者が自分の個性を意識した時、大根役者に陥ってしまう。
我を忘れて信長を演じた時に出てくる味が「自分らしい」のである。
 クリントン女史は、民主党の大統領候補、クリントン元大統領夫人、弁護士、上院議員等々の顔がある。
その役をこなしているプロセスで出来上がった個性が「自分らしい」ということである。 
彼女の場合、どの役をこなしていても、肩書きよりクリントン女史そのものが前面に出ている。
これこそ、名優の証拠である。 言葉づらだけを捉えると「自分らしさ」を、多くの人は誤解する可能性がある。
   
  自分らしくとは、取り組んでいる役割りや、目標、そして遊びに自分を忘れること。
  小林秀雄の「無私の精神」に達することこそ、「自分らしく」なることである。
   「何ごとも、魂をこめてすること」

・・・・・・・・・