2007年02月12日  2141, 中年の心象風景 −2
    (~Q~;) おはよう〜〜 ファ〜 サム

藤沢周一の『海鳴り』を4~5年前に読んだとき、中年から晩年にかけてのある初老の男の心情が切々と語られている世界に
ドップリと引き込まれてしまった。そこには、この時期に忍び寄る老いと死の影が最後の輝きの背後に描き出されていた。
そこで感じ取ったのはピカピカではなく、人生の落雷のズッシとした閃光の光である。  
 ーまずは、その中の一節を幾つか書き出してみる。
 {40の坂を越えたころから、新兵衛の胸にある不思議な感覚が生まれた。
ある時期を境にして、自分が老いの方に身を置いてしまったような感覚である。
これまでも考えもしなった、老いとその先にある死が、いやに明瞭にみえた。
その見えて来た老いと死に、いくらかうろたえていた。まだ、し残してことがある、
と思った。その漠然とした焦りと、ひとの一生を見てしまった空しさに取り付かれ、
酒と女をもとめてしきりに夜の町に駕籠を走らせた。新兵衛は47歳である。} さらに次の一節 
 {汚いことけがらわしいことは避けては、生きていけない世界に、大人は住んでいる。
商い、女、世間との付き合い・・。そういうものの間を大人は時に人を出し抜いたり、だましたり、
本心を偽ったりして辛うじて泳ぎぬくんだ。そこには大人の喜びがないとは言わないが、
その喜びは時には罪の意識にいろどられ、
大方は正視に耐えない姿で現れてくるのである。
そういう不純の部分を抱え込むことで、大人の世界は成り立っているのである。}
 {一家を背負うというものは、家の中に多少の不満があってもじっとこらえ、
こわれればとりあえず繕って、何度でもそうして辛抱強く家を保ちつづけるものなのだろう。}
 ーー    
中年期から晩年期かけては、色いろな決別、絶望、諦め、挫折、喪失が怒涛の如く襲ってくる、
その中で肉体としての衰えが一日一日と実感し、気持ちも大きく揺れ動く時期である。
ハッピーリタイヤなど、奇麗事であり、どちらかというと石もて追われる運命は誰もが遭遇しなければならない運命である。
その時、自分の人生の大きな問題に直面せざるを得なくなる。そして60歳の頃、大きな初老性の鬱病を向かえるのである。
結局は人はそれまで自分が生きてきたようにしか生きていけないものだ。
それが家系として子孫に受け継がれるから、好い加減な行動はできない。
そのジレンマの中で多くの問題を引きずりながら生きているのが中年期といえる。
しかし人生で一番よい時期が中年期である。仕事は面白いし、頭も冴えており、心も充実している時期である。
世界は大きくドンドン開けていき、それまで蓄積してきたエネルギーが外に向かい開放される時期で、
何もかもが面白いのである。季節としては秋、人生の収穫期で、秋祭りの時期である。
老い?、そんなもの!という気持ちで楽しむ時期でもある。
藤沢周一の中年の心象風景も、私の主観が入るとめちゃめちゃになるが、やはり奥さんとの絶妙な関係が
背景にあるのだろう。しかし、少し暗いが主人公の豊かな立場の設定が中年男の欝気分を上手く描き出している。   
 ー出版社のこの本の解説がよい!ー
はじめて白髪を見つけたのは、いくつのときだったろう。骨身をけずり、果てにむかえた四十の坂。
残された日々は、ただ老い朽ちてゆくばかりなのか。…家は闇のように冷えている。心通じぬ妻と、放蕩息子の跡取りと。
紙商・小野屋新兵衛は、やがて、薄幸の人妻丸子屋のおかみおこうに、果せぬ想いをよせてゆく。世話物の名品。
  いずれにしても、人生は甘塩っぱいものである。一度だけの人生じゃけん、
  味わなくっちゃ骨まで!ただし家庭が基本である。 特に連れ添いとの関係は!     
                ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
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