2003年02月09日(日)
676, ぶざまな人生ー4(読書日記)
ー偽善論

この偽善論がなかなか面白い。偽善主義者を、もともと偽善者ではないと切り捨てている。
偽善者以前ということだ。善を隠れ蓑にしながら、相手を実害を与え、自分は実利を取ろうとする奴だ。
「不幸の事件を逆手に使い、自分はあたかも最大の同情者のように振る舞い、
実利を得ようという輩」だ。これは汚い欺瞞者であり、詐欺者である。身辺に幾らでもいる?!
不可避的な偽善には、少なくとも善がある。真実の善など本当にあるのか。
どこでどうやって見分ける事が出来るのか。偽善をなせ。それを、あるかないかわからない真善に次ぐ、次善となせ。
一生偽善をなせば、それが真善である。偽善でいいと思う、「偽善」でしかなしえない「善」がこの世の中にある。
私は「偽善」を憎むほど、善を成すものでない。

ー以上が著者の言わんとするところだ。
「真善などあろうか?それなら偽善を次善としてなせ!」とは思い切った事をいう。所詮、善悪とは個人、
社会、宗教が創りあげた価値観でしかない。その基準が、どれほどの価値があるものか?偽善いや善悪という
言葉そのものが怪しいのだ。「人を殺すのは悪でないというのか?」もちろん悪いが、
戦争で相手国の非戦闘員を殺してしまったとして、それもどこまで悪と言えるだろか?全てが状況だ。
その為に初めて旧約聖書が善悪の基準を創った。孟子性善説荀子性悪説があるが、これも何を基準に善悪といっている
のだろうか。あくまで両面を言っているだけだ。それなら、手っ取り早い「偽善とやらから、世間体のいう善と思える奴を、
仮面を被って次善と割り切る」という著者の論法も肯ける。偽悪の方がまだましと思っていたが、偽善も必要か?
偽悪の背後にあるのは善ではない?偽善の背後は悪じゃない? 次善論じゃないか?
よっしゃ、早速褒める訓練本でも買ってきて、カミサンや居酒屋やスナックの
ママから褒めてみようか?下心がないのだから偽善と違うか?褒めるのは偽善でなく、義務か!

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