2003年02月07日(金)
674, ぶざまな人生−2 (読書日記)

立ち読みをもとに、前回「ぶざまな人生」というタイトルで書いた。
先日、本屋で再び立ち読みをしたら、「前書き」と「あとがき」が余りにも面白い内容につられて
思わず買ってしまった。下手な要約を書くよりずっと文章に味があるので、そのまま写し書きする。
  ーー表紙ーー
 ーぶざまこそ人生の醍醐味と見つけたり!

人生50年も生きていれば、時に不偶感に苛まれ自信を失い世間に屈してしまうことがある。
金がない、愛されない、学歴がなく社会的地位もない、有名でもない、おまけに流行にも
ついていけない。だが、これらはけっして「ぶざま」を意味しない。
人生とは他人に見せるものではなく実際に生きるものだからだ。
「人間の人生」(=運命)に翻弄されながら、それでも「自分の人生」(=意志)を垂直に立て生きようとすること、
それだけが決定的なことなのだ。「ぶざま」を自覚しなければ、生きている資格がない。
  まえがきー「中小零細企業」の人生論
人生、である。 しかも、ぶざま、である。ははあ、「ぶざま」といって一端下げておき、しかし一転して、
「ぶざま」こそ人生そのものでナイかと持ち上げ、さあ元気に生きていこうぜと口先だけの空元気で
鼓舞しようというんだろう、手口が見えているぞと思われるかもしれないがあたってない。「ぶざま」は
「ぶざま」である。いまさら人生論か、50年古いと思われるかもしれないが、・・とおりいっぺんの人生論など興味がない。
成功した経営者や哲学者や有名な評論家とか宗教家とかいったつぶしの利く人間が書くものと相場が決まっている。
しかし、彼らの人生論はおおむね「大企業的ー立派で高尚」の人生論である。それに対して本書は、
全然つぶしの利かない普通の中年男が書くそれである。いわば「中小零細企業」的人生論である。
日本の会社の95?が中小零細なのに、だれもが5?の大企業の様な人生を送りたがる。無理もないが。・・・
人生という言葉に魅力がないかもしれないが、人生そのものは誰にもあるものだ。
いま「人間の人生」(簡単に言うと、運命)の真っ只中にいるのだ。
けれどその中でも、「自分の人生」(簡単に言うと、意志)だけで順風漫帆に生きている人間は「人生」
に直面しないだろう。「人間の人生」と「自分の人生」のせめぎあいの中にある人間が「人生」の波
をもろにぶつかるのだ。中年こそ、「人生の辛酸」ということが身にこたえる年代なのである。・・・

ーー以上が概要である。ーー
 以下は字数の関係でカット(2008年02月07日)
            ー 続くー               
・・・・・・