2005年02月05日(土)
1404, 立花隆の旅について

この人の本を読むと、その博学と行動力の凄さに驚きざるを得ない。深い人間洞察を何気なく言ってのける。
長年かけた知識構築の結果といえば、それまでだが。人間洞察を旅を通して語っているから尚のこと解りやすい。
人生は旅であるからだ。今回借りてきた、「思索紀行」−ぼくはこんな旅をしてきたの序論のなかの
「旅と人間について」の次の文章でもいえる。ーすべての人の現在は、結局、その人の過去の経験の集大成としてある。
その人が過去に読んだり、見たり、聞いたりして、考え、感じたすべてのこと、誰かと交わして
印象深い会話のすべて、心のなかで自問自答したことのすべてが、その人の最も本質的な現存在を構成する。
考えた末に、あるいは深い考えなしにしたすべての行動、その行動から得られた結末に対して反省や省察
加えたすべて、あるいは獲得されたさまざまの反射反応が、その人の行動パターンを作っていく。
人間存在をこのようなものと捉えるとき、その人の全ての形成要因として旅の持つ意味の大きさがわかるだろう。
日常に支配された、パターン化された行動の繰り返しからは、新しいものは何も生まれては来ない。
知性も感性も眠り込むだけだろう。意欲行動も生まれては来ない。 人間の脳は、知情意のすべてにわたって、
ルーチン化されたものはいっさい意識の上にのぼらせないで処理できるようになっている。
そして、そのように処理されたものは、記憶にもされないようになっている。 意識の上にのぼり記憶されるのは、
新奇さの要素があるものだけなのだ。旅は日常性からの脱却そのものだから、その過程で得られたすべてが新奇の要素を持ち、
記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいく。
旅で経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作りかえていく。旅の前と後では、その人は同じ人であり得ない。
旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえるなら、人は無数の旅の、あるいは
「大きな旅の無数な構成要素」がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在といってよい。
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以上であるが、人間と旅の本質をズバリ言い当てている。旅行に行って帰ってくると、
それまでの自分とは別人になったような感覚になる。行った先の自然や文明文化から受けた感動によるものだ。
旅行で感動した幾つかが、自分の人生の魂の奥に沈んで、人生の大きな骨格になっている。
そして一回行った旅行は、それぞれが今も現実的に続いている。TVや書物で、その後も多くの疑似体験ができるからだ。
何処かしら週に2〜3回は情報媒体を通して、その続きの経験をしている。この随想日記も、過去の出来事、考えたこと、
経験の集積ぶつを拾い上げ書き出している。 汲んでも汲んでも尽きることなく出てくる。

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