2008年02月03日(日)
2496,  無くてはならぬもの −4
                       YΘ!!。_゜ヽ(*´∀`)ノ
「無くてはならぬもの」 佐古純一郎著
  ? 孤独に対峙する自己 −自分と他者との支柱ー
    −−
P−114
 人と人との間柄のなかで生きるという存在のありかたがこわれてくると、人間は人間でなくなるのである。
人と人との真実なる間柄、それを私は交わりと呼ぶが、交わりのなかで生きることこそが、実は人間の条件。
人間形成とは、この私が、自己の内に自我を追求することではなくて、真実が形成されることである。
それが人間の形がなるという意味である。
P−119
 現代を生きる人間の悲劇は、孤独に耐えられなくなっていることではあるまいか。
たとえば、読書という身近なことがらについて考えてみよう。 深夜、自分の部屋で、その静けさのなかで、
独りしんみりと古典を読みながら人生を思索するような生活の喜びを本当に見出しているだろうか。
むしろ、そういう静かさの孤独の時間が、なにか恐ろしい、耐えられないといった苛立ちがあなた方を
捉えていないだろうか。デモに参加したり、音楽喫茶で歌って解放感にひたる、そういう孤独からの脱出が、
大きな誘惑になる。孤独のなかの自分をほんとうにいとおしみ愛することができるような、人生を生きてほしい。
P−126
 私たちは極めて重要な問いの前に立たされているのである。人は孤独な存在であることを知るゆえに、
孤独を大切にしなければならない。が、孤独を大切にしながらも、孤立しないで、人と人との力強い連帯を
創造するというようなことが果たして可能かどうかである。・・・・
ドフトエスキーの「地下生活者の手記」に考察されたような、全世界が崩壊しようが、自分がいっぱいの
お茶をすすめられたらいい、というような、そういう個の尊厳が、私たちの実存の深みにひそんでいるのである。
自分は自分であって、絶対に代用品は使えないのだという、個の尊厳を一方において大切にしながら、しかも、
私たちは他者との間に、生き生きとした連帯をつくり出していかなければならないのだとしたら、
それは極めて困難な課題の前に立たされることになるのである。
 ・・・・〜〜孤独に耐えられない自己が、群集の雑踏のなかに自己からの逃避をこころみて、しかもそこにも
生の孤立化が厳しく横たわっているとしたら、そして、そのような群集のざわめきに耐えられない生が、
もう一度孤独の世界に帰っていこうとしたら、それは徹底的な人間嫌いの底に沈んでいくしかあるまい。
それは、やがて生そのものからの逃避として、私たちの生を自滅に追い込んでいくかもしれない。そのような状況では、
私生活の尊重というようなことすら、もはや意味を失ってしまうであろう。
人生の危機に立つということは、そのような状況のことである。
P−137
 イスラエルに旅行したとき、いたるところで、多くの人から「どうして日本の青少年は、そんなに自殺するのですか」
と質問を受けた。もし、あなたが「それは日本が悪いからです」と答えたら、
「社会が悪いから自殺するほど、日本の若者は弱虫か」と不思議におもうだろう。
自殺する多くの人々が、遺書や手記を残しているが、ほとんどの手記には「俺は社会が悪いから死ぬ」とは書いてない。
‘おれはひとりぼっち’‘私はひとりぼっち’と、他者から孤立してしまった寂しさを表白している。
このことを私は「生の弧絶化」というふうに呼びたいと思う。要は誰もが独りぼっちでしか生きてないのである。
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以上だが、この言葉の一言一言が当時の自分にストレートに響いたことを、記憶の底から木霊のように甦ってきている。
孤独の、いや孤立の自分に徹してこそ、本の中の見知らない魂の言葉は伝わらってくるのである。
この時にこそ初めて魂と魂が出会えるのである。 そして出会ったとき、孤独は孤独でなくなるのである。

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