それにしても凄い経験をして人物がいるものである。仏を心のそこから信じなければ不可能なこと。
 信じるとは何かを、この旅行記を通して少しは理解できたようだ。 
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  *断事観三昧
 テントが二つ三つみえる。そこに行くと怪しい者と思われる。
他を見ると間道がありそうなところが、ちょいと見える。 とにかくどうにか極まりをつけなければならんと思って、
そこに座り込んだ。私は理論上で決められぬことがあると断事観三昧に入って事を決めるのである。
 そもそも断事観三昧とは、およそ道理で決めれる事は道理によるけれども、理論上決められない将来のことなどは、
仏陀に従って座禅により無我の観に入り、そこで発見された観念に傾くのをもって、その取るべき方法を決定する事。
深い意識の中に入っていき自分も何もないところで問うてみるとは、次元の違う世界へのつながりを求めてどうあるべきか、
どうするべきか判断するということである。 この方法を仮に断事観三昧と名づけた。
 解)窮地に追い込まれて独りで決断しなければならない時に座禅の無我の観に入り、自分を超越した深い意識の中で
   判断をする、すなわち仏の心境で判断すれば、仮に上手くいかないとしても、次の知恵が湧き出てくる。
   人間は最後の最後は自分の心奥の無(正中心一点無)で、判断しなければならない。
   そのためには、孤独の世界を、孤独の時間と場所を確保しなければ。
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  *積雪中の座禅
 羊を追い立てますと、余ほど疲れたとみえて少しも動かない。無理もない。相当の荷物を背負っている上に、
今日昼までは草を喰っておりましたけれども、その後は高山に登って来たのですから草も得られなかった。
サア進むことができないといって進まずにゃアいられないから、可哀そうではございますけれども、
押し強く後から叩きつけてみたりいろいろなことをしたが、羊はモウ動かない、坐っちまって……。
ようやくのことで首にかけてある綱を引っ張って二間ばかり進むと、また立ち往生する。
芯まで冷え込んだ身体や衣服、荷物を十分に乾かすこともできないなか、なんと今度は大雪が降ってきた。
岩も隠れ場所も見つからず、とうとう荷物を背負わせていた二頭の羊が雪中に座り込んでしまって一歩も動かなくなった。
「こりゃどうしても羊と一緒に死なねばならんのか。何とか方法がないものか。
この前聞いたところでは14〜5日も人にあうまい。どこで羊の荷を下ろし、夜着を出してかぶり、さらに頭の上にカッパを
かぶって、羊の寝転んで居る間にはいって「積雪中の座禅」ときめこんだ。羊もその方が良いと見えてジッと私に寄り添っている。
その羊も余程私に慣れているものですから、まるで私の子のような具合に二つが左右に寄り添うて寝て居った。
「だんだんと寒さを感じて非常に感覚が鈍くなって、こりゃどうも危ない。しかし今更気を揉んだところで仕方がないから
このまま死ぬより外はあるまい」と覚悟を決めたのであった。雪中の中を夢うつつにいると、突然に自分のそばで動く者がある。
 ふと目をさますと、二匹の羊が身震いをしている。 それから身体を動かそうとするが思うように動かない。
よこで雪を解かして麦焦しの粉をバターを入れて1杯ばかり食べた。・・・
  解)ヒマラヤでの窮地の雪中座禅は、100年の時空を超えて読む者の心に伝わる迫力がある。
   「現代の生き仏」と呼ばれる天台宗大阿闍梨、酒井雄 師は仕事にことごとく失敗し、妻を自殺で ...
   しかし、出家後、厳しい修行に耐えて、千日回峯行に二回も挑み、二回とも達成した。それに通じるところがある。
   深い決意が無ければ決して達成できないことである。それが深いほど仏の心に深く通じるのである。  
   信仰の力とは何か、必死とは何かが教えられる究極の場面である。ただただ、感動してしまった。
   
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