2005年01月20日(木)
1388, 23歳の日記−10

11月2日 1969年
今日ひらめいたが、一年早く会社を辞めて大学に入リ直すのはどうだろう。
初めの予定は、二年後に実行の予定であったが。 来年の二月で辞めて、どこかの大学に
編入するのはどうかということだ。今度また、三連休をして、家に帰って親父に頼んでみよう。
このまま、あと一年は自分の気持がどうなっているか。

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ー後記(2004年1月15日)
ここで、23歳の日記は終了をしている。この4ヵ月後に会社を辞めて、産能大編入したが、ボロボロであった。
そのボロボロが良かったようだ。その一年が、現在の基本になっている。日記を読んでいると好きなことを考えていた。
父親が絶対的に応援をしていてくれている前提があったからだ。
全て、父親の手のひらの上で好きなことを考えていたに過ぎない。

父は、若いうちは好きなことを、思ったことを、やりたいことを、全てやらせたい、という見守る愛情があったようだ。 
父親なりの経験からくる教育だったようだ。それを知った上で、これだけ自分本位な考え方をしていたのだ。
それでも自分で考えて、即座に実行する行動は、この時についたものだ。手のひらの上でしか出来ないこともある。
この後、辞表を出したと同時に三重の四日市に戻され、間接的なリンチにあってボロボロになって帰ってきた。
これだけのリンチも初めてで終わりである。当然の報いといえば報いである。
他人の血で、自分の傷口を洗うな」という言葉がある。 誰もが気をつけなくてはならない。
それぞれの多くの道を歩いてきた。読み返すと、全く違う他人の日記を読んでいるようでもある。
細胞も、脳も殆どが入れ替わっている。しかし、原型がそこにある。
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ーところで、また信じられないことがあった。
 24歳の日記帳が、本棚にあった。

本と思ってしまう厚いカバーがあった為、30年近くも気がつかなかった。
恐らく、学生時代の日記と23歳の時の日記の三冊セットで、自宅の倉庫の本の間に隠してたのだろう。
やはり20日分が飛び飛び書いてあった後、途絶えていた。
その後は、日記帳をカード日記に切り替えた為である。カードに日記を書いて、分類していた。
しかし一年後に全てを捨ててしまった、過去の膿に思えたからだ。
カードごとにテーマも書いていたというは、現在の随想日記の原型を24歳の時に実施していたのだ。
そして引き出し代わりに茶封筒に入れていた。24歳の日記には、今でいうミッション・ステートメントが書いてあった。
そして、その後の人生のパターンを振り返ると、その通りに生きてきている。
(正直にいうと、それ以来見ていないのでブレがあったが)その宣言を常に持っていたら人生変わっていただろう。
その後、日記帳は一切書いたおぼえがない。また書き写すつもりだが、「もう見たくない、書きたくない」のが、
本音である。しかし、その時々の記憶の思い出す糸口になっている。

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