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2008年01月18日(金)
2480, 「世間体」の構造 −1
(´∀`σ)σ オハYO!
『「世間体」の構造 −社会心理史への試み』
ー読書日記
専門が社会学のため、そして長年、その系統の本を読み続けてきたため、
「世間」とか、「世間体」という言葉の虚偽と、日本社会(特に地方の後進性)
の中に潜む泥沼の悪臭を感じ取り、その泥沼には近づかないようにしてきた。
私の場合、職住が新潟と長岡と分かれていたため、最小の接点で済んだのが幸運だった。
こういう人種は巧妙に近づいてくる。しかし直に臭い嗅ぎ取り、距離を取るように?してきた。
そこで、「世間体」を辞書でひいてみたがところ・・・
1. 社会的な視点からの自己のみなされ方。
2. 社会的地位や名誉、学歴、家柄による判断基準。分かり易い肩書きが最優先され人間性は含まれてない。
3. ワイドショーに準ずるモラルやマナー。 とある。 社会的地位も内面的な教養の区別すらも知識にない人達。
これが殆どだから、仕方がないが・・・ 少なくとも、それを鳥瞰する目と時間は持たないと。
ーその紹介文をアマゾン書店から、コピーしてみたー
=内容=
世間に対して体面・体裁をつくろい、はずかしくない行動をとろうとする規範意識
―それが世間体である。 唯一絶対神をもたない日本人は、それを価値規準とし、
世間なみを保つことに心を砕いてきた。 世間の原義と変遷、また日本人特有の羞恥、
微笑が生まれる構造を分析し、世間体を重んじる意味を再考する。世間論の出色の日本文化論。
ー目次
序章 「世間体」の発見
第1章 「世間」の意味 第2章 「世間」観の変遷
第3章 「世間」の構造 第4章 「はじ」の社会心理
第5章 「笑い」の機能 第6章 「世間体」の文化再考
ーー
ー「世間体」に関する、ことわざに関して、要約している部分を抜粋してみるとー
P−50
故事ことわざの類いには、「好きこそ物の上手なれ」という反面、「下手の横好き」ともいうように、
もともと両義的な意味あいがこめられているものである。 矛盾したいいまわしが対になっているのは、
ことわざの常であろう。「世間」をめぐることわざのたぐいとて、けっして例外ではない。
本質からいえば、矛盾し、相反する意味内容を、状況によってたくみにつかいわけるところにこそ、
ことわざの生命があり、おもしろさがあるのだ。にもかかわらず「世間」にかぎっていえば「世間」
をめぐる慣用句がことごとく「世間なみ」に収斂していることに、私はことのほか注目したいのである。
そのことがとりもなおさず、「世間」の特徴である、と断ぜざるをえないからである。
思えば、わが国の人びとの多くは、「世間なみ」に生きることを、人生のモットーとしてきたのではなかったか。
それが積極的にはたらいた場合には、「世間なみレベルの生活水準がたもて「世間なみ」の知識をもたないと恥ずかしい、
ということで、彼らは頑張って生きてきた。この「世間なみ」に生きようとがんばるエネルギーが、わが国の近代化の
ひとつの精神的な原動力となってきたといっても、けっして過言ではあるまい。
その反面、異端のもつ大胆なエネルギーが発揮されることは、きわめてまれであった。
ことの善悪をとわず、自分だけがとびぬけて目立つということは、「世間」の手前、
極めて気はずかしいことでなければならなかったからである。
ーー
「世間様に笑われないように」が、日本人の良くも悪くも、大きな羅針盤であった。
「うだつが上がらない」という言葉も、それに近い。島国では、お互いの顔色を覗って生きるのも、
大きな知恵になるのだ。 ”世間体”の”体”は「体面」「体裁」の”体”といい、それから逸脱した場合、
「”恥”−”羞恥”−”罪”」になり、社会的制裁を受けるが故に「面目」「面子」「外聞」「見栄」「虚栄」
と言うコトバを背景に持った行動が、世間に対してつくろう方策として個人の行動を規定するから、
内的規範になってしまうのである。それに対して、教養とは、それらから自由になるための知識・経験
ときているから、世間様は馬鹿の代名詞になる。 痴呆名士がその典型!
バイ ´∀` ーつづく
・・・・・・・