雲頓庵 −1

NHKの日曜日大河ドラマ天地人」で、若き直江兼継が修行した「雲頓庵」が舞台になっている。
雲頓庵を思い出しながらみているが、何度か隠れ屋的に通ったことが青春時代の一ページとして残っている。
特に当時、80歳半ばの怪僧の新井石龍禅師の思い出は鮮烈に残っている。
  以前、社内報で書いた部分を紹介してみる。
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ーS63・05 新井石龍禅師に学んだ事 ー?
 学生時代に、父と禅師が親交があり、実家泊りに来ていただいた事等の因縁で、
 六日町の禅寺“雲頓庵”に読書を兼ね春・夏休みになると滞在していた。
 度々なので自然と禅師と話をさせていただく機会があった。無知と若さの為に生意気な質問をした私に、
 いつも笑顔で答えてもらったことが、今では懐しい思い出になっている。京都大学哲学科卒で、気持ちは若い。
 女性で何度か失敗して、その世界では登りつめることが出来なかったと、両親から聞いたことがある。
  まだ鮮明に憶えている対話とは、
? (私)  −禅とは一言で言うと何ですか?
 (禅師) −字の通り天地宇宙に己の単(一人)である事を示す(気づく)事。  ー 示単
? 社会に出て半年あまりで気負いすぎで早くも行き詰まり、五日間の夏休みでの雲頓庵の禅師との対話。
 (私)  −世間と理屈は違う。理屈どおりに世の中いかなという事がつくづくわかりました。
 (禅師) −あなたの理屈がおかしいだけ、世の中は厳しくも甘くもない。
  世間も理屈もあるものか!(厳しく感じたのは自分自身そのものが甘いだけ)。
  後者の言葉には頭を真二ツにわられてしまった!というのが実感だった。 
  頭で物事を考えていた私が、“自分が”前に出ていた私が、その時点でたたきこわされ、
  社会人の一員に一歩踏み入った瞬間だったことを憶えている。
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ー以下は、当時の日記である。
 ー1968年 雲頓庵    9月10日
 7時5分起床。 掃除に食事、9時半より11時半まで勉強! 
その後に、長岡の明治大学の1年の田村君と話す。 3日まえにやはり勉強の為に来た男だ。
夕食後7時半より、午前様と「神」について話す。 午前様「一という数字はあるが、一という実体はない。
それを一といえば一であるが、一でないといえば一でない。 一は万物であるともいえる」
「人間は実体だけでない、魂であり、永遠的なものである。全ては生き続けている。」
デカルトの「我思う、故に我あり」の言葉を引用された。
「誰もが神の要素を持っている、磨くかどかだ」「人間の見る聞くは5感6感の働きでしかない。
それを超えた存在はいくらでも存在する。それは修行によって初めて知る事ができる。」
「神が罰を与えるのは、困らせる為でなくそれにより、間違いを知らしめる為である。」
御前様と話していると自分の無知が露出されてくる。 明日は座禅を8時にくむ予定である。
  ー9月11日
 午前様が座禅の指導をしてくれる。解ったような解らないような! 9時から夜9時まで座禅に挑戦!
計8時間休み休みだ。午前中は雑念だけだ。午後からは少し集中できる。
感想はただ疲れただけだ。当然ながら禅の事はさっぱり解らない。ここの2週間近くは、充実したものだった。
明日からは娑婆である、楽しみだ。 これから高橋さんと根本君と送別会だ。
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 恐らく日記に書いてなければ、全て忘却の彼方だろう。書き残すことは痕跡を残すことである。
                                   つづく
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