2007年11月16日(金)
2417, よく生きる −2
 ´       ・ω・)ノはよー
                              −読書日記ー   
   この数日の間、この4つの問題を私の経験を照らして考えてみた。自分は本当に「 よく生きてきたのか? 」
   という自問自答である。 やはり、根本的なところが欠けていたいたようである。
  「万人が、そのはず? 気がつくかつかない人もあろうが」と自己弁解をしながらだが。
   無神論に近いが、やはり最期は「絶対者の元へ帰っていく」という確信は必要ではなかろうか?
   生きてきた過程で現在、こう在らしめている何か=Xを、神として心の底に置かなければならなかったのでは?
   という自問自答である。真面目に、健全に、前向きに生きていれば良いだけだが・・・
    まずは、4つの問題の二つの要点をーはじめにーの中から抜粋してみる。
    −− 
  ーはじめにー

旧友のクリトンが「無実の罪なのだから逃亡すべきだ」と脱獄をすすめにきた時に、語られた言葉です。ソクラテスが言うには、
私たちは長いあいだ哲学してきたが、その哲学の原則は 「もっとも大切にしなければならないことは、生きることではなくて、
善く生きることである」(『クリトン』48B) というのではなかったか、と。ただ生きること、なにがなんでも生にしがみつくこと、
何の理想も意味づけもなしに、動物のように生存欲のままに生きつづけることが人間の生なのであろうか。
それとも「人間の生」は「人間らしい生」でなければならず、それが「善く生きる」ということではないのか。
ソクラテスの弟子の端くれと思い込んでいる私は、この小著で、この問いに正面から取り組みました。
 以下に展開する私の論点は、次の四点です。

(1)幸福とは第一に、自己実現です。
人間はまず、自分自身の力で、やりたいことをやって生きなければなりません。
それが、「人間が自由で自律的な存在者である」ということの基本的な意味です。
それだから、自分で自分を支えられないような人生、他人に命令されるがままの奴隷的な人生であってはなりません。
幸福とは、道徳的に優れていることを核としながら、各人が素質的に持っている優れた能力を、
可能な限り十全に発揮することです。 人間の存在が根本的に自分自身の存在の維持拡張である以上、
この思想に異議を唱えることは誰にもできないでしょう。しかし各人が自己実現に励む社会は、必然的に競争社会になります。
たしかに、人間は競争することによって能力を向上させ、文明を発展させ、社会を活性化させます。だから、学問的にせよ、
経済的にせよ、政治的にせよ、能力を自由に発揮させ、競争させることが、人類の進歩のためには必要でしょう。
しかし他方、人間には生まれつきのゆえに、あるいは生存条件のゆえに能力上の差異がありますから、競争社会には
否応なしに勝者と敗老が生れます。どれほど社会福祉政策を徹底して社会的格差の減少に努めても、能力の差異がある以上、
社会の階層的格差がなくなることはないのです。そこで、あらためて人は何のために生きているのか、
を問わなければならなくなります。

(2)私の考えの第二点は、自己実現は人間が生きるための条件であって、その意味ではないという点にあります。
人の本当の喜びは、実は自己実現のうちにあるのではなくて、他者との交わりのうちにあるのです。
他者とは自分の自由にできない者、自分のうちに取り込めない者、自分を否定しうる者、そういう意味で無限に高い者です。
そういう他者に対しては、私は一方的に善意を捧げ、ひたすら仕えることができるだけです。
もし私が他者に命令し、暴力を振るい、服従させて、他者を支配下においたならば、そこには、すでに他者は存在せず、
肥大化したエゴイズムが置き去りにされているだけなのです。私がエゴイストとして暴力を振るう時、その瞬間に他者は退去します。
どこへ。「存在のかなた」へ。それだから、私の善意の奉献に他者が応答してくれたとき、この応答は想像を絶する喜びを
もたらすのです。なぜなら、私が自由にできない者、私が自分のうちに取り込めない者、私が支配できない者が、
かれの自由の深淵から私に善意を贈ってくれたからなのです。それは奇蹟です。それが愛であり、交わりです。
愛は、強者が力で獲得するものではなく、弱者が祈りながら待つものなのです。

 ー字数の関係で第三と第四は次回になりますー
他者との邂逅は、決して徒党を組むことではない。 他者が善意の奉献に対して応答してくれた時、
かれの自由の深遠から善意を贈ってくれた時に自己実現の意味がでてくるのである。           
           o(*・ー・)〇"ぐっ♪o(*・▽・)ノ"ばーい♪
・・・・・・・・