2006年10月04日(水)
2010, 「私」のための現代思想 −7
     おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ねむ・・さむ

ここのー「私」とは何かーという文は非常に難解であるが、一番の触りでもある。
独我論」-唯我独尊の独りよがりの論法ーで生きている人は何処の世界にもいる。
究極的には全ての人にいえるだろうが(<特に私は強い!>・・と、思ったほうがよい)
しかし、それ(独我論)では、長い時間の中で自然と淘汰されていく。
言葉は「言語という制度」に従わなければならないが、その「言語という制度」に従って使用することが思考である。 
そして思考する主体が「私」である。 言葉の意味とは、その使用であり、「言語制度に従って言葉を使用すること」が
「言葉に命を与えている原因」であるならば、思考の「主体」は「言語制度」ということになる。
つまり私たちは「自我」「私個人」で思考しているのではなく、言語制度に従って言葉を使用している状態を「私の思考」
と呼んでいるだけ、ということになってしまいます。 しかし、それだけでないと誰でも考えます。 
それでは・・・それが以下に述べられている。 話すにしても、文章を書くにしても、まず「私」がある。
その私とは何かが明確になっていない。ここで、その私の正体が解剖されている。
随想日記を2,000書いてきたが、それは独我論の「私」に気づくプロセスだった。
《私》という「私」の芯は、歪んだ過去の残物でしかなかったということ??・・
 過去の感動・感激・感謝の倉庫? 夢で溢れた夢倉庫? その総体ということ??

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第三章 「私」とは何か −?
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」−

私たちの脳裏に発生している思考は、言語によって表現されます。
言語以外の方法で表現された自分の思考を、認識することはできません。
原稿を書いている私は、キーボードの打ちすぎで右手が少ししびれてきたが、
それもしびれてきた」と言葉にしてみるまでは気づかなかったことです。
「眠いかも知れない」と感じたことも、言葉にするまで気づかなかったことです。
脳裏で言葉になった瞬間に「感じた」であり、それまでは「思っても見なかった」ことだと言えます。

    そういう私は、本当に主体者なのだろうか?「私」の営みは、純粋な意味で全て「私」に帰属しているといえるだろうか。
    この問題を詳細に検討したのが、ウィトゲンシュタインである。
    彼は、「もし主体者が私であるならば、私だけの世界というものを考えることができなければならない」
    と考えました。極端に言えば、それは、「私の意識の内部の世界のみが<世界>そのものであり、
    それ以外<私の意識の外側>は考える必要は無い」ということであり、それを「独我論」と呼びます。

そしてさらに、もしも「私の意識の外部を考える必要がない」のであれば、
「私だけが理解できる言語」というものが存在するはずだと考えを進め、それを「私的言語」とした。
言葉の持っている基本な機能に「命名」があります。私的言語が可能であれば、当然「私的命名」が可能である。
しかし、「私的命名」とは結局は「自分だけに通じる何らかの名前を想定する」ことです。

    彼によると、「独我論の証明」は、ここで暗礁に乗り上げます。身しらずの子供を見て、勝手に(心の中で)
    「今日からこの子は、私にとってタロウ」と考えたとして、それに何の意味も無い。
    命名とは、制度であり、「命名の権利を有した人間」のみが行うことができる行為である。「制度」とは、
   「独我論」的な世界には存在し得ない。何故なら「制度」とは、「他者」の存在があって初めて存立する概念だからです。
   「私的言語」が存在しないことは「独我論」が成立しないと言う事と同義です。

人は「言語という制度」に従って行動するウィトゲンシュタインは、「言語の意味は使用である」と考えた。
それは、「言葉に、もしも意味と呼べるような要素があるとすれば、それは言語制度に従って言葉を使用するという
ことの中にしかない」ということです。 私たちが「理解した」と感じるのは、「その説明を適正に使用できる」
と感じたことが誰にもあるはず。「言葉の意味とは使用である」というのは、「言語制度に従って言葉を使用すること」
こそが、言葉に命<=意味>を与えている原因であるということです。

    私たちは言葉によって思考し、その思考こそが「自我」、もしくは「私」であると感じています。
    そして、言葉の意味とは使用であり、「言語制度に従って言葉を使用すること」が「言葉に命を与えている原因」
    であるならば、思考の「主体」は「言語制度」ということになる。
    つまり私たちは、「自我」「私個人」で思考しているのではなく、言語制度に従って言葉を使用している状態を、
    「私の思考」と呼んでいるだけということになってしまいます。

さらに「独我論」はすでに廃棄されてます。それでも私たちは、「私が考えている」と感じます。
この「実感」が何によって発生しているかを「超越確実性言明」という概念を通してウィトゲンシュタインはさらに検討を加えます。
たとえば「あなたが今、この本を読んでいる」ということは「あなたにとって」まぎれのない事実であるはず。
このように「無根拠」にあなたが信じ、主張することしかできない言明を「超越確実性言明」とよびます。
「超越確実言明」を否定されたり、疑われたりした場合は、<私>はそれに反論することになるでしょう。

    そのとき私たちは「<私>という言語ゲーム」を行っているのだと言えます。
    なぜ、「超越確実性言明」を否定された<私>は反論するのでしょうか。
    それは、「超越確実言明」の束を引き受ける「受け皿」、もしくは「基盤」が<私>だからであり、その基盤のうえに、
    私たち<言語>や<物語>が構築されていくからです。逆にいえば、この「基盤」があやふやであるとき、
    その上に構築される<言葉>や<物語>は砂上の楼閣のようにもろいものとなってしまう。

この基盤は<闘う>という意志によって支えられます。たとえば、「私は、その約束を守る。なぜなら私が約束したからだ」
という場合、その根拠は「単にそれを守る」という<私>の意志にのみ存在します。
<私>は「超越確実言明」という基盤に発生する「機能・現象」ですが、それが発生した段階で、今度は逆に、
「<私>=自己」がその「超越確実言明」という「基盤」を支えることになります。
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「個人の良質なミッションをつくっておくべし!」
                \(^▽^*)バイ!
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